第2話 イネディット

文字数 1,596文字

 三人で夕飯に流しそうめんを頂いたあと、美優ちゃんは自分の食器を片付けてから子供部屋に移動した。もう夏休みの宿題はほとんど終えてしまって、二学期の予習を始めてるって聞いてびっくり。
 私は家庭用にしては大がかりな流しそうめんセットの片付けを手伝いながら、気になっていたことを質問した。
「ここって何LDKなんですか? お家賃高いですよね?」
「2LDK。リビング以外は子供部屋と寝室ね」久美さんはちょっと照れながら正直に話してくれた。「管理費はそれなりだけど、夫が私たちに残してくれた分譲なの。だからかな。知らない人は遺産目当てで結婚したんだろうなんて言うのよ。でも、私は次雄(つぐお)さんのことを本当に愛してた。今は八十、九十まで生きる時代でしょ? 七十って早すぎたと思う」
 そう言うと久美さんは目尻に溜まった涙をそっと拭い、悲しみを振り払うように明るい笑顔を私に向けた。
「早苗さんは二十歳よね?」
「はい。七月になったばかりです」と私は答えた。
「ビール飲む? とっておきのがあるから」と、少し悪戯っぽい上目遣いでこちらを見る表情はすごく色っぽい。勿体ないですよ。こんな素敵な未亡人を放っておくのは……。
「ありがとうございます」と先に御礼を言った。ほんとはビールよりサワーの方が好きだけど、さすがに一杯目からは言い出せない。これでも少しは遠慮してるんだ。

 洒落たワイングラスに、見慣れない黒い瓶からビールを注いでくれたあと、久美さんは自分のグラスにも同じように綺麗な泡を作りながら注ぎ終えた。
「一か月遅れの二十歳の誕生日を祝って……乾杯!」
「ありがとうございます。乾杯!」
 一口飲んで、私はビックリした。
「これ、なんて言うんですか? ビールじゃないみたい」
「イネディット。彼の六十九歳の誕生日にプレゼントしたスペインのビール」
「シャンパンみたいですね」
 シャンパンなんてほんとは飲んだことなかったけど、それまで飲んだビールとは全然違う味だったから。
「でしょ? よくそう言われてる。実は結構飲んでるな?」って久美さんに言われちゃった。
「いやいや。ほんとは飲んだことないんです。なんか見た目がそれっぽかったから言ってみただけで」
 私はちょろっと舌を出した。男性相手にこういうことすると『あざとい女』だって思われそうだけど、久美さん相手ならきっと大丈夫。
「ビールにしては高いのよ。奮発して買ったんだけど。定時制高校の同級生に頼んで一緒に酒屋に付き合ってもらったの」
「高校は定時制だったんですか?」
 定時制高校は久美さんのイメージからちょっと想像出来なかった。
「次雄さんのおかげで高校出られた。必死に勉強して最短で卒業したけど、一年ブランクがあったから、最初に高校入学してから四年めの卒業。早苗さんは高校も私立だっけ?」
「はい。中高一貫でそのまま女子大まで……」
「そうかぁ。そういうお嬢様に昔は憧れたなぁ」と久美さんは溜息を漏らす。今は私の方が久美さんに憧れてるのに。
「高校卒業した年、私の二十歳の誕生日に、今度は彼がこのビールをプレゼントしてくれた。でも、次雄さんは唇を湿らせただけ。医者に言われたことをきちんと守る真面目な人だったから」
「病気だったんですね?」
「膵臓癌。彼の誕生日に婚姻届け出したけど、その次の月にステージ4の末期だってわかった」
「辛かったでしょうね」
 私の言葉に、久美さんは応えなかった。
「最初にこのビールをプレゼントした時にね、私も飲みたいって言ったら、『まだ未成年だったからダメだ』って。堅物でしょ? 結婚したらちょっと軟化したけど、その時は、『来年二十歳になったら一緒に飲もう』って。それをちゃんと覚えててくれたの」
「素敵な話」と私は言った。

 少し間を置いて、久美さんは少女時代の思い出を語り始めた。

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