歌を歌えるという事Ⅰ

文字数 636文字

 アーティスト「カイム」が全編をギターひとつで歌い上げるコンサート。この形式で行なう公演は幾年振りか。規模に関しては過去に類を見ない大舞台だった。年末年始のオーバーワークを駆け抜け、疲れもそこそこに迎えた今日この日。喉は荒れて首や肩回りの筋肉は柔軟さを失っており、お世辞にも万全と言える状態ではなかった。
「気合いだ、立て直せ。プロフェッショナル、プロフェッショナル……」と
 歩夢は自分に言い聞かせた。

 会場モニタに表示される公演タイトル。アコースティックコンサートのオーバーチューンにしては些かやかましい四つ打ちのダンスビートが響く。暗転の後に昇降式ステージによって持ち上げられるシルエット。登壇を待ちかねた総勢四万五千の観衆は火が付いたみたいな絶叫を炸裂させた。沈静する瞬間を待つ。その気配は空気となってアリーナから二階三階……更に高く、奥深くへと浸透する。

 沈黙を破ったのはDコードのダウンストロークだった。
 シンプルながら胸を打つイントロダクションは空気諸共に世界を塗り替え、明転と共に四万五千の五感に「音楽が抱く力」を知らしめた。

 歓喜と興奮も束の間。風船が弾けるみたいな悲劇。その足音が背後近くに迫っている事に誰も気付かなかった。

 Dコードから始まるイントロダクションは長く……レコーディングバージョンの五倍の時間を掛けループを続けて暗転。演奏はまるでそれが合図であるかの様に力無く途絶えた。
「おかしな演出だな」と
それより先の理解に到達する者は誰一人居なかった。
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