第52話 エアメール

文字数 2,234文字

 来年から私は大学院に無事進学することが決まった。ヘンミンキは冬休みはフィンランドに帰っていった。いつかアルビンが言っていたけれど、真っ暗な冬が素敵だというのが、ヘンミンキが送ってくれた写真で分かった。家の周りを綺麗な灯りで飾り付けしているのだ。日本で見るような電飾アートではなく、本当に自然にぽつぽつと美しい灯りが雪に反射して幻想的に見えた。
 いつか二人でおいでとアルビンは言ってくれたけれど、それは叶わなかった。そんなことを考えながらヘンミンキの写真を眺める。律はピアノの練習をしているのだろうか。私はクリスマスにかこつけて、カードを送ったけれど、返信はなかった。

 フランスにいる則子さんから時折メールが来ていて、律がピアノの国際コンクールを受ける準備をしているとは聞いていた。私に何があったのか聞いてはこないが、緑ちゃんが急に帰国したこともあるので、どうやらいろんな噂が飛び交っているらしい。
 緑ちゃんの両親の慰謝料は私の口座に入っていた。それが莫大なお金で、あんなに自活に困っていたけれど、当分は悠々自適にフランスで暮らせたのに、と預金額を見ると軽く息を吐いてしまう。
 律が私のことだけを忘れてしまったというのは私のことが相当重荷だったのかもしれない。
「本当に丁度よかった」と口に出して呟いてみる。
 国際コンクールを受けるというのだから、元気に頑張っているのだろう。上手くいきますようにと私は願った。

 お正月、顔を合わせるのが辛いけれど、お母さんとお父さんとずっと家にいた。私は食事以外はなるべく自分の部屋に閉じこもって勉強していた。あの頃と同じ、本を読んでいたら誰にも何も言われないのと同じで、私は勉強をした。
 ドアをノックされる。
「莉里」とお父さんの声がした。
「何?」と言って、立ち上がって、ドアを開けた。
「…初詣行かないか?」
 そんなことを言い出すから、私は少し笑ってしまった。
「行かない。…心配かけてごめんなさい」
「いや…。悪かった」
 お父さんが何に謝っているのだろう、と私は思う。何もかもだとすると、私はそれは許せなかった。やっぱりお父さんはずっと反省しなければいけないと思う。
「…私に謝るんじゃなくて、お母さんと、律にでしょ?」
「そうだけど。でも…莉里が…心配で」
 少し腹が立った。
(今更…)という言葉を飲み込んで「お父さんが向き合うのは私じゃなくて、お母さんだよ」と言って、扉を閉めようとした。
「これ」と差し出されたのはエアメールだった。
 フランスからのエアメールを私は受け取った。差出人は律だった。
(ほんと、今更…)と私はお父さんを追い出した後、机に置いた。
 きっともっと早くに届いてたのかもしれないけれど、お父さんが隠していたのだろう。そして私があまりにも落ち込んでいるから、ついに罪悪感にかられて渡すことにしたようだった。
 封筒をしばらく眺める。日付を見るとやはり律が返事として出したものではなかった。律も私を想って、クリスマスカードを送ってくれたのかな、と思うと胸が苦しくなる。フランスでは雪が降っているだろうか。私は窓を開けると、明るい新年の光が入ってきた。
「あけましておめでとう」と誰に言うでもなく呟いた。
 白い封筒を開けると、サンタがピアノを弾いてる絵が描かれたカードが入っていた。こんなカードをわざわざ買いに行くような人じゃないのに、と私は笑った。きっと楽譜を買いに行った時に、ふと見つけて買ったのだろう。その時に、思い出してくれた。
「お姉さん
 お体の具合はどうですか? 俺はピアノを頑張っています。体に気をつけていい年になりますように  律」
 それだけの内容だった。ごく一般的な定型文に短い近状が添えられただけの――。私はそのカードを見て、泣いた。律が本当に遠くなってしまったことを認識させられたからだ。
 その日から一切の食事が喉を通らなくなり、私は無理やり病院に連れて行かれた。
 私はまだどこかで律が私を好きでいてくれていると思っていたかったのだ。

 入院して点滴治療を受けていると、精神科の受診も勧められる。でも私は受けたくなかった。もう誰にも律とのことを話したくなかった。だから無理に食べてはトイレで吐く始末だった。
 ヘンミンキが日本に戻って来て、会った時には驚かれた。
「リリィ、ごめん。こんなこと言うのは良くないけど、痩せ過ぎだよ」
「…。うん。そう…なの」
 いろんなフィンランドのお土産を私にくれたけれど、それどころじゃなく「病院に行こう」とヘンミンキにまで言われてしまう。
「大丈夫」
「どうして? 何があったの?」
「家族でいるのが…辛くて」
「え? 両親と?」
 ヘンミンキは家を出るように言った。家が辛いのなら出た方がいいとアドバイスしてくれた。
「一人になったら、きっと落ち着くと思うよ。俺の隣の部屋空いてたかも」
「…うん」
 私は自分が家を出るなんて考えてもみなかったから、それは少し希望の光のように明るく見えた。幸い、お金はあるのだ。
「そうね。そうする」
 
 両親は賛成はしてくれなかったけれど、あまりにもひどい私の様子を見て、ちゃんとセキュリティのいいマンションを探してくれた。小さな部屋だけど、私は一人になって安心できた。引っ越しした日は何も音がしない部屋で一人でぽろぽろ涙を流して泣いた。
 でも何もかもから解放される日になれたらいいな、と思った。
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