スイカたちの夏

文字数 3,534文字

「ね、悟って呼んでもいい?」
 カフェでお茶をしている時、光希が唐突に言った。
 もちろん以前付き合った彼女にだって、女友達にでさえ呼び捨てにされたことはあるけれど、光希の口から出ると、それは特別な響きを持って聞こえた。
「いいけど……なんか照れるな」
「じゃ、ほかの呼び方がいい? ね、ご家族になんて呼ばれてたの?」
「別に普通に、悟だけど……」
「そうなんだ。じゃ、呼ばれなれてるね」
 光希はふわりと笑った。
「なーんて、私の方が照れちゃうな。自分で言っておいてなんだけど」
「いいじゃん、自然にしてれば。そのうち、呼べるようになるよ」
「そうかな。練習しちゃおう。悟、さとる、サトル……」
 顔をほんのり赤くしながら、俺の顔も見ずに、ブツブツつぶやいている。
 くるくると表情が変わるところが、とても魅力的だ。
 きっと彼女も「光希」って呼んでもらいたいんだろう。
 でも、「名前で呼んでくれなきゃ嫌」とか言って、すねてみせたり、甘えてみたりしないところが彼女の良さだ。

「さて。これからどうしようか」
 まだ昼前だ。
 今日は水曜日の午前中――都内は、とても静かだ。
 俺はブライダル会社でバイトをしているといっても、配膳の仕事が多く、土日中心に働くことが多い。平日の場合は、併設しているレストランでウェイターとして働いている。 
 シフトがある程度自由になることを伝えると、人ごみが苦手な光希は、「私もその日休むから、都内のカフェで待ち合わせしてみたい」と言ってきた。
「そろそろ、ランチ食べる人でいっぱいになるだろうし、場所移そうか。それとも、この辺りをブラブラしてみる?」
「うーん、それもいいかな……でも……」
 珍しく、光希が迷っている。
「もし、買い物とかしたいんだったら、付き合ってもいいけど……」
 俺はファッションビルの「夏バーゲン」という垂れ幕を指さした。
 すると光希は「いいのいいの、もう必要ないから」とブンブン首を振った。
「そっか。女の子ってけっこうそういうの好きなのかと思った」
「そうかもね。でも、私はいいんだ……」
「ふうん」
「じゃあ、海行きたいな。悟くん……悟と初めて会った海。ダメ?」
「いいよ。そのかわり電車だけど」
「うん、私、電車って好き」

 店を出ると、木漏れ日がまぶしかった。
 俺は光希を振り返り、手を差し出した。
「行こう、光希」
 光希は顔をあげ、パッと笑顔になる。
 柔らかに差し込んでくる光の中、俺たちは駅に向かって歩き出した。

 藤沢駅に着くと、俺たちは鎌倉駅行きの江ノ電に乗り換えた。
 住宅街や商店街を通り抜け、見えてくる路地裏の景色。
 路面電車となって街中を走る瞬間。
 視界が広がり、見えた海。
 波間に浮かぶヨット。
 目に飛び込んでくる景色の一つひとつに、光希は小さく声をあげ、感動していた。

「夏の匂いがする」

 息をいっぱいに吸い込む光希の穏やかな横顔を、じっと見つめる。
 俺は雪国出身ということもあり、爽やかな夏を実感することが少なかった。というより、冬に支配されることが多く、春や秋などが短いため、季節に追われるような感覚でいたのかもしれない。
 このまま時間が止まればいい――俺は心のシャッターを押した。
 
 別に俺も得意なわけじゃないが、光希は写真があまり好きではないらしい。
 ブライダルの仕事をしていると、みんながデジカメ持参、もしくは携帯電話のカメラでパシャパシャ撮っているように思えてならない。
 特に女の子はそうだ。食事は写すわ、デザートは写すわ、自分で自分を写すことだってあるし、もちろん撮ってほしいと頼まれることも多い。
 俺は光希がそういうタイプでないことに少し安心していた。
 いつでもどこでも、どんな時でも「写真を撮ろう」と言われてはたまらない。
 その一方で、光希のいろんな表情が見たい、それを残しておきたいという気持ちもあった。
 でも。
 もし、彼女と一生、一緒にいられるのなら、ずっと隣で光希の笑顔を見ていられるのなら、写真なんてなくたっていいか。
 いや、光希のドレスの写真ぐらいは残しておこうか。
 あれこれ思いを巡らせているうちに、我ながら勝手な考えだと苦笑する。
  
「何?」
 俺の視線に気付いたのか、光希が振り返る。
「ん? 別に」
「今、私のこと笑ってなかった?」
「笑ってないって」
「そう。まあ、いーや。笑われても……あ! ねえ、見て。海がキラキラ光ってる。あそこ、行ってみたい!」
 光希は目を輝かせ、俺の肩を叩いた。
 その時、電車が揺れた。
 前髪が触れそうなほど光希と近づき、ドキッとする。
 俺たちは、稲村ケ崎の駅で電車を降りた。

 初めて出会った日と同じように、海を眺めながら並んで座る。
 でも、今日隣にいるのは拓司ではなく、光希だ。俺はそのことに、このうえない幸せを感じていた。
「いいなあ、こういうの」
 俺がつぶやくと、「写真とか……撮りたい?」と光希が聞いてきた。
「いや、別に。印象的なこととか景色とかって、わざわざ記録しなくても覚えてるもんだし」
「私もそう。大事なものはレンズを通してじゃなくて、自分の目で見て、心に刻んでおきたいんだ」
 そう語る横顔が少し寂しげに見えたのは、気のせいか。
 光希がとても小さく見え、俺はその肩をそっと抱き寄せた。
 彼女は軽く俺に身体を預けながら、口を開いた。
「でも……忘れてね」
 光希の口から意外な言葉が飛び出した。
「忘れるって何を?」
 俺は光希に聞き返した。
「私のこと」
「はあ? 何言ってんだよ、光希は。ヘンなこと言うなあ」
 俺が笑い飛ばすと、光希は身体を起こし、真剣な顔でこっちを見た。
「ね、約束しよ? 私たちが別れる時は、お互い嫌いになって、すっぱり忘れることにしようね」
「ちょっと待った。俺たち、付き合い始めたばっかりだろ? 何で今から別れる時のことなんて言うんだよ。それとも、もう別れたいとか?」
「そうじゃない。そうじゃないけど、別れてもお友達とか、きれいな思い出は残しておこうねとか、そういうのイヤなの」
 光希があまり真面目な顔で言うので、逆におかしくなって、笑ってしまった。
「そんな顔するなよ、大丈夫。俺たちは別れないから。少なくとも、俺はそんなつもりないから」
「それでも!」
「わかったわかった。もし、どっちかがどっちかを嫌いになる、そんな日が来たら、お互いすっぱり忘れよう。それでいいか?」
 俺が言うと、光希はコックリと頷き、ようやく笑顔になった。
 
 それから俺たちは海を眺めながら、好きなものの話をした。
「向日葵と花火とおまつり!」
「いきなり3つ? しかも夏のものばっか」
「あとね、蚊取り線香の匂いとか打ち水したあとの匂いとか」
「マニアックだなあ~。でも、まあ、要するに夏が好きなんだな。俺はあんまりそういう経験したことないから実感としてはわからないんだけど」
「うん、そう。夏、大好き。でも、あせもになるのはイヤだけど」
「なんだよそれ」
「あるでしょ、そういうこと。好きだけど嫌いみたいな」
 光希はいたずらっ子のように鼻にしわをよせて笑った。
「あー、あるある。俺、トマトは好きだけど、トマトジュースは苦手」
「そうそう、そういうの」
 光希がノッてきたので、俺は調子に乗って言った。
「クリームシチューは好きだけど、牛乳は嫌い。スイカは好きだけど、タネとるのは嫌い。学校は好きだったけど、勉強するのは嫌い。部活は好きだったけど、練習は嫌い。それから――、あ、手紙をもらうのは好きだけど、書くのは面倒だな、とか」
「え~、それはあんまりじゃない? しかも、『好きだけど嫌いなものを言うゲーム』じゃないし」
 光希は口をとがらせた。
「え? そうだった?」
 俺はとぼけてみせた。
「そうよ。お互いのこと、もっともっと知ろうねって、だから、好きなもの教え合おうってことじゃないの?」
 一生懸命に話す光希がとても愛おしく、俺は言った。
「わかったわかった。今、俺が一番好きなのは」
「うん」
 俺は黙って、光希の方を向いて指さした。
 光希は「えっ?」と後ろを振り向く。彼女の向こうには海岸線が続いているだけだ。
「えっ、何のこと? 何もないけど――」
「そうじゃなくて」
「ん?」
「光希。俺が好きなのは光希だよ」
 自分がこんなクサい言葉を吐けるとは思っていなかったけれど、偽ることのない思いだ。
「もうっ!」と頬を赤らめる光希を一生守っていこう。
 俺はそう決意した。
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