男の優しさ

文字数 2,444文字

 下駄箱の上に、瓶に串のような細い棒が何本か刺さっているルームフレグランスと、その横になんというのか知らないが昆布のような長っぽそい葉が数本突き出た観葉植物が飾られている。僕はルームフレグランスのラベルをちらりと見て銘柄を確かめると、あとで同じものを買いに行こうと決めた。僕は思いきり鼻から深呼吸し、いわゆるオーシャンブルーの香りを堪能したのだった。森野さんがまるちゃんの足をタオルで拭いているあいだ、僕は玄関に突っ立ってぼんやりしていた。バナナの食べ過ぎで幻覚でも見ているような気がした。

「お待たせー。どうぞ、あがって」
 おじゃましまーすと繕った明るい声で挨拶したが何も返ってこない。

「親どっちも仕事行ってるから気を使わなくて平気だよー」
 森野さんには大学生のお姉さんがいたはずだ。教室でほかの女子とそんな話をしているのをカクテルパーティー効果を駆使してすでに承知していた。

「お姉さんは?」
「あれ、なんでお姉ちゃんいるって知ってるの。前に言ったっけ? まだ大学あるみたい。七月いっぱいは試験なんだって」

 二人っきりなのだ。緊張でさっき食べた生クリームが口から吹き出てきそうだった。リビングへ通され、ふかっとしたグレーのソファに座った。ローテーブルにはやたらと分厚い文庫本が一冊とスタバの柄の丸いコースターが置いてある。正面にはテレビがあり、テレビ台の前でまるちゃんがサメのぬいぐるみをがじがじして遊んでいる。南向きの背の高い窓から午後の光が差し込んで、部屋をまぶしく満たしていた。

「飲み物取ってくるね」
 好きな子のおうちでいきなり二人きりになるなんて、どうしていいかわからなかった。森野さんがキッチンへ向かった隙に、トメ吉から返信が来ていないかと期待して僕はスマホを確かめた。今この状況の最適解を、花火大会を一足跳びに超えてしまって良いものかを、奴に御指導御鞭撻してもらおうと思っていたが、公園で送ったメッセージに既読すらついていなかった。なにをちんたらしているのだ、寝ているのだろうか。スマホの時刻を確かめるとちょうどデジタル表記が一時十五分に変わったところだった。いくら夏休みとはいえさすがに寝すぎではないだろうか。不安と緊張でそわそわしていると、森野さんがコップを二つとペットボトルの緑茶を持ってきて注いでくれた。

「ねえ飯野くん、今日この後なんか予定ある?」
 森野さんはコップを覆っている細かい水滴を淫らな指先で拭った。
「いや、特には」
「ほんと? ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけどいいかな? 一人じゃ大変で」
「別にいいよ。どんなこと?」
「お茶飲んでからでいいよ」

 女の子が一人で大変なことと言われて、なんとなく部屋の模様替えで重い家具を移動するのを手伝って欲しいとかその辺じゃないかと想像した。ということはお茶を飲み終わったらそのあと僕は森野さんのお部屋に招待されるのか。不安と緊張と期待とで心臓は肋骨を突き破りそうなほど跳ね回っている。だが緊張しているのを悟られるのは男子の沽券にかかわると思って、ぐるりと室内を見回し、良いお宅だねなどとお愛想を言って余裕をかましながらもさっさとお茶を飲み干した。

「ごちそうさまでした」
「あ、飲み終わった? じゃあお願いしてだいじょぶかな」
「うん。手早くやっちゃおう」
「じゃあこっち来て」

 森野さんの後について廊下を行くと、連れてこられた部屋は脱衣所らしかった。洗面台の鏡に森野さんと僕の姿が映って、その横にはドラム式の洗濯機が置いてある。洗濯機の上には洗剤や柔軟剤の入った籠が乗せられていた。

「こっち」
 森野さんは浴室へと続く磨りガラスのドアを開けた。中を覗いてぎょっとした。浴槽には溢れそうなほど水が張られていて、その中に誰かが服を着たまま浸かっていたのだ。ヘルメットをかぶっているのかと思ったが、よく見ると伸びかけの坊主頭だとわかった。トメ吉だった。

「え、トメ吉……」
 なんだか様子がおかしかった。トメ吉はかっと目を見開いて、威嚇する獣のように食いしばった歯をむき出しにしている。何があったらそんな顔ができるものか、何かに激しく怒っているような、得体の知れないものに怯えているような、身を切る痛みに耐えているような、そのすべてを合わせた鬼気迫る形相をさらしていた。金剛力士像みたいな顔だと思った。トメ吉の肌は木のような色をして、見開いた目は虚空の一点を鋭く見つめたまま動く気配がない。浴槽の水に氷の塊がいくつも浮かんでいて、ミニチュアの氷山のように見えた。

「これさ、ばらばらにしちゃいたいんだ」
 いらない棚でも分解するみたいな気軽さで森野さんは言った。
「え、ばらばらに? なんで?」
「だって、そっちのほうが捨てやすいから」
「捨てるの? どこに?」
「うーん、小田原の山のほうかなあ。夕方にはお姉ちゃん帰ってくるし、車出してくれるって。飯野くんも一緒にくる?」
 僕はもう一度物言わぬトメ吉へ目を向けた。僕の左の目には打ち上がる花火の鮮やかな幻影がいくつも浮かんで消えた。
「二人でやれば二時間ぐらいで終わるかな? 夜までにやらないとパパとママ帰ってきちゃうし」
「どうだろう……。そういうの僕初めてだから」
「関節のとこで切ればそんなに難しくないんだって。魍魎の匣に書いてあったよ。知ってる? 京極夏彦の。じゃ、ちょっと待ってて。今ビニールシートとノコギリ持ってくる。包丁も一応あったほうが良いよね」
 森野さんの足音がぱたぱたと廊下を遠ざかっていった。

 僕は昨日、トメ吉の家から帰りしな、玄関まで送ってくれた彼が僕の肩に手を置きながら言った言葉を思い出していた。
「いいかい、飯野。なんだかんだ言ってもだな、女性はやっぱり優しい男に弱いんだよ。きみも惚れた女に、森野になにかお願い事されたら絶対に断っちゃいけないよ」
「断るもんか」
 僕の返答にトメ吉はウインクして親指を立てた。おそろしくダサい仕草だなと思って僕は苦笑を浮かべたのだった。〈了〉
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