バックネット裏にて

文字数 1,964文字

 チームを決勝まで牽引してきたプロ注目の超高校級右腕は、先発から五回を無失点に抑えると連投の疲れからかベンチに退いた。するとバックネット裏でスピードガンとメモを片手に熱心に試合を見ていた幾人かのスカウトらはそそくさと引き上げていった。バックネット裏の前から三列目の中央付近で、座席の左右にスピードガンや三脚で固定されたビデオカメラを置き、ラップトップを叩きながら観戦していたスカウトらしき男も、たくさんの機材をゆっくりと鞄に仕舞った。この男も引き上げるのかと思っていたら、機材を二つの大きな鞄に分けて収め、座席の左右に鞄を一つずつ置いて観戦を続けた。スカウトらが一斉に引き上げる様は一所懸命にプレーする球児たちに失礼だろうと思っていたので、三列目の男の態度は救いに思えた。
 肝心の試合は両チーム無得点のまま七回に突入し、いつの間にか内野のスタンドは両チームの応援団で埋め尽くされ、鳴り物応援は禁止されている有料のバックネット裏自由席も、六〜七分の入りで人が集まっていた。始球式を終えた後、バックネット裏の前二列に陣取っていた知事と高野連関係者らは、いつの間にかいなくなって誰も座っておらず、それなら解放すればいいものを、と思ったが三列目との間には相変わらずロープが張られたままだった。
 バックネット裏の最前列に座る格好となったスカウトらしき男は、試合を集中して見ているわけではない様子で、時折携帯電話で大きな笑い声をたてながら誰かと話している。私は右腕君の交代で帰らなかった時こそこの男に好感を持ったが、少しずつ観戦者が増えてきた今は、一人で三席も使い、試合を横目に大声で笑いながら携帯電話で話す男の姿が、懸命にプレーする球児らに対し不適切に映り、反感を抱き始めていた。
 七回の攻防が終わった時、バックネットスタンドの入り口から賑やかな声が聞こえたかと思うと、丸刈りに白シャツ、黒い学生ズボンの男の子らが数人、スタンドになだれ込んできた。背格好からすると地元の中学校の野球部員のようだ。彼らはバックネット裏でまとまって観戦できる場所を探そうと周囲をキョロキョロと見回し、空席の最前列の二列を発見すると前方に駆け寄った。しかし無情に張られたロープを発見し再びバックネット裏スタンドを見渡した。まとまった空席を発見できなかった彼らの目は、男が一人真ん中に座る三列目に注がれていた。男の子の一人が真ん中に座る男の左横まで進むと、
「すみません、この荷物をどけもいいですか」と聞いた。男は迷惑そうな様子で、
「ちょっと重いんだよね、動かせないんだ」と素っ気なく答えると、男の子は鞄を片手でひょいと持ち上げ、誰も座らない二列目の椅子に移動した。男の子は軽く会釈すると、男の前を器用にすり抜け、男の右側に立つと、
「こっちもいいですか」と言うや否や、男の右側にあった鞄もまたひょいと持ち上げ、二列目の椅子に移動した。
 すると男の子を見守っていた他の男の子らが一斉に動き出し、彼らはスカウトの男が中央に鎮座する三列目の空席を左右から埋めていった。スカウトの男は、ポケットからサングラスを取り出してかけると、鞄を移動させてから男の隣に座った男の子に、「力持ちだねぇ、ありがとう」と笑顔で話しかけた。
 男が「力持ちだねぇ、ありがとう」と笑ったのは、「鞄が重い」と言った嘘を一瞬にして見破られた照れ隠しなのか。男がサングラスをかけたのは、子供を相手にした大人の威嚇なのか。五列目から見ていた私には、男のすべての行動が中学生相手になんと不適切なことかと思えた。男がただ単に一列後ろに移動し、中学生を切れ目なく座らせてやればいいものを、と思った私は少し腹を立てながら、スカウトの男と男の子らの関係が変な方向にこじれないようそっと見守った。
 試合は同点のまま九回の攻防に移った。男を挟んで中学生が二手に別れて座る三列目の席の並びが不憫に思えて仕方ない私は、思い切って男の背後から「こっちでビールでも飲みながら一緒に観戦しませんか」と声をかけた。すると真ん中の男と左右の白シャツの坊主頭を含めた三人が驚いた様子で私の方に振り向き、真ん中の男は私を凝視して私の意図を品定めしたあと、「誰?同点の九回にこの席から移動しろというの?しかもビール?、なんという不適切な」と言い放った。
 ふと見ると男の手には仕舞われたはずのスピードガンが握られ、中学生らは興味津々でスピードガンの表示する数字を見ている。さらに二列目に移動された男のカバンには、在京プロ球団のエンブレムが光っていて、中学生らは携帯でカバンの写真を撮っている。どうやらいつの間にか、彼らの列を崩そうと躍起になっている私が、彼らにとって不適切な存在になっていたようだ。
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