第七章 精霊の国からの脱出⑤

文字数 6,652文字

 ミリアムはごうごうとうねる巨大な水流に巻き込まれた。
 体が雑巾のようにねじられ、手足を引っ張られ、今にもばらばらに裂かれようかという時、ミリアムの服が、魔紋を染め抜いたあの衣が光を帯びて懐かしい祖母の声を再生した。

「オルト・クティの名において、緊縛ノ陣よ、ひと時、退くことを許す……」

 オルトの詞が終ると同時に、ミリアムの左腕に張り付く痣が深紫の煙となってミリアムの体を包み込んだ。
 煙はククルトの力が満ちる力場となって水の激流と冷気を遮断した。おかげで中の居心地はとてもよかった。だが、力場は震えながら上下左右に揺れた。ミリアムを抱えて水流から逃れようとククルトが力場を操作しているようだ。水の魔の手は力場を離さず、中のミリアムは圧迫されて息が詰まった。しかし、ミリアム自身にはどうすることもできない。全てをククルトに託して流されるまま、浅い呼吸で耐えるしかなかった。
 やがて水の流れは穏やかになり、力場がどこかに漂着してほとんど動かなくなると締め付けも緩くなった。ミリアムは深く息を吸うと、暗い力場の真ん中にぐったりと倒れた。堅い守りの力場に横たわれると思っていたのだが、急に力場は堅固さを失い、ミリアムは背中から真っ逆さまに落ちた。

 気がつくと、肌寒い風の吹く丘に立っていた。足元には見覚えのある草原が広がっている。真ん中に小川が通っている、いつもヤギを連れていくところだ。
 どこかに落ちる感覚は寝入りばなによく起こった。その感覚は、夢の世界へ行く前触れなのだとミリアムは信じていた。落ちても夢を見ずに現実のベッドの中にいた時はうまく夢の世界に落ちなかったから。だから、今いるここは夢の中なのだと、ミリアムは冷静に受け止めていた。夢の舞台がこの草原なのは、自分が家に帰りたいと願っているからだ。
 ただ、今は恋しいとすら思うこの日常の風景にいるのがヤギの群ではなく、不定形のうねうねした影の集団なのが不思議だった。草原に散らばる影はヤギのように気ままに跳ね回ったりその場で収縮していたりと動きはそれぞれだったが、どこからか素朴な笛の音が風に乗って聞こえはじめると、そわそわして集まり始めた。
 ミリアムはそんな影の様子を丘の上から膝を抱えて眺めていた。なにせ夢なのだから、ちょっとくらい不気味でも気持ちに余裕がある。自分のヤギはどうしているだろうと思うと目が潤んできた。
 笛の音が後ろから近付いてきた。
 ミリアムが振り向くと、鈍色の円錐形の帽子を被った人影が近づいてきていた。長さの違う管を束ねた笛を吹いている。人影はミリアムの横で止まり、ミリアムを見つめた。ミリアムも、人影の目も口もない黒い面だが、そこから注がれる眼差しに悪意は感じなかったので、じっとしていた。よく観察すると、帽子の下から少しはみ出たくせ毛には見覚えがある。人影は笛を止めると、急にミリアムの左腕を掴んだ。
 驚いたミリアムが反射的に身を引くと同時に、掴まれた腕から湧いた深紫の煙が人型となって影を振り払った。人影は尻もちをついた。深紫の人型は、頭から足の先まで滑らかで金属的な光沢を帯びているので、深紫の甲冑を着た騎士のようだ。甲冑の者は突き出た眉庇の奥から影をにらんだ。兜の両側から後ろへのびる鞭のような角が、発する言葉に合わせて微震する。声はククルトのものだった。
「我の守るものに触るな。お前は何者だ」
 影が甲冑を見上げ、顔貌の黒い表面を波立たせるとか細い声が出た。
「約束の魔導士は死んだから……代わりの魔導士がいるんだ……」
 ミリアムはどきっとしてすぐ答えた。
「でも、私は、まだちゃんとした魔導士ではありません」
 魔導士という言葉に重い役目が含まれていることを察し、自分はまだ半人前だと断りたかった。が、影はククルトの甲冑をすり抜けてミリアムのそばに来た。
「でも、でも、それは“ちゃんとした”魔導士の紋だ」影はミリアムの服の模様を細い指でたどった。「知っている……知っている紋だ……」
 ククルトは無理やりミリアムと影の間に自分をねじ入れた。
「お前はオルトの知り合いか。力がいるなら我の力を貸してやる!」

 ミリィ……ミリィ……

 遠くの方からオルト婆の呼び声がこだましてきた。

 どこまでいったんだい、かわいいお転婆。帰っておいでー……

「はーい」
 ミリアムは幼子のように素直な大きな返事をして立ち上がり、駆けだした。影を見ないように、こだまするオルト婆の声だけを耳でたどった。
 影は動かなかった。さらに面を振動させ、崩れた笑顔で見送った。
「行って連れてきておくれ。本物を」
「あ、我も」
 ククルトのカシャカシャと装甲のすれる音がミリアムの後をついてくる。
「我は走らなくても離れられないのだが、自力で動くのは気持ちがいい」
 しばらく走った後で、素朴な笛の音が再開した。
 ミリアムはさらに速力をあげて走った。オルト婆のこととは別に、あの笛の音を聞きすぎると不定形の影になってしまうのかもしれないという不安もあった。そうなれば、もうオルト婆には会えないだろう。昔、ヤギを追うのに夢中になって遠くの尾根まで行ってしまって、泣きながらここまで帰ってきたことがあった。探しにきたオルト婆が先のあの丘を越えたところで待っていたけれど──


 丘のてっぺんにつく直前にミリアムは“本当に”目が覚めた。丘のあたりに夢の境界があったらしい。
 夕暮れのような薄明りを頼りに辺りを見渡すと、薄桃の肉色の弾力のある生温かい半透明の皮に湿った空気の溜まった狭い空間だった。広さはミリアムが膝を抱えて座っていなければならないほどだが、居心地は悪くない。悪くないどころか、今まで座ったことのないくらいの柔らかなもたれ具合で、体の痛みが吸収されていくようだった。目覚めたところがいつものベッドの上だったら──そんなささやかな願いを誰かがなんとか叶えようとしてくれたのかもしれない。ただ、時々上下に大きく揺れ、皮の壁のむこうからゴウゴウと水の流れる音や声にならないざわめき、乗合馬車に押し込められて肩を寄せ合う大勢の吐息のような気配が伝わってくる。実際、うっすら見渡せる範囲では、皮か壁で仕切られた部屋が詰まっていて、所々で血晶岩塩の粒が赤く光っている。その体色と血晶岩塩の具合がカイエン人が崇めていたあのとんでもない生き物を思い出させて、ミリアムは背筋が寒くなった。
「ククルト! ククルト!」
 ミリアムはククルトを呼んだ。夢で言っていた通り、いつも身の内にいて決して離れられないはずの龍だから何が起こったのか知っているはずだ。
 そこで初めて、生々しい壁から伸びている細い管が、龍のねぐらといわれる黒い左腕に絡まっていることに気づいた。見覚えのある管、いや、枝だった。司祭の部屋にのびていたガナンの枝と同じ質のものだ。右手で引きちぎろうとしても切れない。枝は壁の合間を縫い、血晶岩塩の粒同士をつないで網の目のように広がっていた。
「我はいるぞ」ククルトは落ち着いた口調で返事をした。「役目を果たす用意はできている。安心して休んでおれ」
「役目って何のこと」
「魔導士の代わりだ」
 ククルトが答えた途端、枝から視覚や痛覚など、大きな生き物のあらゆる感覚情報が流れ込んできた。
 ミリアムの何百倍もある円筒形の生き物だった。体をくねらせて泳ぐだけでなく、頭の吸水口から水を吸って体のあちこちにある排水管から出し、全身に生える羽か毛も動かして速度を出している。全身に目があるのか、周辺全方位、水面の上も下もよく見えている。その中でも注目しているのは後方だ。
 追手がかかっていた。カイエン人の群だ。
 舟に乗るもの、舟に負けない速度で泳いでくるもの、屈強なカイエン人が曳く舟に乗って来るものもいる。その舟に乗る者の一人はブランボだ。ミリアムが水流にのみこまれる前から迫ってきていた連中だ。ミリアムは、舟でカイエン人に襲われたあの時からそんなに経っていないことを悟った。
 生き物のある部分は追手に恐れおののき、ある部分は怒っていた。カイエン人を攻撃しようと言い、逃げようと言うものがいた。ミリアムの何百倍も大きな生き物に感じられるそれは、一個体ではなく、一匹の生き物のように行動している群生体だった。散り散りばらばらになりそうなところを何者かが前進する動きに集中するよう統率していた。ミリアムの周りのざわめきは、追手に震えながら統率者に従う集団のものであり、ミリアムとククルトはこの一匹のふりをした群れの端にいた。
 統率者の指示によって群生体は潜水した。ミリアムは頬を膨らませ息を止めたが、しばらくすると水中でも息ができることに気づいた。
 カイエン人たちは水中でも躊躇せず追ってきた。舟に乗っていた者たちも水に飛び込み、ブランボはカイエン人に曳かれた舟に乗ったまま自身の体を泡で覆ってきた。
 彼らは水中の方が俊敏だった。追いついたカイエン人たちは手にした槍や石刀でミリアムたちの群生体に切りつけてきた。傷つく群生体の感覚が流れ込んでくるおかげで、ミリアムの体にも鋭い痛みがあちこちで点滅した。
 ズンズン、ズンズン──群生体の表面から何かが発射された。
 群生体の表面から長く触腕がのびて、先に生えている刺胞で攻撃してきたカイエン人たちを刺し貫いた。刺胞を持たない触腕は鉈を持つファニの上半身を模していた。触腕に操られるファニがカイエン人へ鉈をふるっている。
 ブランボが泡から出した掌から衝撃波を放った。次々に放たれた波が白濁した軌跡を引いて触腕を切断する。切られた触腕は悲し気に細かい泡を吐きながら沈んだ。
 紫の龍の口を先にもつ触腕がブランボの衝撃波を止めた。ククルトの宿った触腕だ。白い牙で衝撃波をかみつぶし、砲台であるブランボにも牙をくれてやろうと触腕をしならせるが、舟を操るカイエン人がひらひらとかわす。膨らんでくるククルトのいらだちがミリアムにも伝わってきた。
 いつの間にか、水中に魔方陣の欠片が降ってきていた。
 カイエン人たちと戦いながら先を急ぐミリアム達の前に、魔法陣のかけらが集まってくる。ブランボが呪文を唱え、陣を整えると、美しい高音と低音の唱和と共に大きな黒い霧の壁が立ちはだかった。
「だめ!」
 ミリアムが叫んでも群生体は止まらなかった。群生体は霧の壁に突っ込んだ。
 前後も分からないほどの暗闇に包まれた。さっき入ってきたところもどこへ進んでいるのかもまるで見当がつかない。肌感覚はただ水で満たされている場所のようだが、霧の外の水より冷たく、体温も体力も、中の空気すらもどんどん霧に吸い取られて、苦しみのあまり今にも意識がとんでしまいそうになった。
 ふと闇に一点の淡い光が点った。藁にもすがる思いでそこへ泳ぐ。
 視界が開けた。
 大勢のカイエン人が待っていた。元の場所だ。真ん中に発光する杖を掲げたブランボがいる。
「イハラゴ様をまだ出してはならぬとのことだ。かかれ」
 再びカイエン人の攻撃。新たな触腕も発射して応戦する。
 ククルトの触腕がブランボへ向かった。
「お前さえかみ砕いてやれば!」
 紙一重でククルトをかわしたブランボは、距離をとって左袖をまくった。
「いでよ、イエールオルライ!」
 ククルトの牙とブランボの左腕に宿った甲殻の魔法生物が嚙み合う。
 急にククルトの動きが鈍くなった。ブランボの操る魔法生物の攻撃はなんとかかわすが、自ら仕掛けることができない。
 今まで見たことないククルトの狼狽ぶりで、ミリアムの記憶の隅が掘り返された。

「俺の腕にいるのはイエールって奴だ」──落ち込む私(ミリアム)に先生は魔紋だらけの自分の左腕を見せた──「俺はこいつを使いたいときに呼び出すことができる。ミリィも大きくなって魔導士の修行をすれば、ククルトの力を操れるんじゃないかと思っているんだが……」

「珍しい術や魔法生物を持つ魔導士は、魔導士に狙われるんだ。呪われ子のようにね」──オルト婆と二人っきりの静かな夜、お茶を飲みながら先生の話をしていた時のことだ──「命の代わりに術をくれてやっても、その試し撃ちにあったりして……そう悲しい顔をするんじゃない。あいつも文句はなかろう。アレクシスだってそうやって手にいれたんだから」

 ミリアムは手で顔を覆ってうずくまった。あの魔法生物が他人の手にあるところを見たくなかった。それが意味するところを考えたくもなかった。
 それでも群生体の見る戦いの光景が群生体とつながるところから流れ込んできた。
 群生体はククルトが戦えないところをカイエン人たちにたたみかけられ、また結界の中へ追い立てられた。
 ククルトの言い訳はしどろもどろだ。
「あ、あれは……レングがイエールオルライと名付けたあれは、我の分身なのだ。我の狂暴な部分。ミリィに移植される前にミリィによくなじむために分けられた。レングに預けていたはずなのに……どうして……」
 ミリアムはうずくまったままピクリともしなかった。ククルトは黙った。
 出口の分からない暗黒のど真ん中で息が詰まり、死の恐怖が迫ってくると群生体は触手も水をかくひれの動きもばらばらになった。今にも血晶岩塩の網目から体の欠片がこぼれ落ちていきそうなほど緩んでいた。
 また、闇に淡い光の点が一つ点った。迷子を誘う罠の光だ。
 群生体は崩れそうな体を弱々しく揺らして光の方へ動いた。うっすらと差しこむ光条の温もりを手繰り寄せるように触腕をのばす。
 同時に群生体の内の規則的な蠕動が、丸まったままのミリアムをより内側に飲み込んでいった。

 約束の魔導士の、代わりの魔導士よ……
 約束の魔導士の、代わりの魔導士よ……

「待ってくれ! 我の力を貸すから……」
 ククルトの叫びは肉の軋みに飲み込まれた。
 群生体が結界から出ると、最初と同じように光る杖を持つブランボとカイエン人の軍団が待っていた。
 群生体はまた新たな触腕をいくつか発射した。
 数は最初の四分の一もない。その中の一本の触手の先が開いて、深紫の甲冑をまとう小柄の騎士が生まれた。顔まで覆う兜の頭飾りが長く尾を引き、三つ編みの黒髪とオルトの紋が入る赤いサーコートが水流でゆらめいている。
 騎士は腰の剣を抜き、足場とする触腕をしならせ、ブランボにせまった。
「いでよ、イエールオルライ!
 ブランボは再び甲殻の魔法生物をふるう。深紫の甲冑がブランボのわきをすり抜ける。
 ブランボの左腕が肩から切り落とされた。
「正体を現したな呪われ子!」
 切られた肩を抑えながらブランボが叫んだ。
「それがお前の本当の姿というわけだ。悪魔め!」
 騎士は再度触腕をしならせ、ブランボを背後から拘束した。
 群生体は後退し、ブランボごと結界の中へ飛び込んだ。
 暗黒のよどみの中、騎士はブランボの首に剣を当て、若い女の声で囁いた。
「魔導士は互いの術を取り合うそうだな」
「魔法生物は……」ブランボは泡の中で息を荒げながら答えた。「貴様が切ったおかげで吹っ飛んでいったぞ……」
「私が欲しいのはこの結界を解く魔法だ。渡さなければお前は死ぬ。ここは水中で呼吸できる魚でも空気が薄くて長く息が持たない」
「お前たちも、ここに留まれば、死ぬだろう」
「体が大きい分お前よりは長く生きるさ。それに、術者が死ねば結界も消える。魔法ってそんなものじゃないか。生きて術を渡すか、術を持ったまま死ぬか……死者の国でその結界が役に立てばいいね」
 血の気がなくなってきたブランボは力を振り絞り残った手を掲げてカイエン人の言葉に似た呪文を呟くと、闇の四方八方から白い魔方陣の欠片が浮き出てきて、複雑な文様を組まれた大きく丸い魔方陣を形成した。ミリアムがカイエン人の入り口で見た魔方陣と同じものだ。
 群生体の触腕が束になって魔方陣を貫いた。高音と低音が混ざった轟音と共に闇の結界は散り散りになり、元の水の流れに溶けていった。
 群生体は血の泡にまみれたブランボを放し、体をくねらせて先を目指して泳ごうとした。
 怒り狂ったカイエン人の司祭の声が水中を震わせた。
 今度は岩石の塊が雨あられと降ってきた。
 騎士が乗っていた触腕が縮んで、騎士ごと群生体のなかへ納まると、群生体全体が紫のククルトの力場で覆われた。
「仲間ともども押しつぶす気だ。自分たちの巣穴を崩してでも我らを逃さないつもりだな」
 どんどん狭くなっていく水路を、岩石の合間を縫って群生体は泳ぎ続ける。
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