文字数 6,327文字

 最初は驚きと現実感のなさで自分の妊娠を考える余裕もなかったが、いまこうしてベッドに横になり、染みだらけの天井を見つめながら、今日経験したことをひとつずつ確認していくうちに、これはとんでもないことなのだということがようやく理解できるようになってきた。
 だけど・・・・。
 高木真尾は、お腹の脇にあらわれた突きでた部分をなでてみた。
『ヒジ? それともカカト?』
 意識しているつもりはなかったが、妊娠に気づいてから頻繁に動くような気がする。この時期になると、羊水の量が一段と増えてきて、その中で胎児が自由に動きまわるようになるらしい。
 考えなければならないことがいっぱいあるはずなのに、いま彼女の頭の中を占めているのは、福祉大学時代に観た一本のビデオ映像だった。

 ◇

「いいですか――」
 産婦人科の医師でもある女性の特別講師が、厳しい顔をしてゆっくりと講義室内を見まわした。
「これから一本のビデオを観ていただきます。時間は五分程度です。雑念もなにもなく、最後まで目を()らさずに、すべてを記憶するぐらいの心づもりで、観るようにしてください。では――」
 そのビデオはテロップもなにもなく、いきなり胎内にいる胎児の映像からはじまった。
 粒子の粗い超音波(エコー)の不鮮明な白黒映像だったが、左側に大きな頭があり、細い胴体の先にかわいらしく曲げた足が見えた。腕を上げて、手をニギニギして遊んでいるようにも見える。
 そこへ胎盤(たいばん)鉗子(かんし)というハサミ状の器具が、下側から差し込まれてくる。それで胎児を捕らえようとするが、胎児が逃げる。鉗子が追う。
 それほど広い空間ではないから、胎児はすぐに捕まった。
 そして驚いたことに、胎児はその胎盤鉗子に挟まれて、グチャグチャに潰されていく。大きかった頭も、まだかぼそい身体も、枝のように細い足も、ニギニギしていた手も、みんな一緒にグチャグチャにされたのだ。
 学生から悲鳴が上がった。
 すでに泣いている子もいた。
「画面から眼を()らしちゃいけません!」
 女性講師がきつい調子でいった。
「日本での人工中絶は、毎年三〇万件を楽に超えています。言い換えれば、三十万人の子どもたちが、

ということです」
 画面では、キュレットというスプーン状の器具で子宮内の掻爬(そうは)が行われていた。残留物がないように、子宮内から

()きだすのだ。
 講義室のあちこちで、声を漏らして嗚咽(おえつ)する声が聞こえた。
「このビデオを観て、ショックを受けない人はいないでしょう」
 講師は画面を横切り、教壇に立った。そしてゆっくり時間をかけて講義室内を見まわした。
「昔から、宗教とか、倫理観とか、世間体とかで人工中絶の是非が問われたりしていますが、なにを論じようと、この映像がすべてをもの語っていると、私は思います。論じる人すべてに、この映像を見て欲しいぐらいです。それどころか、男女に関係なく、全国の高校生に、この映像を見せるべきだと、私は思っています」
 講義室内は深海にいるみたいに静かだった。涙をすする音は聞こえていたが、講師の声以外、なにも聞こえてこなくなった。
「私は人工中絶を反対しているわけではありません。というか、そんなこと、恐ろしくてできません。法律で禁止してしまうと、裏で手術する医師が必ずでてきます。どうしても必要とされる場合があるからです。
 でも、今回はこうして資料のために超音波(エコー)の映像を撮っていますが、普段は手探りです。なにも見えない状況で、こんな作業が行われるのです。
 器具からの感覚で子宮の向きを確かめたり、胎児を探ったりと、見えないだけに、とても技術のいる手術です。
 だから子宮を傷つけてしまったり、子宮内に胎児の

が残ったりして、不妊症になってしまう事故がいまでも絶えないのです。それなのに、たいした技術もない医師が手術をするなんて、想像しただけでも恐ろしいことです。無認可の医師もあらわれることでしょう。
 ですから、先ほども申しましたように、私は人工中絶を反対はしません。中絶は良いのか悪いのかの問題ではなく、あってはならないことなのです。母体のためにも、そしてなにより胎児のためにも・・・・。
 私が否定しているのは、避妊をしない安易なセックスです。もちろん百パーセントの避妊はありませんが、全員がこの悲惨な状況を知って避妊に気をつけるようになると、人工中絶は格段に減ると、私はそう信じています。
 みなさんの中には、人にアドバイスをする業務につく方も多いかと思います。ですが、そうでない人も、事あるごとにこの映像を思い出して、自分自身はもちろん、他の方にも避妊の重要性を説いていってください。それが、私がこの映像をみなさんにお見せした一番の目的です。
 ――今日は、どうもありがとうございました」
 女性講師が一礼して出ていった後も、しばらくの間、誰も席を立たなかった。真尾自身も、ショックのあまり放心していた。自分も女性だけに、いま堕胎(だたい)したばかりのような気分だった。

 ◇

 いま真尾は、あの時の映像をくり返し思いだしていた。
 じっさいには二十三週にもなっているので法律上では中絶もできなかったし、十二週を過ぎるとビデオ映像のような掻爬(そうは)法ではなくて、陣痛誘発剤によって強制的に胎児を外にだす、いわゆる人工的な流産になるのは知っていた。
 だが真尾は、あの胎児を、鉗子(かんし)から必死に逃げようとする胎児の姿を、どうしても忘れる事ができなかった。

 真っ暗闇の中で、気分よく浮遊している胎児――。
 起きているのか、眠っているのかの自覚もないだろう。
 しかし、まだなにも理解できなくても、異物の侵入は察知する。
 なにか良くないものが進入してきたのがわかる。
 わけもわからず、嫌がるように鉗子から逃げる。
 その恐怖はどれほどのものだろう。
 そして冷たくて硬くて痛いものに挟まれる。
 それに強大な力が加わってくる。
 なに?
 なに?
 なに――?
 高木真尾は、自分で気づかないうちに泣いていた。声を殺して、手の色が変わってしまうぐらいきつくシーツを握りしめながら、静かに泣いていた。
 でも、父親もわからない赤ん坊を産めっていうの?
 ――胎児が逃げる。
 でも、わが子はわが子よ。すくなくとも半分は私の遺伝子なのよ。それをわが子って言わないの?
 ――胎児が逃げる。
 でも、子供を育てるなんて、私にできるの? それも父親のわからない子を・・・・。
 ――胎児が逃げる。
 いまの生活が激変するのは眼に見えている。それでもいいの? なんのために?
 ――胎児が逃げる。
 赤ん坊は赤ん坊の時期だけじゃないのよ! なのにずっと責任もてるの!
 ――胎児が逃げる。でも、潰される。グチャグチャに・・・・。
 ・・・・・・・・・・・・。

 真尾はふとんをかぶって大声で泣いた。子供みたいにわんわん泣いていた。そしていつの間にか、ふとんの中で身体を丸め、膝をつかむようにして寝入っていた。
 ちょうど胎児のように――。
 子宮の中で、心地よく身体を丸めて眠っている胎児のように――。

 ◇

 翌朝、目が覚めてみると、女の子と大きな男が、ベッドで寝ている真尾を見下ろしていた。
「お寝坊さんねー」と女の子。ニコニコ笑っていた。
「ぐふー」と大男。笑いもせずに、真尾を見下ろしていた。あまり興味ないみたいだった。鉄アレイの方がよほど好きなのだろう。そんな体格をしていた。
 その後ろであの少年が面白そうに笑っている。
 女の子は小学四年生ぐらいに見えた。胸に『もんてすきゅー』とひらがなで書かれたオレンジ色のトレーナーに、細いジーンズをはいていた。小学生によくいるおかっぱ頭だったが、毛先が切り揃えられることなくバラバラだったので、母親がよほど不器用なのか、それとも自分で鏡を見ながらカットしたみたいだった。
 大男の年齢はわかりにくかったが、三十前後といった感じだ。身体にぴったり合った茶色のスポーツランニングと、黒いハーフパンツをはいていた。岩のように頑丈そうな体格だった。
「なに?」真尾は顔の半分をふとんで隠した。「それに誰?」
「まっ。いきなり誰って、高飛車な!」
 少女は後ろにいた少年を睨みつけた。
「おいおい。なんでボクを睨むんだよ」
「ぶフー」
「ま、いいわ。私は也子(やこ)一也(いちや)の姉よ。こう見えてもね」とニッコリと笑った。
「いちや?」
「あれ? お前、まだ名前も言ってなかったの?」と也子はふり向いて少年を見た。
 少年はドアにもたれたままニヤニヤ笑っていた。
「それに、姉? お姉さん?」と真尾。
「姉はお姉さんに決まってるじゃない! 笑わせないでよ」と小バカにしたように也子が応えた。
「え? だって彼は十七でしょう?」
「そうよ。まだお子ちゃまなの」
 也子は一也をみて笑った。
 一也は肩をちょっとすぼめただけで、相変わらず真尾をみてニヤニヤ笑っていた。
「がふー」
「ちょっと団地(だんち)ー、口閉じてなさいよ。ったくー。うっさいのよ」
 団地はあわてて大きな右手で口をおさえた。
「え? で、あなたは?」
 真尾は也子に訊いた。
「わたしは也子よ。さっき言わなかったっけ?」
「はい、也子、さん。・・・・あなたはおいくつ?」
「まっ! レディに年を訊くなんて失礼な! なーんてウソ。アンタと一緒よ。二十六」
「えー! 二十六? ほんとにー? 私はてっきり・・・・」
「てっきりなによ!」
 也子はすぐに噛みついてきた。それを心配そうに団地が見ていた。右手で顔を押さえたままだった。
「てっきり小学生だとでも思ったの? で、何年生? 三年生? 四年生? まさか二年生?」
 真尾は応えずに、ふとんから四本の指をだした。
「お? 成長したじゃん」
 後ろで一也がからかった。
「もう! オマエはあっち行ってな」
 也子が一也を(にら)みつけながらいった。
「だふー」
「ダーンチッ!」
 団地と呼ばれた大男は、あわてて口を閉じた。今度は両手だった。
「で、アンタは――」也子は真尾に顔を戻して訊いた。「もう持ってきて欲しい物のリストは書いたの?」
 真尾は肯いた。
「これだよねー」
 一也がリストを書いた紙を手に持っていた。きのう夕食を食べたテーブルに置いておいたのだ。
 也子は一也を睨みつけたまま、ひったくるようにその紙を奪いとった。
「まず、黒のバッグ。――これは、えーと、ベッドの横にあるのね」
「そうです」
 真尾は肯いた。もう起き上がってベッドに坐っていた。
「――で、服と。・・・・いろいろ書いてあるけど、全部持ってくるね。どうせたいして持ってないんでしょ?」
「・・・・そうかな」
 也子が想像する量がわからなかったので、真尾はあいまいに肯いた。
「とにかく部屋着をもってきて欲しいんです。押入れのクリアーケースの中にありますから」
「わかったわ。――つぎに、冷蔵庫の中身はすべて捨てて電源を抜く、と。本格的にお引っ越しね」
 也子はうれしそうに笑った。
「でも、これも持ってきてあげるわ。捨てるの面倒だし。なんなら冷蔵庫ごと持ってこようか?」
 それを聞いた団地の腕がひとまわり膨らんだような気がしたが、真尾は丁重にお断りした。
「あと、部屋の鏡の前に置いてあるメイクボックスと、お風呂場にあるシャンプーとコンディショナー?」
「気に入ってるんです」
「却下ね。ピクニックじゃないんだから」
「ピクニックー?」後ろで一也が文句を言った。「少なくとも旅行だろ、そこは。家族旅行とか」
「ウッサいわねー。気分をいってるの。・・・・なんか、こう、ウキウキした気分をいったのよ。アンタは黙ってなさいよ。片金(かたきん)っ!」
「かっ・・・・」
 初めて一也が組んでいた腕をといて抗議の顔をした。でもすぐに抑え込んで、また腕を組みなおし、真尾をみて片方の眼を器用にくいっとつり上げた。
 やれやれ、と言いたいらしかった。
「それに化粧品なんて、どーせそんなものすぐに使わなくなるわよ。男なんてこの一也と団地と時空だけなんだから」
「え? その三人だけなんですか?」
「そうよ。なに? イケメンとか期待してたの?」
「いえ、いったいここに何人いるのか、まったく見当もつかなくって・・・・」
「そう? もうこれで全員に会ったんじゃない?」
 也子は後ろをふり返って一也をみた。
「いや、藤乃さんたちがまだだよ」
「それにミヤコ様もね」と真尾がつけ加えた。
 也子が真尾を見た。なにか言いたそうだったが、なにも言わなかった。
「ちょっと、訊いていいですか?」
 真尾が也子に訊いた。
「イイわよ。なに?」
「ここは、どういう人たちの集まりなんですか?」
 最初は質問の意味がわからなかったみたいだったが、すぐに理解すると、声をだしておかしそうに笑った。
「どういう集まりに見える? 私の方が興味あるわ」
「うーん・・・・」真尾は真剣に考えこんだ。「年齢もまちまちだし、人もまちまちだし、・・・・新しい宗教かなにかの集まりなのかなって」
「へえー、宗教かー。なるほどねー。ま、それは、おいおいわかってくるよ。――じゃ、行ってくるね。――あ、そうそう、アンタの携帯はどこにあんの?」
「携帯?」と真尾はとっさにとぼけた。やはり私の携帯に目をつけていたのだ。いろいろとまとめて荷物をもってきた時に、その中にまぎれて携帯が手に入らないかと期待していたのに・・・・。
「多分、ベッドの上だったと思うけど・・・・」
 ベッドの脇に置いた黒のバッグの中にあるのはわかっていた。しかし、それを正直に話す気にはなれなかった。
「あやふやねー。――いいわ。じゃ、ここに番号書いて」
「番号?」
「そうよ。アンタの携帯番号だよ。絶対持ってくるように言われたんだから!」
 やはり、そうなのだ。このメンバーでもそれぐらいは気が回るのだ。ここは(あきら)めて、メモの余白部分に、真尾は自分の携帯番号を正直に書いた。
 也子がメモを受け取ってから団地に合図すると、団地は也子をひょいと抱えあげて自分の右肩に乗せた。
 肩の上で也子が真尾に向かって手をふった。
 あっけにとられた真尾も、あいまいに手をふり返した。
 也子はちょっとしたアトラクションに乗ったみたいにうれしそうだった。その格好のまま二人は出ていった。
 団地の背は敷居の高さを超えていたが、部屋を出るときには背をかがめるのではなく、足を折り曲げるようにして、つまり也子が肩に坐ったまま姿勢を変えなくてもいいように配慮して部屋を出ていった。
 団地という男は也子のことが心底好きみたいだった。
「そろそろ朝食の時間だけど、どうする? ここで食べる? それとも食堂で?」と一也が訊いてきた。
「良ければ食堂で頂きたいんですけど――、ヤヴォトニクさん」
 一也はニヤニヤと笑ったまま、なにも応えなかった。
「ダメですか?」
「いや、もちろん構わないよ。では、ただいまご用意を――」
 そう言い残して一礼すると、一也はすぐに部屋から出ていった。

 真尾は、てっきりあの緑服の女に持ち物リストを細かくチェックされると思っていたので、逃亡を企てているなんて少しも疑われないように、私がこのマザーハウスへ引っ越してくるぐらいの量を思いつくままに書いたが、こんなことならもう少しセーブすれば良かった、とちょっと後悔していた。
 でも、まあいい。ここさえ抜けだせたら、また買い直せばいいだけの話だ。まずは、ここから抜けだすことの方が先決で、ずっと重要ではないか。化粧品をケチったぐらいで脱走を疑われたら元も子もない。
 ――だからこれで良かったのよ。いうなれば、化粧品も洋服も、ここから抜けだすための先行投資みたいなものよ、と真尾は自分を納得させていた。
 そう。まずはここから抜けだすことを早急に考えなくては――。
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