第13話 アリゾナの涙

文字数 3,835文字

 久美さんはデジカメやアイフォンで撮影した写真をMacの画面で見せてくれた。
「あっ、ハワイ! 新婚旅行ですね」
「入籍直前だから婚前旅行だけど」と久美さんは笑った。
「何日行ってたんですか?」
「現地では三日半かな。もっとゆっくりしたかったけど、私の学校もあったし、彼は誕生日までに帰らなきゃならなくて。着いた日は無理しないように何も予定入れずに、二日目はパールハーバー。実はそれがハワイ旅行の目的だったの。三日目にやっとビーチで泳いだのね。四日目は時間が限られてたから買い物だけ。スキューバもヨットもホエールウォッチングもなかったけど、彼の年齢考えたら……ね?」
 久美さんは二冊目の青い読書ノートを開いた。そのページには、坂口安吾の『真珠』の感想が書かれている。
「この小説知ってる?」
「いいえ。『白痴』と『肝臓先生』は読みましたけど」
「十二月八日、次雄さんが生まれた日の出来事が題材なの。その日、日本がパールハーバーを奇襲攻撃して太平洋戦争が始まったのは知ってるでしょ?」
「はい」
「攻撃に先立って特殊潜航艇って小さな潜水艦に乗った九人の日本兵が戦死して、『九軍神』って呼ばれるようになった。生きて帰れる望みのない最初の特攻だったって言われてるけど、『散って真珠の玉と砕けん』って、そんな覚悟で出撃して行った彼らと、その日の自分の日常を対比的に綴ったのがこの小説」
「それで『真珠』なんですね。ところで、『九軍神』ってどういう意味なんですか?」
「日本では、戦死した兵士は『英霊』として靖国神社に祀られたけど、特に壮烈な戦死を遂げた戦没者は『軍神』って呼ばれたの。特殊潜航艇には十人乗ってたんだけど、一人は捕虜になったから九軍神。次雄さんが生まれたその日、日本中が『勝った、勝った!』って大騒ぎしたんだって。生まれたばかりの次雄さんは、当然そんなこと知らないわけだけど、『日米開戦の日に生まれた勇ましい男』って言われて育ったの。ほんとは勇雄(いさお)って名付けられる筈だったらしいけど、長男が嫉妬すると困るって次雄になったんだって。この『真珠』は戦後しばらく発行禁止になってたんだけど、戦時中に掲載された文芸誌が彼の家にあって、次雄さんは中一の時に初めて読んだの。その時、彼はふと疑問に思った。日本は九人の戦死者を軍神として奉ったけど、攻撃された米軍はどうだったんだろうって。それで図書館でいろいろ調べたのね。それが、彼が本の虫になったきっかけみたい。いろいろ読んでいくうちに、アメリカ側にはその日だけで二千人以上の戦死者がいることを知ったの。特に戦艦の乗組員には二十歳前後の若者も沢山いたんだって。彼は言うの。『米兵の彼らにも家があって、家族がいて、故郷を遠く離れたハワイの地で、その日は久々にのんびりできる日曜日だったはずだ。彼らはいったいどんな思いで亡くなっていったんだろう? 故郷の家族はどんな気持ちで息子や夫や父親の訃報を受け取ったんだろう? 僕はそんな怒りや悲しみの上に生を受けたんだよ』って。彼は早苗さん……亡くなった松岡早苗さんのことも、自分が生まれながらに背負った宿命が遠因だって思ってたみたい。それから、こんな話もしてくれた。真珠湾攻撃のために特殊潜航艇の訓練をしたのは、愛媛県の三机湾(みつくえわん)っていう場所なんだって。そこから四十キロくらい南に下ったところに宇和島水産高校があるの」
「宇和島水産高校ってなんでしたっけ……高校野球?」と私はトンチンカンなことを言ってしまった。
「早苗さんは何年生まれだっけ?」と聞かれて、「1999年、平成十一年です」と私は答えた。
「それじゃまだ物心が付く前ね。宇和島水産高校の生徒達を乗せた『えひめ丸』っていう漁業練習船が、ハワイのオアフ島沖でアメリカの原子力潜水艦と衝突して沈没したの。その事故で教員と生徒たち九人が亡くなった」
「九人って、九軍神と同じ……」
 話を聞きながら鳥肌が立った。
「その事故の前の年に、図書館のメンバー全員が交代で二〇世紀最後の慰安旅行でハワイに行ったんだって。彼はパールハーバーに行く予定だったんだけど、その日に限って具合が悪くなって行けなかったの。それで、死ぬまでに必ず来ますって約束して帰国した。その次の年にえひめ丸の事故があったから、とても他人事には思えなかったみたい。『アリゾナ記念館で、亡くなった米兵達にお詫びの祈りを捧げなければ、自分は幸せにはなれない』って言ってたけど、真珠湾を忘れて幸せになってはいけないって想いがあったんじゃないかな?」
「一つ疑問に思ったんですけど、アリゾナ記念館って? ハワイなのにアリゾナなんですか」
「あー、そう思うよね」と写真を開いて説明してくれた。「真珠湾攻撃で日本軍に攻撃されて沈没した船が、戦艦アリゾナと戦艦ユタなの。そのアリゾナを海に沈めたまま、上に記念館を建てたのね。それがアリゾナ記念館」
 画面に映った記念館は真っ白い綺麗な建物だけど、海面から突き出した錆びた煙突みたいなところに油が浮いている。
「この油は『アリゾナの涙』って呼ばれてるの。今も沈んだ船から漏れ出てるんだって。記念館の奥にある慰霊のための場所には大理石の壁があって、そこには戦死したアリゾナの乗組員千百二名全員の名前が刻まれてる。彼は、地元の人たちみたいに花束の代わりに一番大きなレイを買って持って行った。そのレイを名簿の前に供えて、ずっと長いこと祈ってたわ。もちろん私も一緒に祈ったけど。もうそろそろ? と思って薄目を開けて隣を見るとまだ祈ってるの。そんなことを何度繰り返したか判らないくらい長い時間だった。やっと終わって、ずいぶん長いこと祈ってたねって言ったら、真言を千百二回唱えたって言うから、もうびっくり」
「へぇ! すごい……」もう驚き以外何もない。
「そうそう。そのときに私たちのことをじーっと見てたアメリカ人のお婆さんがいて、ちょっと気になってたら、そのあと話しかけてきたのよ。次雄さんは少し英語が出来たから、何て言ってたか聞いたら、『四十年くらい前に、ここで祈っていた日本人の父と娘を見たことがある。あなたたちを見ていたらその二人を思い出した。アメリカは日本にあんなひどい爆弾を落としたのに、日本人のあなたたちがここに祈りに来るのは素晴らしい』って」
「なんか、ジーンとくる話です」と、私は涙を拭った。
「それから、ユタ・メモリアルっていう記念碑に行った。アリゾナと同じように日本軍の攻撃を受けた戦艦ユタの残骸がそのまま海岸にあって、その船にも五十人くらいの米兵がそのまま眠ってる。そうやってアリゾナとユタの犠牲者に祈りを捧げてから、次雄さんの顔が変わったのよ。なんか憑きものが落ちたみたいに明るくなったの。そのあと、アラモアナ・ショッピングセンターで水着とムームーを買ってくれたから、私も彼にアロハをプレゼントした。すぐにホテルで着替えてディナークルーズ行ったの」と船に乗る直前の写真を開いた。「これはその時の写真。彼、なかなか似合ってるでしょ?」
 この次雄さんの笑顔は見たことある……と気づいて、さっきから私たちをじっと見守っている次雄さんの写真と見比べた。
「これって、もしかしてあの遺影の写真?」
「そう。彼が一番気に入ってたから、私の腕と背景を消して遺影にしてもらったの」
 久美さんが写真を先に送ったら、ホテルの部屋で撮られたらしい水着姿が現れた。
「久美さん、めちゃくちゃスタイル良いですね」と私が言ったら、慌てて写真を閉じようとするから、マウスを持ってる久美さんの手を止めちゃった。
「素敵! これは送らないでちゃんと見せてください」
「恥ずかしい……」って照れる久美さんかわいい。「これね。彼が持ってた一眼のカメラで撮ってくれたの」
 何枚か送るとビーチの写真が出てきた。やっと明るい太陽の下で写ってるハワイらしい二人の姿。
「これが三日目。でも、泳いだのは私だけ。彼はカナヅチだったから、ずっとビーチで寝そべってて。そのあと二人でフローズン・ヨーグルト食べたんだ」
 久美さんの生き生きした表情。まるでアイドルの写真集みたい。それにしてもスタイルの良いこと!
「久美さん脚ながーい!」って言っちゃった。
「次雄さんの撮り方が上手いんだと思うよ。ポートレートはあまり経験がないから、期待しないでくれって言われたけど、カメラマンとしてもけっこう優秀だったんじゃないかな。ちょっと待ってね」と久美さんは立ち上がって、一冊の写真集を持ってきた。「ハワイで撮った私の水着写真、当時まだ珍しかったオンラインのフォトブックサービスで彼が一冊の本にしてくれたの」
 その表紙には白抜きで『KUMI』ってタイトルが見える。
「うわぁ! ほんものの写真集だ。グラビアアイドル顔負けですね」
「そう言われると恥ずかしい。胸がぺちゃんこだから早苗さんの少し分けて欲しいな」
 私の方がよっぽど恥ずかしい。水着になるとみんな胸ばかり見るし。
「久美さん、これ何冊作ったんですか?」
「え? これ一冊だけよ」
「えぇ? 勿体ない! 私も一冊欲しかったのに」
 私の言葉に嘘はなかった。ページを捲ると、久美さんはほんとに良い表情で写ってる。これって撮ったカメラマンの気持ち? いいえ、きっと二人の愛の証しね。


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