第7話 隣の客は

文字数 1,563文字

 律が演奏旅行で留守だった。私はティーパックの紅茶にお湯を注いで、パン屋で買ってきたパルミエというパイのお菓子を食べてのんびりしようとしていた。
 テーブル越しに見えた白いソファの上に茶トラの大きな猫がいた。
(あれ? 律はぬいぐるみなんか持っていたっけ?)
 ありえないものが存在する時、思考が一瞬停止する。
(ぬいぐるみかぁ。大きいなぁ)
「にゃー」
(鳴き声まで…すごい)
 ついにはあくびまでしたのだから、私は猫が目の前にいることを理解しなければいけなかった。別に猫が嫌いなわけではないけれど、私はお茶どころではなくなった。
 風が気持ちよくて窓を開けていたから、そこから入ってきたようだった。その猫はまるで犬のように大きくて、そして当然のような顔をして、律が使っているソファの上に寝そべっていた。日当たりがいいのか、動きそうにない。律は猫アレルギーじゃないだろうか、と心配になったが、この猫をどうしたらいいのか、私は困惑した。
 律に電話して聞いてみることにした。リハーサルかもしれないし、練習中かもしれない。出なければ、どうしたものか、と思案していると、通話が繋がった。
「莉里? どうしたの?」
「あの…律って、猫アレルギーあった?」
「え? 猫アレルギー?」
 私が突然言った言葉が理解できないような空気が流れてきた。
「あ、忙しいのにごめんなさい。あの…猫が窓から、大きな猫が律のソファに」
 説明しようとすると、言葉がバラバラになる。
「茶トラ?」
「あ、そう。茶色のしましまで」
「それ、マシューだ。隣の人の猫だよ」
「どうしたらいい?」
「猫、嫌い?」
「嫌いじゃないけど…触ってもいいの?」
 律が笑い出す。
「たまに遊びに来るんだ。ピアノ好きみたいで。しばらくしたら帰るか、お隣さんが探しに来るから」
 私がマシューを見たら、大きなあくびをまた繰り返していた。客の方がリラックスしている。電話を切って、ピアノが好きだというので、私も弾いてみようと思った。

「ピアノなんて、弾かなくていいのよ」
 三歳から習っていたのに、小学校に入って突然、そう言われた。練習は嫌だったけど、ピアノは嫌いじゃなくて、でも母は勝手にピアノ教室を辞めることを先生に伝えていた。
 思えば、あの時、父とピアニストの律の母との関係を知ったのかもしれない。

 私は律の楽譜の棚からショパンを取り出して、ノクターンを弾く。良く聞く曲だけれど、音が飛ぶから上手く弾けない。
「こんなの律は良く弾けるなぁ」とため息を吐いた。
 マシューはひどいピアノ演奏に耐えられないのか、また窓から出て、ベランダの手すりを伝って、上手に隣の部屋に入っていった。

 猫からも逃げられる演奏しかできない。私は律が戻ってくるまでに少し練習して、驚かせようと思った。上手になったら、律は何て言うんだろうと思うとちょっとわくわくする。

 そして律がいない間、私はかなり自堕落になり、お昼頃に起きて、ぼんやりと一人で過ごす。たまにマシューが来るけれど、私の顔を見ると、面倒くさそうに戻っていくこともあった。
「ピアノが上手くなくてごめんなさい」とマシューに窓から謝ったが、振り返りもせずに自分の家に戻っていく。
 私は本格的に練習しようと毎日、起きてから練習することにした。
 律がしているであろう日常をなぜか私もしている。もちろん練習量も内容も全然違うと思うけれど。いつまでも明るいフランスの夏は調子が狂ってしまう。夜の十時にようやく薄暗くなるのだから、私の体内時計もおかしくて、夜中までうっかり起きてしまった。
 律はフランスで一人で淋しくなかったのだろうか、と思う。最初はピアノの先生の家にいたそうだけれど、割と早い段階で一人暮らしを初めていた気がする。この部屋で、一人で、何を見て、何を聞いて、感じて過ごしていたのだろう。
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