3. 公園のベンチ

文字数 2,482文字

コンビニを飛び出してから、僕はまず動悸と過呼吸を静めようとする。
胸に片手を当てて深呼吸をしようとするけど、動悸と過呼吸があまりに酷く、呼吸自体上手くできない。
我慢して家へ帰ることもできるけど、僕はどこかに座って少しの時間だけ休もうと思った。
辺りを見渡すと、ちょうど南公園のグランドに設置されたベンチが空いているのを見つける。
僕は片手で胸を押さえながら、小走りでベンチに向かった。
コンビニ袋やコーヒーカップをベンチへ無造作に置いて、僕は倒れ込むようにそこへ腰掛ける。
ちょうどベンチの後ろに広がる緑地の木々が、夏の日差しを遮ってくれていた。それでも蒸し暑さで汗が吹き出るが、日差しが弱いから幾分かマシだ。
僕は何度も深呼吸をして、なんとか動悸と過呼吸を軽くする。
またかよ。
僕は何度目かのこの失敗に、深呼吸に続いてため息が出そうになる。
こんなことは度々あるんだ。
今まで散々陰口とか嘲笑とか、冷たい視線とか味わってきたせいで、そういう物に過剰に反応するようになってしまった。
誰かがコソコソと話しているのを見るだけで、本当のことはわからないけど、僕の陰口かもしれないと考えてしまう。
僕にとって外の世界は、危険に溢れていて、とても怖いんだ。
だから今は、基本的に高校へ通学する時以外は、暗い部屋に引きこもっているんだよ。
でも、気持ち悪がられるのもしょうがないんだよ。
帽子を目深に被ったジャージ姿で、猫背でいつも俯いている。
な? 十分に不愉快な奴で、不審者だろ。
しょうがないんだ。
そうやって考えては僕自身に言い聞かせていると、なんだか無性に疲れてきて、横に置いていたアイスコーヒーのカップを手に取って一口飲んだ。
カップの結露がズボンにポタポタと落ちていく。
僕はぐったりとベンチの背もたれに寄りかかり、目の前の光景を眺める。かと言って、たかが知れている光景だけど。
南公園横の狭い県道では、車が次々と走り去っていく。
白いグランドと車道の間にある歩道。歩行器を押す老婆がゆっくり歩いていて、それをスーツを着た男が避けながら通り過ぎた。
休日ということもあってか、目の前の白いグランドでは、やかましい奇声を上げている幼児と母親らしき女性がボール遊びしている。
思わずこのベンチに座ってしまったけど、実を言うと僕はこの公園が嫌いなんだよな。
親と一緒に来たやかましい幼児から、仲間と一緒に登下校する学生、必死に通勤するサラリーマン、満身創痍で歩く老人まで、ほぼ全ての年齢層の人間がこの公園を通り過ぎていく。
そんな人間達を横から眺めていると、一般的な人生というものを俯瞰して見ているようで、なんだか虚しくなってくるんだ。
今僕の前を通り過ぎていった人間達は、幸せなんだろうか。幸せなんて上位入賞の勲章だけど、あの中では誰が一番幸せなんだろうか。
幸せだと思えている人間は、偶然が味方してくれた奴だけだろうけど。
そんなことを考えてしまう僕も、大概末期状態だな。
ふと、目の前のグラウンドで遊んでいる幼児が視界に入る。
あの幼児もきっと、いずれ色々なことを経験して、教えられて、僕と違って一般的な大人になっていくんだろうな。
羨ましいな。
僕はほんの幼児に嫉妬心を抱いてしまい、そんな僕自身への嫌悪感に襲われそうになる。
たぶん他の普通の人間は、子どもから大人になる過程の途中で、色んな対応力を身につけていくんだろう。
例えば、相手の機嫌を取ることやその場の空気に沿った行動の仕方。
他人から一を聞けば、なんとか二以上をこなせる能力。
自分や周囲の欺き方と、その加減具合。
人間関係の築き方。
そういう、面倒くさいけどやっていかないと生きていけなくなること全般。
それを上手く折り合いをつけながら、時が経つにつれてやりこなせるようになるのだろう。
対応力のスペシャリストが、世の中の大人なんだろう。
でもそれが時々できない、決定的に下手くそな人間がいるんだよ。
それが僕みたいな存在だ。
意思とか決定権とか木っ端微塵に破壊されてきたから、自己判断能力なんて一切持ち合わせていない。他人に何か聞かれても、どうでもいい、なんでもいいとしか言えない。だって僕自身ですら、僕がわからないのだから。
人間関係だってそうだ。
まず特定の人間としか仲良くするなと言われ続けたから、人間関係の築き方なんぞわかるはずもない。
それで人間一人に近づき過ぎたり、逆に離れ過ぎたりする。時に意図せずに相手の機嫌を損ねてしまう。
他人の表情や言葉遣い、その場の空気に対して敏感に反応して、どうしたらいいのかわからなくなる。ずっと俯いてることしかできなくなる。
何か指示されてやるにしても、他人から一を聞いて一ができれば良い方だ。
努力不足だとか、甘えだとか、そんなことは言ってほしくないね。
しょうがないよ。
だってこの欠陥は、生まれながら僕の左腕に貼り付いているホクロぐらいに決定的な物になってしまったのだから。
元から人間と関わりづらい欠陥を生まれ持って、更に普通からかけ離れた家庭で育ったのだから。
おかげで僕自身で気づいた時には、不治のコミュニケーション不全を抱えてしまっていた。
立派な社会不適合者だよ。
この先、僕が無事に社会人としてやっていける未来なんて、全く想像がつかないよ。
そんなことを考えていた時、すぐ近くの地面に転がっている何かが目に止まった。
よく見てみると、蝉の亡骸だった。
腹を暑い空に向けてひっくり返っていて、その上踏み潰されたのか半身が粉々になっている。
僕はその蝉の亡骸を見て、まるで僕自身を見ているかのように思えた。
必死に声を枯らして、命を消耗して、事切れてひっくり返って、無慈悲に半身を踏み潰されている。
まるで僕の過去と、すぐそこにある未来が具現化しているかのようだった。
僕は今まで、生きる為に文字通り必死になって頑張ってきた。その自負はある。
こんな僕にだって、人並みの誇りとかプライドとかはあるんだよ。
でもそんなプライドも栄光も、あの蝉の亡骸みたいに、干からびて呆気なく潰れている。
それを見た僕は、居た堪れなくなって、頭を垂れさせることしかできなかった。
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