第5章 梶井基次郎

文字数 1,753文字

第5章 梶井基次郎
 梶井基次郎は個性的なオノマトペの使い手ではない。作品に目を通しても、特段に凝った使用は見当たらず、一般的という印象を抱く。明らかに彼のレトリックはオノマトペにアイデンティティを持っていない。

 しかし、その使うタイミングは極めて効果的である。それをよく示しているのが『檸檬』である。そこに日本近代文学史上最も劇的な次のようなオノマトペが登場する。

「あ、そうだそうだ」その時私は袂たもとの中の檸檬れもんを憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌あわただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩いろどっている京極を下って行った。

 「カーン」というオノマトペは乾いた打音に用いられる。代表は野球の打球オンである。この一節は、フラストレーションの溜まる展開の9回裏、重苦しい雰囲気を一掃する「カーン」と快音のサヨナラホームランでゲームが決まった光景と重なる。

 「カーン」を用いなくても、文意は十分に伝わる。しかし、その前に「ゴチャゴチャ」と現前の光景の雰囲気が記され、「檸檬」によってそれが晴らされる。その気分を表わすオノマトペが必要である。そこには響き渡る乾いた一投の打音「カーン」がふさわしい。

 しかも、この小説は次のような主人公の気分の記述から始まっている。

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。

 「えたいの知れない不吉な塊」が主人公の気分をすぐれなくさせている。比喩を用いているように、重苦しい気分は明確な対象に誘発されているわけではない。主人公はこれがどうしたら晴れるのかと街をさまよい歩く。以前に気分がよかった時の記憶をたどって、繰り返してみても、うまくいかない。それから解放されることは論理的である必要はない。だから、オノマトペが望ましい。加えて、作品世界は日常であり、用いる語は凝っているよりも一般的な方がよい。

 特別の意味合いを持たせず、ありきたりであっても、文脈に即して絶妙のタイミングで用いれば、オノマトペは大いなる効果をもたらす。それを梶井基次郎は教えてくれる。
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