母の思い

文字数 6,858文字

 「お待たせしてすみません。お持ちしました。」
 お母さんがフジタニに物置にしまっていたお父さんの登山用のロープを差し出していた。私の想像したことは何一つとして現実にならなかった。それどころか、思いもしない方向に物事が進んでいた。お母さんはいったいどういうつもりなんだろう?
 お父さんが縛られている。お母さんは洗い物をしている。私は息を殺してリビングで様子を見ている。フジタニは横になってテレビを見ている。普通の生活をしているのはお母さんとフジタニだけで、私とお父さんは非常事態に陥っている。同じ家に対極の状況がある。なんでこうなっちゃたんだろう?お母さんがフジタニを連れてきてからだ。なんであんなのを連れて来たんだろう?不倫にしてはオープンすぎるし、お母さんも還暦過ぎて、いまさら男に抱かれようなんて考えていないだろう。フジタニに好意があるようないやらしい態度をとる事も無く、ただ、従順にしている。まるでお母さんはフジタニの家臣だ。何かあるのだろうけど、お母さんは何にも言ってくれない。もしかして、何か脅されているのかしら?
 そんなことより、事態を打開しなくては!
 このままフジタニにこの家を占拠させるわけにはいかない。何とかして排除しないといけない。お兄ちゃんは今日も帰りが遅いのだろうから、私がこの家を守る必要が有る。それに、今は働いてないで家にずっといるから、フジタニが家にいると居心地が悪い。景気がよかったら遅くまで働いて、寝るためだけに帰れば済むから、問題解決なんて考えなくてもいいけど、いまは暇だし、被害を被るから何とかしないといけない。とりあえずお父さんを助けることが先決だ。
 しかし、テレビを見ているフジタニの側にお父さんが縛られていたんじゃあ、何も出来ない。見ているだけになってしまう。フジタニにお父さんを解放するようにお願いする手もあるけど、無理だろう。だいたい、お願いするのもおかしい。間違っているのはフジタニなのだから、許しを請うなんて必要ない。自由は当然の権利なのだから、お父さんの自由を主張すればいい。でも、そんなの怖くて出来ない。誰か助けてくれればいいんだけど・・あっ、警察だ。警察に電話すればいいんだ。そのために税金払っているんだもん。警察は困っている人を助ける義務があるのよ。なんでこんな簡単なこと気が付かなかったんだろう?まあ、いままではフジタニも怒鳴るだけで暴力振るわなかったもんね。今回は暴力振るったから・・でも、お父さんが包丁を持ち出したことが警察に知れたらマズイことになる。叩いても死なないけど、包丁で刺したら死んでしまう。殺意があるってことになる、どうしよう?フジタニのことだから、そこらへんは十分承知しているに違いない。でも、もう、フジタニなんて出て行って欲しい。警察も話せばわかってくれるに違いない。警察は弱い立場の味方だから大丈夫だろう。弱い立場の人は守ってもらえるはずだ。
 思い立ったら、別に向こうから見られていたわけじゃなかったけど、覗いていた引き戸をそっと閉めた。かすかに漏れていたはっきりした音がしなくなり、戸の向こうから野球のくぐもった中継が聞こえている。音の遮断が、空気の遮断となり、私は落ち着きを取り戻した気がした。そのまま無理しないで、自分の部屋に閉じこもることも出来たが、決心は変わらず、リビングを出てそっとドアを閉め、廊下の固定電話のヒンヤリとした受話器を持ち上げた。ずっしりと感じる受話器を持ち上げて、耳に当てた。ゆっくりと「1」「1」「0」と押してみたが、何も聞こえなかった。もう一度110と押してみる。何も聞こえない。もしかして110でなくて、ちゃんとした市外局番からかけないといけないのかと焦ったが、番号が思いつかない。普段使わないから電話がいつの間にか壊れているんじゃないかと受話器を置いて電話機を持ち上げたら、簡単に持ち上がり、目の前をふらふらと電話線が揺れていた。信じられないことだが、電話線が切ってあった。思わず「えー」と声を上げそうになったけど、息を飲み込んで、声を出さなかった。この家は世間と断ち切られたんだ。そう思うと家がぎゅっと歪む様な気持ち悪い感じがした。めまいなのだろうか?気持ち悪さと苛立ち、焦り、手の平は汗がいっぱいだ。どうしよう。頭の中が真っ白になりそうだった。
 「フジタニさんはいい人よ。」
 お母さんがフジタニを連れて来たときに言っていた言葉を思い出した。たった三日前のことだが、数ヶ月前のように思われた。電話線を切ったのは、お母さんだ。理由も無く「今日から一緒に暮らすことになったフジタニさんです。」とお母さんが紹介した。お父さんも何か文句言えばいいのに「共同生活ですか!理由は聞きません。うちはバリアフリーで来るもの拒まずです。」なんて理解あるように、かっこつけて受け入れたのにも正直腹が立っていた。(でも同時にお父さんは大人だな、なんて思っていた。)とにかくその時にお母さんはこうなることを解っていたんだと思う。たぶん、早くから電話線を切っていたんだろう。固定電話なんてあんまり使わないから、気にもしなかった。でもお母さんは携帯持ってないから、それ相当の覚悟を持って電話線を切ったに違いない。なんでそんなことをしたんだろう?
 「くそ!なんで打たれるんや!ぼけ!」
 巨人が点を入れられたみたいだ。機嫌の悪い声が聞こえた。急がないと暴れる。お父さんが壊されるかもしれない。それに、私が危ない。足音を殺して猫のように二階に上がった。ドアをそっと開け、自分の部屋に滑り込んだ。ドアを閉めて鍵をした。下階に猛獣がいたが、とりあえず安心した。先月変えたシーツの色は当りだった。ベットに潜り込んでようやく一息つけた。隠しておいた携帯電話を引っ張り出した。メールが何件か入っていた。「来月のまゆみの結婚式、どうする?何着てく?それにしても焦るよね。まゆみでさえ結婚できるなんて有り得ない。抜け駆けしないでよ・・。」「紗江子へ、もう家内と別れる準備が出来た。俺が愛しているのはおまえだけだ。おまえは私のオアシスなんだ。息子たちももう大人だから分ってくれるだろう。いつまでも返事を待っている。・・」「お仕事の紹介です。・・」三件のメールに今の自分が要約されているようだった。女子短大出てフリーター、お金を貯めては海外旅行、三十歳過ぎて、結婚の予定なし。おまけにしつこい昔の恋人。急に変なことが気になった。私って、社会の役に立っているのかしら?べつに私がいなくてもいい気がする。あーもうやだ。ってそんなこと考えてないで、とにかく今は警察に電話しなくては。少なくともお父さんを助けられるのは私だけだ。番号を押すと当たり前だが、すぐに人が出た。
 「はいこちら警察です。どうされました?」
 「えっと、不法侵入です。それで暴力をふられ、父が縛られています。」
 「強盗ですか?そちらの住所をお願いします。」
 「田中町三丁目の戸田といいます。強盗みたいなものですが、物は取られていません。」
 「あー、田中町。ってことは、その不法侵入者って、体の大きな人ですか。」
 「そうです!フジタニっていう大男です。他にも被害者がいるのですか?早く来てください。助けてください!」
 「家長家のフジタニさんだね。問題ありませんよ、お嬢さん。大家長制会から申請も出ております。慣れるまで大変でしょうが、いいきっかけになりますよ。それでは頑張ってください。」ガチャン ツーツーツー
「もしもし!もしもし!」
 いくら言っても返事はなかった。大家長制会、申請、警察了承済み。弾んだ感じで話す警官にイライラしたが、警察には助けを求めるところが無いみたいだ。どういうことなんだろう?フジタニが桜の大門に公認をもらって活動しているとしたら、反対する私たちが非公認ということになる。だったらどうすればいいの?このまま放っておけば、いずれ完全に征服されてしまう。いや、もう征服されているのと同じだ。どっちみちベットの中に潜んでいても意味が無い。とりあえず一階に下りよう。生暖かい布団から出ると、空気が冷たく感じた。その冷たさにもう一度布団の中に戻りそうになったが、もう私も子供じゃないんだ。と自分に言い聞かせ、ベットの上にすっくと立ち上がった。そっとドアを開け、階段を下りようとしたら、下からお母さんが上がってくる途中だった。自分の母親なのに対峙すると緊張した。敵だと思っているからかもしれない。いや、何かの間違いであって欲しい。そう思うと口を開かずにいられなかった。
 「お母さん、なんで・・」
 「説明も無く巻き込んだことは悪いと思っているけど、私だって考えがあるし、思いもあるの。お父さんがいつも言う中立の立場って何だと思う?」
 「お母さん、突然何いっているの?」
 「紗江子はお父さんに似てしまったのね。何だと思うって私の問いかけに答えてくれない。中立の立場ってそういうことなのよ。さっき、フジタニさんが言ってたでしょ?私はお父さんにそうやって放っておかれたの。食べかけのうどんといっしょで、そのまま、のびて、冷めて、美味しくなくなって、誰からも食べてもらえなくて、そのうち、そっと、役に立たなくなって捨てられ、忘れられていく。寂しいでしょ?自由にしろって、放っておかれて、なんにも言われないの。自己責任って言葉、お父さんよく言ってたけど、あんなの大嫌い。本当に寂しいわ。紗江子、あなたも、お父さんの「中立の立場」を聞いて育って、結局、会社にも入らず、結婚もしないで、宙ぶらりんで三十歳を超えたわけでしょ?中立の立場って、結局、なんにも決められないって公言しているものなのよ。」
 「ちょっと、待ってよ。なんで私が今、説教されなくっちゃいけないの?私何も悪いことしてないし!」
 「悪いことしてない?まあ、してないのかもしれないわね。でもいい事もしてないわよ。紗江子、あなたは今まで何にもしてないの。そこは分かって欲しいわ。あなたは賢い子供だったんだから。」
 「なんなのそれ!まるで私はダメな人みたいじゃない!」
 「ダメな人だなんて一言も言ってないでしょ。ただ、あなたは何にもしていない。お父さんと一緒で何にもしようとしていない。」
 「分からないわ。私だって、色々やってきているし、主婦しているお母さんのほうがよっぽど何にもしてないんじゃないの!」
 「・・・私の言っていることが、何にも分からないのね。本当にお父さんと一緒ね。もしかしたら私の言い方が悪いのかもしれないけど、間違いなくあなたは何にもしていない。お父さんも何にもしなかった。徹もそうね、何にもしなかった。だから私は悲しかったの。寂しかったのよ。」
 ついにはお母さんが泣いてしまった。崩れるように階段にへばりつきすすり泣くお母さんの背中はとても小さく見えた。主婦だから何にもしていないというのは言い過ぎたかも知れない。でも、私は分からなかった。私が何にもしてこなかったっていう意味が分からないでいた。それに何でお母さんからそんなことを言われないといけないかも分からなかった。でも、なんだか、無性に腹が立っていた。だから私はお母さんに寄り添うことが出来ないで、そのまま立っていた。それから足元のお母さんを避けるように階段を下りた。
 お母さんは階段で一人すすり泣き、お父さんは縛られて、声を殺して泣いている。私もついでに泣けばいいのかもしれないけど、泣く理由が見つからないでいた。でも、お母さんの言った「あなたは何にもしなかった。」という言葉だけが胸に突き刺さったままだった。この言葉を抜けば痛みはなくなるかもしれないが、そのかわりものすごい出血で私の心は死んでしまうような気がした。だから突き刺さったままでいるしかなかった。突き刺さった言葉は刻一刻と私の中心に少しずつ沈み込んでいる。言葉の刃が心の中心に届いたら私は死ぬに違いない。どのみち、母親に絶望されたのでは、それを気がついてなかったのならば、死んだほうがいいんだろうけど、何が原因か、何をしなかったか、わからないまま終わるのは嫌だ。打開策は、お父さんを助けることしかないと思う。そうすれば、前の生活に戻ることができるはずだ。こんな状況だからお母さんはあんなことを言ったに違いない。たぶん、フジタニを連れてきたことを後悔し反省しているんだろう。それを受け入れることができないから、適当な答えのない禅問答みたいなことを言って誤魔化そうとしているのだ。そうに違いない。悪いのはあいつだけだ。あいつを殺せばいい。
 殺すにしても一人じゃ無理だ。ここは家族で力を合わせる必要がある。まずお父さんを助け出す。それからお母さんに許してもらう、そのうちお兄ちゃんが帰ってきて、家族四人で力を合わせてフジタニを追い出す。作戦は猿蟹合戦みたいに役割分担して、まず私が油断させて、お母さんが連れて行き、お父さんとお兄ちゃんでトドメを刺す。でも、警察公認だから、追い出しても戻ってくるかもしれない。だったら、半端なトドメじゃダメだ。殺すしかない。でも、警察にフジタニが家にいることを言ってしまったから、消息が絶てば、一番先にこの家が疑われる。だったら、事故にしてしまえばいいんだ。どうしようも無い事故がおきて、勝手に死んでくれればいいんだ。いや、事故なら死ぬまでいかなくても、瀕死の重症を負えばいい。フジタニは無駄にプライドが高いはずだから、無様な姿を見られたら、この家には居られないはずだ。家長として切腹ものの失態を曝させる方法もあるはずだ。どっちにしろ排除する必要が有る。あいつを排除しなくては戸田家に自由がなくなってしまう。
 一人体を熱くして考え込んでいても、時計の針が進むだけで、何も解決しなかった。あいかわらずお父さんは縛られたままで、フジタニは・・野球の中継は終わり、テレビはドラマをやっていた。じっと動かない背中姿しか見えないが、座布団を枕にして、どうやら眠り込んでいる様子だった。息を殺して戸を少し開けた覗き口に耳をあてて目を瞑る。かすかにスースーと寝息が聞こえてきた。思い掛けないチャンス到来。今ならお父さんを助けることが出来る。それからお父さんと相談して、そのうちお兄ちゃんも帰ってくるから、三人で力を合わせてやっつけよう。その姿を見ればお母さんだって素直になってくれるに違いない。
 リビングの蛍光灯の光を背中に当てながら、薄暗いテレビの部屋のふすまをそっと開ける。タバコの臭いが強烈に匂った。まるでパチンコ屋の前を通った時みたいに嫌な感じがした。タバコの臭いだけは好きになれない。眉をひそめて、そっとお父さんに寄っていく。フジタニが起きないかとひやひやしながら、心臓は破裂しそうにバクバクしている。悪いことをしている訳でもないのに、背中や脇に変な汗をじっとりと湿るようにかいてきた。嫌な緊張感がべったりと張り付く。靴下と畳がかすれる微かな「ズスズスス」という摩擦音さえもフジタニに聞こえるんじゃないかと心配した。たった数十センチ動くのに、何時間分もの精神力をすり減らした。だから点きっ放しのテレビのドラマが何かしているが、まったく理解できなかった。(毎回見ているドラマだったけど、まるで外国のドラマのように見えた。)いつの間にかお父さんの目の前に来ていた。お父さんは目を開いて私を見ていた。そして何度も首を振っていた。「来るな」の合図か「早く助けろ」の嘆願なのか分からなかったが必死な様子だった。その必死な感じがとても、嫌だった。助けるつもりでいたけど、なんで私が助ける必要があるのだろうと急に思ってしまった。でも、ここまで来たのだからと後ろ手に縛られたお父さんのロープに手をかけた。お父さんは首が振り切れるぐらいに激しく頭を振っている。お父さんの「ああぐいお」とかすかに聞こえるその声はたぶん、「あぶない、こっちへ来るな」ではなく「はやくしろ!」だとすぐ分かった。必死に助かろうとする父親の姿なんてライブで見るものじゃない。なんだか、情けなくなって、泣きそうになった。「あが、ああぐいお!」身をよじって必死に呻くお父さん。たぶん「ばか!はやくしろ!」娘が泣きそうになっているのに、「大丈夫か?」ではなくて「ばか!はやくしろ!」。急に何もかも嫌になったけど、仕方ないから縄を解こうとした。ぎゅっと縛ってあって結び目を緩めるのになかなかうまくいかなかった。焦ると頭の中から空気が抜けて軽くなるような嫌な感じがした。肩が重くて手が思うように動かなかった。手に力が入りすぎるのか、それとも固まっているだけなのか分からないが、いつまでたっても縄が解ける気がしなかった。「ああぐ!ああぐ!あがあろう!」必死すぎる父親の声が雑音となって作業の邪魔をする。もう、面倒くさい。
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