家長フジタニ

文字数 7,220文字

 フジタニは目の前で見る動物園の象みたいに大きな男で、奴が家に来てから、三十年近く住み慣れた私の家の景色は一変した。それは親子丼にフランスパンをむやみに突き立てたような不自然なものに変化していたのだ。ところで、そんな食べ物は何処から食べればいいのだろう?フランスパンの乾ききった固いところで歯を軋ませて、とろけるような半熟玉子に移ればいいのか、それとも、噛む必要も無い半熟玉子を啜って、口が柔らかな感触に甘やかされた後に、粉を吹いた口の水分を吸う程のパンの殻に噛り付けばいいのか?熟考に熟考を重ねたいところだけど、いやいや、今はそんな事を考えている場合じゃない。リビングの隣のテレビのある畳の部屋の真ん中で、椅子に縛り付けられ、猿ぐつわをされて、可哀相に涙を流して全身で助けを求めているお父さんを何とかしなきゃならない。私のお父さんはいつも誰に対しても公正で、私の「正しいこと」のお手本だった。平等が大事、話し合いで解決しよう。私のお父さんはいつもそんなことを言っていた。そんなまともなお父さんは私のお父さん以外、まわりにはいなくて、中学生の頃とか「お父さんって今の時代に合ってないのか?」と思うこともたまにあったけど、でも、ちゃんとしている私のお父さんは誇らしい存在だった。子供の頃だって、ちゃんと話を最後まで聞いて、結論なんて出さないで、ただ、頷いてくれていた。私が将来結婚するのなら、お父さんみたいな優しくて賢い人がいいって小さいころから思っていた。でも、その私の理想のお父さんがフジタニによって縛られている。人一倍自由を主張していたのに、今は全身隙間なく自由を奪われている。私の憧れ、象徴は、今まで生活してきた思い出詰まった清潔で質素な自分の家の中で、フジタニによる薄汚い暴力によって汚されている。
 私はリビングから引き戸を少し開けてテレビのある和室の様子を覗いている。フジタニは声を殺すように泣いているお父さんの隣で白い肌着、短パン姿、座布団二つ折りで、昔から此処にいたように畳に横になってタバコの青い煙が立ち込める中、巨人戦を見ている。しかもオレンジ色が勝っているので「そこや!」「おっしー!」とか声を上げて楽しそうにしている。その横にすすり泣きながらタバコの煙にむせるお父さん。うちでは誰もタバコなんて吸わない。部外者の、侵略者のフジタニが今までのルールを破って好き勝手に振舞っている。私は目を背けたかった。うちの家庭を壊して、酷い仕打ちをするフジタニに激しい殺意を抱いた。思いつく限りの残酷な方法、たとえばフォークで目を突き刺し、抜き出すとか、野菜の皮むき器で手の甲の皮を爪なんかと削って痛めつけたりして、苦痛を与え、私の手で、少しづつフジタニの命を無残に削りたい。本当にそう思う。でも、何より悔しかったのが、そんな傍若無人のフジタニがまるで、この家の主、あいつの言う「家長」みたいになっていることだった。
フジタニはお父さんより十五歳ぐらい若いと思う。ふさふさした黒髪を真ん中で分けて、その下に太く吊り上った眉毛、目は大きく、なにより鷹のように鋭かった。あれは人の目じゃない。肉食獣の目だ。怒りと殺意しかなく、獲物か敵しか見ようとしない目。初めて家にフジタニが来たとき、私は、その目に、落ち着かない締め付けを感じた。首とか、腕とかを蛇に絞められるような生命の危険を感じる不安感で、なんだか気が抜けなくて、顔の裏を毒蜘蛛がくすぐったく這うような緊張感を感じた。それほど、フジタニの存在は私にとっても、家族にとっても第一印象から衝撃だった。それに引き換え、縛られたお父さんは白髪交じりの薄い毛がしなびて、銀縁の眼鏡は冷たく張り付き、まるで枯れかけた花のように危うかった。なんで悪者の方があんなに堂々としているんだろう?力に満ちあふれているんだろう?年齢なのかしら?お父さんとフジタニは親と子の年齢差は無いけど、お父さんのほうがずっと年上だ。お父さんは、もう還暦になる。フジタニは四十代中ごろだと思う。お父さんはよく「人は平等で年齢で上も下もない」って言っていたけど、やっぱり、こうなったら年上のほうが、敬われるべきだと思う。この家で一番偉い人が赤の他人のフジタニだなんて、やっぱりおかしい。年長者はお父さんなのに、いや、お母さんがひとつ年上だった。
 お父さんが縛られた原因はニュースを見ながらのお父さんの言った事がフジタニを怒らせたのだ。テレビで天皇陛下が植樹祭で隣町まで来たことを放送していて、それを見てお父さんが
「だから高速道路に警察が沢山いたんだな。あれだけ警備が付くって事は、よっぽど嫌われ者なんだな。まあ、税金で・・。」
なあ見てみろ!といわんばかりに、いつものように得意満面に皇室批判を始めた。正直いうと、そこはお父さんの少し嫌いなところだった。皇室は特別なんだから別に口出す必要なんてないのに、そこにまで無理やり平等を持ってこようとするのは、世間知らずで子供じみていると私だって思う。
「ちょっとまてえ、お前、今、何言うた?」
床が震えるくらいの低く響く、図太い声でそういうとフジタニが目を三角にしてお父さんを睨んで、お父さんはそれこそ蛇に睨まれたカエルみたいに、恐怖で固まってしまった。私もお母さんも夕食の箸を止めるしかなかった。あの雰囲気でご飯食べられるとしたら、三週間食べてない極限に空腹の人か、感情が無い虫や魚ぐらいだと思う。多少は感情のある小動物ならフジタニの殺気を感じて、枯れるほどの空腹で餌を鼻先にしても、その恐ろしさで飢えも吹き飛び、息も絶え絶え一目散に山まで逃げているにちがいない。お父さんもそんな小動物みたいに、逃げたかったに違いないけど、それほどの野生動物の生きるか死ぬかの性急な判断力も無くて、ただ、固まって、そのうち噴出すように汗をかき始めて、ようやく口を開こうとしたんだけど、
「早く答えろ!」
フジタニの怒号、同時に食卓を大きな手の平で割れるほど叩いた大きな音。急な衝撃にさらに緊張は高まり、一瞬私たちの息が止まった。私もお母さんも、心臓が潰れそうになりながら高鳴り始め、こめかみが痺れるほどびりびりと激しく脈を打った。単純に大きな声って息が止まるほど怖い。吠えられたお父さんは驚きすぎて自分の声を忘れちゃったみたい。言い訳も思いつかないほどの小さな子供の時に大きな怖い大人に叱られる状況って殆どの人が体験して、それを忘れるように長い時間をかけて大人になるんだろうけど、それまでの大人になる過程なんか無視して、フジタニの恐怖が突如として縮こまった精神を捕まえ、ちぎれるほどの力で引き摺り下ろし、叩き付けるように子供の頃の原初的な「大きな存在に対する恐怖」を思い出させ、かわいそうなお父さんの目の前に突きつけたんだと思う。正直、お父さんには悪いと思ったけど、私が標的でなかったことをテレビの中で微笑む天皇陛下に感謝したもの。
 「わいは別に皇室絶対主義じゃない。だがなあ、天皇陛下を大事にしてきた人は沢山おるんや。みんなが大事にしてきたものを、唾吐くように貶すとは、おまえは何様や!わいはそういうのが一番嫌いなんや!」
 そう言い終わる前に、バットのように太いフジタニの腕が風を切り、ビュンと音を立ててた。奴のグローブのような硬い手の平がものすごいスピードで、お父さんの顔を全部隠すぐらいに、鈍い、しかし耳に張り付くような音を立てて打ちつけられた。目の前でお父さんがビンタされたのだ。正直、ショックだ。お父さんの首がしなって、固まった体の弾力で瞬時に元の位置に戻ったけど、それ以上に全身が反り返り、そのまま椅子ごと倒壊してしまった。
 「うううう、も、もう、我慢できないぞ。話し合いで解決するつもりだったが、俺も男だ。学生運動のときも、何人か病院送りにしてやったんだ。」
 瓦礫の中から力なく這い上がろうとするお父さん。台詞は勇ましいが、か細い声で、それがまるっきり嘘だということが、情けないぐらいに分りやすかった。私は恐怖で固まっていたけど、お父さん弱弱しい虚勢が気の毒で、みっともなく、醜く、情けなく、なにより私の裸を公衆の面前でさらす以上に恥ずかしさを感じた。意味の無い反抗なんてして欲しくなかった。お父さんは私にとってあこがれの男性のはずなんだけど、いや、憧れだからこそ、そのみっともない姿に、私自身が辱めを受けている気持ちになった。足の裏から真っ白に力が抜けるような無力感、敗北感、挫折感、焦り、とにかくあらゆる嫌な感情が私の中からどぶ色の噴水みたいに噴出して、私自身を冷やし、汚し、溶かそうとしていた。
 「なんや、反抗するんか?この家の家長である、わいをどうするつもりや?いうてみい!」
 ドンっと衝撃音、フジタニが床を踏み鳴らす。築三十年を超える我が家の薄い床が衝撃に歪み、弾性でテーブルが弾み、置かれた茶碗や箸が音を立てた。この家では地震でもこないとないような揺れが起こった。(よく考えてみれば、もう我が家でない。フジタニに倣うつもりはないが、私もこの家と呼ぶことにする。)揺れとともに、お父さんがしゃっくりでも引きつけでもない、変な「にゃっは」と息をした。いつもなら笑えるところなんだろうけど、この状況下じゃ、無理だ。そんな変な息をしたお父さんが、みっともなく、なんだか、ふざけているようで、少し腹が立った。無責任だと思うけど、「ちゃんとしてよ!」って思った。そんな私の水面下の心の変化に気が付いた人がいた。
 「見てみい、おまえの娘も、要らんこと言う、しょうもない父親に呆れとるみたいや。おい、紗江子、言うたれ、おまえはダメ親父や、死ね!って。トドメさしたれや。」
 急にフジタニに「紗江子」と呼び捨てされ、足の付け根から、心臓にかけて衝撃がキュンと走った。大きな講堂でボンヤリとして、大勢の中、退屈な話を聞いているときに、突如、壇上から大声で指名されたような、嫌な感じがして、心臓が裏返るような不吉な衝撃だった。じんわりとした異物が体の中に進入してきて、勝手に大きくなり、圧迫された神経が犯されたように、手は痺れ、足の裏に力が入らない。心臓の高鳴りが、喉の奥を刺激してうまく声が出そうになかった。何かを言おうと顔を上げたら、泣きそうな、何か言いたそうな、追い詰められたお父さんの顔が、私の顔色を伺っているようだった。私はお父さんと目が合って、こともあろうか、反射的に視線を下げてしまった。かわいそうなお父さん。お父さんは娘である私から逃げられてしまったのだ。
 「おう?娘も見放したぞ。おまえはそんなもんなんや、しょうもない人間なんや。」
 違う!心の中で叫んでみようとしたけど、心の中でさえ、声が出なかった。なんだか、心が押し捻じ曲げられたみたいだった。澄んだ声を出そうにも、努力して出るのは、ヒキガエルのような、ひしゃげた声しか出そうになかった。恐怖、屈辱、恥辱、あきらめ。理不尽に叩きつけられる外圧に為すすべもなく、精神が圧殺されそうになっていた。最後に残っていたのは、骨みたいな、硬いもので、それが、もうじき破壊されそうになっていた。私は反撃を試みる。箸を握り、正面にいるフジタニの目を突こうと考えた。しかし、こういうことは考えて行動できることじゃないことが、そのとき分った。考えたら暴力は振るうことが出来ないのだ。とっさに、反射神経みたいに、箸を掴んで、当然のように目を突かなくてはいけないのだ。真っ白な頭で反撃に出なくては、体は動かないみたいだ。
 「おい、紗江子、止めとけ、おまえには無理や。」
 低く落ち着いたフジタニの声が、シンと静まり返ったリビングに立体感なく響き渡った。なんで分ったんだろう?私が攻撃しようとしていたことを、なんでフジタニには分ったのだろう?私は万引きがばれた時みたいに混乱した。(したことないけど、友達にそそのかされて、万引きしようと思って、商品に手を伸ばそうとしたときに、コンビニのおばさん店員と目が合って心が縮こまったことがある。)体の表面は動きを止め、体の内側は酸素を切望した。でも、うまく息が出来なくて、酸欠状態なのか、苦しい。視線は霞み、肩が重く感じられた。私には反撃なんて出来そうにない。
 ガシャン
 音が遅れて聞こえてきた。目の前で、お父さんが体をよじり台所にあった包丁を掴むと、フジタニに襲い掛かる映像が見えた。現実感がないから、目の前の出来事じゃなくて、テレビのワンシーンみたいに見えた。包丁が振り下ろされる時、頭の中に変な影がよぎった。形もあいまい、意味もあいまい、目の前に紫のスカーフを広げたような影。突き刺さる瞬間をまるでごまかしているようにも見えた。
 うあああ
 声が先に聞こえた。包丁を持った手は、フジタニに掴まれ、ねじ込まれ、お父さんは苦痛に満ちた顔をした。その時、歪んだ口が開かれ、先に聞こえた声と一致した。声を確認したかと思うと、もうお父さんは床に倒されて、熊のように大きな背中で覆いかぶさったフジタニが太く厚い手で何度もお父さんをビンタしていた。執拗に加減なくビンタしていたので、すぐに血が滲み、お父さんの顔は歪み、口から血が溢れ、フジカワの手も、血に染まった。野性の動物が獲物を仕留めているみたいだった。
 「幸江、タオルもってこい!」
 フジタニがお母さんに命令した。目の前で行われていることに放心状態だったお母さんはその声で我に帰り、「はい、ただいま」とはっきりした声で答えると、無駄のない動きで台所の手すりにかけてある白いタオルを差し出した。フジタニは無言で受け取ると、白いタオルをお父さんの口に噛ませた。タオルの口の部分がすぐに赤く染まり、なんだか、お父さんが日の丸の国旗を咥えているみたいだった。
 「そんな度胸もないと思うが、舌でも噛まれたらたまらんからなあ。力ない奴は、追い込まれた時、自分を犠牲にして後味の悪い復讐しようとするもんや。カメムシがそうやろ?あいつらは高温で自分の体を溶かして、それでできた臭い液体を相手に吹き付けるんや。命削って最後の嫌がらせをするんや。幸江、紗江子、見てみい、まるでこいつの行動はカメムシや。こんなカメムシくずれが、いままでの戸田家の家長やったんや。おいカメムシ、お前が戸田家のまともな家長として、後からやってきたわいのことを消そうと思うんなら、まず、自分の家族に被害がまわらんように、逃がしておいて、攻撃に出るやろ?家長は家族を守るもんや。それが、こいつにはないんや。だから突発的に攻撃してくる。そんなことして、家族に被害があったらどうする?よほど力に自信があるんなら実行に出てもかまわんが、しかし、今のタイミングは家族のことなんてちっとも考えとらん。自分が家族の前で恥をかかされたから、やけくそで飛び掛ってくる。屁っちりカメムシみたいなもんや。そんなもん、虫だけに責任感がないやろ?わかるか?幸江、紗江子、おまえらは、いままでこんな虫みたいな奴のせいで、いつも危機にさらされとったんや。こいつは人を守ることが出来ん。子供のような弱いものにも、「個人の責任」を押し付ける性質の奴なんや。誰一人守る気も無いし、責任も持ちたくない。ただのガキや。その自分がガキであることを自覚せんと、取るべき責任を勝手に分配して、自分のリスクを減らすせこい奴なんや。わかるか?おまえらは今まで家長から捨てられとったんや。だからわいが家長としてこの家に来たんや。家長家として、ほっとけんかったんや。」
 よく意味の分からない理屈、恩着せがましい勝手な妄想をフジタニがもっともらしく言い放った。でも、確かにあの場でお父さんが暴れたら、お母さんや私に危害が加わっていてもおかしくなかった。狭いところで包丁なんて振り回したら危ない。でも、家長って何?家の一番偉い人っていう意味だと思うけど、それって、昔のサムライ時代の言葉でしょ?それに「家」をつけるなんて、たぶん、書道家とか、空手家とかみたいなつもりなんでしょうけど、あれは習いに行くものであって、強制的に押し込まれるものじゃないと思う。「カチョウカ」なんて言葉、この世に存在しないはずなんだけど、フジタニは恥ずかしげもなく堂々と宣言している。
 「あと、幸江、縄もってこい、縛り上げるんや。今日のところは、わいが監視したる。今から巨人みるから、冷えたビールとピーナッツ用意せえよ。わかったな?」
 さすがにお母さんもフジタニの横暴に抵抗すると思われたが「はい、ただいま用意します。」といって勝手口から出て行った。従順な様子に驚いたが、もしかして、家から出て、その隙に警察に通報するか、となりの小池さんに暴力事件を訴えに行くのかもしれないと期待した。女の力だけじゃフジタニに対抗できない。ようやく事件は解決に向かう。私は想像する。ピンポンと玄関の呼び鈴が鳴り、フジタニがそれでも気がつかないでテレビに夢中で「打て!」とか叫んでいる。玄関に向かう私とお母さん。ドアを開けると制服姿のまじめそうな警官が二人。私たちの話す事情をまじめな態度で聞いてくれる。でも、色が白くて無機質な感じの警官。本当に大丈夫なのかと疑問に思っていると、警官二人は行動に出る。物音立てず廊下を移動し、ふすまを開けると驚くフジタニ。「住居侵入、および暴力行為で貴様を逮捕する。」二人はそういうとフジタニをあっという間に押さえつけ、うなだれるフジタニは警官のがっしりした腕につかまれて、伏し目がちに私たち親子をじっとみる。ちょっと気の毒な気もするけど、私たちは絶対に許さない。警官に「必ず殺してください。」って興奮気味に言って、警官たちは迷惑そうに私たちを見る。考えるだけで楽しくなってくる。
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