歌を歌えるという事Ⅱ

文字数 511文字

 悪い夢を見た。
 目蓋の開閉を繰り返しても瞳に映る天井の色は変わらず、「悪夢」が現実である事を歩夢に確かめさせるばかり。首元や手のひらから伝わるシーツの余所余所しく無機質な冷たさ、鼻に付く消毒の匂いから来る居心地の悪さ。意識の覚醒に伴い明確な存在感を以て彼女を不愉快な気分にした。
 そこはコンサート会場の救護室。救急車を呼ぶと観客たちの不安を煽ってしまうからと、歩夢は意識朦朧としながらも強い言葉で「自分で歩けます」と訴えたのだった。
 報を受けて駆け付けた両親。母が歩夢の手を取って温める様に優しく撫でた。父はマネージャから経緯の説明を受けた。
「子どもみたいで情けない」と、ボヤくと
「子どもでしょう」と、母が返す。
「社会に出て責任もあるから駄目でしょ。子どもだったら」と話すと自分の言葉ながら胸が締め付けられた。

 結論から、歩夢は突如として歌えなくなってしまった。
 声が一切出ない訳ではない。言葉を忘れた訳でもない。舞台に立ってリズムとメロディに乗り掛かった途端に歩夢は何故か声を失う。それだけの事だった。それだけの事が自分にとって如何に大きな存在として心を蝕んでいるか。歩夢は理屈で分かりつつも確かには実感出来ずに居た。
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