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文字数 5,164文字
小野アリアは、少し前から、近所にあった心療内科医院へ通院をはじめていた。
もう身体が壊れかけていたのだ。頭の中ではずっと蝉が鳴いていたし、右耳に何かものが詰まっているみたいに聞こえなくなり、室温に関係なく、とつぜん吹き出るような汗をかいた。
薬局も休みがちになった。どこが悪いというわけではないのに、どれだけでも眠れた。おかげで洗濯物はたまる一方だし、部屋も汚れ放題。どれだけ夜中に、それも衝動的に掃除機をまわしたくなったことだろう。
病院では、『心身症型自律神経失調症』と診断された。
自律神経失調症の中でももっとも多いタイプで、喜怒哀楽の感情を押さえていたり、周囲の人に気を使い過ぎているなどの日常生活のストレスが原因でおこるといわれた。現れる症状や重さは人さまざまで、心と体の両面に症状が現れるらしい。
通院してしばらくすると、担当医師に、病院内にいるソーシャルワーカーに一度相談してみるように、と言われた。
緊張しながら〈医療相談室〉とプレートに書かれたドアをノックすると、
「どうぞ」と意外に若い女性の声で返事が聞こえた。
「お邪魔します」
アリアはドアを開けてから頭を下げた。
「先生から、こちらへと・・・・」
「聞いてますよ。小野アリアさん、ですよね」
そう言いながら、その若い女性はニッコリとほほ笑みながら机を離れてアリアの前に来た。
「私は高木真尾と申します。よろしくお願いします」と言いながらアリアよりもていねいに頭を下げた。
差し出された手を握ってみると、その手はとてもやわらかくて温かかった。そんな手に久しぶりに触れたような気がした。
「今日はいい天気ですよねー」
高木はニコニコしていた。
「太陽の光を身体いっぱいに浴びましたか?」
「・・・・いえ」
アリアは首をふった。
太陽なんか見てもいなかった。
それどころじゃないんだ。
太陽が傷を癒してくれるのか?
この強烈な耳鳴りを、取りはらってくれるのか?
忌々しい阿島の記憶を、消し去ってくれるのか?
「あら、もったいないですねー。じゃ、ちょっと場所を変えましょうか」
高木は狭い医療相談室をでて、受付の前にあるロビーへと向かった。
午前の診察時間が終わっていたので、人は誰もいなかった。受付係も奥に引っ込んでいた。
真尾はついたままだったテレビを消し、アリアに向いのソファに坐るように促した。
壁一面の大きな窓から、まぶしい陽光が差し込んでいた。
真尾が横の窓を少し開けると、気持ちいい風がサアーっと入ってきた。
アリアは真尾の向かい側に坐っても、なにも言わずに黙っていた。少しでもしゃべると、膿 んでくっつかなくなった傷口が、よけいに開いてしまいそうな気がしていた。
このところずっとそうだ。
傷口に細かい粉をすり込まれたみたいで、それはいつまで経ってもくっつくことなく、ぶざまに開いたままのような気がしてならない。
「あら? とても綺麗ですねー。ちょっと見せてもらってもいいですか?」
最初、アリアはなにを言っているのかわからなかった。
真尾はアリアの手をとって、爪をしげしげと見つめた。
「お店でお手入れをしてもらってるんですか?」
アリアは首をふった。
「ご自分で?」
「――はい」
何もしないでいると嫌なことばかり考えてしまうので、最近の彼女は自分の爪ばかりいじっていた。よりていねいに手入れをするために、目の細かさの違うヤスリまで購入したほどだった。
自分で見ても気持ちいいぐらいきれいに仕上がっているが、誰にも気づかれることはなかった。
誰も私のそんなところ見てないし、興味もないのだ。
そう、私の爪のことなんて誰が気にするものか――。
「今度、私にもしてもらっていいですか? もう、ほったらかしで荒れちゃってて・・・・」
真尾は自分の爪を見て恥ずかしそうに笑った。マニキュアすら塗ってなかった。
確かに、彼女は爪の手入れはしていないようだったが、なにも手入れしてなくても荒れた様子はなく、きれいな手をしていた。
手だけではない。髪も肩までの長さできれいに切り揃えられていて、いままで一度もパーマをあてたことのないぐらいにツヤツヤしていた。それに、まだ一度も染めたこともないのだろう。髪の毛の中に指を差し入れたくなるぐらいサラサラして見えた。
口紅も薄い色だし、化粧も薄い。それは着飾ることに興味がないのではなく、〝素〟を好む、彼女のそういう生き方のような気がした。
「じゃ、いま、どうですか?」と、アリアは控えめに切り出してみた。
「え? いまって? ――もしかして爪のこと?」
真尾もアリアの申し出に驚いたようだった。
「っていうか、器具とか、いま持ってるんですか?」
「ええ。いつも持ち歩いてるんです」
アリアはバッグの中から爪切りとヤスリセット、仕上げ磨き用のシルクの布、ポケットティッシュ、そして色の違うマニュキュアを三本とり出した。
高木真尾は、道具と一緒にソファーの横に移ってきたアリアに向かって、
「うれしい! ホントにうれしい! 人にこんなことしてもらえるなんて、はじめてよー」と、心から嬉しそうに両手を差し出していた。
アリアはまず、爪切りで真尾の爪をきれいに切りそろえていった。切った爪はていねいにティッシュペーパーの上に並べていき、一本一本丹念に仕上げていく。そんな神経質ともいえるほど細やかな行為が、彼女の荒んだ心を鎮 めてくれるのだ。
最初は荒いヤスリから、徐々に細かいヤスリに――。そして甘皮もきれいに切りそろえていく。
最後に、あなたの爪はきれいだから、と言って、透明のマニキュアを塗り、それをじっくりと乾かしてからシルクの布できれいに磨いて終了した。
全工程で二十分ぐらいかかった。
小野アリアは満足そうに真尾の爪を見つめた。
「ありがとう!」
高木真尾は素直に礼をいった。
「ホントにうれしいわ。こんなにきれいな自分の爪を見たの、生まれてはじめてよ」
アリアはにっこりほほ笑んだだけで、向かいのソファに戻っていき、爪の道具をていねいに片づけてからバッグの中にしまい込んだ。そして、惚れぼれと自分の爪に見入っている高木真尾をみて、不意に涙がこぼれた。
何故だろう。
こんなことで泣くなんて、今までなかったことだ。
だが、涙が止まらなかった。
そんなことでも、人に褒められることが素直にうれしかったのだ。
もうずっと忘れていた感覚だった。
ただ爪を磨いてあげただけなのに、こんなに感謝されるんだったら何本だって磨いてあげる。
ただ、それを望む人がいればの話だけれど・・・・。
◇
高木真尾は、大村医師から、ある程度、小野アリアのことを聞かされていた。
「彼女はね――」大村医師は、カルテを見ながら高木に説明した。「ずっとエリートだったんだよ。私立の小中高、そして大学と。一貫してトップクラスだったらしい」
「それに、お綺麗な方ですよね」
大村医師はカルテから顔をあげて真尾を見た。
「知ってるんだ」
「ええ。なんどかロビーで見かけて、こんな綺麗な人でも、なにかを抱えて心療内科にくるんだなーって思って、名前だけは聞いてたんです」
「そう。彼女はピアノもバレエもこなす才女さ。まだ幼い時に父親を亡くしたので、母親と祖母に育てられたんだが、彼女が高校生の時に、その二人一緒に交通事故で亡くしてね。それ以来、天涯孤独という生活だったんだ。
そんな彼女が、去年の夏ごろからセクハラの被害にあっててね。相手はよくある職場の上司ってやつだよ。で、それがどんどんエスカレートしていって、いまの彼女は、人生の底を這ってるんだ。言い方は悪いけど、ゴキブリみたいに一所懸命底を這って、逃げ場を探してるんだよ。あっちの隅、そっちの隅ってね。行くところ行くところで叩かれて、もうずっと動きっぱなしなんだ」
高木は肯いただけで、なにも応えなかった。そんな世界がどこか遠い別世界にあるのではなく、現実の身近な職場にあるから恐ろしいのだ。
これまでにもそんな話をどれだけ聞いてきたことだろう。
「もう、ぜんぜん周りがみえてなくて、おそらくいまの彼女には、冷たくて、固くて、ざらついた暗い地面しか見えてないだろうね。だから転職をすすめても、そういう逃げ方は納得しない。もともと私はなにも悪くないのに、どうして自分がやめなきゃならないのかって、僕にも食ってかかってくるんだよ。
たしかに、彼女の言い分は間違ってない。でも、世の中そうじゃないこともいっぱいある。じゃ、それを説明しろとくる」
大村医師はそこでカルテをテーブルに置き、小さく深呼吸をした。そして改めて真尾に目を向けた。
「そのセクハラをしていた上司が、最近、どうも自分のアパートの部屋に忍び込んできたらしいんだ」
真尾は口に手をあてて息をのんだ。
そんな場面、想像したくもなかった。実際そういう目にあった小野の恐怖と嫌悪は相当なものだったろう。
「確証はないらしいがね。でも、彼女はそうだと決めつけている。それ以来、彼女の症状が目に見えて悪化したんだ。医師の僕が言うのもなんだけど、もう薬でどうこうできる段階じゃない。いきなり、ずっと底の方へ行ってしまったからね。だから君にちょっと彼女の話を聞いてもらいたいと思ってね」
「わかりました。それも私の仕事ですから」
高木真尾はニッコリとほほ笑んだ。
「でもね、先生。ゴキブリはよくないですよ。話はよく理解できるんですけど。まさか彼女にそれを・・・・」
「まさか」
大村医師は笑った。人をホッとさせる、いつもの明るい笑顔だった。
「彼女にはヒツジで説明したよ」
「それで理解してもらえましたか?」
「たぶんね」
「――わかりました。とにかく彼女から話を聞いてみます」
◇
人は、「話を聞こうか」と身構えられると、かえって話ができないことを真尾は知っていた。
たんなる相談事なら構わないが、どうにもならなくなった苦悩となると、その人自身の奥深くまで立ち入らないと、それこそどうすることもできない。
表面だけの話を聞いていても、表面だけで終わってしまうのが常だ。絆創膏を貼った上から手当をしても、どうにもならないのと同じだ。そうしている間に患者はどんどん深い方へと沈んでいってしまう。
しかし、一度奥深くまで立ち入れたなら、というより、患者本人がその根の部分を自覚したなら、もう問題は解決したも同然だった。あとは話をていねいにこと細かく聞いているだけで、患者本人がみずから治癒していくケースが多い。
時間はかかるが、自分で傷を理解しながら治療をしていけるので、治癒率も高いし、完治率も飛躍的に上がるのだ。
ただ、その一番奥まで立ち入るということがとても難しいのだが・・・・。
高木真尾は、アリアが眼の前で涙を流していることには触れずに、ソファの上で横になった。
そしてゆっくりを仰向けになる。
同じ姿勢になることを、小野にも勧めた。
「目を閉じて――」
「はい。深呼吸して――」
「はい、もう一度――」
そのようにして真尾はアリアを落ちつかせた。
「じゃ、もう一度、ゆっくりー――」
よほど疲れていたのだろう。小野アリアはそれから三十分ほど眠った。
無理もない、と真尾は思った。
大村医師から話を聞いただけでもひどい話なのだ。毎夜、とてもまともに眠れたものではなかっただろう。それがよけいに健全な心を蝕 んでいくのだ。
真尾は看護師に頼んで毛布を用意してもらい、アリアにそっとかけた。
アリアはなにも気づかずに眠りつづけた。
風がアリアの栗色でやわらかそうな長い髪をさーっと撫でた。
真尾は窓を閉め、アリアの横に坐って彼女が目覚めるのを待つことにした。
◇
その日から五日間、アリアが診察を受けた後に、真尾は〈医療相談室〉で彼女の話を聞きつづけた。
真尾からの質問以外は、ほとんどアリアがしゃべっていた。
それほど早口ではなく、抑揚もなく、どちらかというと、淡々と、まるで他人の人生を朗読するような感じで、語り続けていた。
これまでいろいろと他人の話に耳を傾けてきた真尾だったが、そんな彼女でも耳をふさぎたくなるような話がいくつもあった。
殺された親友、発狂した同級生の男、ダンプカーにつぶされた母親と祖母、高校の教師による陰湿なセクハラ、そして今回のセクハラ被害。
そんな話をすべて身体の中にため込んでいる小野には同情を禁じ得ない。しかし、話すたびに徐々に明るくなり、重い荷物が下りたような笑顔になっていってくれるのはうれしかった。新しい羽根が生えようとしているようにさえ見えた。
もうしばらくアリアは通院が必要かもしれないが、じきにそれも必要でなくなるぐらい強く生まれ変わっていくだろう。
真尾はそう確信していた。
もう身体が壊れかけていたのだ。頭の中ではずっと蝉が鳴いていたし、右耳に何かものが詰まっているみたいに聞こえなくなり、室温に関係なく、とつぜん吹き出るような汗をかいた。
薬局も休みがちになった。どこが悪いというわけではないのに、どれだけでも眠れた。おかげで洗濯物はたまる一方だし、部屋も汚れ放題。どれだけ夜中に、それも衝動的に掃除機をまわしたくなったことだろう。
病院では、『心身症型自律神経失調症』と診断された。
自律神経失調症の中でももっとも多いタイプで、喜怒哀楽の感情を押さえていたり、周囲の人に気を使い過ぎているなどの日常生活のストレスが原因でおこるといわれた。現れる症状や重さは人さまざまで、心と体の両面に症状が現れるらしい。
通院してしばらくすると、担当医師に、病院内にいるソーシャルワーカーに一度相談してみるように、と言われた。
緊張しながら〈医療相談室〉とプレートに書かれたドアをノックすると、
「どうぞ」と意外に若い女性の声で返事が聞こえた。
「お邪魔します」
アリアはドアを開けてから頭を下げた。
「先生から、こちらへと・・・・」
「聞いてますよ。小野アリアさん、ですよね」
そう言いながら、その若い女性はニッコリとほほ笑みながら机を離れてアリアの前に来た。
「私は高木真尾と申します。よろしくお願いします」と言いながらアリアよりもていねいに頭を下げた。
差し出された手を握ってみると、その手はとてもやわらかくて温かかった。そんな手に久しぶりに触れたような気がした。
「今日はいい天気ですよねー」
高木はニコニコしていた。
「太陽の光を身体いっぱいに浴びましたか?」
「・・・・いえ」
アリアは首をふった。
太陽なんか見てもいなかった。
それどころじゃないんだ。
太陽が傷を癒してくれるのか?
この強烈な耳鳴りを、取りはらってくれるのか?
忌々しい阿島の記憶を、消し去ってくれるのか?
「あら、もったいないですねー。じゃ、ちょっと場所を変えましょうか」
高木は狭い医療相談室をでて、受付の前にあるロビーへと向かった。
午前の診察時間が終わっていたので、人は誰もいなかった。受付係も奥に引っ込んでいた。
真尾はついたままだったテレビを消し、アリアに向いのソファに坐るように促した。
壁一面の大きな窓から、まぶしい陽光が差し込んでいた。
真尾が横の窓を少し開けると、気持ちいい風がサアーっと入ってきた。
アリアは真尾の向かい側に坐っても、なにも言わずに黙っていた。少しでもしゃべると、
このところずっとそうだ。
傷口に細かい粉をすり込まれたみたいで、それはいつまで経ってもくっつくことなく、ぶざまに開いたままのような気がしてならない。
「あら? とても綺麗ですねー。ちょっと見せてもらってもいいですか?」
最初、アリアはなにを言っているのかわからなかった。
真尾はアリアの手をとって、爪をしげしげと見つめた。
「お店でお手入れをしてもらってるんですか?」
アリアは首をふった。
「ご自分で?」
「――はい」
何もしないでいると嫌なことばかり考えてしまうので、最近の彼女は自分の爪ばかりいじっていた。よりていねいに手入れをするために、目の細かさの違うヤスリまで購入したほどだった。
自分で見ても気持ちいいぐらいきれいに仕上がっているが、誰にも気づかれることはなかった。
誰も私のそんなところ見てないし、興味もないのだ。
そう、私の爪のことなんて誰が気にするものか――。
「今度、私にもしてもらっていいですか? もう、ほったらかしで荒れちゃってて・・・・」
真尾は自分の爪を見て恥ずかしそうに笑った。マニキュアすら塗ってなかった。
確かに、彼女は爪の手入れはしていないようだったが、なにも手入れしてなくても荒れた様子はなく、きれいな手をしていた。
手だけではない。髪も肩までの長さできれいに切り揃えられていて、いままで一度もパーマをあてたことのないぐらいにツヤツヤしていた。それに、まだ一度も染めたこともないのだろう。髪の毛の中に指を差し入れたくなるぐらいサラサラして見えた。
口紅も薄い色だし、化粧も薄い。それは着飾ることに興味がないのではなく、〝素〟を好む、彼女のそういう生き方のような気がした。
「じゃ、いま、どうですか?」と、アリアは控えめに切り出してみた。
「え? いまって? ――もしかして爪のこと?」
真尾もアリアの申し出に驚いたようだった。
「っていうか、器具とか、いま持ってるんですか?」
「ええ。いつも持ち歩いてるんです」
アリアはバッグの中から爪切りとヤスリセット、仕上げ磨き用のシルクの布、ポケットティッシュ、そして色の違うマニュキュアを三本とり出した。
高木真尾は、道具と一緒にソファーの横に移ってきたアリアに向かって、
「うれしい! ホントにうれしい! 人にこんなことしてもらえるなんて、はじめてよー」と、心から嬉しそうに両手を差し出していた。
アリアはまず、爪切りで真尾の爪をきれいに切りそろえていった。切った爪はていねいにティッシュペーパーの上に並べていき、一本一本丹念に仕上げていく。そんな神経質ともいえるほど細やかな行為が、彼女の荒んだ心を
最初は荒いヤスリから、徐々に細かいヤスリに――。そして甘皮もきれいに切りそろえていく。
最後に、あなたの爪はきれいだから、と言って、透明のマニキュアを塗り、それをじっくりと乾かしてからシルクの布できれいに磨いて終了した。
全工程で二十分ぐらいかかった。
小野アリアは満足そうに真尾の爪を見つめた。
「ありがとう!」
高木真尾は素直に礼をいった。
「ホントにうれしいわ。こんなにきれいな自分の爪を見たの、生まれてはじめてよ」
アリアはにっこりほほ笑んだだけで、向かいのソファに戻っていき、爪の道具をていねいに片づけてからバッグの中にしまい込んだ。そして、惚れぼれと自分の爪に見入っている高木真尾をみて、不意に涙がこぼれた。
何故だろう。
こんなことで泣くなんて、今までなかったことだ。
だが、涙が止まらなかった。
そんなことでも、人に褒められることが素直にうれしかったのだ。
もうずっと忘れていた感覚だった。
ただ爪を磨いてあげただけなのに、こんなに感謝されるんだったら何本だって磨いてあげる。
ただ、それを望む人がいればの話だけれど・・・・。
◇
高木真尾は、大村医師から、ある程度、小野アリアのことを聞かされていた。
「彼女はね――」大村医師は、カルテを見ながら高木に説明した。「ずっとエリートだったんだよ。私立の小中高、そして大学と。一貫してトップクラスだったらしい」
「それに、お綺麗な方ですよね」
大村医師はカルテから顔をあげて真尾を見た。
「知ってるんだ」
「ええ。なんどかロビーで見かけて、こんな綺麗な人でも、なにかを抱えて心療内科にくるんだなーって思って、名前だけは聞いてたんです」
「そう。彼女はピアノもバレエもこなす才女さ。まだ幼い時に父親を亡くしたので、母親と祖母に育てられたんだが、彼女が高校生の時に、その二人一緒に交通事故で亡くしてね。それ以来、天涯孤独という生活だったんだ。
そんな彼女が、去年の夏ごろからセクハラの被害にあっててね。相手はよくある職場の上司ってやつだよ。で、それがどんどんエスカレートしていって、いまの彼女は、人生の底を這ってるんだ。言い方は悪いけど、ゴキブリみたいに一所懸命底を這って、逃げ場を探してるんだよ。あっちの隅、そっちの隅ってね。行くところ行くところで叩かれて、もうずっと動きっぱなしなんだ」
高木は肯いただけで、なにも応えなかった。そんな世界がどこか遠い別世界にあるのではなく、現実の身近な職場にあるから恐ろしいのだ。
これまでにもそんな話をどれだけ聞いてきたことだろう。
「もう、ぜんぜん周りがみえてなくて、おそらくいまの彼女には、冷たくて、固くて、ざらついた暗い地面しか見えてないだろうね。だから転職をすすめても、そういう逃げ方は納得しない。もともと私はなにも悪くないのに、どうして自分がやめなきゃならないのかって、僕にも食ってかかってくるんだよ。
たしかに、彼女の言い分は間違ってない。でも、世の中そうじゃないこともいっぱいある。じゃ、それを説明しろとくる」
大村医師はそこでカルテをテーブルに置き、小さく深呼吸をした。そして改めて真尾に目を向けた。
「そのセクハラをしていた上司が、最近、どうも自分のアパートの部屋に忍び込んできたらしいんだ」
真尾は口に手をあてて息をのんだ。
そんな場面、想像したくもなかった。実際そういう目にあった小野の恐怖と嫌悪は相当なものだったろう。
「確証はないらしいがね。でも、彼女はそうだと決めつけている。それ以来、彼女の症状が目に見えて悪化したんだ。医師の僕が言うのもなんだけど、もう薬でどうこうできる段階じゃない。いきなり、ずっと底の方へ行ってしまったからね。だから君にちょっと彼女の話を聞いてもらいたいと思ってね」
「わかりました。それも私の仕事ですから」
高木真尾はニッコリとほほ笑んだ。
「でもね、先生。ゴキブリはよくないですよ。話はよく理解できるんですけど。まさか彼女にそれを・・・・」
「まさか」
大村医師は笑った。人をホッとさせる、いつもの明るい笑顔だった。
「彼女にはヒツジで説明したよ」
「それで理解してもらえましたか?」
「たぶんね」
「――わかりました。とにかく彼女から話を聞いてみます」
◇
人は、「話を聞こうか」と身構えられると、かえって話ができないことを真尾は知っていた。
たんなる相談事なら構わないが、どうにもならなくなった苦悩となると、その人自身の奥深くまで立ち入らないと、それこそどうすることもできない。
表面だけの話を聞いていても、表面だけで終わってしまうのが常だ。絆創膏を貼った上から手当をしても、どうにもならないのと同じだ。そうしている間に患者はどんどん深い方へと沈んでいってしまう。
しかし、一度奥深くまで立ち入れたなら、というより、患者本人がその根の部分を自覚したなら、もう問題は解決したも同然だった。あとは話をていねいにこと細かく聞いているだけで、患者本人がみずから治癒していくケースが多い。
時間はかかるが、自分で傷を理解しながら治療をしていけるので、治癒率も高いし、完治率も飛躍的に上がるのだ。
ただ、その一番奥まで立ち入るということがとても難しいのだが・・・・。
高木真尾は、アリアが眼の前で涙を流していることには触れずに、ソファの上で横になった。
そしてゆっくりを仰向けになる。
同じ姿勢になることを、小野にも勧めた。
「目を閉じて――」
「はい。深呼吸して――」
「はい、もう一度――」
そのようにして真尾はアリアを落ちつかせた。
「じゃ、もう一度、ゆっくりー――」
よほど疲れていたのだろう。小野アリアはそれから三十分ほど眠った。
無理もない、と真尾は思った。
大村医師から話を聞いただけでもひどい話なのだ。毎夜、とてもまともに眠れたものではなかっただろう。それがよけいに健全な心を
真尾は看護師に頼んで毛布を用意してもらい、アリアにそっとかけた。
アリアはなにも気づかずに眠りつづけた。
風がアリアの栗色でやわらかそうな長い髪をさーっと撫でた。
真尾は窓を閉め、アリアの横に坐って彼女が目覚めるのを待つことにした。
◇
その日から五日間、アリアが診察を受けた後に、真尾は〈医療相談室〉で彼女の話を聞きつづけた。
真尾からの質問以外は、ほとんどアリアがしゃべっていた。
それほど早口ではなく、抑揚もなく、どちらかというと、淡々と、まるで他人の人生を朗読するような感じで、語り続けていた。
これまでいろいろと他人の話に耳を傾けてきた真尾だったが、そんな彼女でも耳をふさぎたくなるような話がいくつもあった。
殺された親友、発狂した同級生の男、ダンプカーにつぶされた母親と祖母、高校の教師による陰湿なセクハラ、そして今回のセクハラ被害。
そんな話をすべて身体の中にため込んでいる小野には同情を禁じ得ない。しかし、話すたびに徐々に明るくなり、重い荷物が下りたような笑顔になっていってくれるのはうれしかった。新しい羽根が生えようとしているようにさえ見えた。
もうしばらくアリアは通院が必要かもしれないが、じきにそれも必要でなくなるぐらい強く生まれ変わっていくだろう。
真尾はそう確信していた。