文字数 8,760文字

 ――二〇〇八年 六月

 高木真尾(まお)は、ずっとなにかに(おび)えながら生きてきた。
 幼い頃から娘を疎んじていた父親、氷のように冷たい家庭生活、そして大好きだった母親のとつぜんの死――。
 ――そう。私はいつもなにかに怯えていた。だからこそ、毎日毎日、目の前の草を()むしか楽しみのない牛みたいな生活にさえ、甘んじて生きてきたのだ。
 なのになぜ・・・・。
 真尾は絶望的な気持ちで、妊娠検査薬にゆっくりと現れてきた赤色の線をみつめていた。
 ――陽性なのだ。九九%の的中率という検査薬で、私は陽性だったのだ。
 彼女は冷たい台所の床に坐りこみ、両手で顔を被った。
 ・・・・今日は疲れてる。睡眠不足でどっぷり疲れてる。昨夜、お腹の中でなにか動くものを感じて以来、一睡もできなかったのだ。
 その疲労が尿にでたのだろうか? と真尾は考えていた。
 それとも極度の緊張感?
 でなかったら、まともに朝食を()らなかったから?
 彼女はあわてて検査薬のパッケージを手に取り、注意書にそういったことが書かれてないか、と何度も読み返してみた。
 だが残念ながら、そこには彼女が期待したようなことは、なにも書かれていなかった。それどころか『妊娠すると、胎盤から尿に分泌されるヒト胎盤性性腺刺激ホルモンに、抗原抗体反応を用いて検出する』、だから九十九%診断ミスはないという絶望的なことが、あえてわかりやすいように赤い文字でプリントされていた。
 ゆっくりと顔を上げて、小さなテーブルの上に置かれた検査薬にもう一度目を向けてみる。
 いま注意書きを読んでいたわずかな間に赤色の線が消えていることを願って――。光の加減でそう見えただけ、なんて結果を夢見て・・・・。
 もちろん検査薬に変化はなかった。
 心なしか、赤い線の色が濃くなったような気がする。
 彼女は検査薬のパッケージを流し台に向かって思いきり投げつけた。それは蛇口にあたって跳ね返り、今朝食べ残したシリアルの中に落ちた。猫がキャットフードを呑み込んだときみたいな、とても嫌な音がした。
 やはり妊娠している。私は確実に妊娠している――。
 ――でも、なぜ?
 二十六才の独り暮らしの女性が妊娠したなんて、いまどき珍しくもなんともないだろうが、

。最近どころか、生まれてからずっと――。それもあの〝怯え〟のせいだ。
 男もセックスも、彼女にとっては〝怯え〟の対象でしかなかった。だから当然のことながら、いまだに男性経験がない。デートすらしたことがない。なのにいま、私は妊娠している。九十九%の確率で確実に妊娠している。
 ――そんなことってある?
 ひょっとして私は、妊娠していないのに検査薬に反応してしまうという、残された一%の人間なのだろうか・・・・。
 真尾は腹部をそっと触ってみた。指先に神経を集中させて、そこに小さな命が育っていることを想像してみる。かすかな鼓動を、仔犬の速足みたいに、忙しない鼓動が聞こえやしないか、と息を殺してじっと耳を澄ましてみる。
 ――だが、うまくいかなかった。
 どれだけ耳を澄ましてみても、生命のわずかな兆候すら感じられなかった。
 私がソーシャルワーカーでなかったら、こんな時こそソーシャルワーカーに相談していただろう、と彼女は思う。
 

なまでに能天気に――。相談さえすれば手品師みたいになんでも解決してくれることを信じて――。
 なにしろソーシャルワーカーは、医療行為以外なんでも親身になって他人の悩みや相談に耳を傾けることが仕事なのだ
 たとえそれが、二十六年間セックス未経験の女の妊娠話でも、笑顔で、心から相手を案じる気持ちをみせながら、相談を受けいれなければならないのだ。
 そうしてじっくりと話を聞いた上で、適切な医療機関や役所への申請方法などを紹介するのが真尾の仕事だった。
 彼女がこれまで経験したなかでいちばんとっぴだった相談は、虫が頭のなかを這い回るという、中年女性の相談だった。

 ◇

「虫?」
「そう、虫だよ」
 その中年女性は、右手の人さし指でこめかみを押さえながらはっきりと応えた。
「いま、ここにいるんだ」とこめかみを指差しながらイラ立ったように言う。
 真尾は苦しそうに顔をしかめる女性の左手を手にとって、両手でそっとつつみ込んだ。
 いつもなら相談者の話を聞きながら、簡単な経歴から相談の内容までを調書に書き留めていくものなのだが、彼女はまず女性のいまの状態がおさまるのを待つことにした。
「どんな虫なの? 大きいの?」
 自分でもあまり意味のない質問だと思ったが、女は顔をしかめたままゆっくりと首をふった。
「見たことないんだ。でも、確実にいる。わかるんだ。・・・・ほらほら」と女はこめかみを押さえた指を、ゆっくりと前のほうに移動させた。
 それは眉の上をなぞるようにして通り過ぎたのち、ゆっくりと後頭部の方向に進んでいった。それが本当に虫であるならば、ちょうどイモ虫のぐらいの速度だった。
「痛いの?」
 真尾も同じように顔をしかめていた。相談者の気持ちになりきる、というのも大切な任務のひとつだった。
「痛いっていうより、ムズムズする感じだよ」
 相談者はパッと目をあけて真尾を見た。
「あんただって手にイモ虫が這ってたって痛くないだろ? そんな感じさ」
 手にイモ虫が這うなんて想像もしたくなかったが、よくわかったということをわからせるために、なんども深く肯いた。それは学生時代に、講義教室の鏡の前でなんども練習させられたことだった。
「いい? ここは決めどこよ!」という講師のことばに、みんな笑いながらもちゃんと鏡を見て真剣に練習したものだ。
「ここで、理解を示していない態度を少しでもとったなら、すべて台無しだと思いなさい。相談者に、こいつは理解していない、仲間じゃないと思われたらそれで――(パンッと手をたたく)、お・し・ま・い。
 相談者は永久に心を開かないと思いなさい。そこでいちばん大切なことは信じること。どんなとっぴな相談でも、相談者にとっては大問題なの。わかった? はい! じゃ、もう一度鏡を見て――」
 とつぜん目の前の中年女が、弾けたように笑った。
 真尾は目を見開いて呆然と女を見る。びっくりするぐらい黄色くて長い歯が、女の痩せた歯ぐきに刺さっているのが見えた。
 真尾はまんまと騙されたのだと思って、バツが悪そうにほほ笑みながら、調書に目を落とした。そこでまた急に、女の笑い声がやんだ。
 見ると、またギュッと顔をしかめている。
 真尾は戸惑っていた。女の行動を事実と受け取っていいのかどうか・・・・。
 その後、その中年女性は、なにごともなかったように、また最初から虫の話しをはじめたので、真尾もはじめて聞く話のように対応し、さらにその後、その中年女性にとって一番適切だと考えられる医療機関への相談を勧めた。

 ◇

 真尾は部屋にもどって、ベッド脇に、ちょっとした棚代わりに使っている白いアリンコチェアの上に置いてあった、小さなカレンダーを手に取った。そして冷静に、自分が妊娠したと予想される日をあらためて計算してみた。
 もともと生理痛がひどいたちだったので、最後の生理がいつだったかはよく憶えている。
 一月一日――。
 最悪なことに、正月に生理がはじまってしまったので、毎年欠かさず行っていた近所にある小さな神社への初詣が、一日ではなく二日になってしまったのだ。それ以来、生理はきていない。
 そのときはあの忌まわしい生理痛に悩まされることもなくなって、ラッキーだと思っていた。遅れることはよくあったし、二カ月なかったこともザラだったので、彼女はどうせそのうち来るんだし、とのん気に考えていた。
 さすがに三月末になってもこなかったときには少し心配になってきたが、あの産婦人科の診察台に乗ることを想像するだけでも身がすくんだ。そこで彼女は、単にホルモンの異常かなにかだと勝手に解釈して、もうしばらくほうっておくことにした。
 それから四月、五月となっても生理はこなかったが、彼女は相変わらずホルモンのせいにしていた。
 吐くほどではないが、ずっと胃の下あたりがムカムカしているのもホルモン。
 どれだけ寝ても、すぐにまた眠くなってしまうのもホルモン。
 微熱がずっと続いているのもホルモン。
 顔の肌がちょっとカサついたと感じるのもホルモン。
 ソーシャルワーカーとしてはけっして褒められた病状判断とはいえなかったが、妊娠という心配がまったくなかったこともあって、真尾は体調不良はすべて二十五歳を過ぎた加齢によるホルモン異常のせいだと思い込むようにしていた。
 それが昨夜、お腹の中でなにか動くものを感じたときは心底ビックリした。
 最初は誰かにお腹を叩かれたのかと思った。だが、恐るおそる部屋を見まわしてみても、誰もいない。明かりをつけた部屋の中は、耳が痛くなるぐらい

と静まり返っていた。
 念のため、玄関のドアと窓の鍵を確かめてみたが、ちゃんと閉まっている。以前、朝起きた時にドアのカギを閉め忘れていたことがあったので、彼女はそれ以来チェーンロックもしっかり閉めるようにしていたが、今はそれもしっかり閉まっていた。
 安心してもう一度寝ようとした時にまた動いた。
「なによ、これ!」
 彼女は飛び起きて布団をめくり上げ、自分のお腹を見下ろして叫んでいた。
「どうしたっていうの?」
 真夜中であることはすっかり忘れて大声で怒鳴っていた。
 恐るおそるお腹を触ってみたが、もうそれ以後は動かなかった。
 お腹の中に大きな回虫でもいるのかと思うと、それからは一睡もできなくなってしまった。
 そこで妊娠を疑ったのは明け方近くだ。
 もしかすると・・・・、と彼女は思った。
 あり得ないことだが、最近続いている体調不良を冷静に判断すると、『妊娠』ということが一番当てはまるような気がした。
 そこで朝になるのを待ってから勤務先の大村クリニックに欠勤することを連絡し、朝からなにも()らないのはいけないと思って、せめてシリアルだけでも食べようとしたが、それも途中で断念し、そのままはやる気持ちを抑えてベッドの中で九時になるのを待ち、急いで近くで一番大きなドラッグストアへ行って妊娠検査薬を買ってきたのだ。コンビニでも検査薬が売っているのは知っていたが、彼女はそうしたくはなかった。こんなことまでコンビニですますなんて、なんだかいけない気がしたのだ。

 カレンダーをよく見ながら、最後の生理が終わった日からの週数を数えてみる。
「・・・・もう二十三週を超えている」
 真尾は息をのんだ。
 母体保護法によって、中絶手術は二十二週までと決められているのだ。つまり、もう中絶手術ができない・・・・。
 彼女は慌てて、本棚にあった大学時代の教科書の中から、妊娠から出産まで書かれた本をだしてきて、『妊娠六ヶ月(二十~二十三週)』の項目を急いで読んでみた。
 それによると、胎児はすでに二十三~二十五センチ! もあり、体重は四〇〇~五〇〇グラムで、だいたいパイナップルぐらいの大きさらしかった。髪の毛が多くなり、まつ毛やまゆ毛もはっきりしてきているようだ。
 彼女はベッドの上で頭をかかえこんだ。
 私は父親が誰かもわからない赤ん坊を身ごもってるっていうの?
 ・・・・あり得ない。そもそも、どうして私は妊娠してるの?
 彼女は立ち上がって大きく深呼吸をすると、台所へ行き、冷蔵庫からミルクパックを取りだしてコップに注ぎ、再び戻ってくると、こんどはベッドに背中をもたせかけるようにして坐った。
 そこで、排卵日だと思われる一月半ばのことをよく思い返してみる。なにか変わったことはなかったか、冷静に思い返してみる。
 そのとき勢いよくドアがノックされた。
 彼女はビックリして、危うくミルクをこぼしそうになった。
 目覚まし時計を見るとまだ九時半前だ。平日のこんな時間に知人が尋ねてくるなんて考えられないし、勤務先の大村クリニックの人なら早すぎる。
 彼女は息をひそめてじっとしていた。相手が誰であっても出るつもりはまったくなかった。そんな気分じゃないし、こんな時間に、重要な用件のある相手とも思えなかったからだ。
 どうせ新聞の勧誘か、宗教の誘いに決まってる。
「お宅、なに新聞?」
「あなたは、いま、幸せですか?」
 ――いまは何もかもウンザリだった。
 彼女は、外まで聞こえるわけがないのだが、それでも音を立てないように気をつけながら、ミルクをそっと口に含んだ。

 コンッ、コンッ、コンッ――。

 三度のノック音を聞くと、もう十五年ぐらい前に亡くなった祖母を思いだす。
「いい? 三度ノックしちゃいけないよ」と祖母はやさしく諭すように真尾に向かって言ったものだ。「いいかい、真尾。ドアのノックは二度だ。コン、コン、の二度。わかるかい? 三度ノックするようなヤツは、オカマか娼婦に決まってるんだ。わかったね――」
 まだ小学生の低学年だった真尾に向かって『オカマか娼婦』というのを真面目に教え込もうとした祖母を思いだして、真尾はほほ笑みながら、もう一度ゆっくりとミルクを口に含んだ。

 コンッ、コンッ、コンッ――。

 やっぱりチャイムの電池をはずしておいて正解だった、と真尾は考えていた。
 昔からあの音がどうも好きになれないのだ。
 当然ながら、いつもチャイムが鳴るのは唐突で、しかもなんの遠慮もなく、ひたすら元気なあの音が嫌いだったのだ。毎回心臓の鼓動がちょっとズレるんじゃないかと思うほどビックリする。その乱れた鼓動のままドアを開けにいくことが嫌だったし、ドアを開ける前からすでに〝怯えている〟自分も嫌だったのだ。
 それがノックだと、それなりに個性がでる。
 宅配便なら、意識はもう次の配達先にいっていそうな(せわ)しないノック。新聞の勧誘なら、元気よく、無害な明るさを装ったようなノック。大家なら鷹揚に、面倒くさそうなノック。
 部屋を訪ねてくる人物がある程度限られていることもあって、ノックの音だけで七割ぐらい訪問者を判別できる自信があった。その時の相手の

なら、九割以上の確率で判断できる。不機嫌な人間は、決してやさしくノックしたりはしないのだ。
 でも、チャイムだったら――。

 コンッ、コンッ、コンッ――。

 だんだんノックの間隔が短くなってくる。
 真尾の記憶リストにはないノック音だ。しかし、在宅しているのがわかっているような、とても確信のある叩き方だった。
 真尾は足音を忍ばせてゆっくりとドアに向かった。途中、膝がコキッと音をたてたので動きを止め、そのまましばらく様子をうかがってから、改めてゆっくりとドアに近づいていった。
「真尾さん? 高木真尾さん?」
 来訪者は、小さな声で、真尾をフルネームで呼びかけていた。年配の女性のようだ。
 ドア脇の表札や、一階の郵便受けにも〈高木〉としか名前は書いてないのに、私をフルネームで呼ぶなんて・・・・。
 やっぱり、あのなにかと細かい大家だろうか?
 ――いや、これは大家の叩き方じゃない。彼女はもっと遠慮のない叩き方で、しかもノックは二度と決まっている。
「真尾さん? 高木真尾さん?」
 今度は声がすこし大きくなった。
「高木さん?」と別の声もする。
 そっとドアスコープを覗いてみると、そこにはまったく見憶えのない二人の女性が立っていた。
 歳はおよそ五十ぐらいで、どちらの女性も目を閉じて三秒もすると忘れてしまいそうな薄い顔立ちだったが、前の小太りの女性の服装が緑色のワンピース、その後ろに隠れるようにして半身をのぞかせている方が黄色のワンピースという、とても個性的な格好をしていた。
 前の緑服の女が、真尾が覗いているのを知っているみたいに、ドアスコープに向かってニッコリとほほ笑んで、ゆっくりとおじぎした。うしろの黄服の女もあわてておじぎをした。
 真尾はサッと身を引いた。奇妙な組み合わせのようにも見えるが、やはり宗教の勧誘だろう。そんな笑顔だった。
 もう一度のぞいてみると、ふたりはドアに向かって笑顔のままジッとしていた。ポーズを決めたまま、なかなかシャッターが降りない記念写真を撮っているみたいだった。
 それで反応がないとわかると、
「ま、お、さ、ん――」と緑服の方が一歩ドアに近づいて、一語一語区切りながら呼びかけるように言った。
 それでも真尾は応えない。ドアスコープから二人を凝視しながら、そのまま諦めて立ち去るのを待っていた。
「ま、お、さ、ん――」と緑服の女がもう一度言った。
 それからしばらく待っても真尾がなにも応えないとわかると、女はつづけて言った。
「あなたは、いま、ご懐妊されてますね。そのことについてちょっと・・・・」
 真尾は危うくガラスコップを落っことしそうになった。
 私だってついさっき知ったばかりだというのに!
 この女はどうしてすでに知ってるの!
 ドラッグストアで妊娠検査薬を購入するのを見て、私の後をつけてきたのだろうか・・・・。
「そのことでちょっとお話が――」と緑服の女がドアに向かって話しかけている。
「お話が――」と黄服がおなじセリフを繰り返す。
 真尾は大きく目を見開いてその場にしゃがみこみ、グラスを床の上に置いた。
「お願いですから、ちょっと開けてくださいませんか?」
「――くださいませんか?」
「とても重要なことなんです」
「――重要なんですよ」
 しっ! と緑服が黄服を叱る声が聞こえた。
 緑服の女の、紙みたいに薄っぺらい笑顔が怖い顔にさっと豹変する様子と、黄服が首をすぼめ過ぎて鼻先しか見えなくなっている亀みたいな姿を、真尾はぼんやりと想像していた。
 それにしても、この二人は一体誰なんだろう。いかにも無害そうに見えるが、それがかえってよけいにたちが悪いようにも見える。
 真尾はゆっくりと立ち上がって、もう一度ドアスコープをのぞいて彼女らの他に誰かいないかを確認した後、ようやくドアのロックを外した。その時になって、いつも掛けているチェーンロックが外れたままだったのに気づいて慌ててはめようとしたが、いきなりドアが全開にされた。
「オハヨウ、ゴザイますぅー」と緑服の女が、明るくあいさつをしてきた。笑顔も全開だった。
「はじめまして!。私はイマイユキエ。こちらがサナイフサコでございますぅー」と早口で言ってまた頭を下げた。紹介された黄服の方も、深々と頭を下げた。背中には幼稚園児みたいに、小さな黄色いリュックをしょっていた。二人とも背が小さかった。一五〇もないはずだ。
「いきなりで大変申し訳ないのですが、ちょっと私どものマザーハウスへお越しいただけませんでしょうか?」
「は?」真尾は驚いて、二人の女を交互に見た。「どちらへですか?」
「私どものマザーハウスです」きっぱりと緑服。
「とてもイイところですよー」と黄色服の女がニッコリと笑った。
「そこで、あなたが今ご不安に思ってることを、すべてご説明させていただきます! そのままで結構ですので、どうぞいらっしゃってください」
 そのとき黄服の女がとってつけたような笑顔のまま一歩前にでてきて、真尾の手をきつく握ってきた。その手はカエルみたいに湿っていて、ナメクジみたいに冷やりとしていた。
 真尾はすぐにその手をふりほどいた。
「やめてください!」自分でも声の大きさに驚いたが、黄服の方がもっとビックリしていた。
 緑服の女もちょっと驚いた顔をしたが、すぐに笑顔をつくって、手に持ったハンカチを鼻の頭に軽く押しあてた。ハンカチも服の色と同じ濃い緑色だった。
「あのー、そう、お時間はとらせませんから・・・・」
「いま、ここで、教えてください」
「え? いま、ここで?」と緑服の女は、『ありえない』ということを強調するように、周囲をキョロキョロと見回した。
「・・・・」黄服の女はなにも言わなかった。まださっき真尾に手をきつくふりほどかれたショックから立ち直っていないみたいだった。
「それはちょっと・・・・」と緑服。「じゃ、せめて中でお話を・・・・」
 そう言って部屋に入ろうとする緑服の女の前に真尾は立ちはだかった。
 得体の知れない人間を部屋に入れるなんて祖母の教え以前の問題だ。
 真尾を見上げるようにして、緑服の女が笑顔のまま停止していた。彼女は本気で部屋の中に入ろうと思っていたようで、それを断られるなんてまったく考えてなかったみたいだった。
 その後ろで黄服の女が真尾をずっと睨みつけていた。ハンカチを持った右手が震えている。それは大げさで芝居じみていたが、彼女の怒りは本物のようだった。
 真尾はかまわずに、緑服の女に目を向けた。
「ここで説明してください」
 緑服の女からは笑顔が消えていた。かつて笑顔だった痕跡さえも残っていなかった。
「わかりました」
 冷静な声で、緑服の女が言った。そして緑色のセカンドバックの中から小さな香水の瓶を取り出す。その瓶もうすい緑色だった。キャップを外すと、霧吹きになっているタイプのものだ。
 緑服の女は、真尾を見上げてニッコリとほほ笑んだ。
「これはなんだかご存知?」
 真尾は首をふった。
 すると緑服の女は、香水の瓶のラベルを指差して、真尾の顔に近づけてきた。
 真尾もそのラベルをじっと見る。
「ブルガリのエアウ・パフ・・・・」とまで読んだところで、いきなり顔に香水を吹きかけられた。
「痛っ!」真尾が目を押さえた。焼けるように痛い! それに、

と明らかに香水ではない匂いがする。
 真尾は一瞬にして気が遠くなった。
 気を失う瞬間、猿みたいに飛び跳ねながら手をたたいて悦ぶ黄服の女のかん高い笑い声と、横から出てきた黒い影に身体を支えられたのだけはわかった。
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