紗江子の決心

文字数 4,613文字

思ったより怒られなかった。「ああ、許してもらった。良かった。もしかして、この人、悪い人じゃないかも。」と意識とは別の、本心みたいな、ずっと奥にある素直な私が反射的にそう思った。でも、それは雑音程度の微かな思いで、私をコントロールしている本心の意識では、必死に早く兄が来ることを願った。ここまでしたんだから、兄はすぐ出てきて、スタンガンでもマシンガンでもフジタニに打ち込むべきだ。何やってるんだろう!恐怖とともにイライラが募ってきた。しかし、そんなことを考えても、目の前にフジタニがいることに間違いなく、作戦の遂行をするか、この場から立ち去るか選択を迫られていた。背中流しを失敗することは無いと思うけど、これ以上の緊張に自分の精神が耐えられるか自信が無かった。自信を無くせば、手元は狂い、また変なことをしでかすかもしれない。私は分からなくなってきた。今日はもういいだろう。十分頑張った。それにお兄ちゃんが助けに出てこないのが悪いのだ。さっきはどう考えても襲撃のチャンスだったのだ。
ガタ
何か音がした。目の前、右左と確認して、何も無かったから上を向いたら、お風呂の天上の小さな四角い蓋がずれていた。あの窓からから天上に繋がっているのは知っている。しかし、あそこは湯気が漏れないように、ぴったりと締まり、ロックも掛けられるはずだ。あそこが開いていることは有りえない。「わあ」って小さい声がした。すぐに不思議な黒い隙間から何か黒いものが出てきて、ボチャンと湯船に落ちた。私はじっと物が落ちるのを見ていたし、フジタニも声に気が付き見上げて、落下物とともに、視線を湯船に移した。私はそれが危険な物じゃないかと反射的に思って、風呂の出口に手をかけたけど、フジタニはすぐに湯船に手を突っ込んで、落下物を拾い上げた。湯船から出てきた手の平サイズの何か黒っぽい機械、私はそれが何であるか、何が行われていたのか理解できなかったが、フジタニはすぐに理解したらしく
「ああ?おい、降りて来い!」
とみるみるフジタニの様子が怒りモードに変わっていった。冷たくトゲのある大きな声、突き刺すような眼差し、さっきの怖い人に戻った。私は逃げるべきだと分かっていたが、その豹変したフジタニの恐ろしさに、その場で裸のまま釘付けとなってしまった。
「おお、これ持っとけ、下がれ。」
「ええ?」
「下がれ言うとんじゃ!どけ!」
いきなり振り向かれて、何か渡され、下がれと命令された。何が何だか分からなくてグズグズしていたら、最後には衝き押された。私は渡されたものを抱え込んで、後ろに下がった。恐る恐る渡されたものを見ると、それは、ビデオカメラだった。最新の小さなものだったが、それがすぐにカメラと分かったのは、この家の所有物だったからだ。お風呂場の中でくぐもった湯気の中、頭の中の霧もくぐもったままだったが、ある程度使ったことのあるカメラだったので、震える手ですぐに動かしてみた。このカメラが日常防水で優れたものだと口少ない兄が言ってたのをふっと思い出した。再生して巻き戻すと、男と女の裸姿がプロレスの中継みたいに映っていた。私が後ろからフジタニに抱き付いている。映像にするとなんだか淫らな物に見えた。とても恥辱的で嫌だったので、「わあああ」と声を上げて、映像をすぐに止めた。もう嫌だ。なんだか自分まで気持ちが悪い。
「おう、降りてこんなら、こっちからいったる。殺したるからな!」
フジタニが大声を上げたかと思うと、風呂の淵に立って、天上の蓋を押し上げて、その狭い窓に両手を突っ込んだ。そんな小さい穴からじゃあ、人は引っ張り出せないって思った瞬間、フジタニは穴の淵を掴んで、ガンガンと引っ張り出した。太い腕がしなり、筋肉が筋を躍動させる。瞬間に力を入れて、引っ張ると、ユニット式の風呂場が全体で揺れた。まるで猛獣が織の中で狂ったように暴れているようだった。ミシリ、ガコ、バン、グッ、ボコン、天上はたわみ、蹴り上げた壁は、凹み、そのうち穴が開いた。なんて力なんだろう。「うあああ」天上の上からくぐもった悲鳴が聞こえた。
バリグシャア
天上がついに割けた。白い煙と共に何か大きくて黒いものが天上の割れ目から生み落とされるように出てきて、ガシャグチャバキと大きな連続音の後、水しぶきを上げて風呂に落ちた。切り傷であちこちから血が出ていた腕が何事も無かったようにすぐに大きな落下物を捕まえ、当然のように何発か拳を打ち付けて、最後にお尻の筋肉をきゅっと締めて、力を込めて大きな足で踏みつけた。容赦ない猛獣の狩のような動きでフジタニは敵を仕留めた。まるでそれは野生の動物を見るようだった。仕留められた方も水しぶきを上げて断末魔の叫びを上げるガゼルが観念したように弱弱しくなった。ずぶ濡れになって、べったり張り付いた髪の毛、落ちかけたメガネに見覚えがあった。口から血を垂らした死にかけのガゼルは兄だった。スタンガンのはずが、ビデオカメラを持って、どう考えても助けに行くことが出来ない天井裏に潜んでいたのだ。
「おい、徹、どういうつもりや。風呂場の盗撮しよったんか?ああ?それに、何出しとんのや!ああ!おまえ、馬鹿なんか!妹の裸見て欲情しよったんか?!」
よく見ると、兄はズボンをずらして、下半身が剥き出しになっていた。濡れ場の私を盗撮しながら、オナニーしていたんだ。妹を助けることなく、欲情の対象として、楽しんでいたのだ!私は、怒りも見つからず、悲しみも思いつかないで、ただ、呆然と突っ立っていた。なんなんだろう、この人は!
「ち、違うんです。これは調査であって、別に変な意味はありません。」
「何の調査や!妹の発育調査か!バカかおまえは!・・・ああん?分かったで、おまえらの魂胆が。そういうことか。ハニートラップか?馬鹿なことを考えよる。」
「・・そうだよ。スキャンダルを起こして、おまえから家長の座を奪うんだ。いや、そんなことしなくても、おまえなんか、戸田家の家長じゃない。家長制度から言えば家督を継ぐのは長男の僕だ。僕こそ戸田家の家長なんだ!クソ、とっとと出てけ!この家は、ローンを払っている長男の俺のものだ。俺こそが家長にふさわしいんだ!馬鹿野郎!僕しかこの家の家長はいないんだ!僕が家長なんだから、この家でどうしようと勝手だろ!紗江子だってそのうち僕のものにするんだ!父さんはおれの部下になるんだ!あんたから家長という言葉を聞いて、すぐに思ったんだ。僕こそ家長だ!だから、おまえが邪魔なんだ!出てけ!」
今にも死にかかったような格好で、最後の力を振り絞ったかのように兄が上ずった声で言い返した。私は同情を持ち合わすことが出来なかったが、肉親に対する絶望のようなものを思い出していた。兄の姿が縛られた父と私の中で重なったからだ。二人とも私のことを助けようなんて思ってもない。裸の私が今思うことじゃないのかもしれないけど、そればかりが頭の中に居座った。期待を裏切られた怒りでもあるし、何も分かってない自分に対する情けなさなのかもしれない。誰が私のことを助けてくれるのだろう?お母さんの顔が思い浮かんだけど、お母さんは私に言った「あなたは何もしなかった。」思い出すだけで悲しくなってきた。結論が見えないけど、それが結論なのかもしれない。
「おまえ、家長である、わいに対してどういう口をきいとんだ!おまえのいうてる家長は建物の家の長、ハウスキャプテンや。本当の家長はホームキャプテンのことや!わかっとんのか?ああ?そんなおまえが家長なんぞ、百年早いんじゃ!そんなに家長になりたいんか?ああ?おまえは家の権限が欲しいだけやろ!大黒柱として戸田家を養う覚悟があるんか!家族を守る覚悟があるんか!妹使ってえげつないことしおって!家族を犠牲にするなんてもってのほかじゃ!おまえは自分さえ良けりゃええ人間じゃないか!そんな奴に家長が務まるか!家長制度をなめるな!」
フジタニが裸で吼えていた。兄は下半身裸で死にかけていた。私は裸で呆然としていたが、急に吼えるフジタニに腹が立ってきた。こんなに私がしょげているのに、勝手に大声で吼えるなんて許せない。
「おい、紗江子、おまえ腹が立っとるんか?ああ?兄弟で馬鹿なこと考えて、徹に騙されて、こけにされた怒りをわいに向けようっていうんか!ああ?紗江子、おまえも可哀相なやっちゃ、だがなあ、それは、おまえが結束も出来ん家族に育てられたからや。自分の出生を恨め。それで、心を入れ替えたらええんや。わいが家長をしとる間は、家族のことは全力で守ってやる。おまえのことも扶養したる。わかったか。」
振り向いたフジタニは語気強く、偽りなく、私のことを守ると言ってくれた。絶望の淵に立たされ、急に渡された「守ってもらえる」という切符。正直、私は、今までのことを捨てて、それにすがりつくことを考えた。私はフジタニにぐら付いたのだ。よく分からない感情だが、いままでの心細さから開放されるならと考えたら、なんだか幸福感とも思える暖かな感情みたいなものが乾ききった心のそこから染み出るように湧いてきた。殺意と敵意しか見出せなかったフジタニの顔が急に男らしく感じられた。それに気が付いたのか、フジタニは私の方を真っ直ぐに見て、角の少し取れた声で話し始めた。
「自由なんてものは何も残らん。家長制度を守れば、家が残る。わかるか?お前らは自由自由とほざいて好き勝手に生きて、なんも繋がらず、最後には無縁状態で、ただ、消えるだけや。お前が生きた証はなんも残らん。つまり歴史にならんのや。家長制なら、家族の思い出が残る、そこに営みが生まれ、それが受け継がれ、延々と繋がっていくんや。文化的で、歴史も生まれる。ここまで言えば、どっちがええか、馬鹿でも分かろう?」
 胸に矢が刺さったように、衝撃が私の中に走った。フジタニが何を言ったのかよく分からなかったが、家族、繋がり、延々、生きた証、それらの言葉はバラバラのままで私を貫き、そして優しく包んだ。私はついに愛情に支配された。それを理解すると、これまであった私の不満や不安の原因がそこにあったような気がして、それがまさに解決されようとしていた。つまり、私はもう、寂しくないのだ。ここに居ていいし、変にに強がらなくてもいいのだ。世の中に対して言い訳を考え続けないでもいいんだ。裸になって、追い詰められて、ついに私は愛を知った。こんなの初めてかもしれない。私の体が赴くままに動く。目の前にあるゴール、大きなフジタニに抱きついた。大きな胸に顔を押し当てると、そこから幸福感が吹き出した。それだけで興奮した。それだけで悦楽が貫いた。最後に私は単純に恍惚とした。私が求めていたものすべてがそこにあるのだと分かった。
 「何でもしますから、私を抱いてください。」
 「・・ああ?何を言うとるんや?」
 少し冷めた言い方、まるで照れた恋人同士みたいだった。だから私は思い切り甘えたように、かわいく見せるように努力した。
 「家族だから無理なの?でも夫婦という家族なら可能でしょ?ねえ、おねがい!」
 「いいや、無理や。紗江子、お前は、好みやないっていうか・・勘違いさせたんかな。ありゃ、サービスやったんやが・・正直言う、お前はブスや。だから無理や。すまんな。」
                  了
 
 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み