文字数 3,127文字

『転機』というものは、ほんとうに目に見えるものなのね、と小野アリアは実感していた。アリアにとっては高木真尾に会い、促されるままにその場で眠ってしまったことがまさしく転機だったのだ。
 いま思い返してみても、あのとき目覚めた瞬間に生まれ変わったような気がしてならない。それほど清々しい気分だったのだ。そして時間をかけて体内にたまっていた(おり)をすべて吐き出すのを、真尾はやさしく見守っていてくれていた。もうそれだけで充分だったような気がする。
 彼女はアリアと同じ二十六歳だったが、時に友だちだったり、姉であったり、たまに母親になることもある不思議な存在だった。
 それは、あなたの心と身体が消耗しきっていたからよ、と真尾は笑ったが、私はいまだに彼女のことをとても信頼している。
 だから彼女の助言どおり、堂々とミヤマ薬局を退職し、いまは〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉で、セクハラやDV被害の女性の相談を受けつけるオペレーターの仕事をしていた。そこで他人の相談を聞くことで得られる治癒の効果を狙ってのことだ。
 真尾自身もそこでオペレーターのアルバイトをしていた。毎週月曜日と金曜日の夜の七時から九時まで。それだけの時間でも、彼女にとっては、仕事に活かせる情報を得る大切な時間、と考えているようだった。

 しかし、今日は真尾の勤務日なのに、七時を過ぎても姿を現さなかった。たとえ一分でも遅れるときは必ず連絡してくる性格なのに、すでに十五分も過ぎている。
 隣では安井アサミが、亭主からDVを受けている奥さんからの相談を受けていた。鼻の骨が折れているらしく、話しが聞き取りにくいようだった。
 アリアは真尾の携帯に連絡してみたが、呼び出し音が鳴るだけだった。メールをしても返事がない。
 そこで九時に業務を終えると、急いで真尾のアパートへと向かった。
 胸騒ぎがした。
 死の前兆の時の胸騒ぎとは違う。
 あのビデオテープの時の、嫌な予感とも違う。
 低音の和太鼓が、胸の奥深いところでずっと休みなく鳴っているような感じだった。

 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ・・・・。

 なんとも表現しにくい嫌な感じが、彼女の頭から離れなかった。
 真尾のアパートへはなんども行ったことがあった。
 〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉から歩いて十分ぐらいだったから、業務が終わるとよく誘ってくれたのだ。アリアのアパートもそこから近くだったので、少しぐらい遅くなっても心配なかったこともあった。

 高木真尾の部屋は女性専用の小綺麗なアパートで、彼女の部屋は二階の真ん中の二〇三号室だった。
 なにか異常はないか見逃さないように周囲に気を配りながら、高木真尾の部屋の前までいく。
 真尾の部屋の電気は点いていなかった。
 人の気配も感じない。
 アリアはドアのノブに触れてみた。
 ――なにも感じない。
 ただの冷やりとしたステンレス製のドアノブだった。
 回してみると、驚いたことに、なんの抵抗もなくドアが開いた。
 ドアから顔だけをつっこんで、真尾を呼んでみた。
 真っ暗で、なんの反応もなかった。
 アリアはもう一度呼んでみた。
 同じだった。
 中に入って電気を点けてみる。
 すると足元に、ミルクが入ったままのガラスコップが置かれていた。
 なにかのおまじない?
 それとも、よほど外出するのを急いでいたとか?
 それともまず入る前に私に飲めと?
「まさか・・・・」アリアは声に出して否定した。
 もう一度奥に向かって、声をかけてみる。
 ――返事はない。
 彼女はコップを手に取り、目の高さまで持ってきてよーく観察してみた。
 飲んだ形跡はあった。
 量も半分ぐらいに減っている。
 においはどう考えても、ミルクに間違いなかった。
 腐ってもいない。
 部屋に上がってそのコップを流し台の上に置こうとした時、食べ残しのシリアルと、そこに突き刺さっている小箱を見つけた。
「妊娠検査薬?」
 意外だった。
 高木真尾の知らない生活を、垣間見てしまったような気がした。
 それほど探すこともなく、検査薬の本体は台所にある小さなテーブルの上に置かれていた。
 慌てていたのか、雑に折られた紙のスタンドに立てかけられていた。
 検査薬の四角い窓に赤色の線が浮きでているのが見えた。
「陽性?」
 シリアルに突き刺さったパッケージを手に取ってよく確かめてみると、やはり四角い窓に赤色の線が現れると妊娠していることを示すらしかった。
 アリアは、なにか見てはいけないものを見てしまったような気がした。
 しかし、高木真尾にはフィアンセどころか、彼氏がいるという話しすら聞いたことがなかった。そもそも彼氏がいたとしても、真尾が避妊をしないなんて考えられなかった。それどころか、結婚するまで貞操を守り続ける、というか、それが当然というようなタイプの女性なのだ。
 だったら行きずりのセックスとか?
 それはもっと考えられないことだった。しかし、私が知らない別の顔を持っているのだろうか・・・・。
 アリアはもう一度、真尾の携帯に電話をかけてみた。
 すると、着信音が真尾の部屋の奥でした。
 彼女の好きなビートルズの『ハロー・グッバイ』が流れている。
 行ってみると、真尾のバッグの中から聞こえる。取り出してみると、真尾の携帯に間違いなかった。
 着信履歴を見てみる。
 ここまですると許されないかな、と思いつつも、彼女は自分の胸騒ぎを信じた。
 胸の中でずっと太鼓が鳴りっぱなしなのだ。

 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ・・・・。

 着信履歴には、アリアがかけたのが三件しかなく、発信履歴には大村クリニックが一件あるだけだった。メールはアリアが送ったもの一件だけだった。
 アリアはその場にしゃがみこんで考え込んでみたが、わかっていることが少なすぎたし、そもそも高木真尾のことも多くは知らないのだ。両親が健在なのかどうかすらもわからなかった。
 そこで携帯のアドレスを調べてみると、両親どころか、『高木』という苗字の登録さえ一件もなかった。
 彼女も両親がいないのだろうか・・・・。
 片っ端から携帯に登録されている人に連絡して真尾を探すことも考えたが、まだ現時点ではちょっと大げさのような気がした。自分の胸騒ぎを信じてはいても、そこまでは行動できなかった。私が大騒ぎしたあとに、ひょっこりと真尾が現れたりしたら、それは本当に申し訳ないことになるだろう。
 第一、彼女はそんなに

じゃない。
 見た感じは、清楚でおしとやかな女性、というバカな男たちがイメージする理想の女性像ピッタリだったが、そんな陳腐なイメージで近づいてきた男だったらみんな泣いて退散するだろう。そんな強さを彼女はもっていた。
 ――そう、見た目が強く見える私よりも、真尾の方が

はずっと強いのだ!
 明日の朝になっても連絡がつかなかったら行動を起こそう、とアリアは心に決めた。

 彼女は真尾の携帯をどうしようか迷ったが『ゴメンね。とても心配だから、携帯を預かってます。アリア』というメモをベッドの上に置いて、今夜は引き上げることにした。
 そして自分のバッグを持ちあげたその時、彼女はお腹の中でなにか動くものを感じた。
「え? なに?」
 アリアはお腹を見た。
 なにかが当たったのかと思った。
 床を見回してみるがなにもない。ボールが転がった形跡もなければ、ネズミが走り去ったようすもない。
 彼女はもう一度お腹を見つめてみる。
 そして、お腹を撫でてみる。
 少し張った感じがするが、他に変化は見られなかった。
 そこで彼女が出口へ向おうとした時、また動いた。
 今度は声もでなかった。
 ビックリしたまま、自分のお腹を、まるで別の生き物でも見るような目で、じっと見下ろしていた。
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