第2話 来訪 上

文字数 29,490文字

「さぁってと…はい、どうぞー」
と私が先に部屋に入って明かりを点けてから、ドアを開けたままにすると、「お邪魔しまーす」と同じ様なトーンで言葉を口にしながら紫を先頭に、藤花、律、そして最後に麻里が入って来た。
今日は義一と会話して二日後の水曜日、昼前だ。場所はというと…ふふ、何となく今の短いやり取りだけで、ここが何処だか分かったかも知れないが、敢えて口にすると、ここは…そう、私の自室だった。勿論家のだ。
…っと、当然、何故裕美を除く普段から連んでいる四人が、いきなり私たちの地元、それも私の家の中に足を踏み入れているのか説明がいるだろう。
話は昨日に遡る。…って、遡るって言い方は大袈裟かもだけれど。

義一と会った次の日、絵里たちladies dayの面々が裕美のお見舞いに行っている間に、私含む五人の予定が合ったというので、一度例の御苑近くの喫茶店で集合していた。
元々この日に会う予定ではあったのだが、当初の予定としては例の練習試合の結果と内容を、選手の立場として裕美、観客の立場から私という二人で報告し、その何日後かにある大会への決起集会となっていたはずだった。
だが、結果としては裕美の怪我と同時に入院、大会出場は不可能だと私だけではなく既に皆も知っており、代わりと言っては何だが、集まるという予定はそのままに、ただ中身だけはガラッと様変わりとなった。
要は、全員で一度お見舞いに行きたいというので、その為の作戦会議の場となったのだ。
昨日もいつも通りに、午前中はピアノの練習をみっちりこなしてから、昼食を摂り、それから新宿くんだりまで一人で電車に揺られながら一度の乗り換えをしつつ行ったのだったが、待ち合わせ時刻ちょうどに到着したはずなのにも関わらず、既に私以外の全員が、喫茶店内での私たちの定位置に座っていた。
まぁそれは既に、店内に入って客室に行く前に、普段通りにまず注文したのだが、シフトが被っていたらしいレジにいた学園OGの里美さんから、予め皆が来てることは知らされていたので、驚きこそ無かった。
…だが、普段と席順だけは微妙に違っていた。細かい話だが、いつもなら私サイドには窓際から律、私、そして紫と座り、テーブル挟んで向かい側は窓際から藤花、裕美、麻里という席順がデフォルトなのは、以前に紹介した通りなのだが、今回は片側に律が一人で席に着いており、紫はというと裕美が普段座る中央に座っていた。
「…あれ?」と、階段を上がってすぐに気づいた私が声を漏らすと、それに気付いた紫達も一斉にこちらに顔を向けてきた。
「来た来た…おーい」
と紫は腰を上げると、大袈裟にこちらに向かって手を振ってきた。
「ちょ、ちょっと…」
と私は慌てて口元に人差し指を当てて『シーッ』としながら周囲を見渡したが、平日の昼過ぎというのが良かったのか、まぁ普段から混み合う事なく静かな店内だったので、幸いにもそれほど迷惑はかかってない様だった。
それに安心しはしたのだが、それでもうるさくして良い理由にはならないだろうと、「ふふ、もーう…うるさいわよ」と苦笑交じりに言いながらテーブル席に近づいた。
「はいはい。本当に我らがお姫様は、たまに小姑みたいにうるさくなるんだから」
と愚痴っぽく言いながらも、顔は満面のニヤケ面で紫は腰を下ろした。
「あなたに『うるさい』って言われたくなかったわ…ふふ」
と、一応初めのうちはしかめ面を続けていたのだが、やはり長続きせずに、結局は釣られる形で笑ってしまいながらも、一度再確認とテーブル周りを見渡してから口を開いた。
「…って、あれ?何だか今日は、いつもと違うフォーメーションじゃない?…紫、何であなた、裕美がいつも座る位置に座っているの?」
「あはは、それはねぇ…」
と私に聞かれた紫は、自分が座る左右の藤花と麻里にまず目配せをした後で、最後に斜め向かいに座る律に視線を向けると、またこちらに顔を戻してから答えた。
「本当はね?裕美のことについて、アレコレと質問を皆でしたかったから、あなたを一人向かいに置いて、他の四人で質問攻めにしようと思っていたんだけどさぁ…」
とここで紫は、一度また左右に顔を配ってから続けた。
「あはは。ほら、この席ってさぁ…片側には三人しか座れないでしょー?だから、律には悪いけど、あなたが来るまで一人で座っていて貰ったの」
「まぁ…そういう事」
と紫の言葉の後ですぐに、ボソッと低めのしっとりとした声が聞こえた。主は律だ。相変わらず表情の変化は乏しかったが、しかしほんのりと微笑んでいた。
「えへへ、それにさぁー?」
と、ここで急に猫撫で声が聞こえたので、その方に顔を向けると、そこには、その声に似合ったまさに猫顔である麻里のニヤケた表情があった。
「やっぱり学園の王子様こと律ちゃんの横には…ふふ、同じく学園のお姫様である琴音ちゃんが座るべきでしょ?」
「…あのねぇ」
と、もう何度交わされたのか分からない普段のノリに、本心からのつもりで大きく溜息を吐きながら呟いたのだが、我ながら不思議と何故か表情が緩んでしまっているのが自分でも分かった。
「えへへ」と今度は猫を被り始めた麻里に対して、やれやれと鼻から大きく息を吐いていたその時、「ちょ、ちょっと麻里…?」と、やはり声は低かったが、先ほどまでの艶っぽい声色とは違い、明かに動揺が聞いて取れた。
見ると…って、ふふ、見るまでも無かったが、そこには石仮面の中に薄らとタジタジな様子が窺える律の姿があった。
「もう…私は今、関係ないでしょう?」
と狼狽つつも、チラッとこちらに視線を向けてくる瞳には、どこか冗談っぽい光がチラッと光ったのを見逃さなかった私は、やれやれとまた一息吐くと、今度は体を律に対して正面に向けた。
「あのねぇ…ふふ、私だって関係ないはずなんだけれど?」
と私が両手を腰に当てつつ目を細めながら言った次の瞬間、「あははは」とやけに通る透き通るような明るい笑い声が、耳にすんなりと入ってきた。
その声があまりに特徴的なあまりに、”大抵いつも”その度に皆で気を取られてしまうのだが、この時も同じように一斉に見ると、そこには、私がここに到着して以降静かだった藤花が、まるで幼女の様に無邪気にケラケラと笑っていた。
これも”いつもの”流れというやつだが、今回も藤花の笑い声が徐々に周りに伝播していき、まずは紫と麻里が後に続いて笑顔を浮かべていた。
そんなテーブル挟んで片側で笑みが溢れるのを見ていた私と律は、ほぼ同時に顔を見合わせると、どちらからともなく苦笑いを浮かべ合うのだった。

「まぁ王子とか姫とかはともかく、改めて説明すると、バランスは確かにこの方が良いと私も思って、こうなったの」
と話す律の説明を聞き終えると、「そうだったの」と私も相槌を打ちながら座った。
と、私が席に座るのとほぼ同じくして、階下から里美さんが私の注文を持ってきてくれた。
「はい琴音ちゃん、お待ちー」
とアイスコーヒーを置いてくれたので、「里美さん、ありがとうございます」と私がお礼を返すと、「いーえー」と戯けつつ言葉を返してくれたのだが、今にも躍り出しそうな身軽な振る舞いだったというのに、シュタッと静止すると、んー…ふふ、こう言うと本人に悪いかもだが、これまでの付き合いの中で、里美は初めて心配げな静かな表情を浮かべたと思うと口を開いた。
「早く裕美ちゃん、治ればいいね」
と口調も柔らかく言ってくれたので、「はい…」と、それに対して私含むそれぞれが、各様の言葉で同意と共にお礼を返した。

「じゃあ、ごゆっくりねー?」と、しんみりしかけた空気を入れ替えるかの様に、すっかり元の調子に戻った里美が下に降りていく姿を見送った後で、では早速と、乾杯とは言わなかったが、グラスをぶつけ合うという普段通りの儀式を終えた。

それからは早速というか、つい先ほど里美がキッカケを作ってくれたのもあり、流れは裕美に関する話へと雪崩込んでいった。
以前にも触れたように、裕美の入院が決まったその晩の時点で、皆には共通のSNSグループ内で説明をしたりやり取りはしていたのだったが、やはり直接聞きたいと一斉に質問攻めにあってしまった。
だが、当然今日集まったその理由を事前に知っていた私は、その質問自体も想定済みで事前に粗方でも答えを用意していたのもあり、自分で言うのも何だが数こそ多くとも難なくこなす事が出来た。

質問が終わると、私はふと思い出して自分のスマホを弄り始めた。
というのも、昨日の時点で裕美とやり取りをしており、確か今の時間帯はまだ、絵里たちladies dayの面々がお見舞いに来る前だと気付いたからだった。
今なら裕美も暇しているだろうと踏んだ私は、早速皆に、こないだ自分が報告した時のように、SNSのグループ内で裕美を誘ってやり取りをしようと提案した。
「おー、琴音、あなたにしては上出来な提案じゃないのー」
と直後には、紫に企み顔で笑われながら言われてしまったが、「”しては”は余計よ」と私からも冷笑風に返すと、それからは紫を始めとする皆が賛成してくれたので、すぐに皆で揃ってテーブルの前で一斉にスマホを弄り始めると、裕美に呼びかけた。
「もしかしたら、お店でこんな流れになるかも」と昨日の時点で言っておいたのが功を奏したらしく、一分と経たずに裕美からリプライが来た。
それからは「今大丈夫?」などを含めた挨拶もそこそこに、ここぞとばかりに今度は裕美へと皆の質問が集中した。
字面しか当然見えなかったが、その液晶の向こうで裕美が苦笑いしているのが容易に想像出来た。
最初の方では、私はただ皆のやり取りを眺めていただけだったが、途中から全員でいつお見舞いに行って良いかという話になっていったので、そこから自分も話に加わる事にした。
まぁこれも詳細は要らないだろう。結論から言えば、明日の”午後”、つまりは本日という意味だが、私含む皆全員でお見舞いに行く事と決定した。
初めのうちはお嬢様校に通うお嬢様らしく(?)、大勢が病室に訪れたら、裕美や裕美のお母さんだけではなく、他の患者さんにも迷惑かと一旦踏みとどまったのだが、
「いやいや、琴音は知ってるけど、私の今いる病室って二人部屋なんだけどね?まだ新規の患者さんが来る予定は無いみたいだから、別に構わないよ。母さんもそう言ってるし」
と返ってきてからは、もう遠慮はいらないと、それからは目を見張るスピードでアレよアレよと予定が決まっていった。
話し合いが終わると、丁度そろそろ絵里たちが来るタイミングになると言うので、「また明日」とそれぞれが挨拶をしてやり取りが終わった。

一息ついてから、ではいつ私と裕美の地元に来るか、その相談を始めた。
「病院は駅から歩いて五分くらいだから、お見舞い予定時刻から十分くらいの待ち合わせ時間で良いんじゃないかしら?」
と私は提案したのだが、これには律まで含む皆に反対されてしまった。
「琴音ぇー?」
とまず口火を切ったのは紫だ。呆れ顔だがどこか悪戯っぽい笑顔が見えている。
「私たちは何しに明日行くんだっけー?」
「え?それは勿論…裕美のお見舞いでしょう?」
とさも当然と返すと、「でしょー?」と今度は藤花が話に加わってきた。
「だったらさぁー…お見舞い的な”何か”を用意しなくちゃー。ねぇー?」
と窓際に座る藤花が、紫の向こうに座る麻里に声をかけると、「そうだよー」と初めは顔を藤花に向けていたが、口にしながら徐々に顔を私に流してきた。紫の種類に近い笑顔だ。
「なんか用意しとかなくちゃねぇ」
「…ふふ、そうだよ琴音」
と最後のオチとして…って、別に本人はそんな気は無かっただろうが、律がボソッと呟いた。
顔を見ると、この日一番に表情の変化を見せていた。微笑みを浮かべていたのだが、それがあまりにも嫌味がなく、それがある意味嫌味っぽい印象を与えるのに成功していた。
「いやぁ、まぁ…」
『別に裕美や、おばさんはそんな事気にしないと思うけれど…』
と正直に思った事を口に出してしまいたい衝動に駆られていたが、多勢に無勢であったし、それに、勿論盛り上がっている皆の様子からは面白がっている気配を感じないわけも無きにしもあらずだったが、しかしまぁ本心からキチンとお見舞いしたいという気持ちも本音だというのは分かっていたつもりだったので、この様な無粋なツッコミというか横槍を入れない事に決めたのだった。
結局このようにただ口籠っている間に、私を差し置いて、いつ私たちの地元の駅に集まるかの話し合いが進んでいった。
「…というわけだから、琴音?集合時間は午前の十一時くらいで良いよね?」
と皆を代表して紫が確認してくるのに気付いた私は、「へ?」と間の抜けた声を上げてしまった。

…え?午前ってこと?…お見舞いの時間まで、だいぶ余裕があるじゃないの

と一度心の中で疑問を唱えてみてから、実際に口に出してみると、「そうだよー」と藤花が真っ先に反応をした。
「え?だって、お見舞い時刻からすると大分余裕があるように思えるのだけれど…何でまたこんなに早めに決めたのよ?いくらお見舞いの品定めをするにしたってさ」
と藤花に始まり、私は顔を時計回りにぐるっと一同を見渡しながら言った。
そして律のところで丁度言い終えると、他の皆はそんな反応をされるのは想定通りだと言いたげに、顔を見合わせた後でクスッと小さく笑い合った。
その後は、その笑みを保ったままに、またしても紫が代表して口を開いた。
「ほら琴音、前々から私たちの間で話してたじゃない?中々皆の予定が合わなくてというか、近くで言っても去年はあなたのコンクール関係だとかがあったし、今年はその…うん、裕美の件もあった…でしょ?」
と、裕美の話の部分だけは言いにくそうに、側から見ても気を遣っているのがヒシヒシと伝わってくる様だったが、それを超えると、また普段通りのサバサバとした口調で紫は続ける。
「だからさ、ずっとさぁ…今まで先送りにされ続けてきた事があった…じゃない?」
「…ふふ、もーう焦ったいわねぇ…何が言いたいの?」
と一応我慢して聞いていたのだが、去年の私のコンクールが話の中で出てきたりと、その周りくどさに限界と苦笑しつつ口を挟むと、待ってましたとばかりに紫は明るい笑顔で答えた。
「あはは、だからさぁ、せっかくあなたと裕美の地元に皆で一緒にさ?初めて行ける事になったんだから、そのまま琴音、あなたに地元を案内して貰おうと思ってね」
「そうそう」
と藤花がまた話に戻ってきて後に続いた。
この時私は見ていなかったが、隣の席で何度か頷いている気配を感じ取っていた。
「この話を聞いた時にね?」
と今度は麻里が口を開いた。
「勿論裕美のお見舞いが一番大事なのは、私たち全員が同じ気持ちなんだけれど…ふふ、私個人で言えばさ、あの学園のお姫様である琴音ちゃんが、一体どんな所で生まれ育ったのか、是非知りたいって思っていたからねぇ?…えへへ、聞いた瞬間に、紫の話に乗っかる事にしたんだよ」
「あはは。…って、あ、麻里ってば…」
と初めは麻里の言葉に笑っていた紫だったが、しかしすぐに気付いたらしく止めに入った。だがしかし、残念ながらしかと私の耳に届いていた。
…ふふ、麻里が私に関してまた色々と余計な事を話していたのも耳に入っていたのだが、この時は頭から抜けてしまっていた。
「はぁ…もーう、紫ー?あなたがやっぱり発端だったのね?」
と私が不満げに目を細めつつ声をかけると、紫は紫で、心外と言いたげな表情を浮かべていた。だが、それも完璧には終わらず、口元は思いっきりニヤケていた。
「えー?”やっぱり”って何よ”やっぱり”って、私は普段からアレコレと画策しているみたいに言ってくれちゃってさぁ…」
とブー垂れて見せつつ顔もそっぽに向けながら返してきたが、しかし途端にそんな自分に対して吹き出していた。
「あははは」
「いやいや、『あはは』じゃ無しに…ふふ、もーう、仕方ないわねぇ…」
と、これも毎度のパターンだが、私としては結局はこうしてただ苦笑いをする他に無かった。

この先の全体の流れも大体似通っており、この日も私からの追撃が無いことを察した途端に、今度は紫と麻里だけではなく、藤花と律までもが話に加わり先に進め始めた。
そんな様子を、特に今度は藤花と律をメインに眺めつつ、
「あなた達まで…皆さては、私がいない裏で、今紫と麻里がしたような話は既に済ましてたわねー?」
と私がまたジト目を意識しながら言うと、「バレたかー」と胸に手を当てて藤花は苦しがって見せて、そんな藤花の反応を見て、手を口に当てて上品に笑いながら、時折その笑みをこちらにも向けてくる律の姿があった。
「あはは、隠しててゴメンってばぁ」
「琴音ちゃん、ごめんなさーい」
「ごめん琴音ー」
「ふふ…ごめんね琴音」
と、今度は打って変わって、それぞれから順に妙に”しおらしく”謝られてしまった私は、んー…ふふ、これがまた我ながら”チョロい”と思うが、一気に毒気を抜かれてしまったせいで、やれやれと元々そこまでというか、勿論こちらとしても冗談のつもりでいたのもあり、それでも一応最後の抵抗と首を大きく横に振って見せてから苦笑交じりに言った。
「…あー、もーう分かったわよ。じゃあ明日の待ち合わせ時間は、皆が言った時間にしましょう?」
「やったー」
と紫、麻里、藤花が明るい声を上げる中、律はただ皆の様子を眺めて微笑みを溢すのだった。

「しっかし…あなた達ー?」
と、盛り上がりがようやく落ち着いてきた頃、そろそろ水の差し時と、一度アイスコーヒーをストローで啜ってから言った。
「待ち合わせを午前にするのは良いけれど…あなた達、今夏休み中だというのに、それでもキチンと起きられるの?」
「なんかお母さんっぽーい」と無邪気に笑いながら、私の言葉に対して、いの一番に藤花が反応し、「出たなー?小姑が」と紫が意地悪く笑いながら続いた。麻里はただ明るく笑い、律もクスクスと小さく笑っている。
「もーう、今に限った事じゃないけれど、小姑小姑って…ふふ、まぁ”お姫様”よりかはまだマシだけれど」
「えー?」
と私の言葉に麻里は笑顔ながらも不満げな声を漏らしたが、「あはは、琴音らしいー」と藤花はまたケラケラと屈託なく笑った。
「あはは、普通はなぁ」
とまだ意地悪げな表情を作ってはいたが、先程よりも自然な明るい笑みに顔を近づけつつ紫も続く。
「誰からも反対意見なく、お姫様だなんて言われたら、普通は嬉しがっても良さそうなのに…ふふふ、小姑って言われる方を嬉しがるとはなぁ」
「う、うるさいわねぇ…」
と心底不満だと心掛けて返そうとしたのだが、やはりまたしても苦笑交じりとなってしまった。
そんな参った様子の私を見て、また場の中で笑みが溢れた後で、紫は口を開いた。
「あはは、私は夏休み中でも普段と変わらない時間に起きてるし、心配ご無用だよ」
「あー、そっか。あなたは普段から家事してるものねぇ…あ、ふふふ、流石学級委員長様ね?」
と私が思い付いたのと同時にニヤケつつ返すと、「あー、さっきのお返しー?」と紫が今度は困り顔で苦笑いを浮かべた。
「まぁねー」
と私は悪びれる事なく素直に正直に応えると、「もーう」と笑顔で拗ねる紫を他所に、「私も大丈夫ー」と間延び気味に藤花が続き、「うん…私も」と律も加わった。
「ふふ、二人のことは心配なんかしてないけれどね」
とそんな二人に対して顔を向けながら言った。
「藤花は喉が整う午後の歌の練習のために、逆算して早寝早起きしてるし、律だってこの時期は暑さ対策というので、主に朝から練習しているものね」
「あはは、うん、まぁねぇー」
「ふふ、うん…」
と、私の言葉に対して二人は陰と陽な反応ではあったが、どこか照れた様子なのは共通していた。
「ちょっとー、だったら私のこともすぐに察してよー」
と駄々っ子よろしく紫が絡んできたので、「ハイハイ」とニヤケつついなしていると、「えへへ、この中では私だけが問題児だなぁ」と頬を指で掻きながら麻里が呟いた。
「え?どういう意味?」
とすかさず私が声をかけると、「この子はねぇ」と麻里が答える代わりに、隣に座る紫が口を開いた。片手を麻里の肩に乗せている。
「いかにも新聞部らしいというか、編集者らしいというか夜更かしするのがデフォでね?大体日付が変わっても暫くは起きているんだよ」
「えへへ、そういう事」
と麻里も照れ笑いを見せつつ付け加えた。
「へぇ…」
とここで何か軽口でからかってやろうかと思いはしたのだが、ふと、自分だって本を読んでいて、没頭するあまりにいつの間にか日付が変わっていたというのが、しょっちゅうあったし、それに…ふふ、数奇屋に行った日の夜などは、興奮がなかなか収まらないと言うか冷めない為に、東の空が白んで来るまで寝付けない事もあったりするのを思い出した私は、自分も人の事を言えない後ろめたさから結局は単純な合いの手となった。
後から見れば、結果的に冷たい対応になってしまったかと思ったが、これは…ふふ、心外だが普段からこんな”塩対応”だと言わんばかりに、麻里は何事もなく笑顔のままだった。
「えへへ…でもまぁ心配しないで琴音ちゃん。頑張って明日は起きるから」
と麻里が言った直後、「まぁ、いざとなったらさ?」と紫は何度か麻里の肩をポンポンと叩いてから、その手を元の位置に戻しながら言った。
「私がこの子にモーニングコールして、叩き起こすから心配しないでよ」
「さすが学級委員長、頼りになるー」
と麻里が戯けながら言うと、途端に紫は吊り目ガチの目を細めながら返した。
「ちょっとー、あなただって学級委員でしょうが」
「あははは」
と、またもや間髪入れずに挟み込まれる藤花の明るい笑い声をきっかけに、私や律を含む皆で笑い合うのだった。

「しかし地元案内と言ってもねぇ」
と、アイスコーヒーを注文し直した私は、早速ストローで啜ってから口を開いた。
「予報では明日も快晴らしいし、結構しんどいと思うわよ?私の地元って背の高い建物が少ないせいで、意外と日陰も無いし」
と、なるべくマイナスイメージを振り撒こうとしたのだが、失敗に終わった。
「そういえばさぁ」
と紫が私からの話を放っておいて、代わりに自分から話題を提供し始めた。
「私たちはともかく、あなたこそ明日はどうする予定だったの?」
「え?えぇっと…」
紫が質問をぶつけてきた瞬間から、何故か皆は静かに一斉に、こちらに向けて視線を集めてきたので、この様に思わず口籠ってしまったが、しかし別に衒う事も無いしと、正直にそのまま話す事にした。
「私も藤花みたいに、普段と変わらないルーティンをこなす予定だったわよ。午前中はピアノの練…ピアノをポロポロと弾いたり、後は本を読んだりとかね」
だが結局は、この通りに途中で思い直して、少し言い方を変えて答えた。
何故なら『ピアノの練習を午前中はみっちりやる』だなんて言うと、裕美や、芸に関しては自分と同じタイプと言って良い藤花ほどでは無いにしても、他の三人も私に対して、普段からそっちの意味でも気をそれなりに遣ってくれているのを思い出したからだ。
ここでまた変に気を遣わせるのは、私の意図とするところでは無かったので、敢えて練習とは言わずに「ポロポロ弾く」とだけ言っておいたのだった。
だが、そんな私の浅薄なごまかしはすぐにバレてしまっているらしく、皆の顔に変わりは見られなかったが、何となく肌感覚として、場の空気に変化が生じたような気がした私は、少しだけ話をそらす事にした。
「まぁそもそも明日はね、私のお母さんの実家が呉服屋さんというのは話したと思うけれど、その手伝いにお母さんは行ってるから、日中は私一人しかいないのよ」
と個人情報を自ら漏らしたのだが、これがどうも仇となってしまった。
「え?じゃあ明日、琴音の家には、あなた以外に誰もいないって事?」
と紫が確認してきたので、その態度の変貌ぶりに違和感を覚えこそしたが、「え、えぇ、そうね」と私は一応相槌を打った。
「今言った通りよ」
「そっか…ふーん」
と紫はほんの数秒ほどだが少し俯いて腕組んで考え込んだかと思うと、「…よし」という掛け声と共に頭を上げた。その顔には、例の紫印の企み笑顔が広がっていた。
「じゃあさ、明日本当に暑くてどうしようも無かったら、そしたら代わりに琴音、あなたの家にお邪魔しても良い?」
「え?」
「へ?」
と紫の言葉に、私はともかく麻里も同じような反応を示したので、すぐに不思議に思い顔を向けていると、「あー、良いねー」と案の定、すぐに藤花が紫の案に乗っかってきた。
ここでもやはり言葉には出していなかったものの、私の隣では何度か小さく頷く気配を私は感じ取っていた。
そんな皆の様子を、私はなす術も無いといった感じで眺めていると、「…良いの、琴音ちゃん?」と他の皆のテンションとは違って、どこか遠慮深げに麻里が声をかけてきた。
「へ?」と、その想定していなかった反応というか態度に、呆気に取られてしまったのだったが、他の皆はともかくとして、そんな麻里の様子に絆されてしまった私は、それでも歓迎している風なのは、どこかシャクだとうんざり気に溜息を吐いてから答えた。
「まぁ…暑い中歩き回るよりかはマシなの…かしら?仕方ないわねぇ…えぇ、良いわ。招待してあげる」
と最後は思わずニヤケてしまいながら言い終えると、「やったー」と紫と藤花が普段通りのテンションで声を上げたのだが、その直後、「やったー!」と数段階高いテンションで麻里が声を上げた。
…ふふ、正直今に始まった事ではないので、今更感がするが、先ほどからずっと自分達が店の中で目立って煩くないかと思っていたあまりに、「ちょ、ちょっと麻里…?」と私は、また立てた人差し指を口元に当てつつ声をかけた。
「え、あ…えへへ、ごめーん」
と麻里は周囲を見渡しながら、同じ様に口元に指を当てつつ照れ笑いを浮かべた。
だがまぁ、これも先に触れたが、この喫茶店は平日の午後は特に客が少ない特徴があったお陰で、特に他の人に迷惑がかかっている様子は無かった。…言うまでもなく、主観でだけれど。
それはさておき、私一人で安心していたのも束の間、「あはは、麻里ってば興奮しすぎー」とからかう藤花に始まり、「今からそんなにテンション上げて、どうすんのよ」と紫からは呆れ笑いを貰い、「ふふふ…」と律からは意味深な笑みを貰った麻里は、ただ一人肩を窄めて居心地が悪そうにしていた。
それを見た私が最後に加わる形で小さく吹き出してから笑みを溢すと、そんな私を見てようやく麻里も全体的に自然体に戻るのと同時に、普段通りな笑顔になるのだった。

…とまぁ、私特有な長い長い回想を述べてみたが、こんなやり取りがあっての本日となる。
湿度はあれどスカッと晴れたピーカン照りの陽気に当てられつつ、私は麦わら帽子を被って地元の駅へと向かった。
駅ビルと繋がっている、一つしかない改札口に到着すると、既に全員が出揃っていた。
ほぼ同時に、お互いがお互いを発見すると、側に歩み寄り、早速簡単な挨拶を掛け合った。
「よく来てくれたわね」とテンプレートな言葉を皆にかけると、それからは私を先頭に改札前を後にした。
後でお見舞い品を買う予定の、第一候補である駅ビルの入り口や、外に出て目の前に建っている第二候補のショッピングモールを教えたり、その後で向かう事となる、周囲の建物が低いのもあるが、元々背が高いのもあり遠目でも目立つ、裕美が入院しているお父さんの病院を指差して教えたりしながら、後でその方向にはどうせ行くからと、取り敢えずは其れ等とは逆方向に揃って歩き始めた。
フォーメーションとしては、まだ麻里と私が知り合う前の懐かしい、二列三列の形となったが、以前とまるっきり違う点が一つあった。
それは、私と律が二人先頭を歩き、その後ろを紫たちが歩くというものだった。当時は背の高い私と律が後ろだったのに、今では逆となっていた。
「皆が住んでる所から此処まで、やっぱり結構かかったでしょう?」
と首だけ後ろに無理ない程度に曲げつつ、私から口火を切った。
「まぁ、遠いと言えば遠いけどさぁ」
と紫がまず反応をする。
「私のとこからだと、それほどって感じだったよ」
「そっか」と、考えてみたら私たちのグループでは毎年数回と恒例になっている、紫の家でお泊まり会をしていたのもあり、私と裕美はその度に地元から通っていたので、どれ程のものかは熟知していたのを思い出しつつ返した。
「私たちも、ねぇ律ー?」
と、後に続けと今度は藤花が口を開いた。
名前を呼ばれた律は、私と同じように頭だけをチラッと後ろに曲げて見たが、表情を緩めるのみで特に言葉は発しなかった。
そんな反応は当然慣れっこだった藤花は、明るい笑顔のまま続ける。
「乗り換え案内を見た時は、『やっぱ遠いなぁ』って思ったんだけど、でもいざ来てみると、体感的にはそれ程じゃ無いって感じだったよ」
「うん…ふふ、そうだったね」
と藤花に一度微笑みで返しつつ、そのままの笑みでこちらにも声をかけてきたので、そんな律と藤花の二人に顔を配りつつ「そうだったの」と私からも、自然な笑みで返した。
「麻里は?」
と今度は私から何となく振ってみると、「あ、私?」と少し上擦った声色で、麻里は自分の顔を指さした。
「ふふ、そう、あなた」と、何となく私はニヤケつつ、同じように顔を指差しながら言うと、「えへへ」と何故か麻里は照れ臭そうに一度笑ってから答えた。
「私がもしかしたら一番この中で、ここまで遠いかもだかけど…うん、藤花たちと同じ感想かなぁ?白山からここまでは、思ったよりも遠くなかったよ」

…ふふ、ここにきてようやくと言うか、本人が自分で言ってくれた事によって、麻里が一体どこに住んでいるのかに触れる事が出来る。
そう、麻里は文京区は白山にある一軒家に住んでいた。自宅から本当に近い最寄りの駅は別にあるのだが、学園へ通学する為に、南北線が乗り入れている別の、それ程遠くない駅を普段は利用していた。そこから学園まではもちろん乗り換え無しの一本だ。
因みに麻里の父親は弁護士をしていて、自分の事務所も近場に構えていた。
この事を初めて聞いた時に、いわゆる記者では無いから厳密には違っても、何となく新聞部に好き好んで所属する女の子の親っぽい…と、我ながら酷い偏見だと思いながらも、そんな妙な理屈で納得したのを覚えている。

それからは、学園の最寄り駅である四ツ谷で藤花と律と落ち合い、JRに乗り換えて紫と今度は合流し、後は私と裕美の学園からの帰り道を、そのままなぞる形で来たと話してくれた。
その時の様子を皆がそれぞれ話してくれるのを、私はただ楽しく聞いていたのだが、特に考えもなく歩いていると、自然と普段の帰り道を通ってしまったらしく、いつの間にか正面に裕美の住むマンションが見え始めた。
会話もひと段落ついた頃合いだったので、まず初めにと紹介すると、ちょうど私と裕美がいつも待ち合わせするマンションのエントランス前で立ち止まった。
「へぇー、ここが」と言う紫の言葉をきっかけに、それぞれが各様の感想を述べているのを、時折相槌打ちながら私は聞いていたのだが、それも一通り終わると、不意に紫はこちらを繁々と眺めてきた。
「…え?どうかした?」
と私が声をかけると、「んー…」と紫は途端に苦笑いを浮かべ始めた。
何事かと他の皆も私と紫に注目し始めたのだが、その時、紫は視線を少し上に逸らしつつ言った。
「いやぁー…地元を案内して貰おうと思ってたけどさぁ…ふふ、さすがにこれ以上歩き回るのは暑くてかまわないわ。あなたみたいに、帽子を被っているわけでも無いし」
と、手を団扇がわりにパタパタと顔に向かって風を送って見せた。
「あはは、確かにねー」
と藤花も続く。律も呆れ笑いながらも頷いていた。
「あははは」と麻里はいつも通りに明るく笑うのみだったが、そんな全員の反応と姿格好を見て、すぐに納得しつつも同時に呆れ笑いを漏らしてしまった。
確かに皆はすっかり夏の装いをしていたが、それぞれ髪型は違っても、容赦無く空から降り注がれている太陽の光を艶やかに反射しているのは同じだった。ベリーショートの律にしてもだ。
その見た目から、明らかに熱が籠ってそうなのを見てとった私は、何となく意地悪げに自分の被る麦わら帽子に手で触れながら言った。
「…ふふ、もーう、だから言ったでしょう?こんな暑い日に地元の案内とか、外を出歩くなんてキツイよって」
と薄目がちに、紫から一同へと目を配りつつ言うと、「いやぁ…」といった態度を全員が一斉に取り始めた。
そんな皆のことを呆れた様子を隠さずに、むしろ全面に打ち出しながら眺めていたのだが、実はこの時の私の心内は微妙に違っていた。

というのも、勿論本当に暑くてこれ以上歩くのは嫌だというのは本音の一つではあるのだろうが、実はもう一つ、これは私含めての共通した考えがあるように思えたのだ。
それは、確かに思い付きで案内して欲しがっては見たものの、やはりここは私だけではなく裕美の地元でもあるわけで、だったら裕美が治って退院してから、改めて皆で回った方が良いだろうと、そう思ったのに違いない…と、直接聞くのは流石の私でも無粋なのは知っていたので、今に至るまで聞いていないが、しかし恐らく小さな違いはあれど、大方同じ想いを持っているだろうと信じているし、何だか確信に近いものを今だに持っている。

この時も、すぐにこの様な考えが浮かんだ私は、思わず微笑んでしまいそうになるのを堪えつつ、代わりに鼻で一度笑ってから、呆れ笑いまじりに口を開いた。
「もーう、仕方ないわねぇ…ふふ、じゃあ、当初の予定を変更して、いきなり私の家に行きますか?」

「さんせーい」
と藤花がすぐに賛意を示し、それに数コンマ遅れて紫が同じ反応を示した。
律はそんな藤花たちの反応を微笑ましげに眺めていたが、ふと私と顔があうと、こちらには珍しく悪戯っぽい笑みで応じてきた。
それに対して、私からも呆れ顔のまま肩を竦めて見せていたが、「おー…」と妙に感慨深げに一人呟く麻里の事だけは…ふふ、何となく見なかった事にした。
それからは、早速早く行こうと急かす皆に押されて、また私と律を先頭に自宅へと向かうために裕美のマンション前を後にした。
…で、ここにきてようやく一番初めとなる。

自室の部屋の電気を点けて、皆を部屋の中へと案内すると、「じゃあ、何か飲み物でも取ってくるから、好きに寛いでいてね?」と声をかけた。
「はーい」という妙に返事が良い声を背に受けつつ、私は一階へと降りて行った。
居間からキッチンへと入った私は、まず初めに冷蔵庫を開けた。
そして、ラップが掛けられたお皿を取り出すと、それを早速レンジに入れて温め始めた。
これは前日、つまりは昨晩だが、お母さんと一緒に事前に作っておいた物だった。

昨日は皆と別れた後まっすぐ帰宅したのだが、丁度夕飯を作るのに足りない材料を駆け足で買いに行くというお母さんと玄関先で鉢合ったので、何となく一緒について行く事にした。
駅前に向かう途中や、スーパーで品定めをしながら、明日もしかしたら学園でいつも連んでいる友達が来るかもと話すと、「あら、そうなの?ふふ、あなたが裕美ちゃんや朋子ちゃんみたいな、地元以外の友達を呼ぶなんて珍しいわね」と微笑み…いや、面白がりつつ愉快げにニヤケながら言うのを受けて、「いやいや…ふふ、別に今回は呼んだってワケじゃ無いんだけれど」と力無く否定しておいた。
その後で、本当の目的は裕美のお見舞いだと伝えると、「なるほどねぇ」と途端に感情深げに、お母さんは呟き返してきた。
それから少しの間は、静かな表情を浮かべていたお母さんだったが、何かを思いついた様子を見せたかと思うと、子供っぽく笑いながら私に続けて言った。
「明日は私、あなたに伝えているように実家に手伝いに行ってるから何も出来ないけれど、せっかくだし琴音、あなた友達のために、お茶のお供にでも作ってあげたら?ちょうど今、スーパーにいるんだし、材料も買えるわよ?」

…といった経緯があったのだ。今電子レンジで温められているのは、家に帰って早速、夕食の準備をするお母さんの隣で私が作った、この話では度々登場しているチョコチップクッキーだった。
…ふふ、これは私だけではなく、お菓子作りを何年も教えてくれている師匠の名誉のためにも一応言っておくと、何もレパートリーがこれしか無いわけではない。…のだが、ただ単純に、変に凝ったのを出されても学園の皆は肩が凝るだろうし、それでちょうど良いと思いついたのがクッキーなのだった。
温められている間、私はまた冷蔵庫を開けると、そこからお母さんが作ってくれた、アイスティーの入った大容量のティーポットを取り出した。外から触っただけで、程よく冷えているのが分かる。
…そう、先ほどは、『お母さんと一緒に』云々と言ったが、この通り、クッキー自体は私個人で作って、お母さんはアイスティーを作る事で手伝ってくれたのだった。これは夕食を摂り終えた後でだ。
普段のホットティーとは違い、茶葉を二倍近く、蒸らし時間は二分程度にしたり、蒸らし終えたら氷を入れた別のポットに茶葉を濾しながら移し替えて、素早くかき混ぜて一気に冷やし、常温程度まで冷えたら氷を抜き取り、保存容器へと入れ替える…という過程を、慣れた手つきで淀み無く流れる様にお母さんは作ってくれた。
お母さん曰く、いつまでも氷を入れてかき混ぜていると味が薄まるし、また冷やし過ぎると濁りの原因になるからと教えてくれた。
とまぁ、そんな料理好きなお母さん独特のこだわりが光っているアイスティーの入ったポットと、氷を入れた人数分のグラス、人数分のコースターに注ぎ口付きのシロップガラス、そして今温め終わったクッキーの乗ったお皿を一つのオボンに乗せると、また自室へと戻った。

ドアを開けたまま出たので、両手が塞がっていてもすんなりと部屋に入ったのだが、その中の様子を見て一度足を止めてしまった。
というのも、てっきりそれぞれが思い思いに楽に過ごしているのかと思っていたのだが、誰一人として腰を下ろしている者は無く、荷物は床に置いていたが全員が本棚を眺めていたからだった。

ここで、これも良い機会かも知れないと、今までよりも少し詳細に自室について触れてみようと思う。
これまでは、特に細かく触れる理由が見当たらなかったので話してこなかったが、まぁ今回は話してみると、私の自室は十畳ほどの広さがあり、ドアから入って正面には、縦1メートル、横幅2メートルほどの窓が二つあり、これが外光を取り入れられる唯一のものだが、外が晴れていれば照明を点けなくても十分明るくなる。
その内の窓一つが座った時に体の横に来る様に、L字型という程のオーバーなものでは無いが幅が百二十センチ程の広い天板で、その上にはデスクトップのパソコンを乗せられるくらいの、程々にテーブルを占拠しないディスプレイ棚があり、机本体の天板との隙間部分には普段はキーボードとマウスを仕舞っていたり、その他にも収納が充実したそれなりに大きい学習机があり、振り返るとそこにはベッドがある配置となっている。因みにベッドのサイズはセミダブルで、ヘッドボードは二段階仕様の棚となっており、そこに私は主に本とか眼鏡を置くことにしていた。そう、このヘッドボードにはコンセントは勿論のこと、LED照明が付いていたので、一応寝ようと決心してベッドに横になるのだが、神経が昂って眠気がこない時などは、寝そべったまま、この照明だけを点けて読書をする事が日常茶飯事だった。大抵においてカーテンを閉めているが、そのヘッドボードのすぐ上には、先ほど紹介した窓の一つが来る形となっている。
後は部屋に入ってすぐ左手には洋服箪笥が置かれていたり、その脇には姿見、学習机の脇には台に乗ったテレビが置かれていたり、そのまたすぐ近くに音楽プレイヤー一式と、何気に一つの部屋に多くの物が置かれているというのが、こうして振り返って見ての感想なのだが、それら生活雑貨が無い他の壁部分はというと、今では何枚あるのか数え切れない程のCDとDVDが仕舞われている、金属製の無骨ながらシンプルで格好良いと気に入っているラック以外は、これは何度も触れてきた様に、全てが天井の高さスレスレまである本棚で占められており、今のペースで本を買い続けていれば、恐らく後一、二年で完全に全ての棚が埋め尽くせる計算となっていた。
音楽を勿論含む芸能関係、古今東西…いや、”古東西”の文学作品を収めたゾーン、歴史や文理関係ない昔の偉人たちの書き残した回顧録なども入ったゾーン、義一から勧められて読んだ、文学以外の理数系、人文社会科学系の本を、中には廃版しているのもあったが、古本だとしても今でも買えるのならと、お小遣いやお母さんを説得して買い集めて収めたゾーンなどなど、一度に一遍には正直まだ話し切れないのだが、大雑把にいってその様な本に占められていた。
…ふふ、因みにというか、漫画もあるにはあるのだが、それはごく一部で、しかも他の本に場所を追い出されてしまい、すっかり手に取り辛い端っこへと追いやられている始末だった。
慌てて一応付け加えると、決して漫画をバカにしているのでは無い。むしろ、これも義一も同じ意見だと言ってくれたが、先ほど”文学ゾーン”に触れるにあたり、”今”を除いた”古東西”と敢えて言ったと思うが、それに絡めて言うと、今のいわゆる小説などと比べると、余程漫画の方が、もちろん玉石混交で全てが良いとは言わないまでも、物語性だけではなく、”人間”をきちんと書いていると思えて、また何で作者がこの作品を描いているのか、もしくは描きたいと思ったのか、これまた義一の言葉、私にも掛けてくれた言葉を引用すると、”作者の顔”がまだ見えるのが、漫画の方が多いと感じる事がしばしばなので、随分と長いこと話してしまったが、そんな点で今現在新たに生み出されている中では、小説などの文芸作品と呼ばれているものよりも、漫画の方が読みたいというのが素直な感想だった。話を少し戻そう。
と、最後に付け加える形で、さっき読書の話が出てきたので、補足の補足で、私の中では最重要の一つと言って良い生活雑貨を紹介したいと思う。
普段私は義一や師匠から借りた本なり、借りた本をもし今でも買えるならお小遣いなり親に頼んで買って貰ったりしているわけだが、実はその読書を快適に出来るために、確か中学一年生の誕生日だったと思うが、無理を言って一人掛けのラウンドチェアを買って貰っていた。足を乗せれるオットマンのセットだ。
クッションが一つ一つ品のある真っ黒なレザー張りされていて、座面は脊椎下部にかかる体重の重みを背もたれに分散させるお陰で、ゆったりとした座り心地だ。椅子の背面は暖かな木目調の木板が張られていたりと、とてもデザイン的に私好みの品となっていた。
自室にある様々な家具のどれもがお気に入りだったが、その中でもトップ3にこのラウンドチェアは入っていた。
因みに、これはある日に家族で家具店に行った時に、思わず一目惚れしたという経緯があるのだが、そのキッカケのキッカケは義一が実は関係していた。
というのも、義一宅の宝箱の中で、既に今私が所有している様なラウンドチェアを目にしていたのだった。
初めて見たのは勿論義一宅へ足繁く通う初めの段階時で、”なんでちゃん”の私が宝箱内の興味が惹かれた”全て”について質問をする中に、その椅子があった。
そんな些細なことでも興味を持って質問してくる厄介な子供相手だというのに、嫌がるどころか面白がってくれつつ、それを読書用として使っていると義一は答えてくれたのだった。
それ以降は、私が小学校や受験塾からの宿題なり復習をする間は、テーブルの向かいに座っている事もあったが、こちらから質問なりが無さそうだと見極めると、義一はよくそのラウンドチェアで読書をしており、その姿をチラチラ盗み見ていた私の中で、憧れに近い感情を日に日に強めていたのだった。
なので、中学生女子が所持するものにしては破格の値段がしたらしい…とは、後で自分で調べて知ったが、誕生日のプレゼントに買って貰った時は本当に本心から喜びを表現したのを覚えている。
「プレゼントに読書用の椅子をせがむなんて、うちの娘は本当に渋い趣味をしているわ」と声は呆れ調だったが、顔には面白がっている様な笑顔を浮かべるお母さんの表情もセットでだ。

とまぁ…ふふ、案の定脱線が長引いてしまったが、以上の話を聞いて、義一の宝箱は私の部屋よりも三倍近く広いので比べ物にはならないが、意識的に真似たこともあり、そのミニチュア版の様なものだというのは分かって頂けたかと思う。
さて、その宝箱のように壁が本棚で大半を占められているのは過去に度々触れてきた通りなのだが、ここでようやく話の本編に関係ある事で、新しく情報を付け加えてみよう。
部屋の中央にはワインレッドの程良いフカフカ具合のカーペットが敷かれており、その上には四人がけ用の丸テーブルが常に置いてあった。焦げ茶色の木目が綺麗な天板は真円形だ。
テレビは正面に来る形で、普段はDVDを視聴する時くらいにしか使わないが、観る時にはベッドを背もたれ代わりに座布団に座るのが定位置だった。
普段は勿論私一人しかいないので、座布団は一枚で十分だなのだが、頻繁では無いにしても裕美や朋子、それ以外にも同じ小学校時代の地元の友人がたまに来てくれたりしていたので、少なくとも四枚は出したままにしていた。

なので、てっきり座布団に座って雑談でもしているのかと思っていたのに、皆してしかも繰り返し触れれば、立ったまま本棚を眺めていたので、呆気に取られてしまった次第だった。
だが、いつまでもそうする訳にもいかず、何となく一度鼻で笑ってから足を部屋中央へと進めた。
「…ふふ、てっきり楽にしているのかと思っていたら、何で皆そんな風に突っ立ったままでいるのよ?」
と笑いつつ、オボンをまずテーブルの上に置いて、私が流れる様に人数に合わせてもう一枚の座布団を用意し敷く間、「いやぁー、だってぇー」と間延び気味に返す藤花がまずテーブルに近寄ってきた。
もう一枚の座布団をテーブル周りにテキトーに置いた私は、普段の定位置に癖で腰を下ろすと、背中にベッドの固さを感じつつ、早速コースターを適当にテーブルに等間隔で置いていき、氷の入った人数分のグラスにアイスティーを注ぎ入れ始めた。
「あー、ありがとー」
と、私の隣に座った藤花が、アイスティーを受け取りつつ言うと、「あ、良いねぇー」といつの間に来ていたのか、その藤花の隣に腰を下ろした紫が、オボンの上に置かれた品々を見て言った。
「お、クッキーもあるじゃん」と声も明るく紫が続けて言う中、「はい」と私がコースターと共にグラスを渡すと、「サンキュー」と紫は戯けてお礼を返しつつ受け取った。
「…ふふ、これって琴音、あなたの手作りだよね?昨日の今日だったのに…よく作れたね?」
と今度は私の隣に律が腰を下ろしつつ、呟く様に言った。その顔には、やんわりとした表情が広がっている。
「ふふ、まぁね」と返しながら、藤花と紫にした様にグラスなりを手渡すと、「ふふ、ありがとう」と静かにお礼を返しながら律は受け取った。
「おー、これが幻の、琴音ちゃん特製のクッキーかぁ」
と、別に順番なんか無いのに、まぁ本人もそのつもりは無かっただろうが、他の皆とは違うテンションの高さで、紫と律の間に麻里は座った。
「ふふ、幻って…今までも何度か食べて貰ったこと無かったかしら?」
と麻里の過剰反応に今だに慣れない私が、苦笑交じりに口にしつつ、皆と同じ様にアイスティーセットを手渡すと、「ありがとー」とお礼を言いながらも、麻里は続けて言った。
「いやぁー、確かに二、三回食べさせて貰ったけど、でも幻には違いないよ。だって、こうして何度も一緒に遊んでいるのに、まだ二、三回”しか”食べれて無いんだから」
と点々の部分を強調したかと思うと、ここで一旦区切ってから、麻里は不意に意味ありげな笑みを浮かべたかと思うと言った。
「…ふふ、そんな私ですら二、三回だけど、他の学園の皆だって、琴音ちゃんが作る手作りスイーツの存在を知ったら、自分は食べた事がないというので、やっぱり”幻”って言うと思うなぁ」
「あははは。まぼろしねぇー」
と藤花がケラケラと笑いながら合いの手を入れて、それに紫も後から加わる中、私はというと、苦笑いを通り過ぎてため息を吐いてしまった。
「もーう、すぐにそうやって面白がるんだからなぁ皆は…ふふ、麻里ー?前々から言ってるでしょ?あまり大袈裟な言い方をすると、すぐにこうやって他の皆も面白がって乗っかるんだから。冗談は良いけれど、もう少し誇張しないで話してくれる?」
と、何だか途中からギャグに対してのダメ出しみたいになってしまったが、私の言葉を受けた麻里は、満面の笑顔ながらも、どこか不満げに口を尖らしつつ応えた。
「いやいや琴音ちゃん、私だって何度も前々から言ってるけど、私が言ってるのは冗談じゃなくて本気も本気、ただ事実だけを言ってるんだってばぁー。…えへへ、新聞部の記者でもある私に対して、冗談呼ばわりは心外だなぁ」
と麻里は言っていたが、その素振りからは落ち込んでる様子が微塵も感じられず、それを証拠にというか、私たちのやり取りを眺めつつ笑みを強める藤花と紫に、後から自分も同じテンションで加わった点からも分かった。
やれやれと、無駄だと知りつつ静かな右隣に顔を向けて見ると、思った通り、いつから見られていたのか気付かなかったが、律は嫌味に取れるくらいに屈託の無い微笑をこちらに向けてきているのが見えた。
学園の王子様からの救いを今回も得られなかった私は、笑い声に掻き消されない様に頑張って強めに大きく溜息音を漏らすと、皆の注意がこちらに向いたのを確認してから、何か嫌味を一言くらいぶつけてやろうと口を開きかけた。
だが、例に漏れずに今回も何も思い付かなかった私は、結局はやはり力無げに笑うのみで、それを合図にまた他の皆が盛り上がるのだった。
そんな様子をなす術も無く眺めていたのだが、ここで不意に、この場の空気を変える得策を思いついた私は、前触れもなくグラスを手に持った。
何も特に口にしなかったのだが、恐らく満足したからなのだろう、私の行動に一瞬言動を止めた他の皆は、何を意図としているのかスグに察したらしく、クスッと小さくそれぞれが笑みを零したかと思うと、次の瞬間には、やはり誰もが、これといった言葉を口にしないままに、当然としてグラスを手にした。
すっかり習慣づいている皆の様子が微笑ましく感じた私も、結果的に同じ笑みを浮かべつつ、一旦一同を見渡してから口を開いた。
「まぁ…ふふ、みんな、取り敢えずはよく来てくれたわね。この後会う裕美の分も含めて、まずこの場は私が挨拶をするわ。じゃあ…お疲れ様でした」
と言い終えるのと同時に、手に持ったグラスをテーブル中央に差し出すと、「お疲れー」と他の皆も声を揃える様に口にしながら、各々が自分のグラスを同じ様に向けて互いに軽くぶつけ合うのだった。

一口ずつ飲んだ後は、何かキッカケがあったわけでも無いのだが、すんなりと雑談へとまずは入っていった。
「しっかしまぁ…裕美から話には聞いていたけど、本当に想像以上の本の多さだね」
と、正直会話の前後と脈絡が無かったのだが、ふと紫が部屋を見渡したかと思うと、シミジミといった調子で口にした。
「本当、そうだよねー」
と藤花も同じように周囲を見渡しつつ後に続く。
「あはは、私が前にチラッと紹介した、初等部時代からの本好きな友達よりも全然多いわ」
「あー…ふふ、言ってたわね」
と私はすぐに思い出して合いの手を入れた。
「あれでしょ?私と違って、本そのものも大事に保管しているって子」
「あはは、そうそう!よく覚えてたねー」
と藤花は、これそ天真爛漫って調子で明るく反応を返してきた。
「んー…えへへ、そっかぁ…しかしこれも裕美が言ってたけど、琴音ちゃんは本当に”お嬢様”なんだねぇー」
と今度は麻里が、またしても妙な言葉を口走り始めたので、「へ?」と呆気に取られつつ私が顔を向けると、麻里は猫のような、目尻の上がった目に無邪気と好奇心を同居させていた。

因みに、この中では吊り目気味という点で、紫と麻里は目が似ているのだが、ただ紫よりも麻里の目尻は若干下がり気味で、また目がクリクリと愛嬌のある大きさをしていた。
…ふふ、だからと言って、紫の目に愛嬌が無いと言いたい訳ではない。…って、言い訳すればする程墓穴を掘りそうなので、この辺りで話に戻るとしよう。

「だって…えへへ、一人でこんなに広い部屋を独占してるんだもん」
と麻里は、紫や藤花よりも部屋全部を見渡さんばかりに、大きく首を回しながら言った。
「あはは、確かにー」と藤花がすかさず賛意を示すと、その直後には「そうだねぇ…」と紫が例の企み笑顔を浮かべつつ後に続いた。
「私はマンションだし、一人でこんなに広い部屋を持てるなんて羨ましい限りだよ。…ふふ、もし近所に琴音が住んでたら、学校帰りとか毎日立ち寄って、入り浸っちゃいそう。しかも…ふふ、手作りお菓子と飲み物がセットで出てくるオモテナシ付きだし」」
と最後にオボンを眺めてから、とびきりのニヤケ顔をこちらに向けると、「ふふ…確かに」と、今まで普段通りに静観を決め込んでた律が、何かがツボに入ったらしく、クスッと品よく一度笑みを漏らしてから口を挟んだ。
「確かにー」と、その律の後に続けと藤花に始まり、「確かにー」と麻里もテンションも合わせて同じ言葉を口にすると、それから場にはまた朗らかな空気が流れた。
「まったく…好き勝手言ってくれちゃって」と苦笑交じりにボヤきながらも、私もこの雰囲気を楽しんでいた。

「しっかし…麻里、あなたは琴音が戻って来るまで、本気で凄く興味深そうに部屋を隅々まで眺めていたもんね」
と皆の間で笑みが引き切らない中で、紫が意地悪げに視線を送りつつ声をかけた。
「ちょ、ちょっと紫ー」
と麻里は途端にたじろぎつつ返しながら、目だけはチラチラと私の方へと流してきていた。
そんな麻里の様子を見て、さっきのお返しと私は紫に乗っかる事にした。
「…ふふ、麻里ー?あまり人の部屋をジロジロ観察しないでよー」
「あ、い、いやぁ …えへへ」
と麻里はますます照れて見せていたが、「って、紫だって…」と矛先を自分から逸らそうと、急に顔を私から紫へと向けた。
「私は部屋全体だったけど、あなただってマジマジと本棚を一つずつ眺めてたじゃない?真剣な顔しちゃってさ」
と麻里は反撃とばかりに、紫にニヤケ面を向けて言った。
「え?」
と、この麻里の言葉に対して、私は思わず声を漏らしてしまったが、ほぼ同時に同じく漏らした者がいた。紫だった。
声が重なったのに恐らく同時に気付いたらしく、私と紫は顔を向け合うと、そのまましばらく見つめ合ってしまった。
少しすると、「あー」と紫は声を漏らし始めたが、明かに先ほどまでの快活な笑顔とは打って変わって、バツが悪そうな顔つきをしていた。
「い、いや、別に深い意味があったわけじゃ、ないんだ…けど…」
「そ、そう…なんだ」
と私も何だかしどろもどろといった調子で相槌を打った。紫の態度から、今頭の中を巡っている考えなりその内容が、お互いに同じだろうと具体的に確認を取らなくても感じ取っていたのだが、この直感が正しいのかどうか、改めて整理をしようとしたその矢先に、そんな事情など知るはずもない他の皆は、淀みなく話を進め始めた。
「…さてと!裕美へのお見舞いは、どうしよっかー?」
アニメキャラの声にも似た、透き通るような高めの声で藤花が口火を切ると、「そうだねぇー」と麻里がすかさず合いの手を入れた。
「んー…」と小さく唸りながら腕を組み考えるポーズを見せる律を一度横目で盗み見ると、何となく顔を反対へと流した。
ちょうどその時、向こうでも同時にこちらに顔を向けてきたらしく、紫と視線がバッチリと合ったが、今度はそれ程長い事見つめ合わずに、どちらからともなくクスッと小さく吹き出すと、お互いに苦笑いを浮かべ合うのだった。
まぁこの時も、これ以上この場で深入りするべきではないと、恐らく私と同じ気持ちだったのだろう、そのまま何事も無かったかのように、私たち二人も話の輪の中へと入っていった。

…ふふ、そう、言うまでもないが、何も今回は私の自宅、自室を皆に紹介するために皆にわざわざ来て貰った訳ではない。
今日の目的は裕美のお見舞いが今日のメインテーマなのを、んー…ふふ、ついさっき”淀みなく”と言ったばかりだが、実際は当初の目的を皆で慌てて思い出した風な態度を取りつつ、それぞれが裕美に対してすまなさげな苦笑いを浮かべているのが印象的だった。

…さて、それからは”本当に”淀みなくアイディアをそれぞれが出し合い始めた。それを…ふふ、これが紫らしいと思ったが、普段使いのリュックの中からノートと筆記用具を取り出すと、皆が出す意見を逐一そこに書き込み始めた。
それを私含む皆でテーブルに覆い被らんとするくらいに、前のめりにノートを覗き込みながら、その後もあーだこーだと思いつくままに口走っていった。
だが…うん、この手のことではありがちだが、幾らでも思い付こうと思えば思い付けるのだが、冷静になってその品を病室に持って行こうと想像してみて、果たしてふさわしいかどうかを考え始めると、どれもがしっくりいかない…というのが、私たち全員の見解だった。

「んー…なかなか、良いアイディアが浮かばないねぇ」
と、ボールペンのノック部分を顎に当てつつ紫はボヤいた。
「そうだねぇ…」と麻里も同じ声のトーンで続く。
「なんかどれもありきたりというか…えへへ、別にありきたりでも良いんだろうけど、お花なんかは確か…琴音ちゃんの情報だと、すでに他のお見舞いにきた人が買っておいてるんだよね?」
と確認してきたので、「えぇ、そうらしいわ」と私はすぐに答えた。

そう、この話し合いの中で既に話していたのだが、花は昨日時点で、絵里たちladies dayの面々が買って行ってしまっていると、私自身は昨夜に同じグループのSNS内でのやり取りで知っていた。
裕美がどんな様子だったか、どんな会話をしたかなどの感想を、絵里だけではなく百合子も有希も話してくれたのだが、その流れの中で聞いた事だった。
絵里は昨日も午前中は実家のある目黒へと出向き、日舞の稽古の手伝いに帰っていたらしいが、その後で直接百合子と有希と落ち合い、そのまま予定していたらしいお花屋さんへと向かって買ったとのことだった。

その内容を詳細はボカしつつ説明し終えていたので、それを踏まえつつ私が短くそう答えると、「そっかー…」と麻里は呟くと、また紫のノートへと目を落とした。
「あはは、正直さぁ」と今度は藤花が口を開く。
「私たちって…誰かのお見舞いとか、誰かの付き添いとかでは経験あっても、私たち学生だけで行くのって初めてじゃない?だから…ふふ、そもそものテンプレがよく分からないよね?」
と、今更ながら正論を自嘲気味に笑いつつ言った藤花に対して、「確かにねぇ…」と瞬時に応対した律に遅れて、その他の私達も同意の声を漏らした。
「そうなんだよねぇ…」
と、紫はボールペンのノック部分を、今度は癖っ毛のカールボブヘアーの中へと立てつつ、いつの間に手に持ったのかスマホを片手で器用に弄りながら言った。
「ネットで調べてみてもさぁ…ふふ、お花だとかお菓子ばっかだもんねぇ」
「そうだねぇ」
と麻里も相槌を打ちつつ、自分のスマホを弄り始めた。気付くと藤花も調べているのか同じくスマホを覗き込んでおり、そんな三人の様子を私と律はただ眺めていた。

…ふふ、普段どこか遊びに行く時などの予定を立てる時もそうだが、こういった場合は私と律がこうしてボーッと眺めている事が多かった。
まぁ律の場合は単純に、他の皆が行動早く速やかに動いてくれるので、トロい…とは本人の弁だが、そんな自分よりも任せた方が効率が良いという考えなんだと、中学二年生の頃に、同じクラスだったというので常に二人で行動していた中で教えてくれた事だった。
私はというと…ふふ、律のようにしっかりとした理由がある訳ではなく、ただ単純に、他の皆が動いてくれるのなら、皆で過ごす限りにおいて、それ以上に求めるものが特に無かったのもあって、全て任せておくのが楽だったという、それだけの理由だった。
一応補足すると、これまでずっと遊びの予定などは皆に全て任せてきた訳だが、一度も後悔した事は無いとだけ付け加えさせて頂こう。

そんな私と律に見守られながら、”参謀”達はウンウン唸りつつ考え込んでいたのだが、「そうだなぁ…」と呟きつつ、そろそろ無くなりかけていたクッキーの残りを口に運んだその時、「…あ」と紫は歯形に欠けたクッキーを眺めたかと思うと、ハッとした表情のまま一同を見渡した。
そして、最後に私を正面に顔を止めると、少しずつ表情を明るくしていきながら口を開いた。
「…ねぇ琴音?さっきの話を聞いているとさ?その…このクッキーを作る時の材料って、まだ…残ってたりしない?」
「…え?えぇっと…」
と私は、紫が口を開いた頃から皆の視線が集まっているのに気付きつつも、一応聞かれるままに頭の中でキッチンを捜索した。
しかし、そうはしたものの、本当は考えるまでもなく直後に分かっていた私は、それ程間を置かずに答えた。
「…えぇ、新しく昨日材料を買ったばかりだし、残っているというか殆どそのままあるわよ」
「そっか…ふふ、そうなんだ」
と紫は、今度は徐々に得意げな笑顔を浮かべ始めた。
そんな様子に私はもちろん、他の皆も不思議そうな表情を見せていた。
「ねぇ紫ー?一体何の話なのこれー?」
と藤花が疑問を投げかけると、「ウンウン」と麻里が続く中、「フッフーン。良いアイディアが思い浮かんだんだよ」と、紫はますます得意げに鼻を鳴らした。
「えぇー、何なのそれはー?」と問いかける藤花と麻里の質問には答えずに、勿体ぶって一同を眺めた後で、また最後に私で顔を止めると、紫は悪戯っ子な笑顔を浮かべて言った。
「お見舞いのテンプレで、お花かお菓子かくらいしか無いんだったらさぁ…、それだったら、私たちでお菓子を手作りしてみない?」
「へ?」
「え?」
「え?」
と私、藤花、麻里が同時に聞き返す中、「あぁー…」と律だけが何だかすぐに納得いった声を漏らした。
そのリアクションの違いに私が反応して見ると、律もこちらを見てきていたが、その顔には不適な笑みがほんのりと広がっていた。
「あははは!」と、そんな私含む皆の反応が想定内だったらしく、それが愉快だとばかりに、紫は一度明るく笑い飛ばすと続けて言った。
「いやさぁー?せっかく琴音の家に来ている事だし、お菓子作りの名人である琴音自身もいるんだしさぁ…ふふ、だったら、勿論お姫様が良ければって事だけど、その…どう思う?」
「あ、ん、んー…」
と、私はまず紫の提案を再度頭で反復しつつ、一旦部屋の中の時計を探した。
当然自室のなので直ぐに見つけると、早速時刻を確認した。丁度正午になる頃だった。
つまりは、紫たちと駅の改札で落ち合ってから一時間が経った所だ。

…ふふ、あれ程楽しくお喋りした割には、意外と時間が経っていなかったのね

というありふれた感想を覚えると、顔の位置を元に戻してから、今度は一同の顔を見渡した。
その顔のどれにも、こちらの答えを待ちわびている様子が窺えた。
んー…ふふ、ここでのみ予め心内をバラしてしまうと、既にこの時点で私の心は決まっていたのだが、なんだかすぐに返事を返すのも、子供っぽくシャクに感じてしまったあまりに、まだ少し考えるフリをした。
そんな私の態度に対して、紫は不意に顔の前で両手を合わせると、目をぎゅっと瞑り、頭を下げながら駄目押しと言った。
「お願い、お姫様!私たちに、お菓子作りを教えて下さい!」
「…」
…ふふ、当然というか、さっきもそうだったが、本当はすぐにでもツッコミを入れたかったし、その衝動に駆られていたのは事実なのだが、しかしまだ話が途中なのに気付いた私は、今は取り敢えず我慢をする事にした。
紫は、ここから徐々に目を開けると同時に顔を上げると、このまま紫印の不敵な笑みでも浮かべるのかと思いきや、若干の照れ笑いを浮かべるという、私が想定していなかった態度を見せつつ続けて言った。
「私は正直さ、お菓子作りに関しては素人も良いところだけど、こう見えても…あはは、自分で食材買って料理してるから、何となーく想像がつくんだけど…」
「…ふふ」
と、まだ話の途中なのは理解していたつもりだったが、ついつい照れ臭そうに話す紫の様子を見て、思わず笑みを零してしまった挙句に、その勢いで口を挟んでしまった。
「…ふふ、知ってるわよ。あなたが料理上手な事くらいね?」
と私は、先程引っ掛かった理由から呆れ顔を見せつつも、その中に笑みを滲ませつつ返した。
「普段から、あなたのお弁当を貰ったりしているしね?」

私たちグループは、中学二年時にクラスが分かれてしまったわけだったが、それでも昼休みには、基本的に私と律の教室に裕美達が家から持参した弁当を持ってきて、一緒に食べる事が頻繁にあった…のは、今までも折につけて触れてきた通りだ。
三年生になって再び全員が同じクラスになってからは、紫と、あと新規加入した麻里などは、学級委員になってしまったのもあり、毎回とまではいかないまでも、それでも尚お昼を共にする事の方が回数で言えば多い。
…っと、突然何の話を聞かされたのかとお思いだろうが、ようやく結論を言うと、一緒にお弁当を食べる時には、各々の弁当の中身を交換し合うという定番にしてベタな事をしており、その時に特に人気があるのが、これは自分で言うのも馬鹿馬鹿らしいが私と、それに紫なのだった。
この二人に共通しているのは、私と紫だけが自分でお弁当を作ってきている事で、だからという理由でもないだろうが、他の皆が食べたがってくれるので、最近では二人共に、別に相談したわけでも無いのに、それぞれが予め先に事態を想定して多めに作る事も間間あり、当然この時に私も紫作のおかずを食べていたので、その腕は知っている…という意味での返事だった。

ニヤケながら言ったのが功を奏したのか、若干参り顔を見せつつも、笑顔は絶やさないままに紫は続けた。
「あはは…って、いや、そんな事はともかく、何ていうかなぁ…その…要はさ?自分たちで作った方が、お店で買うよりも安上がりじゃない?だったらさぁ…ただお店で買うのは元々何だか芸が無いし…うん、それならいっその事、私たちで作ってみない?って思いついたんだよ」
と言い終えると、紫はここでようやくというか、普段の調子を取り戻して、含み笑いを浮かべつつ付け加えた。
「勿論タダとは言わないよ。材料費はきちんと出すしさ?…どう、みんな?」
と最後は、私から他の皆へと顔を配りつつ問いかけた。
すると、他の三人は一旦お互いの顔を見合わせていたが、一言も言葉を交わしていないというのに、コクっと小さく頷き合うと、一斉に紫と私の方に顔を向けてきた。
「うんうん、凄く良い考えだと思う!」
とまず興奮した様子で麻里が口火を切った。
「そうだねぇー。…あはは、勿論、材料費くらいは喜んで出すよー」と呑気な間延び気味の口調で藤花が続く。
「いや、別に材料費くらいは構わな…」と私が口を挟もうとしたが、「ねっ、律ー?」と言う藤花の、よく通る声に遮られてしまった。
そのまま声をかけられた律はというと、「ふふ…うん、勿論」と、小声ながらもよく響く、宝塚の男役ばりのバリトン風な声で返しながら、私と紫を交互に眺めてきた。その顔には艶っぽい微笑が浮かんでいる。
そんな一気に場の空気が変わった事に、少しだが戸惑っている中、「ねぇ、皆もそう言ってる事だしさぁ?お願いだよ、お姫様ー」と紫が頭を恭しく大袈裟に頭を下げるのを見ると、「お姫様、おねがーい」と他の皆までが紫の真似をしてきた。律までもだ。
「ちょ、ちょ、ちょっとー?」
と私はアタフタしながら咄嗟に声をかけた。
「やめてよ、もーう…ふふ」
と、本日一番の苦笑を浮かべつつ言葉を漏らすと、四人はほぼ同時に顔を上げた。その顔は形状からして当たり前にそれぞれ違っていたのだが、しかしどれも意味ありげな笑みなのは同じだった。
そんな様子にますます溜め息が漏れる思いだったが、しかし何も返さないのも何だと、予定していた言葉を口にする事にした。
「…あーあー、紫を始めとする皆が私の事を、”お姫様”呼ばわり”さえしなければ”、素直に乗っかっても良かったのになぁ」
と澄まし顔で、所々を強調する様に語気を強めつつ、ツンとした態度を見せるために、顔は一同から逸らして斜め上の天井に向けながら言った。
すると、「もーう、紫ったら余計なことをしてー」と早速、まずは麻里が紫に愚痴っぽく声をかけた。
「そうだ、そうだー」と、藤花も麻里に乗っかった…ふふ、つもりなのだろうが、普段から慣れていないせいか、片腕を上げてデモでもする風ではあったが、顔は笑顔と何だかチグハグとなっていた。
「ふふふ…」と律は相変わらず二人の態度を微笑ましげに眺めるのみだ。
「えぇー、だってぇ…琴音ー、許してよぉー」
と紫は麻里の真似なのか、普段はあまりしない猫を被りつつ参った風な態度を取りながら、さっきと同じ様に拝む様に”平謝り”をして見せてきた。
だが、それを数秒ほどした後で不意に体勢を立て直すと、また再度麻里と藤花に顔を向き直して反撃に転じた。
「…って、あなた達だって、琴音のことを”姫”、”姫”だって言ってたじゃないのー」
「えぇー、だってぇ…ねぇ?」
「ねぇー」
そう言われた麻里と藤花は、顔を見合わせると、お互いに猫撫で声で言葉を揃えていた。

…ふふ、まったく、この子達ったら

と正直本心から呆れていたのだが、これももう日常茶飯事と嫌な慣れをしてしまっている私は、「はいはい、もうこれ以上不毛なやり取りは止めてねー」と、ここいらがキリが良いと見て止めに入った。
すると、これも毎度の事だが三人はすんなりと従い、それまでしていたやり取りをピタッと止めた。
この妙に従順な態度を毎回見せられるせいで、ここ最近特に思う事だがやはり自分は”チョロいな”と思いつつ、その余りについつい自嘲気味な笑みを浮かべてしまいながらも口を開いた。
「…ふふ、というか、そもそもさっきも言ったでしょう?別に反対だなんてとは言ってないわよ。私もね…」
と、私はここで紫に顔を向けると、見るからに腹に一物がありそうな気配を滲ませた、そんな笑みを浮かべつつ続けて言った。
「うん、あなたの提案を聞いた瞬間に、良い案だなって思っていたのよ。…シャクだけど」
と言い終えるのと同時にニカっとわざと無邪気さを意識しつつ笑った。
すると、「…ふふ、ちょっとー?シャクとは何よシャクとは?」と紫は直ぐ様ブー垂れてきたが、数瞬も保たずに途端に笑顔を見せていた。
「じゃあ…」
と、ここで不意に麻里がこちらの顔色を伺う様に言葉を漏らしたのが聞こえたので、私はその方向へと顔を向けると、「えぇ」と短く返しながら、一度小さく微笑んで見せた。
それから一度皆の顔を眺めまわすと、最後に今一度時計を確認してから顔をまた元の位置に戻し、今度は自然な笑みを浮かべつつ続けて言った。
「じゃあ、いつまでも喋ってても始まらないし…ふふ、お菓子作りでも始めますか!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み