被虐生嗜好

文字数 4,102文字

「森野絵里のパーソナリティも分析しておく必要があるなあ」
 考え込むように腕を組みながらトメ吉は虚空を睨んだ。

「どんなだい、その辺のことは」
「どんなって、なにがさ」
「普段の彼女の様子さ。いいかい、女の子を落とすにはコミュニケーションの仕方を相手に合わせて臨機応変に変えていかなくてはいけないよ。自分がしたいコミュニケーションではなく相手が望むコミュニケーションを察知してそれに合わせて接するのさ。女子といえば総じてスイーツが好きだが、中には甘いものが嫌いで辛いものに目がない子もいるかもしれない。そんな子に行列ができる有名店のケーキを苦労して手に入れてプレゼントしても喜ばれないだろう。相手が求めていないものを与えるのはただの自己満足さ。僕ぐらいになると普段の様子からその女性の取りたいコミュニケーションがわかるからね。たとえば森野は普段、友達をいじる方が多いのかい、それともいじられるほうが多いのかい」
「どちらかといえばいじられている方が多いようだぜ」
「嬉しそうかい、いじられて」
「いつも笑ってるな。怒ったり気分を害したりしている気配はないようだ」
「なるほど、そりゃ被虐性嗜好の傾向があるな」

 トメ吉は顎を撫でてにやりとした。
「なんだいそりゃ」
「簡単に言えば森野はドMなのさ。ちょっと意地悪なこと言ってやれば盛りのついた雌犬みたいによだれ垂らして喜ぶぜ、へっへ」
「おい訂正したまえ。森野さんはそんなふしだらな女じゃないぜ」

 トメ吉の言葉はしかし僕の心の琴線に触れるものがあった。よだれを垂らして喜ぶ森野さんを想像するといけないと思いつつも胸が踊った。まるごとバナナは四本目に入りさすがに気持ちが悪くなってきていた。口に含んだスポンジが飲み込みにくくなってきて、もぐもぐと時間をかけて咀嚼しながら空ろに公園を眺めていた。さっきまでボールを追っていた少年たちは、汗で髪をびしょ濡れにして、広場のすみっこで円座になって休憩している。鳩が五、六羽、土の上をちょこちょこ歩きながら何かついばんでいる。向こうの遊具のある場所に目を向けると、女の子が滑り台の上でシャボン玉を吹いているのが見えた。虹色を帯びた透明な玉がいくつもふわふわと浮かんで弾けた。小さなシャボン玉が揺れながら微風に流されていくのを目で追っていると、僕の手はまるごとバナナを口に運びかけた途中で止まった。公園の入り口あたり、ちょうど向日葵が咲いている花壇の横に、森野さんが立っていたのだ。我が愛しの人は愛犬の散歩中らしく、もこもこしたポメラニアンを連れて、空に浮かんだシャボン玉を気持ちよさそうに見上げていた。大きめの白いティーシャーツを着て、デニムのショーツを履き、長い髪を後ろでまとめてアップにしている。ワンちゃんの散歩スタイルのお気楽な服装だが、僕は下腹部あたりにふつふつ沸き立つ情欲をこらえきれずに身悶えた。シャボン玉が弾けて、森野さんはリードを引っ張ってぶらぶら歩き出した。公園を横切り、こちらへ向かってくるが、連れている犬に目を向けながら歩いているのでまだ僕に気づく様子はない。突然の天使の降臨に僕は完全に冷静さを失い、まるごとバナナで哀愁を演出するのも忘れてズボンの尻からスマホを抜き出してトメ吉にLINEした。今の状況をうまくやるための指示を仰ぐのだ。

 目の前に森野さんがいる、どうすりゃいい、四球返信頼む。
 慌てて送ったため一塁ランナーを出してしまった感じになったが訂正している暇はない。ほんの数秒しか経ってないから既読がつかないのは当然といえば当然だが、あと二十秒もしないうちに森野さんがすぐそばを通りかかるのだ。おい。起きてるか。頼む。なんとかしてくれ。なんか家よ。連続で送るが既読はつかない。森野さんの位置を確認しようとしてちらと目を上げたと当時に森野さんもふとこちらへ顔を向け、僕らの視線は約十メートルの距離を隔ててかち合った。森野さんはあれ? というような顔をして首を傾げた。僕は咄嗟にうつむいて、トメ吉が通知に気づくよう祈りながらひたすらスタンプを連投した。ビーチサンダルが乾いた地面を踏む音が少しずつ近付いてきて、視界の隅にちょこちょこ歩く茶色い毛の塊が入ってくる。足音が目の前で止まると人の影がスマホの上に落ちた。

「飯野くん?」
 心臓が弾けそうなほど鼓動を早めて頭がくらくらしている。脇から吹き出した汗が二の腕を伝い、僕は慌てて脇を締めてティーシャーツにこすりつけた。夏の陽差しに目を細めながら僕は顔を上げた。

「やっぱり飯野くんだ」
「こ、こんちは」
「おうちこの辺だっけ? なにしてるの?」
「……まるごとバナナ食べてた」
 僕の横には食べ終わった包装のビニールがまとめて積んである。全部食べ終えたらコンビニの袋に入れて捨てようとしていたが、袋の中にはまだ手のついていないのが四本ばかし残っているのだ。

「えっ、それ全部一人で食べたの?」森野さんは空の包装の量を見て愕然とした。「食べ過ぎだよ、太っちゃうよ」
 なにが哀愁だトメ吉の野郎、惚れるどころかドン引きされてるではないか。
「まだあるんだ。森野さんも食べない? てか食べてもらっていい? ちょっと一人じゃ食べきれなくて」
「ありがとう、じゃあ一本だけもらうね」

 森野さんが僕の隣に腰を下ろし、僕は体がぷるぷるしだすのをなんとか抑えようとしていた。森野さんがまるごとバナナをひと口かじる。僕も手に持っていた残りの半分を少しかじった。
「全部で何本買ったの」
「八本。二軒コンビニ回って」
「そんなに好きなの? まあおいしいけどさあ」
「実はそんなに好きじゃない。生クリームが若干苦手で」
「そうなの? じゃ、なんでこんないっぱい買ったの。変なの」

 公園で独り寂しくまるごとバナナを食べて、哀愁に満ちたもてる男になって森野さんを落とそうとしてたんだとはいくらなんでも言えない。何も答えられずにいたので森野さんと僕は無言でまるごとバナナを食べ続けた。陸上自衛隊のヘリが、豪快な音を立てながら近くにある駐屯地の方へ七月の空を横切っていった。

「おいしかったけど、この暑さで生クリームは胸焼けしちゃうね」
 一本食べ終えた森野さんはそう言ってみぞおち辺りを撫でて、足元にお行儀よく座っていたポメラニアンを抱き上げて膝に乗せた。

「わんちゃんかわいいね」
「でしょー。ありがとー」
「名前なんていうの」
「まるちゃんだよ」

 僕はまるごとバナナの最後の一口分を持て余していた。四本も同じものを食べ続けて飽きていたし、なによりそもそもの本題であるはずの哀愁が全く演出できないとわかって、そんなに好きでもないものを口に入れる士気がだだ下がりしていた。犬にやってしまおうかとも思ったが人間の食べ物をあげるのはよろしくないと聞いたことがある。どうも森野さんはまるちゃんを溺愛している様子だし、余計なことして嫌われたら元も子もないのだ。僕は無理やりスポンジの最後の断片を詰め込んだ。もはや泥と変わるところのない生クリームを気合いで飲み込むと、トメ吉が君塚さんを虜にしたという鳩豆面を、表情筋に全力の魂を込めてぶちかましてやった。森野さんはまるちゃんを構うばかりで気づいていないようである。僕は鳩豆面のまま森野さんの方を向き、気づいてくれるのを待った。やっと森野さんが僕を見たと思ったら、「えっ」と小さな声を漏らし、僕の鳩豆面に釘付けになって、五秒ほど言葉をなくしていた。見とれているに違いない。これはいけただろう。

「飯野くん、なんで変顔してるの」
 僕のこめかみを汗が伝い、顎先から垂れて手の甲に落ちた。
「……大丈夫?」
 主語の欠落により森野さんが僕のなにを心配してくれているのかはっきりしないがおそらく頭だろう。これも駄目ではないか。トメ吉よ、どういうことなのだ。

「これは実は、あの、最近、変顔するのにはまってるんだ」
 作戦通りにいかない動揺から、恐ろしく浅い言い訳が口をついて出た。
「楽しいのそれ?」
 楽しいわけがない。こうすればもてると聞いていただけだ。
「いやあ、小顔効果が期待できるからね。森野さんもやってごらんよ」
「えぇー」
 嫌がる様子を見せたが、小顔効果につられたのか森野さんは例の鳩豆面をやってのけた。だが照れがあるのかさすがに控えめで、ちょっと可愛く見えるようなあざとさも感じないではなかったが、実際可愛かったのでなんとも言えない。
「いいよ、うまいうまい」
 そういえばトメ吉は森野さんには被虐性嗜好があると分析していたのを思いだした。褒めるより少し揶揄い気味に意地悪なことをいったほうが心を掴めるのではなかろうか。
「ドブ川泳いでる魚っぽいね」
「は? 誰が?」
 眉間にくっきり皺がよった。
「あの鳩」

 ぷるぷる鳴きながら少し先の地面をちょこちょこ歩いている鳩を僕はとっさに指差した。額に大粒の汗が際限なく吹き出してきた。森野さんと僕は鳩を眺めたまま黙ってしまった。
 羽音をたてて鳩が飛び立った。夏の強い陽射しが、気まずい沈黙を一層いたたまれないものにさせていた。何か会話になるようなことを必死で探したが、焦れば焦るほど「何か言わなくては」だけが思考をぐるぐる回るだけで、気の利いた会話の種など思い浮かぶ余裕もない。着想を求めてあたりを見回してみても、公園には鳩と夏休みの少年少女とゆらゆら揺れてる向日葵が目につくばかりで、現状の打開になんの力も発揮してくれそうになかった。森野さんはまるちゃんのもふっとした顔を両手で優しくはさみながら耳や頭を撫でている。まるちゃんが尻尾を振ってその手をぺろぺろ舐めた。

「よいしょ」
 森野さんが膝からまるちゃんを下ろして立ち上がった。まごうことなく辞去する態勢に入っている。目に涙が浮かんできた。森野さんと一緒に花火を見る夢がはかなく霧消したのを悟ったからだ。
「わたしんちすぐそこなんだ」
「そう……」
 早く帰りたそうにリードをぐいぐい引っ張るまるちゃんを僕は恨めしそうに見つめた。
「飯野くん、そんなにまるごとバナナ食べて喉乾かない? うちきて冷たい飲み物でも飲んでいけば?」
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