徒歩通勤

文字数 1,987文字

 運動不足の解消も兼ねて、毎朝の通勤に駅まで十分のバスを二十分かかる徒歩に変えた。起床時間も三十分早め、その分就寝時間も少し早め、典型的な中年太りになりつつあるお腹にはいい選択だと思い毎日歩いている。駅まではバス通りではなく、住宅街の裏通りを抜け緑道を歩くので、家族も「毎朝緑の中を歩けるなんていいじゃない、健康にもいいし」と徒歩通勤に前向きのエールを送ってきた。始めのころは緑を楽しむ余裕もあったが、慣れてくると緑を楽しむより信号の変わり目を気にしながら歩いている自分に気づいた。緑道を抜けてから駅に辿り着くまでに歩道橋のない国道を渡るのだが、駅を目前に長い赤信号を待ちたくないので、緑道を歩くときに並行する国道を流れる車の音や影を感じながら信号の変わり目に合うように歩速を調整し、いかに信号待ちをしないように歩くかに腐心していたのだった。
 緑道を歩くちょうどその時間に毎日遭遇する母子があった。母親はヒジャブを被っているので、服装からしておそらく東南アジア系のムスリムなのだろう。子供は黄色い帽子を被り、自治体のロゴの入った黄色いカバーをつけたランドセルを背負い、隣を歩く母親の手を握り、緑道沿いの木陰や敷石を楽しみながら、のんびり歩く。二人の雰囲気から虐待や外国人の日本社会不適合のような問題は感じられないし、通学に付き添うとはいえ過保護でもなさそうだ。インターナショナルスクールや私立の学校に通うわけではなく、地元の公立学校に通わせるくらいだから、日本人の配偶者でもいるのだろうか。横を過ぎるときにチラと子供の顔を見ると、彫りの深い凛々しい顔の男の子の顔が見える。子供のペースなのか、母親が生まれ育った環境のペースなのか、二人は心配なくらいにのんびり歩く。横断歩道の信号が点滅しても決して急がず、次の青をじっと待つ。信号待ちの間に左右から学友の通学の流れが合流すれば子供らは無邪気に戯れ、横断歩道を渡り終えると母は友達とのおしゃべりに夢中な子供の背中をそっと見送り、一人来た道を引き返す。 
 ある朝緑道の中程で、信号を渡ろうと駆け足で二人を追い越したものの国道を渡れず、長い信号に足止めを食らっていると二人に追いつかれた。二人にせわしさを見せつけたのに信号で立ち尽くしてバツの悪かった私は、じっと私をみる二人に照れ隠しから軽く会釈した。今にして思えば二人は私など見ていたわけではなかったが、私が二人を見たので私を凝視し返しただけではなかったかと思う。私の会釈に子供の方は何も反応を示さなかったが、母親は戸惑いながらもそっと会釈を返してきた。それを機に翌日から、二人を追い越すときに私から軽く会釈したり、「おはようございます」と声を掛けたりするようになった。子供はきまって知らん顔だが、お母さんはそっと会釈を返してくれる。
 徒歩通勤が半年ほど経過し、紅葉した落葉が緑道の地面を覆うようになった初冬のある朝、子供が一人で歩いていた。私は「おはよう、お母さんどうしたの?」と聞くと子供は、「風邪ひいた」とぶっきらぼうに答えた。私は「そうか、寂しいね」というと、子供は何も言わず落ち葉を蹴り上げながら歩き続けた。「じゃあ信号までおじさんと一緒に行こうか」というと子供は何も言わず、戸惑っているのか拒否したくてもできないのか、落ち葉を蹴りながら歩き続けた。だが子供は立ち止まるわけでも逃げるわけでも私を拒否するわけでもなく、嫌がっている様子もないので、私はのんびり、子供の速度で緑道を歩いた。
 「おじさんは「たけだ」っていうんだけど、君の名前は何ていうのかな?」と聞くと男の子は「アディ」と答えた。「アディくんか、よろしくね」というと、アディ君は迷惑がる様子もなかったので私は、「いま何年生なの?」「好きな勉強は何?」「お父さんは何してるの?」と尋ねた。アディ君は落ち葉を蹴散らしながら、答えたい質問だけに答えた。
 徒歩通勤を始めて半年にして、私は始めてゆっくりと緑道を歩いていた。歩いている間に横断歩道の信号は何度も青から赤に変わり、都心へ向かう電車は容赦なく何本も発車していった。いつも遅刻せず勤怠にうるさい男は、今日は間違いなく遅れて到着するだろう。それでもこの日私は、とにかくアディ君のペースで歩き、アディ君を何としても無事に横断歩道の向こうに連れて行こうと、ただそれだけを考えた。アディくんが蹴り上げた落葉が土埃と共にパラパラ舞い落ちると、木漏れ日の中に舞う埃の中に、毎日せわしく電話をかけたりメールを送ったり、期日の厳守をうるさく喚起する万年中間管理職のなさけない中年男の顔が浮かんで見えた。アディくんの蹴り上げた落ち葉が再び宙を舞うと、落ち葉はその中年男の顔に降りかかり、ひゅうと吹いた木枯らしに男は埃とともにあっけなくどこかへ吹き飛ばされていった。
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