第6章 三島由紀夫

文字数 1,818文字

第6章 三島由紀夫
 凝っていなくても、タイミングがよければオノマトペは効果的に機能する。しかし、其れが悪いために、文章を台無しにしてしまうこともある。その一例が三島由紀夫の『豊饒の海』である。

 三島はオノマトペを個性的に使う作家ではない。それは梶井と同様である。だが、その使用のタイミングはがっかりするものだ。
 
 三島は『豊饒の海』の最後に当たる「天人五衰」を次のように終えている。

 これと云って奇巧のない、閑雑な、明るくひらいた御庭である。数珠を操るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂莫を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

 この「しんとしている」は『豊饒の海』の最後の文である。オノマトペによって作品は幕を閉じる。しかし、なぜ気分や雰囲気を表わすオノマトペで締めくくられるのか理解できない。

 「しん」は静寂という意味の擬態語である。「しーん」はその強調語だ。語源には二説ある。一つは「しんしん」、すなわち「深々」の短縮形である。これはひっそりと静まり返っている様子を表す。「雪がしんしんと降り続く」や「夜が」しんしんと更ける」といった具合に使われる。

 もう一つは生理的耳鳴りの擬音語とする説である。マンガで沈黙を表現する際に使用される「シーン」は、1951年、医学を学んだ手塚治虫が『新世界ルルー』で用いたことにより一般化している。これは、まったく音が聞こえない時、聴神経が脳に送る信号音をもとにした擬音語である。この音は無響室でなければ聞こえないほど小さい。

 いずれの説であっても、「しん」はオノマトペである。気分や雰囲気を表す語でこの長編小説が締めくくられる理由がわからない。三島は、梶井基次郎の『檸檬』と違い、ここまで主人公の気分を中心に描いてきたわけではない。自意識の発展や輪廻転生など形而上学的トピックを扱っている。こうした物語の流れの最後になぜオノマトペが登場するのか理解できない。果たして熟慮して記したのかさえ疑問である。「しん」に近いニュアンスの語として「粛」があり、「庭は夏の日ざかりの日を浴びて粛としている」と置き換えてもよいように思える。

 言うまでもなく、オノマトペは気分や雰囲気を表わす語であるが、論理的思考と無縁なわけではない。森毅は『雑木林の小道』、金田一秀穂は『気持ちのいい言葉たち』において、それぞれよく知られているオノマトペにまつわるエッセーを書いている。前者はそのオノマトペのニュアンスを考えるヒントにした批評、後者は言語学的分析である。いずれも知的内容で、オノマトペを扱う理由も論理的だ。

 この「しんと」に限らず、肝心の場面での三島の言葉の選択には納得できないことが少なくない。

 一例として『憂国』の次の一節を引用しよう。

 麗子は咽喉元へ刃先をあてた。一つ突いた。浅かった。頭がひどく熱して来て、手がめちゃくちゃに動いた。刃を横に強く引く。口の中に温かいものが迸り、口先は吹き上げる血の幻で真赤になった。彼女は力を得て、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通した。

 「めちゃくちゃ」は「無茶苦茶」の変形で、「無造作」という意味がある。物語のクライマックスであるこの自決には鬼気迫るものがあるはずだ。にもかかわらず、三島はこんな軽い修飾語を選んでしまう。迷いや悔いを抱かずに一気呵成に成し遂げようとしているのだから、むしろ、「憑りつかれたように」といった語の方がふさわしいだろう。

 手塚治虫に触れたように、マンガにおいてオノマトペ表現は極めて重要である。それはレタリングとして高度に発達している。しかし、見せ場や幕引きのコマではオノマトペを使うことはない。マンガはあくまで絵が主であるため、肝心の場面はそれで表現するからだけではない。オノマトペは次の展開を要求する。見せ場はそのピークであるのに、オノマトペを使うと、さらなる発展が必要になってしまう。また、幕引きで用いると、作品が終われない。オノマトペの用法にはこうしたルールがある。

 文学にはこのような決まり事はない。オノマトペだけの作品も可能である。しかし、ここぞという場面での使用はその効果を十分に認識している必要がある。そうでないと、作品を台無しにしかねない。三島由紀夫は反面教師としてそれを教えてくれる。
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