第13話 お披露目会

文字数 27,979文字

こう言っては誤解があるのだろうが、良かれと思っておじけずに続ければ、例年と変わらない流れで花火が打ち上げられていくので、これだけ聞けば、特に地元民は飽きてもおかしく無いだろうと思われそうだが、しかし実際は、私含む地元民は揃って、自分で言うのも変だが打ち上げられる花火一つ一つに目を輝かせて興奮しながら眺めていた。
私たちの中では、唯一地元民ではない紫たち学園組にしても、これは実際に感想を述べてくれたので素直に言えるが、初めてだというのもあって心から楽しんでくれた様だった。

花火はこれまた例年通りに一時間半程で終わったのだが、締め切りが迫っている原稿が残っている義一や、翌日も日舞関連で忙しい絵里だという話だったのに、私たちに付き合って暫くは、大会が終わった事でストロボライトが再び点灯されて、閃光に照らされた会場である土手に敷いたビニールシートに腰掛けて、それから一時間ばかり雑談を楽しむのだった。
周りを見渡すと、おそらくは遠方からの人が中心だろう、全体の半分ほどは会場を後にしていたが、しかし以前にもチラッと触れた様に、地元民や電車を気にしなくて良い身分の人々は、やはり私たちと同じ様に居残って、いつまでも名残惜しそうに余韻を楽しんでいた。
皆が皆それぞれが大体同じタイミングで満足すると、シートやゴミなどを片してから帰ると言う義一と絵里に対して、自分たちも手伝うと、私や裕美を筆頭に他の皆も後に続いてくれたが、
「あはは、良いって、良いって!後片付けは私たちでやっとくから、良い子は寄り道せずに帰りなさーい」
と、”仮免先生”らしく絵里がニヤケながら間延び気味に言うと、
「あはは、そうそう。大人の僕たちに任せて、君達は気をつけて帰りなねー?」
と、これまた用意周到に、家庭用の大きめなゴミ袋を広げながら、狐面を被った義一が続いたのだが、「えー?誰が大人だってー?」と、すかさず絵里に薄目がちに突っ込まれてしまっていた。
「私としちゃあ、図体ばかり大きい、聞き分けの悪い子供くらいにしか、ギーさん、あなたを認識した事は無いんだけどー?」
「おいおい、これでも一応君よりも、一歳とはいえ歳上なんだけれど」
「私が言ってんのは、実年齢じゃなくて精神年齢の方!」
と、澄まし顔で絵里は返していたが、自分で言ったセリフに自分でウケてしまったらしく、言い終えた直後に明るく笑い始めた。
それに釣られる様に…いや、その前から二人のやり取りを見て、私だけではなく裕美に始まる他の皆もクスクスと笑みを零していたのだが、最後の絵里の笑い声をきっかけに、それに続く様に私たちも朗らかに笑った。
そんな私たちの様子を見て、「やれやれ…」と口に出しつつも、その直後には義一も声は出さずとも一緒に笑っている…ふふ、うん、狐面をしているせいで分かりづらかったが、キチンと同じ様に笑いの輪に混じるのだった。

義一と絵里の好意に甘えて、私たちはそれぞれが二人と挨拶を交すと、私たちはゾロゾロと、行きよりかは空いた元来た道を歩き始めた。

一旦全員での待ち合わせ場所となった駅前に到着すると、二言三言お互いに言葉を交わしたが、またの再会を交わし合って、ヒロ、朋子、千華、翔悟とも皆と別れた後は、当初の予定通りに後は真っ直ぐに私の家へと”戻って行った”。
家に着くと、既に帰宅していたお母さんが出迎えてくれた。既に浴衣は脱いでおり、普段通りな私服姿だ。
そんな普通の格好だというのに、これまた麻里が妙に興奮した様子で、「和服姿も素敵でしたけど、普段着も素敵です」と、何だか私からすると妙にして強引な褒め言葉にしか聞こえなかったが、「あら、ありがとー」とお母さんは、大袈裟に照れてる風に、片方の頬に片手を当てながら高い声で答えていた。
これには娘の私は苦笑いの他に無かったが、これに便乗した裕美まで含む他の皆までが、そんな余計なやりとりを延長したのは、まぁ…うん、言うまでもない…かな?
ふふ…って、それはさておいて、それからは居間に置いていた各々のお泊まり道具を、一旦私の自室へと運び入れると、それからまずお母さんの趣味部屋へと私以外の皆が迎えられた。何故かというと、そこでお母さんの指導の元、浴衣の綺麗な畳み方を教わるためだ。
あまり出鱈目にしまうと、もちろんシワが出来るというのが一番のネックなのだが、一般的な女子中学生からすると、それよりも荷物が嵩張らない方法として、お母さんから喜んで指導を受けてる様で、お母さんから聞かれるままに、勿論今日の花火大会の感想を口にしながらだった。
本来なら、お母さんのホスピタリティー精神で、全員分の浴衣を洗濯してあげたかったらしいが、明日までに乾く保証が無いと言うので、それについてお母さんは軽くとは言え謝罪の言葉をかけると、それに恐縮してしまった五人は、それぞれの方法で気にしないで下さいと慌てつつ返す…のが、着替え終えて趣味部屋に入った私が見た光景だった。
それからは順々にお風呂を借りて行き、過去に主に紫のマンションでのお泊まり会で見慣れてしまった寝巻きに各々が着替えると、歯磨きなどの寝支度を済ませて、趣味部屋で後片付けをしていたお母さんに対して、改めて挨拶を済ませると、皆で私の部屋へと向かった。
裕美達がお母さんに浴衣のたたみ方指導を受けている間に、私が敷布団を敷いていたので、腰を手術したばかりの裕美はベッドに寝て貰い、私含む他の五人は下で寝る事となった。修学旅行風に顔を向かい合わせてだ。
勿論というか、裕美の性格からして当然、ベッドを独占して悪いと言ってきたが、「病人は大人しく、ホステスの私に従いなさい?」と私が戯けつつ返すと、裕美は二言ばかり言い返してきたが、しかしすぐに笑顔でお礼を言いつつ納得した。
それからは、ベッドに横たわる裕美を交えて雑談タイムとなった。時刻はこの時点で11時近かった。
勿論話題は花火の感想に終始していたのだが、しかし途中からは、
『義一は話で聞いているよりも輪をかけて変わっている。狐面で現れた初登場の印象が強烈だった』
と何故か私がからかわれ、しかしそれを何とかやり過ごすと、もう矛先をこちらに来ない様にという意図の元、
「お互いに浴衣姿だった裕美とヒロについて、皆はどう思った?」
と唐突に、途中でチラチラとベッドの方へ視線を流しつつ、目付きだけではなく口調まで意味あり気に口にすると、「ちょ、ちょっと…」と油断していた裕美は慌てて口を挟もうとしたが、これまた腰のために勢いが付かずに、ゆっくりと起き上がった頃には、私を中心に話は盛り上がりを見せていた。
…とまぁ、そんな訳なのだが、ここでは詳細は省かせて頂こう。その当事者にして実際に楽しんだ私が言うのもなんだし、同じく楽しんでいたはずの皆に対しては悪いかもだが、しかし結局は普段とさほど変わらない中身だったからだ。
それでもまぁせっかくなので簡単に触れると、
「浴衣見て貰えて良かったわね?裕美?」
と私が口火を切ると、裕美がツッコミを入れてくる前に四人が一斉に同調してきた。
それからは、裕美には悪いが怪我前の俊敏さを見せれない事を良い事に、今さっき触れた通り、それぞれが矢継ぎ早に好き勝手な感想を述べ始めた。
そんな私たちの言葉に対してアタフタと一応一つ一つ丁寧にツッコミを入れていた裕美だったが、
「そういえば…えへへ、森田君との二人っきりの写真を撮ってあげなくてゴメンねー?」
と言う麻里の言葉が決定打になった様で、最終的に私がこの時期に愛用している夏用の薄めな布団を頭から被って顔を隠していた。
「あはは、からかってゴメンってばぁ」
と、一応謝罪の言葉ながら、顔だけではなく声のトーンにも反省の色が一切見えない言葉を各々が掛けると、ヒョコッと布団から頭を出した裕美は不満気に目を細めていたが、しかし最終的には苦笑交じりに許してくれた。

その後は、それなりに皆疲れていたというので、とはいっても全員が寝たのは日付が変わるくらいだったが、翌日になると、ようやくと言うか、全員が揃っての地元案内へと繰り出す事になった。
…あ、いや、実際はそんな予定通りには進まなかった。
というのは、朝食はお母さんが作ってくれたのを皆で食べたのだが、私の中ではそのまま荷物は自室に置いてもらって家を出るつもりだったのに、藤花が私の練習部屋を見たいと言い出したのだ。
まぁでも、これは前日にもリクエストがあった事もあり、「私は構わないのだけれど…皆は良いの?」
と私が了承しつつ他の皆に聞くと、それぞれが間髪入れずに寧ろ見てみたいと言ってくれたので、朝食直後と言って良い流れで直接練習部屋へと向かった。
私の自室やお母さんの稽古部屋と同じく十畳程の広さがある、元はお爺ちゃんがピアノを保管する為だけに両親に頼んで作らせた、防音完備の練習部屋は、これまた今までに機会が無く触れられなかったので、これをチャンスと少し紹介がてら話を進めてみると、奥行きが2メートル以上あり、幅も150センチと少し、という大きさのグランドピアノ ベヒシュタインが鎮座していたが、私以外の五人が入室しても息苦しさは、少なくとも私自身は感じなかった。
入室した途端に、「おー」だとか「へぇー」の様な声を漏らしつつ、この中では言うまでもないが藤花が細部に渡って興味深げに室内を見渡すのを筆頭に、裕美まで含む他の皆もあちこちを眺めていた。
裕美も幾度となくこの家に訪れたことがあり、それこそ自室だけではなく今いる部屋にも何度か足を踏み入れた事があったはずなのだが、しかし毎回の様に初めて来たかの様な態度を見せるのだった。
さて、皆から飛んでくる質問に対処し終えると、やはりというか思った通りというか、この手の流れにはありがちな、「何か弾いて見せてくれない?」という話になった。
「えぇー…」と最初は渋って見せた私だったが、考えてみたら裕美も含む皆の前でピアノを弾くのは、例のコンクールと、学園祭の後夜祭が最後だったのを覚えていたので、もしも頼まれるのなら吝かでは無い程度には乗り気だった。
それに、この場にはコンクールは致し方なく観に来れなかった麻里もいるというので、せっかくならと、私なんかで良いならと自分にしては珍しくサービス精神を発揮して、「仕方ないなぁ…まぁ良いわ」と、最後の最後まで表向きは渋りつつ、簡単な両腕両手首のストレッチ、ついでに上体全体にかけてのストレッチをすると椅子に座った。
…ふふ、藤花は何度も私がピアノを弾く前のルーティンは見たことがあったので、疑問には思わなかったが、裕美以外の他の皆は考えてみたら見るのが初めてだというので、スポーツ選手さながら、そんな準備運動まがいの行動に対して、軽い驚きと共に好奇の視線を飛ばしてくるのを背中に感じつつ、蓋を開けた私は、一度立ち上がって仰々しくお辞儀して見せた。
すると皆が冷やかしに近い言葉を口々にしながらも拍手をしてくれたので、それに対しては苦笑で返すと、また椅子に座り直し、最後に脱力を意識するために一度両手をプラプラしてから、思いつくままに曲を弾き始めた。

この間は大体三十分程だったが、「…っと、こんなもので良いかしら?」と、最後の一音を鳴らし終えて、椅子に座ったままクルッと後ろを振り返ると、皆が一斉に笑顔と共に拍手をくれた。
これはまぁ…ふふ、どっかの誰かさんの影響のせいか、それとも元々の性格なせいか、捻くれてる性分ゆえに本音か建前か判断がつき兼ねていたので、初めのうちはぎこちなく笑い返していたのだが、しかし藤花を始めとする皆から言葉を貰うと、徐々に素直な自然体な笑顔でお礼の言葉を返したのだった。

さて、これが終わるとようやく本日のメインイベントである地元案内へと移って行った。
だがまぁ正直…うん、これは花火大会の前日に皆とSNS上で打ち合わせした中で出た話題だったが、いくら手術で歩ける様になったとはいえ、まだ本調子では無いし、長い事歩くのはどうかと私たちは心配したのだが、
「長いって言ったって、別に地元を歩くだけだし大丈夫だよ」
と裕美は言ってくれた。
だがまぁ…ふふ、当人には”前科”があるので、私含む皆が中々受け入れずにいると、
「あはは…う、うん、”今度は”しっかりと本当にキツかったら言うから…信じて?」
と言うのを聞いて、ようやく私たちは納得したという経緯があった。
とはいえ、住人である私が言うのも何だが、その分説得力があるだろうから敢えて続ければ、一応都内とは言え県境にある地区であり、周囲の県と何ら変わりがなく、駅前は栄えているが数分歩くと閑静な住宅地ばかりだというので、正直案内する所は数少なく、まずは道順的に私と裕美がよく立ち寄る小さいながらも幹の太い桜が何本も植ってある公園や、二人で通っていた駅近くにある小学校、裕美の所属するスイミングクラブなどと行ったが、それ以外に特に行く場所を思い付けなかった私と裕美は、結局は駅前に一度立ち寄り、近くにあるショッピングモールへと立ち寄って、これまた私たち御用達の喫茶店へと入って時間を潰していた。
…いや、今さっきに『私と裕美は、他に案内する場所を思い付けなかった』と述べたばかりだが、実は私個人で言うと厳密には違っていた。
そう、時間を潰すための立ち寄る場所が思い付けなかっただけなのだ。
裕美はともかく、私はそれで仕方なく喫茶店に入る事を許容したのだが、そろそろ頃合いになると、
「…さてと。最後の最後に一箇所だけ案内してあげる」
と皆に声を掛けて、裕美含む一同が不思議がるのをそのままに、全員を引き連れて店を出て、そしてそのままモールも後にした。

「一箇所って、どこにみんなを連れてく気なの?」
と、先頭を歩いていた私に、隣を歩いていた裕美が聞いてきたが、「ふふふ、着いてからのお楽しみ」と、普段はあまりしないのだが、キャラに似合わず可愛いこぶって返すと、「一体、何を企んでるのぉ?」と、こちらの思惑通りに具合悪そうな顔つきをわざとらしく大袈裟にしながら、まるで寒気があるかの様に自分の両腕を摩って見せたので、それには答えずに今度は明るく笑い飛ばしておいた。
だが…ふふ、流石に地元民というのもあって、その道順からすぐに、私の目指す目的地を察したらしいが、そのまた目的まで気付いたらしい裕美は、「アンタ、まさか…」と恨みがまし気な目つきで言うので、私はとびきりの笑顔を浮かべながら返した。
「ふふ、多分その”まさか”よ」

それからは、裕美から何か言われそうなのを交わしながら、後ろからついて来る皆の会話に混ざったりしていると、目的地に到着した。土手だ。
…ふふ、そう。私が目指した最終目的地はここなのだった。
さっき裕美を他所に後ろの皆と会話した旨を述べたが、それは昨日もここを歩いて土手まで歩いたから、その思い出話に花を咲かせていたのだ。
「あ、やっぱ土手目指してたんだね」
と紫が開口一番に口にすると、それぞれが似た様な言葉をかけてくるので、「えぇ、私と裕美は…ふふ、理由こそ違うけれど、でも二人揃ってここが好きな場所なのよ」と、含みに含みを持たせて答えていると、「アンタ、やっぱり…」と裕美が呆れ交じりに力無い笑顔を浮かべつつ声をかけてきた。
それに対してはただニコッと目を細めながら笑うのみに留めて、「じゃあせっかくだし、花火以外の様子を見てもらおうかな?」と、昨日と同じ上り道に入って行った。
「まったく…女子中学生が揃いも揃って、いくら行き場が無いからって運動するでもなく土手に来るなんて…」
と声は内容と共にグチっぽかったが、しかしそう言う皆の顔は明るい笑顔だった。
だが、そんな中でも裕美は苦笑しっぱなしだ。
当人には悪いが、そんな様子を愉快げに眺めながら、私たちは昨日ぶりにまた土手へと舞い戻った。
土手の頂上から辺りを見渡すと、昨日の今日だというのに、ほとんど普段通りの様相を取り戻していた。
勿論、大会組織委員会的な簡易テントがまだ撤収されずに置かれたままだったり、対岸に位置する花火を実際に打ち上げる場所あたりでは、今でも撤収作業が続けられたりしていたが、それ以外はたまにゴミが残っているのが見えるだけで、それも目立たないお陰で繰り返しになるが日常を取り戻していた。
と、上ってすぐ下には河川敷に幾つも設置してある野球グラウンドの一つがあるのだが、花火大会の翌日だというのに熱心に練習に励んでいるのが見えた。
それに目を向けていると、後から上ってきた紫たちが、アレだけ口先では愚痴を零していたというのに、その時から表情を変えないまま大きく深呼吸をし始めた。
正直そうしたくなる気持ちは分かる。というのも、やはり八月の炎天下の中を、それほど長い時間でも無いし、一度喫茶店で涼んだのもあって余裕はあったのだが、しかしそれでも暑いという感想には変わらず、私も土手に上がった次の瞬間に、自分を包み込む様に吹き渡っていく強めの風が、汗ばんだ肌に心地良く深呼吸をしたばかりだった。
「昼間だとこうなってるのかぁ。んー、気持ち良いねぇー」
と呑気な調子で藤花が大きく伸びをしつつ言うのを受けて、皆で揃って笑顔を浮かべつつ同意すると、「ちょっと下まで降りてみようか?」と言う私の提案に、紫たちはすぐに賛成してくれたので、ゾロゾロと河川敷へと降りて行った。その最中、裕美が渋い笑いを一人浮かべていたのは言うまでも無い。
さて、もうとっくのとうに、何しに土手に来たのか察せられていそうだが、そう、自分の憩いの場として大切な場所である土手を皆に紹介したいのが私の目的ではなく、その他にあった。
私は先陣を切って土手の斜面に沿って作られた歩道を降り切ると、そのまま真っ直ぐグランドのバックネット裏へと向かった。
このバックネット裏にはベンチが幾つか設置されており、そこには保護者なり関係者らしき姿が見えていたのだが、どんな人がいるのか確認する前に、グラウンドからの聞き覚えのあるヤンチャな掛け声に意識を奪われて、ついつい目をその方向に向けてしまった。
グラウンドでは、監督らしき人…って、私はこの人物が監督なのを”知っている”のだが、それはともかく、バッターボックスに立ちバットを肩に置いている彼に向かって、二、三塁間で声を飛ばすユニフォーム姿の野球少年が目に入った。帽子を目深に被っているので、普通なら誰かはすぐに分からないのだろうが、癪に障る事に瞬時に彼が誰だか分かってしまった。
…ふふ、そう、アヤツに対しては珍しく長めに勿体ぶったが、正体はそう、ヒロだった。
ヒロが声を飛ばすなり、監督がノックバットでボールを打つと、打球は三塁ベース近くのイヤらしい所へと飛んで行った。
捕球できるかどうかのギリギリ具合なのが、素人目の私からでも分かったが、無理そうだと思ったその時、バックハンドで何とか追いついたヒロは、走り込んで来た勢いを瞬時に止めたかと思うと、すぐさま素早い勢いで一塁手に向けて矢の様な送球をした。
それを見て思わず「おー」と我知らずに私は声を漏らしてしまったのだが、どうやら私の反応は間違っていなかったらしく、他のバックネット裏にいた関係者なり、またグラウンドに立つヒロの周りの選手たちなり、加えて監督までもが「ナイスプレー!」と声をかけているのが聞こえた。
と、そんな皆の反応を見て、これまた思わず自然と微笑を零してしまったのだが、それを自覚した次の瞬間、何故か妙に凄く恥ずかしくなってしまった私は、一人顔が火照るのを覚えてしまっていた。
そんな自分に対して、原因が不明な故に若干混乱しつつ、何とか素早く自然体の顔つきを意識して作っていると、「おー」と声を漏らしながら私の真横に立つ人物がいた。
…ふふ、私もてっきり初めは裕美かと思っていたのだが、実際に隣に立ったのは律だった。
運動バカの律らしく、普段のアンニュイな、物憂げな品良く薄目がちの様子とは違い、目をキラキラさせながらグラウンドを眺めているのが横からでも分かった。
と、視線に気付いたらしい律は私に目を向けると、ほんの少しだけ見つめ合った後は、それほど表情に出ないながらも律調で照れて見せつつ口を開いた。
「あれって…森田君だよね?」
「ふふ、そうよ」
と私が微笑みつつ答えた次の瞬間、「あー、そうなんだー」と言いながら、わざと強引に私と律の間に藤花が割り込んで来た。
「じゃあこのチームって…」
と、二人と反対側から声が聞こえたので振り返ると、いつの間に着いていたのか、紫と麻里がすぐ脇に立っていた。
「森田君が所属してるって言う、地元のクラブチームなんだね?」
と紫が続けて聞くので、「えぇ、そうみたいね」と私は答えたが、ふと重要人物の姿が見えない事に気づいて周囲を見渡した。
だが、探すという程の労力もなく、その人物はすぐに見つけられた。
バックネットのすぐ側に立っていた私たちを、少し離れた後方から、裕美はこちらを苦笑いしながら一人眺めていた。
「裕美、ほらほら早くー」
と麻里が手招きをしながら声をかけたので、それに続こうと私も手招きした。
「ふふ、何でそんなところで突っ立ってるのよ?私には何の紹介なんか出来ないんだから、あなたが説明してくれないと困るじゃないの」
と、自分でも分かる程に意地悪げにニヤケつつ言うと、少し離れていたので息遣い自体は聞こえなかったのだが、見た目だけで溜息を吐いているのがアリアリと分かる様子を見せつつ、裕美はゆっくりとした足取りでこちらに近づいて来た。
「まったくアンタ達は…って、あ」
と、それまで不満げなイジケテる風の顔をしながらも、笑みを絶やさずにいたというのに、ふと横に顔を向けた次の瞬間、ハッとした顔つきになったかと思うと足も止めた。
その態度の変化に、思わず私たちは裕美の視線の先に目を向けたのだが、そこに見えた対象に対して私も声を漏らしてしまった。
今までヒロに気を取られてしまい気付かなかったが、少し離れたバックネットの金網に手をかけつつ立つ千華の姿があったからだ。
まぁ…うん、考えてみたら何の不思議もない。何故なら、裕美からや本人から聞いた話によると、小学生の頃から裕美と同じ様にこのクラブチームの試合を観戦したり、練習を見学に来ていたりと何度か聞いていたからだ。

千華の方でも『あっ』と言いたげに口を開けて、裕美と私たちの双方向を交互に眺めて来ていたが、その顔は…うん、これは私の彼女に対する印象と言う色眼鏡が掛かってしまっているのを自覚しつつ、それでも言えばあまり歓迎している様には見えなかった。
だが、そう見えながらも「あ、みんな来てたんだ」と千華がカワイイ風な笑顔で先に声をかけて来たので、「うん、千華ちゃんも来てたんだ」と、私や裕美に先行して他の皆が近づいて行った。
「うん、私は大体練習を見に来ているよ。うちの部の副部長が所属しているしね」
と、千華はあくまで事務的な口調で、チラッとまだノック練習をしているグラウンドに目を向けながら行った。
「あ、そっかー。中学の野球部で、千華ちゃんはマネージャーなんだもんね」
と、そんな千華の言葉に納得したらしい藤花が相槌を打つと、それに続く様に他の皆も同様の反応を示していた。
それからは改めて、私や裕美を始めとする皆で昨日ぶりの再会の挨拶をすると、千華も人懐っこい男受けしそうな態度で返してくれた。
そのまま練習風景を眺めつつ、このクラブチームもとい、ヒロについての雑談へと入っていった。
学園の皆からの質問に答える形となったのだが、質問される毎に、初めは可愛らしい笑顔の中にも渋い色をほんのりと滲ませていたというのに、これまた分かりやすく徐々にイキイキと千華は答えていた。
それらは、私や裕美にしたら全て知っている情報だったので、まぁ…うん、シャクだけれど、さっき思わず反応してしまった事もあるし、それに関してだけ触れようと思う。
以前にも少し触れたかも知れない…うん、覚えていないのだが、それはともかく、ヒロは中学の部活では部長である翔悟を支える副部長という立場にいたのだが、このクラブではキャプテンを務めており、これがまた認めたくないが、見たままの事実を述べれば、練習にも周りと比べて一番熱心に見えたし、声も一番大きく、そしてそんなヒロに対して他のチームメイトが信頼している様子が随所で垣間見れて、んー…うん、それらを含めて中々にサマになっていると素直に思った。

…って、そんな私の感想はどうでも良い。ここでついでと補足を入れると、因みにまだ裕美と千華、そしてヒロの三人の間に生じている、ヒロだけはどうやら気付いていない関係性に関しては、まだ皆には話していなかった。
別に裕美に頼まれてはいなかったが、当人にとってある意味一番デリケートな問題である事は私なりに知っていたつもりなので、本人が言うまでは言わずに置こうというスタンスを保ち続けていた。

なので、修学旅行での裕美の”告白”を聞いてからというものの、からかい半分ながらも、それなりに真面目にヒロとの事を応援しようという立場である皆であったから、もし知っていたら複雑な想いのままに話を聞く羽目となっていた事だろうが、実際には何も知らない紫たちは、ただ単純に素直に千華からの話を面白く聞いており、んー…ふふ、当初の予定は、裕美をからかう為にヒロが練習しているグラウンドに来たと言うのが第一目標にして、途中から恐らく他の皆も何も言わずとも私の意図を理解して同調してくれていたはずだったが、千華という、思わぬというか見落としていた人物が目の前に現れたために、こうして結局は、ただ普通にヒロの練習風景を眺めることで終わったのだった。

それから数日後、私はお盆休みを利用して、冬休みに引き続きお父さんの都合が合わなかったというので、お母さんと二人で欧州各国を巡る周遊旅行へと旅立った。
お父さんが一緒に来れなかったのは…うん、残念といえば残念だったが、しかしそのお陰というか、今回も旅行の途中で招待されるままに、フランスはプロヴァンにある京子の家にお邪魔する事となった。
その前に休暇前の仕事納めとして、パリ中心部であるシテ島にあるゴシック建築の教会堂がコンサート会場だと言うので、それに何とか間に合った私たち親子は、京子のピアノ演奏を存分に味わった。
考えてみたら、それこそ小学生の頃から師匠に勧められるままに散々京子の演奏をDVDなりで視聴してきたのだが、生演奏を聴くのは今回が初めてだというので、感動も一入だった。
私服姿しか見たことが無かったので、そのドレスアップした姿も効果を倍増させてくれており、場所が場所なだけに宗教色強めの選曲だったが、それはむしろ私の好みでもあったので、それを京子が弾いてくれるのがとても嬉しく最後まで楽しんだ。
その日の晩は打ち上げにまで私たち二人を招待してくれた。
「ほらみんな、この子が前々から話していた、あの君塚沙恵の唯一の弟子よ」
と京子が、その場にいた自分に近しい皆に対して紹介してくれた。
「あはは。私は沙恵と同じで、空気を敢えて読まないから業界内でも鼻つまみ者なんだけれど、同じ業界人でも彼らは数少ない、気安く付き合える連中なの」
といった感じでだ。
さて、京子に紹介してもらってからというものの…ふふ、勿論フランス語だったから、実際に何を言っているのかまでは分からなかったが、しかし通訳をかって出てくれた京子を介して聞く限りでは、その君塚沙恵の弟子という肩書きは大きな効能があったらしく、本来は京子が主役の打ち上げだったというのに、何だか途中からは私の周りを数名の男女が取り囲み、フランス語で捲し立てられるという状態が暫く続いた。
通訳してもらうまでは具体的には分からながらも、しかしその表情や口調などから好意を示してくれているのは肌でヒシヒシと感じて、私は私でこの場を楽しんでいた。
我ながら妙にテンションが上がってしまっていたのだろう、その会場に一台のグランドピアノがあるというので、良ければ一曲弾いてくれとせがまれてしまったのだが、流石にプロの、それも京子が認める様な面子の前で弾くのには抵抗があり、初めは遠慮しつつも、しかしあまりにもグイグイと来られたので、根負けした私は約束通り一曲だけだと弾いて見せた。
すると、気を遣ってくれたらしい場にいた皆から称賛の言葉を受けた私は、そのまま調子に乗って数曲ほどリクエストされるままに夜深くまで弾き続けて過ごした。
何だかんだというか、コンクールが終わってからは師匠とマンツーマンでのレッスンの日々を過ごしていた訳だったが、日本語とフランス語という言語の違いはあれど、同じ音楽が好きで日々研鑽を積んでいるという大きな共通項を持つ人々と一緒に過ごしたこの日の晩は、最高の思い出となった。

その翌日からオフだというので、京子にまたプロヴァンを案内して貰ったのだが、そのまた翌日には京子に連れられるままに、世界的に有名な保養地であるニースへと向かった。
これは正直打ち合わせ段階で聞いていなかったのだが、『あ、水着を持っていたら、持って来てねー』と頼まれるままに、素直に従った私はしっかりと水着を持参しており、

なるほど…こういう事だったのか

と、このサプライズに対して驚きよりも妙に納得しつつ、浜辺に置いたパラソルの下で荷物番をするお母さんに見守られる中、まるで同年代かというくらいにハシャグ京子と一緒に海に入ったりして過ごした。
因みにというか、前回の時にも触れ忘れたので、この場を借りて話そう。
それは、何故師匠がこの場にいないのかという事だ。…いや、何故って事も無いだろうが、まぁいてもおかしくは無い、いやむしろ自然だと思われるだろうからだ。
まぁこれには勿論理由があった。前回と似た様な理由だ。
というのは、本編で触れた様に、師匠は京子や、私が出たコンクールの審査委員長にして、都内にある有名な交響楽団の首席指揮者を務めている斎藤さんから、現役に復帰しないかと提案されて、今だに乗り気というか踏ん切りが付かない様子の師匠ではあるが、しかしまぁこの二人の期待を無碍には出来ないと、恐らくその義理の気持ちが動機だろう、それなりに準備を進めていたために、気付けば飛行機のチケットが買えずに冬休みの時は行けず、今は早くて今月末、予定では来月か再来月に予定している復帰コンサートに向けての、準備と言う名の打ち合わせを斎藤さんとするというので、今回は辞退したという経緯があった。
ここでまた因みにな話だが、京子と初めて知り合ってから色々と二人が話してくれるのには、前回と今回が珍しく、普段は長期休みになると、師匠は京子の元に訪れて一週間ばかりお世話になってきた様だった。
「普段からいきなり日本に帰ってきては、ウチに泊まって行くんだし、まぁそれくらいはしてくれないとね?」
と冗談交じりに師匠が言っていたのを思い出すたびに、私個人としては毎回自然と微笑んでしまうのだった。
…とまぁ、師匠と同じく弟子の私も持て成してくれた京子に空港で見送られながら帰国して数日経つと、いよいよ絵里の師範になった記念のお披露目会の当日となった。



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いよいよ絵里にとっての本番当日。正午を過ぎた辺りに、日傘を差した私と裕美は目黒を歩いていた。
そう、流派の家元にして絵里の実父が教室を開いている地域だ。
その教室の生徒であるお母さんは、私たちよりも一足先に出発していたので、今この様に二人で地図を見ながら会場へと向かっていた。
その道中、「言われた通りに、こんな格好で来たけど、本当にこんなので良いの?」と裕美が、今日何度目になるかという質問をしてきたので、一応姿を見渡した私は「えぇ。私だって、今のあなたと変わらない格好をしているでしょ?そんなに心配しないでよ」と苦笑交じりに返した。

因みに二人ともにロング丈なワンピースだったが、私は黒のノースリーブワンピースに、今は持参のカバンに仕舞ってあるがショート丈の白ブラウスという合わせればモノトーンな組み合わせで、裕美はクシュっとした生地感の白無地袖無しワンピースに、私と同じく今は身に付けていないが柔らかい色合いの黄色いカーディガンを持参していた。やはり腰回りは、コルセットをしているというのもあって、ややボリューミーとなっている。

「アンタはお嬢様らしく、何を着てもサマになってるから良いけど、私はどうかなぁ」
と別にニヤける事もなく、自然にそう口にしながら自分の姿を眺め渡す裕美を見て、
「ちょっとー、お嬢様って言わないでよぉ…ふふ、別にあなたと変わらないわよ私は」
と思わず苦笑を漏らしながら、私も途中から自分の姿を眺めつつ言うと、
「何の励ましにもなってないんだよなぁ。本当にわざとじゃなく自覚が無いのが困るわ」
と、今度はハッキリとニヤケながら裕美は返してきたので、
「どういう意味よー」
と私が思いっきり目を細めつつ返すという、小学生以来何度も飽くなく繰り返されてきたやり取りを交わしていると、炎天下の中だというのに暑さもそれ程には感じず、また時間的にもあっという間に会場に到着した。

今回絵里のお披露目会の会場となるホールは、元は大学があった跡地に建てられたもので、敷地内には緑が多く、同敷地内には図書館なり美術館なりがあるなど、私の知る上野の雰囲気と似ていた。
この会場は、元々絵里の属する流派が長年発表会に使ってきたホールだったと、絵里やお母さんが行く打ち合わせ段階で教えてくれた。
そんな絵里たちにとって縁の深い敷地内を歩いて行くと、広々とした芝生の広場に出たのと同時に、目の前に前面ガラス張りのホールが見えた。
少しばかり規模というか大きさが違っていたが、私がコンクールの本選を弾きに行ったホールと見た目が似通っており、それは同じく観戦に来てくれた裕美も同様の感想をくれた。
…っと、それはともかく、絵里やお母さんが教えてくれた会場で間違いないはずなのだが、ただ正面玄関の前まで来ても、”らしき人々”の姿が見えなかったので、少し不安を覚えつつも建物内部へと入って行った。
しかし、中に入るとロビーと言うのか、どちらかと言うと劇場やホールなどにありがちな、シンプルながらも白い大理石調の壁と床という綺麗な、入口から観客席までの広い通路という意味の『ホワイエ』エリアには、和服姿の一団がチラホラとバラけて立ち話しているのが見えたので、ホッとしたのも束の間、「あら、来たわねー」と耳慣れた声色で声をかけられた。
顔を向けると、そこには和服をビシッと身に付けたお母さんが、微笑みつつ胸の前で小さく手招きしているのが見えたので、私たちは早速近寄って行った。
…のだが、近付いて漸く、お母さんの側に立つ人の顔に見覚えがあるあまりに思わず「あっ」と声を漏らしてしまった。
というのも、お母さんの側には同様に和服を着込んだ有希と、清潔感のある黒のワンピースに白のボレロを羽織った眼鏡姿の百合子が立っていたからだった。

因みに今日のお母さんが着ている着物は、灰みがかったミントグリーンの絽の色無地だ。さらりとした地風に、すっきりとしたお色目が涼やかな表情の品で、装いを品良く引き立てていた。その上に、オフホワイトの地に、菊や牡丹、萩など四季の花々の丸文を配した夏袋帯をしていて、さっくりとした透け感のある地に、明るく穏やかな煌めきの金糸をふんだんに用いて表現された意匠が控え目な派手さで気品が豊かであり、全体として、んー…ふふ、やはりこう見えてもまだ思春期真っ盛りな故に褒めるにも照れるのだが、我が母親ながら似合い”過ぎていた”。
ついでと言っては本人に悪いが、これがお初見えにしてとてもお似合いだったのもあり、せっかくなので有希にも触れよう。有希は、まろやかなイエローベージュ地に、桐竹鳳凰の地紋が浮かび上がる単衣の色無地だった。明るく朗らかなお色目は、まさに有希の朗らかな顔つきなりキャラクターにぴったりだと私個人としては感想を覚えた。また、紫色や沈んだピンク色、ブルーなどシックな彩りを加えた琳派風の大らかな流水文様を織り出した夏袋帯をしており、銀糸の輝きやさっくりとした透け感のコントラストが目に涼やかだった。
普段は私やお母さんよりも長い真ん中分けの髪の毛を、今日は着物に合わせて綺麗に頭の上で纏めていた。

「あ、二人とも、もう来てたんだ」
と私が声を掛けると、「ふふ、まぁね」と百合子が真っ先に品の良い程々な色気ある物憂げ具合で返してくれたのだが、「うん、勿論よ」と隣に立つ有希が元気いっぱいに言う言葉にかき消されてしまった。
そんな有希に対して百合子は苦笑いを浮かべつつ、何か言いたげな表情を向けていたが、それには気付かないフリ…ふふ、うん、フリだろう、有希は百合子を敢えて無視しながら続けて言った。
「だって…あはは、私も”瑠美さん”と同じ門下生なんだからね」

そう、既に以前に触れているが、有希はお母さんが通う流派の家元である絵里のお父さんに、今年に入ってくらいから門下生となっていた。
例の観劇をきっかけに、絵里と再会を果たしてから暫くしてだ。そして当然と言えば当然だが、同じ門下生というので、お母さんと知り合い、そして仲が良くなるまで時間はそう掛からなかったようで、今ではこの通り、私の知らないところで下の名前で呼び合う仲となっていた。

「ふふ、そうでしたね」
と、この事実も事前に知っていた私は、そんな風な態度を取る有希に対しては驚きもなく自然体で返した。
と、その直後、私は改めて一度有希の姿を眺めると、ニヤケつつ続けて言った。
「話には聞いてましたけれど…ふふ、でも着物姿を見るまでは、正直信じていませんでしたよ」
「えー?何で信じていなかったのよー?」
と私の言葉に、一気に不機嫌風に拗ねて見せた有希だったが、「まったく…ふふ、絵里と同じで生意気な後輩なんだから」と自分で始めたにも関わらず、その態度を継続させる事が出来ずに吹き出すと、そのまま明るく笑うので、私も一緒になって笑った。
そんな私たち二人を眺めていた裕美、お母さん、そして百合子も一緒になって微笑んでいたが、それも収まり始めると、今度は自分の番と裕美が有希と百合子に挨拶を始めた。
裕美の入院見舞いにも来ていた二人だったので、当然挨拶もそこそこに腰の具合についての話題となっていた。
それに対しては恐縮のあまりに苦笑しながら事の経緯を裕美が簡潔に説明しているのを、何となく私は眺めていたのだが、この時は同時に、お母さんにも視線を流していた。
というのは、私に取って今日この日の中で第一関門が”ここ”、百合子とお母さんが顔を合わせる事だったからだ。
何しろ百合子は、今では義一が編集長となっているオーソドックスのメインメンバーの一人であり、それ故に義一とかなり近い人物であるというので、ついつい二人が一緒にいるというだけで意識を取られて緊張してしまうのだ。
だがまぁ、勿論というか、百合子には悪いが事前に口裏は合わせてもらっていた。
それを律儀に守ってくれたらしい事は、挨拶の後での雑談で知れる事となった。
「ついさっきね、百合子さんとは自己紹介を終えたの」
とお母さんは百合子に顔を向けつつ言った。
「でも…ふふ、私ったら初対面から失礼をしてしまったわ。何せ…うん、女優さんだと有希さんが紹介してくれたんだけれど、私はその…ふふ、その手の事には疎いせいで存じ上げていなかったものだから」
とお母さんがバツが悪そうに言うと、百合子も有希も、キャラが正反対なので仕方なく方法は真逆だったが、しかし二人ともに愉快そうに笑う点では同じだった。
「あはは、仕方ないですよ」
と有希は、隣で口元に手を当ててクスクス笑う百合子を尻目に笑顔で続ける。
「私もそうですけど、百合子さんもテレビドラマや映画に最後に出たのは十年近く前の事ですし、それ以降は舞台一本ですもん。…ね、百合子さん?」
「え?…ふふ、そうですよ。先ほども言いましたが、むしろ私の事を知っていると言う人がいたら、それに驚いてしまいますよ」
と百合子があどけない少女風に言うと、「ごめんなさいね?」と、そう言われてもという所だろう、お母さんはやはり居心地が悪そうに笑っていた。
と、それを誤魔化すように、お母さんは今度は薄目を使って不満げな表情をこちらに向けてきた。
「まったくこの子ったら…ふふ、有希さんもそうだけれど、百合子さんの事も教えてくれないんだから」
と溜息交じりに言うのを、私は一旦乾いた笑いで誤魔化そうかと思ったのだが、
「だって…ふふ、別に聞かれなかったしね?」
と不意に思い付きで悪戯っぽく笑いながら応えた。
「あのねぇ…そもそも何も知らなかったら、質問しようもないでしょうに…ふふ」
と、お母さんが呆れ笑いを漏らしながら突っ込んできたが、それにはただ笑顔を見せるのみに留めた。

この後でまだまだ雑談は続いたが、そこから推測するに、百合子はどうやら絵里のマンションに裕美を含めて集まって、色々と女子トークをしている以外の事は話していないようだった。
勿論質問されたら、それなりに答えを用意していたのだろうが、絵里さんや、それに…うん、自分で言うのも何だが、それなりに実の娘である私のことを信用してくれていて、その私が懇意にしている相手だというので、それ以上の詮索はしなかったようで、結局この時点でお母さんが知るのは、私たち”ladies day”の存在くらいに留まっていた。

それに気づくのと同時に内心ホッとしながらも会話を楽しんでいると、「…瑠美さん?」と不意に背後から声を掛けられた。
その名前の主であるお母さんと共に私達一同も声の方向に顔を向けると、そこには見知らぬ年配の女性がすぐ側に立っていた。
彼女もこの場にいる大勢の女性たちと同じように和服を着ていたのだが、その年齢にしては背筋がシャンとした立ち姿に目が最初いきつつも、すぐにその顔に何処となく見覚えのある気配を感じた。
と、時を少し遅くして察した時には、お母さんが女性に声を掛ける所だった。
「あら、先生。どうかなさったんですか?」
「先生…」
と、思わずお母さんの後に続いて声を発してしまうと、それに気づいた女性はクルッと私の方に顔を向けた。
それから少しばかり興味深そうに真顔で私の姿を眺めまわしてきたが、コクっと納得した風に頷くと、急にほんわかとした顔つきになり、お母さんに話しかけた。
「…ふふ、この子が瑠美さん、あなたの一人娘だって言う娘ですね?あなたによく似て、この歳で立ち姿もしっかりしているわ」
「えぇ、その通りです」
と微笑みつつ答えるお母さんを横目に見ながら「えぇっと…」と私が不意打ちに近い褒め言葉に戸惑いつつも、何だか所在無い声を漏らしていると、女性はこちらに小さく微笑んだ後で口を開いた。
「…ふふ、自己紹介がまだでしたね?私はこの度、師範となった絵里の母であります、山瀬芙美と言います。娘がいつもお世話になっていますね?」
「あ、い、いえいえ」
と私は慌てて訂正を入れようとした。その顔からすぐに察せられたが、彼女はやはり思った通りに絵里のお母さんだった。年齢不詳な童顔具合も娘と瓜二つだ。

因みに絵里のお母さんは、私にとって今回が初見では無い。以前にも絵里が自分が師範試験に合格した旨を話してくれた流れで見せてくれた、試験当日の写真に写っているのを見ていたからだ。

さて、せっかく自己紹介をされたというので私、それに続いて他の皆も名前などの素性を晒すと、
「ふふ、今日は娘のために来て下さってありがとうございます」
と、絵里とそっくりな笑みを浮かべつつ返したその時、芙美さんはふと何かに目が止まったかと思うと、「あなたー」と声をかけた。
その声の方向を見ると、そこにはやはり和服姿だが、トップに盛り上がりをつけているオールバックヘアーの男性が立っていた。
その顔には静かながらも威厳に満ちており、これが自然体なのだろうが口元は一見不機嫌そうなへの字形をしていた。”これまた以前に写真で見たそのままだった”。
絵里のお母さんに呼ばれた男性は、一度周囲を見渡してから、その少ない表情の中に照れ臭そうな笑みをほんのり滲ませつつ、こちらに近づいて来た。
と、後少しで到着するというところで、お母さんと有希が深めにお辞儀をしたので、私と裕美も釣られるように若干慌てつつ真似をした。恐らく百合子も、もう少しスマートにだろうが同じようにお辞儀をしたと思う。
「ふふ、ほらあなた、こちらが絵里の友人たちの…」
と、そんな態度を取った私達に微笑みを零した後で、絵里のお母さんが声を掛けると、「…あ、あぁ」と感慨深げな声が聞こえたので顔を上げた。
すると目の前には、初めに見た時よりも顔つきが緩んだ男性の姿がそこにあった。
男性は私達を流れるように眺めた後で、表情はそのままに静かに口を開いた。
「私は〇〇流家元、山瀬滋でございます。…ふふ、本来ならば、こちらにいます望月さんや澤村さん(因みに有希のこと)の様な生徒さんの前では、本名を出すのはあまりよろしく無いのですが…今回は、私どもの娘である絵里の為にお越しくださった御友人の前ですので、家元という立場よりもイチ父親として自己紹介させて頂きました。これからも、師範となった娘を宜しくお願いしますね?」

…とまぁ、随分と丁寧な挨拶をされてしまったので、普段からお淑やかで狼狽えることの少ない百合子からは何も感じなかったが、私や裕美はというと明から様に動揺してしまい、結果としてアタフタと自分たちからも自己紹介をした。
すると、娘と変わらない明るいサバサバとした笑顔で笑う絵里のお母さんと、その影に隠れるように静かに笑う絵里のお父さんから「どうぞよろしくね」と返されると、そこからは少しばかり雑談が始まった。
内容としては他愛の無い世間話だ。既にお二人ともに私と裕美、そして百合子の存在も知っていたというので、普段からどんな話を聞かされているのか教えてくれたり、その思い出話の延長で、絵里と有希の話にもなった。
「しっかしまさか…ふふ、入りたての頃からずっと言ってるけれど、まさか有希ちゃんがウチの門を叩く事になるとは思ってもみなかったわぁ」
とおばさんが意地悪げに笑いながら言うと、
「あはは。もーう、何度も言ってるじゃないですか?私は中学高校の頃からずっと、こちらで舞を習いたかったって」
と有希は大袈裟に拗ねるような素振りを見せながらも、しかし口元は思いっきり分かり易くニヤケながら返していた。

「絵里にも本来なら皆さんに、一言挨拶をさせたかったのですがね。今は本番前だというので、リハーサル室で最後の確認をしてるんですよ。なので、舞台が終わるまでご辛抱を」
と絵里のお父さんが言うので、「分かりました」と私達部外者の三人が答えると、自分達もその様子を見に行くというので、絵里の両親は中座するのを断ってから何処かへと消えて行ってしまった。
見えなくなるまで後ろ姿をなんとなく眺めていたのだが、その後ですぐに初めて会った絵里の両親について裕美や百合子と一緒に感想を言い合ったり、もう少しお母さんや有希から話を聞こうかと思っていた…のだが、その目的は達せられなかった。
というのも、家元達がいなくなったと見るや、それまで遠巻きにこちらを見ていた他の門下生たちに周囲を囲まれてしまい、次の瞬間には質問攻めにあってしまったからだ。
呆気に取られつつも応対しながら、話を聞く感じから察するに、どうやらお母さんや絵里から私…うん、特に私の話が出ていたらしく、それを証拠に質問に関しては私に集中していた。その取り囲んで来た人々の中には、お母さんにお呼ばれされた、自宅で何度か鉢合わせた顔も見えた。
質問にはお母さんが意気揚々と、本人を前にして答えているのを呆然としながら眺めているという私の状況を、少し離れた位置から裕美と百合子、そして有希が微笑ましげに眺めてきているのが視界の隅に入っていた。

…とまぁ、そんなこんなをして過ごしていたのだが、「あ、そろそろ私達も行きませんと」と誰かが声を発すると、「あら、そうですね」と他の一同が口々に返すなり、私達招待組に一声かけると場を離れ始めた。
「じゃあ私や有希さんも、開演する時は一緒にとは言えなくても同じ客席側で観れるんだけれど、これも前に話した通り、始まるまで少し準備の手伝いをしなくちゃいけないから離れるわね?琴音、裕美ちゃん、百合子さん達は私達に構わずに、開演まで楽に過ごしていてね?」
と、一人一人を眺めつつ声をかけると、お母さんは返事を待たずに人群の後を追い、「じゃあ楽しんでってねー」と有希はこちらに呑気な声で言いながら手を振りつつ、その後に続いて行ってしまった。
そんな二人に対して、残された私達三人は呆気に取られながらも各様に手を振り返していたのだが、姿が見えなくなるのと時を同じくして、不意に”ある事”を思い出した私は辺りを見渡し始めた。
…そう、これまで辛抱強く話を聞いてくださった方なら、この場に重要な人物がもう一人見えない事に、もうお気付きだろう。その人物とはもちろん義一のことだ。
さっきまでは関係者が多くいたのでよく見渡せなかったが、しかし今では捌けた後なので約半数の私服姿しか見えなくなっており、お母さんも側にいない事もあって今なら義一を見つけられやすいだろうし、ついでに二言三言くらいは話せるんじゃないかという算段が働いていた。
しかし、いくら見渡しても義一の姿は見えなかった。
180近い長身な上に全体的に体の線が細く、そして夏場だというのに不思議と…ふふ、これは私だからなのだろうが、全く暑苦しく感じさせない長髪という出立なのだから、この場にいたらすぐに気付けそうなものなのだが、繰り返し言えばやはり”らしい”姿は見えなかった。
一通り見渡した後で、側にいる百合子にそれとなしに質問してみたが、
「んー…キチンと観に来るって私も聞いていたんだけれど、でも…いつ来るのかまでは聞いていないわね」
との事だった。
それは私も事前に聞いていた通りだったので、特に驚きもなく、簡単に相槌を打って終わった。
因みに裕美も義一がお披露目会に来る事は知っていた。当然私が知らせたのだ。
その話をした時は怪我前だったのだが、
「確かに絵里さんの晴れ舞台だし、アンタが自分の叔父さんに来て欲しいと思うのは分かるけどね。…ふふ、絵里さんもああ言ってたけど、本心では嬉しいのは分かっているし。でも…万が一会場で、アンタの母さんと鉢合わせになったりしたら…」
と心配してくれた。
一応すでにもうバレてしまっても構わないといった心境である事は伝えていたのだが、裕美も絵里と同じように、当人である私以上に真剣に考えてくれていて、その気持ちだけでも嬉しく思いつつも、「えぇ、大丈夫だから」と微笑みつつ返したのだった。

とまぁ、そういった具合で過ごしていると、気付けば一時会場、一時半開始という予定通りの時刻となった。
他の人々とともに会場内に入ると、そこは典型的な劇場形式となっていた。定員は二百人といった程度な規模のホールだ。壁は温かみのある木を基調としており、閉鎖空間ながら息苦しさは感じなかった。
客席は後方の観客も見易いように階段状になっており、間を通る通路によって前と後ろで簡単に区切られていた。
舞台は黒の引き割り幕で閉ざされている。
私たち三人は、招待客用である後方の客席の最前列中央に仲良く並んで座った。
持ち物などの身の回りの整理を終えると、今いるホールと百合子たちの劇を観に行ったホールとの違いという思い出話を交わしていると、少しして約束通りにどこからかお母さん達が会場内に入って来た。
そして、こちらに気付くと有希と共に二人で笑顔で手を振った後で、前方の客席に二人並んで腰を下ろしたのが見えた。
その姿が見えた時、ふとまた確認したくなった私が周囲を見渡そうとした次の瞬間、徐々に客席側の照明が落とされたかと思うと、舞台幕がスルスルと左右に分かれていくのが気配で分かったので、意識は舞台へと向かった。

会場から割れんばかりの拍手が起こっていたので、自分も釣られるように拍手をしつつ私が見たその時には、既に舞台上は煌々と照明が焚かれており、横に長い金屏風を背後に正座して、その下で客席に向かって額を床に着けんばかりに首を深く垂れる絵里と、家元である絵里のお父さんの姿があった。
先ほどは触れ忘れていたが、家元は黒羽二重染め抜き五つ紋付の長着と羽織に仙台平の袴をつけた姿で、これはホワイエで挨拶した時と同じ格好だった。ついでに触れれば、舞台上にはいなかったが絵里のお母さんも、黒留袖に表地だけが金銀糸や色糸を使って美しい文様を織り出した錦織の袋帯だった。
さて、今日の主役である絵里はというと、濃い紫に色鮮やかな花の図柄が美しい五つ紋付の色留袖を身に付けていた。帯は自分の母親と同じく金銀糸の折り込みが遠目からでも綺麗な袋帯だった。
幕が開けてからも、二人は暫く頭を下げたままだったのだが、頭を同時にゆっくりと上げると拍手も鳴り止み、それから口上が始まった。
ホールとしては小規模とは言え中々に広めな空間だというのに、家元に紹介されて口上を述べた絵里が発する、普段とはまるっきり違った厳かな声色と言葉遣いは、後方に座る私の耳にまでハッキリと届いた。
そして最後に二人してまた深く首を垂れると共に、また舞台袖が引かれてしまうと、ここで小休憩となった。
私たち招待客用の客席では、チラホラと席を立つ姿があったが、私たち三人は先程の絵里の口上についての感想を座ったままで言い合っていた。
さっき私が思った事については、他の二人も同じく思ったらしく、初めのうちはキャラじゃない様子を揶揄い気味に口にしたのだが、それも一瞬のことで、すぐに良い口上だったという感想を共有したのだった。

さて、前方では残ったままのお母さんと有希が和かに談笑をしているのが見えていたが、こちらでも感想を言い合うのにひと段落がついたその時、さっきやり残していた事があったのを思い出した私は、早速実行に移す事にした。
グルッと会場内を見渡していると、少しして、客席の後部端に一人で座る、明らかに周囲から浮いた様子の男性が一名いるのに気づいた。会場外のホワイエでは見かけなかった人だ。
…ふふ、別に勿体ぶることも無いだろう、私にはすぐにこの男性が義一だと分かった。気付けた理由を聞かれても、こればかりは答えようが無い。…いや、答えようと思えば幾らでも理屈は言えるのだが、しかし敢えてただ”何となく”と濁すのみに留めることとしよう。
義一はこんな夏真っ盛りの時期だというのに大きめなマスクをして、普段は掛けない丸メガネをしていたのだが…ふふ、それより何よりも、義一だと気付いた瞬間に、一人で思わず笑みを浮かべずには居れなかった点があった。
それは…恐らく特徴的な長髪を隠すためなのだろうが、ショートヘアーのウィッグを付けていたからだった。この時初めて義一のショートヘアーを見たのだが、チラッとだけ見ただけとは言え笑みを浮かべつつも、内心は似合っているなと素直な感想を覚えていた。

と、気づいたのと同時に他の二人にも伝えようか一瞬迷ったが、しかし既に来る事を知っているので隠す必要も無いかと、裕美と百合子に義一を見つけたと一応小声で伝えた。
どこにいるのかと聞くので教えると、二人はチラッと顔を私が言った方角に向けた。この時自分も一緒になってまた見てみると、丁度向こうの方でも私たちに気付いたらしく、客席の端という照明が暗めな位置に座っていたのもあってハッキリとは見えなかったが、マスクで顔の大半が覆われているとはいえ一応見えている目元は仄かに緩めてくれているのが見えた。
何となく私と、そして百合子は小さく手を上げて、裕美はペコっと小さく会釈をすると、義一の方でも小さく会釈をしながら手を上げてくれた。
その対応に満足し、またキチンと来ている事に安堵した私がまた舞台へ顔を戻すと、その時客席前方に座っていたお母さんと有希の二人と目が合った。
この瞬間ドキッとしてしまったのと同時に、直後にはバツが悪い思いをしていたのだが、しかし笑顔で二人して手を振ってきたので、私からも同じ様に返す事が出来た。もちろん裕美も百合子も同じ対応をしていた。

そんなやり取りをしていると、いつの間にか時間が経っていたらしく、口上が第一部とするならば、第二部というある種本当の本番であるお披露目の舞へと進行は移っていった。
また俄かに客席が暗くなってきたかと思うと、黒い幕が二手に分かれて引かれていき、それと共に照明も焚かれていくと、先ほどの口上の時とは打って変わった舞台の全貌が顕となった。
舞台中央には松の大木があり、それに絡む様に地面まで届くばかりの藤の花房が一面に垂れ下がっていた。
客席から見て右側、つまり上手には唄が四人、三味線四人、鼓も四人、小太鼓と笛がそれぞれ一人からなる地方が陣取っており、少しネタバレになるが後は松の木の後ろに衣装の引き抜き、つまりは早変わりのために後見の男性が二人待機していた。
…さて、これだけの描写をすれば、日舞に明るい方が聞けば、今回お披露目会にあたって絵里が舞う演目もすぐに察せられた事だろう。
そう、今回絵里が舞う演目は『藤娘』だった。

藤娘とは、元は江戸時代初期から大津で名産だった、その名も大津絵の画題の一つ、『かつぎ娘』に題を取った長唄による歌舞伎舞踊の演目だ。
この戯れ絵を書いたのは、私の大好きな画家の一人である俵屋宗達と並び称される大和絵絵師だった岩佐又兵衛という人物で、彼の作品はしばしば浮世絵の源流とも言われている。
元は、先に触れた絵から娘が出て来て踊る趣向のものだったが、二十世紀を代表する歌舞伎役者である”音羽屋”六代目、尾上菊五郎が娘姿で踊る藤の精という内容に変えて演出を一新して以来、今ではこちらの方が主流となっており、言うまでもないが歌舞伎だけではなく当然日舞でも必須な演目の一つとなっている。
…ふふ、などなどと簡単にでも触れてみたが、当然この知識は私個人のものではなく、事前に絵里や、勿論そのもっと前にはお母さんから聞いた話で、お母さんに至っては、私が小学校低学年の時に聞いたのが最初だった。
お母さん曰く、元禄時代の土産品であった大津絵から抜け出した若い娘が、男への恋心を表現する…という一応ストーリーがあるようなのだが、それは実際には明確ではなく、あまりハッキリとしていない特徴があり、それ故にメジャーな演目ながらも表現し難く、その分この藤娘を魅力的な舞踊曲にしていると熱く語っていたのを覚えている。
藤の絡んだ松の大木は、松が男を、藤が女を象徴しており、藤の絡んだ松の大木の前に、藤の枝を手にした藤の精が、意のままにならない男心を切々と嘆きつつ踊るのだが、やがて酒に酔い興にのって踊るうちに遠寺の鐘が鳴り夕暮れを告げると、娘も夕暮れとともに姿を消す…というのが、一応の流れとなっているとの事だった。

さて、少し話を戻して、一つ補足を入れれば、この演目は日舞を初めて知った人が『良いなぁ』と漠然にでも思えるキッカケになる事が多々あり、またこの藤娘を舞う事が初心者の憧れでもあるとの事なのだが、それは本編が進む中で分かって頂けるだろう。
「若むらさきに とかえりのー」
と唄がうたわれ始めると、舞台袖から藤の精が姿を現した。表が黒の漆で塗られている塗笠を被り、赤い緒の京草履を履き、五本の花が枝垂れている藤の花枝を肩に担げての登場だ。
この藤の精は、白塗りの化粧に花簪で埋もれた重い鬘をしており、上から順に黒、桃色、その下には真っ赤という衣装は三枚重ねとなっていた。その一つ一つに華やかな藤の花が刺繍されており、それぞれの裾には分厚めの綿を含ませてあった。
衣装を三枚重ねているのを、これまた事前に知っていた私は直感的に凄く重そうだと思い、実際に重たいらしいが、しかし目の前を行く藤の精の動きからは、その様な重たげな様子は一切感じず、ゆっくりながらも優雅な動きで舞台中央へと向かっていた。
言うまでもないというか、余計すぎる無粋な蛇足だが、白塗りで誰だか正直判別出来ないながらも、この藤の精こそ絵里その人だったのだが、舞台に現れたその瞬間に、恐らくこの場にいた誰しもがそうだっただろうが、私も例に漏れずにその姿、動きに見惚れて一気に引き込まれてしまい、こう言って良いのかは分からないが、目の前の人物が絵里だというのをサッパリ忘却してしまい、まさに藤の精として舞を観ていた。
初めは塗笠を手に、男心の浮気性を詰る唄に合わせて拗ねて見せたりと可愛らしい踊りを見せていると、次には六代目菊五郎が長唄の間に挿入する事で演出を一新させる事となる『藤音頭』に入った。
ここではお酒を少し呑まされて酔いつつも、恋しい男を想う踊りとなっており、鉦という金属音のする打楽器が醸し出すリズミカルな曲をバックに、男が帰るのを引き留める振りが特徴で、これまた可愛らしい女心が表現されていた。
この間も松の大木裏に待機している後見が、目にも止まらなぬ早さで衣装替えを手伝っていくので、容姿自体も変化していき、それ自体にも面白みを感じつつ、両肌脱ぎした格好になると後半からはテンポの良い曲調となり、手踊りで明るく楽しげに踊っていた。
「まだ寝が足らぬ…藤に巻かれて寝とうござる」
という詞章では、大胆にも舞台上で寝そべる仕草をするのがまた可愛らしかった。
そんな変化に富んだ演目も終わりが近づいて来て、どこからか鐘の音が聞こえてくると、藤の精は藤の枝を登場時と同じく肩に担げて、夕焼け空に飛ぶ雁を見上げて舞台の幕は引かれた。
その仕草からは、可愛らしさと同時に切なさを観ている観客に伝わって来て、幕が引かれた後も何とも言えない心地良さを覚えていた。
もう一つ感想としては、松の巨木と、それを埋め尽くさんばかりの藤の花を前にしているというのに、全く絵里は…と、急に現実的な名前を不躾にも言ってしまうが、絵里は存在感として全く負けておらず、というよりも大きさでは負けていながらも、踊り手である絵里が小さく見えて、まさに藤の花の妖精といった趣で、一見純情そうに見えても実はとても色っぽいという、女性らしい可愛らしさを増幅させる良い効果を生み出していて、それがまたとても良かったと、極々単純ながらも素直にそう思ったのだった。

幕が引き終わると、また一旦休憩に入るというアナウンスが入ったので、既に着席していた時点で裕美と百合子と各々が思った感想を興奮交じりに言い合っていたのだが、それを継続させつつ会場から外に出た。
ホワイエは、私たちよりも先にホールを出ていた関係者なり招待客でごった返しており、そこかしこで今の舞台についての感想を言い合っていたためか、開場前よりも賑やかとなっていた。
その口々から漏れ聞こえてくる感想を聞くと、どれもが好意的…いや、好意的と済ませるには甘い程に褒めちぎるものばかりで、自分のことでは無いのにも関わらず、何だか照れ臭く感じながらも、同時に素直に我がことの様に嬉しく感じた。
と、私たち三人も周りと同じ様に感想をまた言い合い始めたその時、少し遅れてホールから出てきたお母さんと有希の二人と合流した。
「どうだった?絵里さんの舞は」
と、お母さんと有希がほぼ同時に開口一番聞いてきたので、私達招待客組はすぐさま感動した旨を、それぞれの言葉で伝えた。
すると、言葉を投げかけた当初はそれなりに落ち着いた雰囲気だったにも関わらず、私達からの感想を受けた次の瞬間からは、二人して私達以上に興奮し始めた。
「そうよねぇー?やっぱり流石の舞だったわぁ」
とお母さん。
「実は私も初めて絵里さんが大舞台で舞うのを今回観たんだけれど、流派における最年少名取の肩書きは伊達じゃなかったわ」
「ふふ、そうだったね」
と私が自然と笑顔になりながら相槌を打つと、それと時を同じくして「あはは、そうですね」と有希が続いた。
「私はビデオなりで絵里の舞は何度も学生時代に観てましたけど、やっぱり生で観た今回ほどの感動は無かったですよ」
「ふふ、そうだったのね」
と百合子が微笑みつつ有希に合いの手を入れると、ここからは裕美も加わって具体的な感想を言い合い始めた。
勿論と言うか当然と言うか、私たち三人…って、百合子まで巻き込むのはどうかと思うが、それはさておいて、日舞については門外漢な私達以上に、素人でも分かる程の深い感想をお母さんと有希が率先して述べていたが、この二人の感想を聞いて、さっきよりも益々嬉しさに胸が占められていくのが分かった。
というのも、やはりその”道”に、特に幼い頃から今の今まで日舞を続けてきており、しかも流派の家元から、これは絵里からの情報だが、師範試験を受けないかと何度も提案される程の実力があるというお母さんが、これ程までに鼻息荒く褒めていたからだ。

さて、そんな感想の言い合いにもひと段落がつくと、この後の予定について確認を取り始めた。
この後は、また絵里と家元から挨拶があるというので、ホールに戻らないと行けない旨を確認し合っていたのだが、ふとその時、「…あら?」と不意にお母さんが私達から顔を逸らしたかと思うと、同時に呆気に取られた様子で声を漏らした。
今まで明るく朗らかでいたというのに、その態度の急変に大して不思議に思った私は、そのお母さんの視線の先に何となく向けて見ると、次の瞬間には思わずドキッとしてしまった。
何故ならお母さん、それに加えて私や他の皆の視線の先に見えたのは、丁度ホワイエから外に出ようとしていた変装済みの義一の姿が見えたからだった。
私は顔は正面に向けたまま、恐る恐る隣に目線だけズラして眺めて見ると、お母さんはまさに義一の後ろ姿に目が釘付けとなっている様子だった。
絵里の舞台に感動していたあまりに、すっかり義一のことを失念していた事を心の奥底で反省しつつも、まだ口にしないまでもお母さんの態度に対して少し疑問を持ち始めていた。
というのは、義一は先ほど述べた通りに、長身にして線の細い体型というのは目立つと言えば目立つのだが、普段は掛けない丸メガネにマスクをして、義一の最大の特徴である長髪は、ショートヘアーのウィッグによって隠されており、しかも後ろ姿となると義一とはバレないだろうと思っていたからだった。
これは後日に聞かされたのだが、本人は嫌々ながらも既に世間で顔が知られる様になってしまっている義一は、少し外に出るでも変装するのがデフォルトとなっているらしく、そのお陰というか不幸中の幸い…ではないか、ともかく変装技術が妙に上達してしまったと苦笑交じりに話してくれて、確かに私ですら一瞬見ただけでは見破れないくらいの腕前となっていた。

…さて、話を戻そう。…そう、この時点で既にお母さんに、義一の存在がバレたと直感的に思ったのだが、それは後のお母さんの反応で確信へと変わった。
何故なら、その立ち去ろうとする後ろ姿に向かって、
「…あら?もしかして…義一、さん?」
と、ボソッとだが独り言ちたからだ。
その言葉を横で聞いた次の瞬間、私は自分でも分かる程に身体を一瞬ビクッと震わせてしまい、咄嗟にそれが妙に思われない様に何とか誤魔化そうと試みたのだが、しかしお母さんは隣にいる私にはお構いなしに、顔を正面に向けたまま口を開いた。
「義一さん…そうでしょう?義一さん…よね?」
と、今度は遠くまで聞こえる程度の音量で呼び掛ける様に口にしたが、他のホワイエにいた何人かが何事かと、お母さんと出口付近に顔を向けていたというのに、義一はまるで声に気づかない素振りで振り返る事もなく、スタスタとそのまま義一はホワイエを後にしてしまった。
その姿が見えなくなっても、お母さんはジッと数秒間ほど出口を見つめたまま目を離さなかった。
その横顔を、私はまだ心臓が激しく高鳴っているのを覚えながらも、しかし同時に変に冷静に、何故お母さんがこんな行動を取ったのか不思議に思いつつ、その横顔をじっと見つめるのだった。
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