初恋

文字数 923文字

 高校に入学して二週間、春の午後のぽかぽかした陽射し、弁当で膨らんだ腹、爺さんの先生がのんびりした声で教科書を朗読するだけの日本史の授業というトリプルコンボを喰らった僕は、窓際の席でうつらうつら睡魔と戦っていた。まぶたを開いていることだけに全力を注ぐが、しだいに視界はぼやけ、先生の低く掠れたぼんやりした声が意味を持たない言葉の羅列に変わる。がくっと首が垂れた途端に右手が滑り、白いノートに一本の線が薄く走った。

 授業終了のチャイムが鳴っても眠気は去らず、机に突っ伏して本格的に寝る態勢に入った。がやがやいう教室の喧騒が意識から遠ざかりかけたとき、軽く肩を叩かれて僕はびくりと顔をあげた。

「これ、飯野くんの?」
 霞んだ視界に、細く綺麗な指に握られてシャーペンが差し出されている。
「床に落ちてたよ」
 顔をあげると森野絵理さんの笑顔があった。僕はたちまち面食らい、言葉が出てこないまま森野さんのいやに透き通った瞳におろおろと目を泳がせていた。

「これ、書きやすいよね。私も持ってるよ。お揃いだね」
 僕は頰がかっかとするのを恥じて、うつむきながら、おっおっとよくわからない声で唸って震える手でシャーペンを受け取った。自分の名前を覚えていてくれたこと、シャーペンを拾ってくれたこと、気軽に話しかけてくれたこと、並べてみるとなんのことはない高校生の日常の風景だが、僕は実にあっさりと彼女に恋に落ちたのだった。

 それからは自分自身の存在というものに悶々と悩む日々が始まった。森野さんを見かけるたびに胸がときめいたが、話しかけようとするたび、僕のようなもやしっ子の陰キャが向日葵のごとき彼女に声をかけるのは不遜ではないのかと尻込みししてしまうのだ。毎晩、クラスのLINEグループから彼女のアカウントへアクセスし、仲良しの矢崎さんとピースしながら写っているプロフィール画像を眺めては、明日こそは話しかけようと決意するものの、次の日にはまだ時が熟してないと逃げ癖が発動し、そんな決断と後悔の日々を繰り返していくうちに気がつくと夏休みに入っていた。計画では夏休みまでにはすっかり仲良くなって毎晩遅くまで通話し、思い切って八月の花火大会に誘うつもりだったのに、大誤算だ。
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