第53話 春の匂い

文字数 1,556文字

 一人暮らしは快適だった。私は寝たいときに寝て、食べたいときに食べれるだけ食べて、そして勉強したり、泣いたりしても誰にも何も言われないから本当に楽だった。たまに心配したヘンミンキが私をカフェに誘ってくれる。
「リリィ、この意味が分かんないけど」と日本語を聞いてきたりする。
「それは人のためじゃなくて、自分のためだから、人に良くしなさいってこと」
「へー。すごいねぇ」と言いながら、一生懸命覚えようとしている。
 アニメや漫画が好きだというだけあって、教科書に載らないようないろんな言葉を知っていた。
「ヤバいって良い事? 悪い事?」
「どっちにも使うの。状況で判断して」
 そんなことをしているうちに、少しずつ食べれる量も増えていったし、何より律を思い出すことが少なくなっていた。
「いい先生だね」とヘンミンキが言ってくれる。
「でしょう?」と私も笑って言い返した。
「リリィはもう人を好きになることはないの?」
「うん。もう十分恋愛できたから。もう…今は…。これからも…」
 ヘンミンキといるのは穏やかな気持ちになれるから、良かったけれど、もう恋愛はしたくなかった。
「…いつか、フィンランドおいでよ」
「え?」
「自然が豊かで素敵なところだから。もちろん、日本もとっても素敵だけどね」とヘンミンキは言ってくれた。
「うん。そうだね。いつか行けたらいいね」と私は心の底から思った。
 ヘンミンキは笑いながら、
「行けたらイイネ」と日本語で言った。
「それ、断る時の!」と私も笑った。
 少しずつ私は彼のおかげで精神的にも安定してきた。

 バレンタインデーにヘンミンキに食事に誘われた。量はあまりたくさんは食べられないけれど、少しは食べれるようになった。イタリアンのお店で全部食べれるか不安だったけど、ヘンミンキが「自分がたくさん食べるから」と言ってくれた。
「リリィ、ゆっくり食べよう。食べれるだけ食べてくれたらいいから」
 ヘンミンキはどうしてか分からないけれど、私にストレスなく側にいてくれた。食事を終えて、私はこんなにゆったりと食事ができたことに驚いた。
「ありがとう」と言うと「美味しかったね」と返ってきた。
「ほんとだ…味が…」
 私は味わうということも忘れていたし、今、それができていたことも気づかなかった。
「リリィ、はい、これ」と紙袋から小さなブーケを渡してくれた。
「え?」
「バレンタインだから。リリィが幸せを感じますように」
「あ…ありがとう」
 涙が零れてしまって、ヘンミンキは慌てて慰めてくれる。
「あ、これは、ほら、友達としての…。あれだし。なんか、いつものお礼っていうか」
「私の方こそ…」
 小さなチューリップのブーケは少し早い春を先取りしていた。

 家に着くと則子さんからメールが届いていた。律が国際コンクールに参加するけれど、絶対に最終まで残るから私たちは応援に行こうと思っていると、詳細な場所と時間を送ってくれていた。
「これって…」
 則子さんは遠回しに誘ってくれているのだろう。
 目を閉じると、律のピアノを思い出す。いつも練習していた部屋でも、フェットドラミュージックで外で弾いた時も、ウィーンの会場でも律のピアノは素敵だった。
「律のピアノ…」
 私は忘れたと思っていたけれど、やはり忘れられなかった。
 律のピアノも、律も恋しかった。
 遠くから応援するくらいはいいだろうか、と私は則子さんにメールを送る。すぐに「コンクールのチケット手配しておくね」と返事が来た。
 姉として応援したい――という言い訳を私は呟いた。

 ヘンミンキに夜中に電話しようとして、辞めた。私は彼に甘えすぎている。窓際に置いたチューリップは淡い色で部屋を明るく見せてくれていた。そして私は誰にも相談しないまま、飛行機に乗って、律の国際コンクールが行われるイタリアに向かった。
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