文字数 8,922文字

 ガンッ、ガンッ、ガンッ――。
 いつも団地は、九十年式の古いグロリアワゴンのダッシュボードを、こぶしで思いきり叩いてからエンジンをかける。起きろよ!、の合図らしかった。
 助手席に也子が坐り、後ろに時空が乗っていた。時空は背をシートにつけずに、直角に坐っていた。理由を聞いても、彼は答えない。彼はほとんど誰とも会話をしなかった。

 高木真尾のアパートの前まで来ても、誰もすぐには車からはでなかった。しばらくじっとしていて、まだ真尾が拉致されたことが表沙汰になっていないのを、周囲のようすから確認しようとしていた。
 朝の九時半過ぎ――。
 昭和の和洋折衷な住宅や、今どきのモダンな住宅などが混在する結構規模が大きな住宅街だったが、出勤ラッシュは終わっていたので、人影はまったく見当たらなかった。
「時空。ちょっと見てきて」
 直角に坐っていた時空はすぐにドアをあけ、滑るように外へでた。彼は長身だが身軽だ。おそらく階段を使わなくても、五秒で真尾の部屋までたどりつけるだろう。
 いまも飛ぶようにアパートへ向かい、真尾の部屋の前で周囲を確認することもなく、いきなりドアを開けて中に消え、音も立てずにドアを閉めた。誰かが真尾のアパートを注意深く見張っていたとしてもまったく気づかないのでは、と思わせるような俊敏性だった。

 也子は、この二月から時空が高木真尾を監視していたのを知っていた。ハウスには携帯が二台しかなく、一台が時空、もう一台を也子が管理していたために、時空からのメールを彼女が毎日受け取っていたからだ。
(いま)孵化(ふか)せず』
 それが時空から送られてくるメールで、朝の七時、昼の十二時、夜の八時に、自動送信しているのではないかと思えるぐらい、毎日正確に送られてくる。メッセージもずっと変わらなかった。
 それが昨日の朝――結局、彼はそれまで一度もハウスに戻ってこなかったが――、『卵、(かえ)る』といきなりメールがきたのだ。
 そのメッセージは簡潔で素気ないものだったが、それはエクステンションマークを十個つけてもおかしくないぐらいのできごとだった。
 それでようやく大きな歯車がまわり出したのだ。マザーハウスの怨嗟がねっとりと絡みついた大きな歯車が――。
 也子には、大きな音を立てて(きし)みながら動きだす、その重々しい音が聴こえるような気がした。
 これでいいのかどうかの判断は也子にはつかなかったが、すでに歯車は回ってしまったのだ。いまはもうその流れに身を任せるしかない、と也子は覚悟を決めていた。

 しばらく時空からの反応を待ってみたが、なんの連絡もなく、変化もなかったので、也子も団地も真尾の部屋へと向かった。
 途中、誰とも会わなかった。日中の住宅街なんて、ゴーストタウンみたいにほとんど人がいないのかもしれない、そんな気がした。
 真尾の部屋に入ってみると、時空が冷蔵庫を開いて内部に入っているモノをじっと観察していた。
 彼がなにに興味をもって見ているのかわからなかったが、也子はそんなことには興味なかった。もとから計り知れないものに興味をもつ男だったので、常日頃からあまり関わり合わないようにしていたのだ。
「時空! 急いでね。そんなに時間はないのよ」
 そう言うと、ようやく彼は持ってきたゴミ袋に冷蔵庫の中身を一品一品確認しながら詰めていく。パッケージがあるものはじっくりと読み、肉類や野菜や果物は丹念ににおいを嗅いで吟味する。調理するメニューにまで思考をめぐらせているみたいにゆっくりだった。
 その行為を非難したところでなにも変わらないのがわかっていたので、也子はため息をつきながら、まず真尾のベッドがある部屋にはいっていった。
 ここへ来る前から、二十六歳OLの

の部屋がどういったものなのか、とても興味があった。これまで雑誌などで見かけることはあったが、本当のところはどうなっているのか、まったくわからなかったのだ。
 じっさい、真尾の部屋は、也子が想像していた二十六歳OLの部屋そのものだった。
 大きな窓には白のレースのカーテンが引かれ、その左右には厚手の薄いベージュのカーテンがきっちりと束ねられていた。その窓の横には腰の高さぐらいの白い収納棚があり、その上にはちょうど上半身が映るぐらいのちょっと大きめの鏡となぜかトースターが置かれていて、その脇に太めのロープで編まれたかわいいゴミ箱が置かれていた。
 ちょっと目を引いたのは、ベッドヘッドの脇に、北欧のミッドセンチュリーで有名な、白いアリンコチェアが置かれていたことだ。イスとして使用した形跡はあまりなく、座面には携帯の充電器とティッシュ箱が置かれていたが、それでもそのチェアがあることで、シンプルすぎて個性のないただの小綺麗な部屋でしかなかったものが、ちょっとデザインに興味のあるセンスのいい女の子の部屋に見える効果はあった。
 ――いやいやいや! こんなことしてる場合じゃない。携帯よ! 早く携帯を探さなくっちゃ!
 ベッドには薄いピンク色のベッドカバーが掛けられていたが、薄い羽毛シーツごと一気にどけても、携帯は見つからなかった。サッと部屋の中を見まわしてみても見当たらない。ベッドの脇に黒のトートバッグがあり、その中を確認してみたがなかった。
 携帯を置いて失踪する若者なんてまずいないから、それは必ず持ってくるようにという厳命を受けていたのだ。
 也子は手にもった黒のトートバッグを団地に渡してから、メモを見ながら真尾の携帯に電話をかけてみた。もちろん後々の問題を避けるためにも番号は非通知にする。
 だが、部屋のどこからも音がしない。
 呼び出し音は聞こえるのだが、携帯の着信音はどこからも聞こえなかった。
 ――バイブにしてるのか?
 也子がバイブのかすかなモーター音を聞き逃さないように意識を集中していた時、五回鳴ったところで誰かが出た。
 也子はビックリした。
「・・・・もしもし?」と遠慮がちな女の声がする。
 もちろん、也子は黙っていた。息を殺してじっと相手の様子をうかがう。
 相手の声は真尾ではない。あきらかに真尾よりも高い声だった。
 騙されたのか? と也子は、相手の気配を探りながら考えていた。アイツは自分の異変を知らせるために、友だちの携帯番号をメモに書いたのだろうか。
「真尾なの? 真尾、大丈夫なの?」
 也子は携帯を切った。
「もっと時間がなくなったよー。急いでー!」
 そういっても時空に急ぐ様子はなく、カマンベールチーズの箱をひっくり返して、そこに書かれた内容をじっくりと読んでいた。
 団地は也子から手渡された黒いバッグをかかえたまま、どうしていいのかわからずに、ただただウロウロしていた。
「とにかく服と化粧品よ、団地っ! 急いでったら! もうっ!」
 服は半畳サイズの押入れの中にあったが、そこには息をのむぐらいビッシリと服がつまっていた。
 上段にはジャケット、ワンピース、サマーセーター、パンツ、スカートなどがハンガーラックにかけられ、下段にはクリアーケースが六個あって、その中にはTシャツや下着類が入れてあった。
 也子は二十六歳の女のクローゼットをはじめてみた。
 こんなに持ってるんだ、と思った。こんな溺れるようにある服の中で生活しているんだ。私もこんな風に服の中で溺れてみたい・・・・。
 彼女は服の中に顔をつっこんで頬ずりした。とてもいい匂いがした。うらやましい、と正直に思った。それにひき換え、私の生活のなんとつつましいことか・・・・。
 身長が一三〇センチではサイズが中途半端で、洋服のバリエーションが少ないという現実的な問題もあったが、それを割り引いても也子の生活はつつましかった。部屋着も含めてまともな服をもっていないのだ。
 そう、私だって外出着は必要よ。今日だってこうして外に出てきてひと仕事してるんだから――。もっとあったって、バチは当たらないはずだ。今度ちょっとマーさんに交渉してみよう、と也子はこころに決めていた。

 也子は押し入れの中にあった服を丸ごとつかんで、部屋の中にぶちまけた。そして手を広げて服の中に倒れこんだ。
「まずは、そこの衣装ケースを運んで」
 也子は服の中でウットリと眼を閉じたまま、団地に指示した。
「全部よ。それからこのブチまけた服もね」
 団地は言われたとおりにした。
 衣装ケースを三ケースずつ二回に分けて運び、部屋にぶちまけられた服は大きな腕いっぱいに三回に分けて運び、最後に、まだ服の中に埋もれてウットリしている也子を服に包んだまま車まで運んだ。

 也子はグロリアワゴンの大きな荷台スペースに服を目いっぱいに敷きつめて、そこに大の字になって寝そべっていた。
 時空は冷蔵庫の中身を入れた大きな袋を脇に置いて、やはり後部座席に直角に坐っていた。
「あ、化粧品忘れた!」と也子は身体を起こしたが、「ま、イイや」とすぐにあきらめてまた服の上に横になった。
「団地ー。あんまり揺れないようにお願いねー。べつに急がなくてイイからねー」
「ブふー」
 そのとき、時空が坐っていた側のドアがいきなり開けられた。
「ちょっと、あなたたち!」
 全速力で走ってきたのか、開いたドアをつかんだまま、肩で大きく息をしていた。小野アリアだった。
 アリアは時空をみて(ひる)んだ。
 なに? この頭に(かぶ)った透明なものは・・・・。
 帽子?
 次に運転席を見た。
 ゴリラみたいな大きな男が面倒くさそうにふり向こうとしたが、太くて首がまわらないので、途中であきらめたみたいだった。
「・・・・ぐフー」
 アリアはすぐにドアを閉めようとした。いま目の前にいる、透明な帽子を被った頭のイカれた男に手をつかまれる前に――。
「ナーニー?」
 荷台から女の子の声がした。
 みると、少女が大量の服の中から顔をだした。
「だーれー?」
 小野アリアは、もう一度、時空、団地、也子の順に顔を見直した。
「あなたたちは誰?」とアリア。
「いきなり何よ!」
「ここで何してるの?」
「アンタこそ誰よ!」也子は服の上にすわり直した。不機嫌そうだった。「ちゃんと名乗りなさいよ!」
「名乗る必要はないわ」とアリア。
「じゃアタイたちもだ。アンタには名乗らない」
 小学生のケンカだ、とアリアは思った。かといって他の男たちがまともな会話ができるようにはとても見えない。
 アリアは也子に目を向けた。
「あなたはここで何しているの? 学校は?」
 この場に一也がいたなら、吹きだしていたに違いない。
 みるみる也子がもっと不機嫌になった。
「団地。出して」
 ガンッ、ガンッ、ガンッ――。
 団地はいつものようにダッシュボードを三度叩いてから、車のエンジンをかけた。
「ちょ、ちょっと、まだ話は終わってないわ!」
「私は終わったのよ。団地、出して」
 団地と呼ばれた男は言われたとおり、すぐに車を発車させた。アリアの方を一度も見なかった。興味もないみたいだった。
 アリアはまだドアをつかんだたままだった。
「ちょーっと! 危ない、危ない!」
 そのとき時空が手をのばして軽々とアリアをかかえ込み、車内に引き入れた。そしてドアを閉める。
 気づいた時には、アリアは車の後部座席に坐っていた。荷台にいる也子から見て、右から時空、ゴミ袋、アリアの順だ。
 最初、アリアはなにが起こったのかわからなかった。
「エーッ!」と、しばらくしてアリアが叫んだ。
 そして時空をみた。
「どうしてーっ!」
「うっさいわねー」也子がニラんできた。「なんでアンタが乗ってんのよ」
 アリアは反対側のドアから逃げようとした。
 しかし開かなかった。
 見るとドアロックがかかっていた。
 あわててそれを外す。
 でも開かない。
「壊れてるのよ、そこ」
 アリアは正面を向いて坐りなおした。
 両手をきちんとヒザの上に置いて、これからどうすればいいのかを急いで考えていた。
「急におとなしくなったわね」也子がおかしそうに笑った。「言っときますけど、アタシはこう見えても二十六なんだから、言葉には気をつけてよね」
「えーっ!」アリアはふり向いて、改めて也子を見直した。「ホントにー?」
「そうよ。アンタはいくつ?」
「二十六だけど・・・・」
「へー、タメじゃん。アンタもアイツと一緒なんだ」
「アイツって真尾のこと?」
「そうだっけ?」
 也子は時空をみた。
 時空は(まばた)きもせずに直角に坐ったままだった。
 アリアはそんな恰好でいる時空を、上から下まで改めてじっくりと見直していた。
「たぶんそう」と也子。「で、アンタはなんなの?」
「真尾の友だち」
「そう? 古いの?」
「いや、まだ三カ月ぐらいかな」
「じゃ、たいしたことないわね」
「たいしたことって・・・・。それよりあなたたちこそなんなの? 真尾をどうしたの?」
「どうしたって?」
「どこかへ連れてったの?」
「そうよ」
「無理やり?」
「・・・・そう、かな。アタシじゃないよ。だからよく知らないわ」
「で、彼女はいまどうしているの? 元気なの?」
「ピンピンしてるわ。このアパートにモノを取りに来たのも、アンタのお友だちの指示なんだから」
「指示?」
「そうだよ」
「真尾が持ってきてって希望したの?」
「そうだよ。だからこうしてわざわざ来たんじゃん」
「そう・・・・」
 アリアには信じられなかった。でも、嘘をいっているようにも見えなかった。
「じゃ、会わせてよ」
「は?」
「彼女が元気なら会わせてよ」
「ウーン。急にそんなこと言われてもナー」
 也子は顔をしかめた。本気で嫌がっているみたいだった。
「ダメなの?」
「だってアタシには決められないよ、そんなこと――」
「じゃ、連絡とってよ。その・・・・、本部に」
「本部? ナニよそれ」
「真尾がいるとこよ」
「なんで本部なの?」
「いえ、たんに、そういうとこは本部かなーって」
「どういうとこよ」
 也子がちょっと笑った。
「わかったわ。ちょっと連絡してみる。でもまた怒られそうな気がするナー」と嫌々ながら携帯を出して連絡をとった。
 最初に電話をとった相手に事情を説明しているようだった。
 途中でケンカになっていた。
「もう! だーかーらー、入れたのは時空だって。じーくーうー。わかった? 誰もアイツを止められないでしょ? アンタだってそうじゃない。――じゃ、アンタが来ればよかったんでしょ! 私なんてちーっとも来たくなかったんだから。・・・・そうよ。――えーっと、ちょっと待ってよ。アンタ、名前なんて言うの?」
 アリアは言いよどんだ。言ってはマズいような気がした。まだこの連中が敵か味方かもまったくわからないのに、本名を教えるなんてあまりにも無防備だろう。ここは偽名で・・・・、と考えていると、横から時空が也子に一枚のメモを差しだした。昨夜、アリアが携帯を預かっていることを記入したメモだ。
「えーっと、『ゴメンネ。とても心配だから携帯を預かって・・・・』、エーッ、時空、なによコレ!」と也子がすぐに文句を言ったが、時空はすでに直角に坐って、じっと前を向いたままだった。
「もうっ! エーっと、ちょっと待ってよね。んー、アリア、だって。それしか書いてない。うん、そう。アリア。――はい。――わかってるわよ。――ナニそれ! いま関係ないじゃない! ――わかったわよ。もう

って言わない。早くしてよねー! ――はい、はい。じゃ、よろしくネー」
 也子は携帯を閉じた。
「折り返しするって。――それより、時空! アンタ、アパートに入ってこのメモ見たの? じゃ、なんでそれを最初に言わないのよ。だから、こんなことになったんじゃないの! もうっ!」
「・・・・・・」
 やはり時空は前を向いたまま、なにも応えなかった。

ってなに?」アリアが訊いた。
 也子はびっくりしてアリアをみた。
「カテキン?」と也子。
「あなた、いま電話でカテキンって」
「あー、カタキン?」也子が笑った。「片金って言ったんだよ。片方の金玉」
「片方の・・・・?」
 アリアが絶句した。それを見て也子が笑った。
「アタシの弟のことよ。まだ十七なんだけど、オンナに全然興味ないみたいだからそう呼んでやったの。片方しかキンタマがないんじゃないの?って。ハハッ、ちょっと怒ってた」
 どこでも見る普通の姉弟ゲンカのように見えた。なぜ、真尾はそんなところにいるのだろう。小野アリアにはさっぱりわからなかった。
「ねえ。アンタもこんなに服をいっぱい持ってるの?」
 也子はぶちまけた洋服を指して訊いた。
 アリアは荷台をのぞき込んだ。
「これって、真尾の服?」
「そう。全部持ってきたんだ。――言っとくけど、本人の希望だからね」
「ふうん、そう。まあ、真尾は倹約家だから、これでも少ない方かなぁ」
「ウソ・・・・」
 也子はしきつめた服を見渡しながら黙り込んだ。
「ま、私より少ないのは確かね」
「そう・・・・」
「なに? どうかしたの?」
 その時、也子の携帯が鳴った。
 表示された名前を見て、嫌な顔をしたがすぐに出た。明らかに先ほどの片金の弟ではなさそうだった。
 ボスか? とアリアは勝手に想像していた。也子からはあまり発言することはなく、いろいろと指示を受けているようだった。
 電話が終わると、也子は広げられた洋服からなにかを探していた。
「なに探してるの?」とアリア。
「アンタを目隠しして連れてこいって」
「え? 私を? どこへ?」
「マザーハウスよ。――んー。これじゃ細すぎるなー。ちょっと、アンタも探してよ」
「マザーハウスって?」
「アンタの大好きな真尾ちゃんがいるとこだよ」
「そうなの。――でも、どうして私を?」
「さあ――」也子も首をひねった。「でも、連れてこいって」
「嫌よ、そんなの――」
「だって連絡とれって、アンタが言ったんだよ!」
「連絡とれって言ったけど、連れてってなんて一言もいってないじゃない!」
「でも連れてこいって言うんだもん!」也子は文句を言った。「仕方ないでしょ! もう決まったの。ワーワー言わないで!」
 アリアはまたドアを開けようとした。
「だからそこは開かないっつーの! 言っとくけど、窓もね。いまさら逃げようとしてもダメよ。時空! その子、押さえといて」
 時空は、自分とアリアとの間に置いてあったゴミ袋をサッと助手席へと移動させてからアリアを見た。
「オマエ・・・・」
 時空がしゃべった。アリアはしゃべる時空に驚きながらじっと見ていた。なにを言うのかと思った。
 也子も手を止めて時空を見ていた。
「オマエ――、会わせてって言った」
「はぁ?」アリアは何のことを言っているのかわからなかった。「なに? なんなの、もうっ! いいから、こっちへは来ないでよ!」と手で制止しながら時空をにらむ。
「いいわ、時空」也子が止めた。「どうせ逃げられないんだから・・・・」
 手にトレンチコートのベルトを持っていた。
「いい? マザーハウスに着くまでじっとしてる? だったら時空に触らせない」
「そんなことしたら着いちゃうじゃない!」
「じゃ時空に押さえこんでもらうだけだよ」
 アリアは時空を見た。
 時空はふたりの会話すら興味がないように、前方を見たままじっとしている。
 それがアリアにはよけいに気持ち悪かった。
「わかったわ。じゃ、目隠しだけね」
 アリアはおとなしく目隠しをさせた。
「痛ッ。もうちょっとゆるめてよ」
「ダメだよ。見えたら元も子もないもんねーっと」
「イテテテッ。・・・・そこは遠いの?」
「そうねー。どうかなー。いいよ、寝てて。アタイも寝るから。――時空はちゃんと見張っててよ。逃げそうになったら抱きついていいからね」
「そんな指示やめてよ」
「じゃ逃げなきゃイイさ。団地ー。わかってるわねー。急がなくてイイからねー」
「ぐフー」

 しばらく右に曲がったり左に曲がったりをくり返しているうちに、すぐにいったい今、どの方向へ向かっているのかもわからなくなった。
 しかし、私はこんなことをしている場合じゃないのだ、とアリアは考えていた。
 昨夜、真尾のアパートで、お腹の中でなにかが動くのを感じて以来、そのことしか頭になかった。真尾の携帯が鳴らなかったら、いまもずっと自宅にこもったまま、だれにも相談できずに悩みつづけていたに違いない。
 妊娠検査薬は、昨夜、真尾のアパートから、自分のアパートへ帰る途中にあるコンビニで購入した。
 陽性だった。
 検査する前から覚悟はしていたが、じっさいに陽性だとわかると、ショックは大きい。
 二年ぐらい前に、しつこい先輩と味気ないセックスをして以来、一度もしていないのになぜだ?
 理由がわからなかった。
 きっと真尾も同じ状態なんだろう、そんな気がした。
 少子化対策のための方策で、闇の政府が女性を片っ端から妊娠させているとでもいうのだろうか・・・・。
 生理がこなくなったのは一月末だ。
 その頃は阿島コウイチのせいで、心も身体もボロボロの時期だった。
 生理がこないことを気にかけてるどころじゃなかったのだ。そもそも生理がこないことも、『心身症型自律神経失調症』のいち症状かとも思っていたのだ。
 それが妊娠していたなんて・・・・。
 アリアは目を閉じたまま、そっとお腹に手をあててみた。
 ――また動いてる。
 お腹の中で旋回しているように、ゆっくりと動いている。
 彼女には、お腹の中で育っている生き物が、エイリアンに思えてしかたなかった。いまにもお腹を突き破って出てきそうな気がして、不安でならない。やっぱり早く病院へ行って処分してもらわなくては、と彼女は考えていた。
 あー、でも眠い。
 昨夜は一睡もできなかったのだ。
 そりゃそうだろう。
 お腹の中にエイリアンを抱えながら眠れるか?
 そんな太い神経持っていたなら『心身症型自律神経失調症』にもならないってものよ。
 いや、でも、いまは寝ちゃいけない。
 今だけは眠っちゃいけない。
 どこに連れていかれるのかわからないのよ?
 なのに眠れるの?
 その程度に私の神経は太いの?
 いやいや、ダメダメ――。
 このシチュエーションで寝るなんてあり得ない!
 死んでも眠っちゃダメよ!
 死んでも・・・・・・。
 ・・・・・・眠っちゃ・・・・・・。
 ・・・・・・。
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