友達と会えるんだ

文字数 2,041文字

 開業医の息子だった達夫は苦手な数学に医学部進学を阻まれ、親との軋轢を抱えながら国内の鍼灸学校に進み、卒業すると中国針を修得せんと河南省の洛陽に学んだ。当時はパソコンや電子メールは普及し始めた頃で、携帯電話もまだ珍しく、筆まめの達夫は私宛に「両親に無事を知らせてくれ」と頻繁に自筆で手紙を書いて寄越した。
 達夫は数学こそ苦手だったが、鴎外よろしく語学と女性との付合いに秀でた才能があったようで、中国滞在中には中国の古典文学を相当に読み込み、手紙にも幾つかの抄訳や創作の短編を書き、同封された写真には「清香」と名の書かれた女性と一緒に微笑む姿があった。ある時寄越した手紙に、
「僕と清香が滞在先の飯屋で餃子を注文すると、主人が餃子を茹で始めたのだが、疲れて横になった清香の頭を支える青磁の枕の割れ目に僕は吸い込まれ、気付くと朱に塗られた門や玉で飾られた建物で、清香との間にもうけた五人の子供と暮らしていた。僕自身は地元の病院を経営する名士で、成長した子等は地方政府の高官や医者として父の病院事業を助けていた。しかし官吏になった息子は収賄で、医者になった息子は医療過誤で、それぞれ政府に捕らえられ、父たる僕は刀を取って自ら首をかき切ろうとしたが、すっかり太って中年体型になった清香に救われ、死を免れたところで目を冷ました。主人の茹でる餃子はまだ湯の中で踊っていた」と近況が綴られていた。
 これは沈既済なる唐代の文筆家による志怪小説を参考に書いたそうで、手紙にはこの物語から成り出た「邯鄲一炊の夢」をはじめとする中国の故事成語の豊かな世界や、達夫と同年代だった作者沈既済への畏敬の言葉が溢れていた。私には達夫に残る医者としての野心や清香と身持ちを固める意思の現れに読めなくもなかったが、ともかく達夫を心配する彼の両親に息男の近況を伝えた。達夫の両親は息子の近況を聞くと「これを息子に送ってくれ」と私に小切手を託した。
 中国で清香に添い遂げるのだろうという私の想像を超えて達夫は、医療の乏しい地域の人々に鍼治療を施しながらシルクロードを西進し、二年後にイランに到着した。清香とは別れたのか、旅の中継地から届く手紙には毎度違う女性との写真が添えられていた。イランには十二年ほど滞在したのだが、中国でしていたと同じようにペルシャ語の古典文学を読み込み、中国に清香があった様に、イランからはヴェールを被り「ファティマ」と名を書かれた女性と並んだ写真を同封してきた。カーウースなるペルシャの王の書いた物語を元にしたという近況報告では、
「二人の中国人の鍼師も同行しているが、一人は都会育ちで出発前に親から受け取った大金を抱えていた。この坊やは手持ちの金がいつ盗まれるのか心配で、ぐっすり寝ることも、ゆっくり食事することもままならない。そこで私は彼が微睡む間に彼の金子を隠したのだが、目覚めた坊やが大騒ぎするので、私は失敬した金子の頭陀袋を彼の目の前で深井戸に放り込んでやった。彼は狂って私を刺しでもするのかと思ったら、笑みさえ浮かべて落ち着き払い、「これで安心して眠られる」と感謝さえしてきた。だが私が井戸に投げ込んだのは偽物で、本物はこっそり隠しておいたのだが、さて本物の彼の金子をどうしたものか、返さないと私が不眠になるやもしれない」とあった。
 元はカーウースが「旅に出るときは余計なものもは持つべきではない」という人生訓を息子に伝えた際の逸話だそうだが、達夫は自身と同年代のカーウースがこの話を書いたことに自身の未熟さを重ね嘆いていた。私は現地で達夫に子でもできたのかと勘ぐったが、その後の手紙にも子の話はなかった。
 達夫は日本を離れて三十年後の五十一歳のときに、突然日本に帰ってきた。高齢の両親を思っての帰国かと思ったがどうやら違ったようで、私の勤務する総合病院で診察すると胃癌が進行していた。手術と抗癌治療で一旦は回復し、達夫は郊外に小さな鍼灸院を開いて細々と生活した。しかし三年後の検査で、肺に転移した難しい癌が見つかると達夫は「もう手術しない」といった。私は「全力で救う」と言ったが、達夫は「覚悟はできている」と頑なに手術を拒んだ。達夫は私に、
「友として最後に頼みたいことがある。これを出版してくれる会社を探して欲しい。もし印税が入る様であれば両親を受取にしてくれ」と中国古典やペルシャ古典の翻訳原稿の束を差し出した。達夫は更に「謝礼はこれで」と俺が達夫の両親から預かり達夫に送った小切手の束を出した。
「あの世に行けば、沈既済とかカーウースとか、大陸で出会った多くの友達と会えるんだ」と達夫は、陽のあたるベッドに半身を起こし、中国やイランから持ち帰った本のページを嬉しそうにめくっている。

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第9回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 友達と会えるんだ 穴木隆象
https://koubo.jp/article/28849
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