9. 免罪符

文字数 3,845文字

もう日付が変わろうかという深夜。

扇風機が回る音が響く、勉強机の蛍光灯だけが光る部屋。
僕は性懲りもなく、今日も勉強机に向かって座り、コソコソと小説を書いていた。
最近書いてるのは、全てから嫌われて、全てに絶望していた主人公がヒロインに救われて、ヒロインと二人だけで駆け落ちする内容の物語だ。
そして今書いているのは、首吊りをしようとする主人公をヒロインが必死に制止するシーン。
『苦悩や困難だらけの私達だからこそ、私達だけの景色を描けるはずだよ』
『二人で逃げよう。誰も私達のことを知らない場所へ』
ヒロインはそう言って、真っ白で綺麗な手で主人公の手をとる。
そして主人公は、ヒロインの言動に救われていく。

そのシーンを書いている途中、ふいに走らせていたペンを止めてしまう。

図らずも主人公を支えるヒロインの言動に、かつての面影が映ったことに、僕は気がついてしまったんだ。
僕は一人、頭を抱えて途方にくれる。
僕の脳内に過去の情景が、まるで映画館のスクリーンに流れる映像みたいに流れていく。
僕がまだ生き長らえている理由。
僕が小説を書くようになったきっかけ。
それを、僕は決して忘れない。
たとえ忘れたくても、たぶん忘れられないだろう。

"わたしは一哉くんの話を聞きたい。聞かされてるでも、聞いてあげてるでもないよ。わたしがわたしの為に、聞かせて欲しいの"

"一哉くん、小説書いてみなよ。一哉くんの話す言葉って、優しくて、力強くて、元気になれるもん"

三年前の思い出が少し転がる。
とある小さな緑地。その中の草原に立つ桜の木の下。
そこで白いワンピースを着て、体育座りをしている女の子。
ふとした風になびく、短くて綺麗な黒髪。
切り傷と青アザだらけで、それでも温もりを持った手のひら。
"一哉くんはきっと、真面目すぎて、優しすぎるんだよ"
誰よりも優しくて、僕に力をくれる言葉の数々。
そして少し頬に赤みを含んだ、無邪気でかわいらしい笑顔。
愛だとか恋だとか、そんなの僕にはわからない。でもそんな僕がきっと、恋をして、愛していた人。
中学三年になった春。
今もそうだけど、あの頃の僕は、全てがもう嫌になっていた。
何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。人の目を気にするのも、もううんざりだった。
それで一度だけ勇気を振り絞って、近くの川に入水自殺しようとしたんだ。
その時に通りがかったその娘に助けられたのが始まり。
今思えば、たぶん他の人間に話しても、信じてくれないような出会い方だな。
"毎日会わないと絶対許さないから。明日からよろしくね"
そう彼女が言い出して以来、できるだけ毎日会うようになった。
南公園のグラウンドに隣接する、誰も立ち寄らない緑地。その中にある草原に立つ桜の下で、僕ら二人はよく話をするようになった。
お互いに周りからイジメられて、親から暴力を振るわれて、世界に嫌われて、普通になれなくて、特別にもなれなくて、ゴミ箱にもあふれたような境遇。
そんな嫌な共通点ばかりあった僕らは、会話を重ねるにつれて、次第にお互いを信頼するようになった。

"最高は最悪で、最悪は最高なんだよ。人って楽しい時はそれが普通に感じるかもだけど、そんなの普通じゃないでしょ? 辛かったり苦しかったりする人は、それが普通の人よりわかってるんだよ"

"だからきっと、必要以上に苦しんできた一哉くんは他の人達よりも、幸せを深く理解できるし、その幸せを掴めると、わたしは思うよ?"

その娘の言葉は、僕が失った自我や尊厳、心を優しく修復してくれた。リュウジを救えず、自責の念に襲われる僕を包み込んでくれた。

"せっかくだし海に行こうよ! それとも、ひまわり畑のほうがいい?"

カラオケや花火大会、真夏の海といった、僕が今までやったことのない遊びとか行ったことのない場所とか、色々な場所へ連れ出してくれた。
最初の僕は、人の生死や人生に土足で踏み込んでいく彼女にイライラしていたが、少しずつその言動に救われていった。
おかげで死体も同然だった僕は、墓場から蘇ったゾンビぐらいには人間らしくなれたよ。
そんな彼女は、僕に小説を書くことを勧めてきた。
なんでも、僕の話す言葉とか内容とかを聞いて、小説執筆が上手そうだと感じたらしい。
そこで僕はシャーペンとルーズリーフを使って、親や周りに隠れて、簡単な短編小説を書くようになった。
世界の全てから見放された僕らが、アメリカの映画みたいに救われる夢物語。

"一哉くん、きっと小説家になれるよ。こんなに読み終わって力をもらえる物語を書けるんだもん"

彼女は僕が書いた物を全部読んでくれて、毎度毎度、その小説を褒めてくれた。僕は、書いた小説を褒められて、ただただ嬉しかった。
そしてしばらくして、僕らは俗に言う恋人同士となった。
初めて女子に好きと告白されて、キスをした僕は、一瞬だけ希死念慮を忘れることができた。
大人になったら、誰も僕らのことを知らない土地に行って、そこで結婚しよう。
そんな漫画みたいな約束なんかもしたっけな。
笑われるかもしれないけど、僕は彼女さえそばにいてくれたらよかった。
そんな彼女は、本当に優しすぎて、いつも自分を責めていた。僕に隠れて、一人泣いているのを見たこともある。
左腕の手首に、包帯を巻くようになった。
だから、僕は誓った。
彼女を決して離さない。彼女を絶対に助けてみせる。
僕は、彼女を絶対に幸せにしてやりたかった。


ここで僕は頭を乱暴に振り、脳内で流れるスクリーンの映像を止める。
今はこれ以上思い出さないでおく。
致命傷と成り果てた過去の美しき日々は、いつも唐突に、僕の意思に関係なく脳裏に甦ってくる。だから今、僕自身から思い出す必要はないはずだ。
それに思い出したら思い出す分だけ、悲しくて虚しくなってくるのだから。
まあ簡単に締めると、彼女は最後、周りの人間達に散々辱められて、自ら命を経ってしまった。
彼女を失ってから、僕は本当にもう何もかもどうでもよくなったよ。
せっかく彼女が作り直してくれた心も、張り裂けて剥がれ落ちてしまった。
それに比例して、元々重たかった体も更に動かなくなっていく。
学校への通学と、父親の宗教活動に連れられることだけ必死にこなして、それ以外は布団の上で寝たきりになることが増えていった。
彼女と出会う前よりも、毎日一秒一秒が虚しく感じる日々が続く。季節も、風景も、時間も、昨日も明日も、徐々に死んでいく。
昼夜問わず部屋の明かりを極力つけない部屋の中、ずっと布団の中でうずくまるようになった。
涙が急に溢れたり、勝手に止まったりした。
人の温もりと、それを失う悲しみ。
それを知ってしまったから、もう人を愛することも、愛されることも怖くなってしまった。
離れたくなかった人や愛してくれた人を、足し算したり引き算したりするのは、もうごめんだ。
どうして光を見せたんだよ。どうして望みを抱かせたんだよ。
それに僕は、リュウジの時も、あの娘の時も、相手が傷ついて苦しんでいることに気づいていた。でも僕は何もできなかった。僕は見殺しにしてしまったんだ。
僕は二人も見殺しにした重罪人だと、リュウジの時より尚一層自責の念が蓄積していき、僕を真っ黒にしていく。
このままじゃダメだという自覚はあったよ。
でもこの状況から抜け出せる術があるのなら、逆に教えてほしかった。心さえ元から無かったら、こんなに苦しむこともなかったのに。
リュウジとあの娘の経験から、僕は、優しい人間ほど痛めつけられるという世界の現実を思い知らされた。
きっとこの世界で、一番の不条理だと思うよ。
また、あの娘が死んでからいつも背後霊に見張られる日々が始まった。
リュウジやあの娘の言葉を思い出して、アイツや彼女だったらどう思うか考えて、一人で勝手に自責の念を膨らませていく。
それに加えて、誰よりも無邪気だったリュウジや、誰よりも優しかったあの娘を殺した世界への憎悪が湧き上がるようになった。
だから、人らしき人以下の存在になっても書き続ける、小説の内容も自然と変わっていった。
忌まわしい世界を打ち砕き、最終的に僕自身を殺す物語。
それを書き続けるうちに、僕は家の片隅で爆弾を作り続ける爆弾魔に成り下がった。
僕自身の作った爆弾で、あの二人がいない世界なんか全部焼け野原にして、全部を忘れておさらばしたい。
そんな願望が言葉になって、具現化して、小説の中身が真っ黒になっていって、新しい爆弾が作り上げられる。
でも結局は、あの二人を忘れることができなくて、図らずも僕が作ったキャラクターに投影してしまう。そして小説の中で、再会を果たす。
そんなことをしたって、故人が帰ってくるわけでもないのに。
過去に生きている、なんて言われたくないね。
元々、思い出と心中するつもりはないよ。
でも、あの二人のおかげで今生きていて、二人のせいで死ねないのは紛れもない事実なんだ。
そもそも、僕の自意識が、僕の罪を忘れることを許さないんだから。
アイツとあの娘の背後霊が、僕の存在意義を駆り立ててくるんだ。
だから僕は、あの二人のことを決して忘れてはいけないんだ。
こんなにだらしなくてカッコ悪い、欠陥だらけでも生き残ってしまった僕は謝り続ける。
それがきっと、リュウジとあの娘に対する償いになるから。
僕がまだ生き残ってしまっていることへの、免罪符になるのだから。
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