梅雨葵 第1話

文字数 2,322文字

 みーんみんみん、という蝉の鳴き声の効果音をきっかけに、舞台上は暗転から徐々に明転する。ちらりと見たタイマーは、演劇が始まった時間からそろそろ五十分が経つことを示していた。時間としてはぎりぎりというところかもしれない。クライマックスが始まる。
 先ほどまでとは打って変わって、舞台はがらんとしている。ぽろぽろと響くのは、主張の少なく無害な、けれどもほんの少し物悲しいピアノ音楽。僕はボタンを押し上げながら照明をじわじわとつけていく。すると舞台の下手のほうに桜子先輩と蓮人先輩がゆっくりと登場する。照明室からでも二人の緊張が高まっているのがわかる。けれど、いつもの二人の面影はない。二人は望と朔として、じんわりと映し出された。ホリゾント幕ははっきりとした水色。それは入道雲のもくもくと広がる夏の空を連想させた。
 綺麗ねえ、腕を組みながら西井さんが漏らす。きみのところ、部員三人なんでしょ? それでここまでの完成度のもの作れるのはすごいよ。照明室の係員である西井さんは、ここまで何度もこの舞台を綺麗だと褒めてくれた。ありがとうございます、なんだか俺まで誇らしかった。
 何にもない舞台の上で、望は自然に、ただ自然に真ん中に駆け寄っていく。柔らかくうねった髪がなびく。朔はゆっくりと歩いて彼女についていく。望は真ん中より少し手前でぴたりと止まり、右手でぱたぱたと顔を扇いだ。朔に背を向けたまま、真っ青なワンピースを着た彼女はぐうっと高く、目線をあげる。何も無い舞台で、彼女のマイムは観客に景色を見せる。すうっと大きく息を吸うと、腰まで伸びたふわふわの髪が柔らかく揺れた。はつらつとした声が響く。
「てっぺんまで、咲いたね」
 望は、頭から落ちそうになった白い帽子のつばを両手でつかみ、すうと目を細める。じんわりと上がる口角。何もないはずの彼女の目の先に、背の高い桃色の花が、眩しく光る太陽が、青く広がる空が広がっている。
「ねえ、覚えてる? 朔」
 彼女はくるりと振り返り、彼の手をつかむ。青色のワンピースが上品に揺れる。その動きに夏の風を感じる。太陽に照らされ、青々として混じりけのない、からりとした夏の香りを思い出す。
「覚えてるよ」
 重たい前髪を暑そうに揺らして、朔も少し目線を上げる。真っ白のぱりっとしたシャツがなんだか眩しい。
「この花がいちばん上まで咲いたら、梅雨が明けたってことなんでしょ」
 望よりもひとまわりくらい大きな彼がいたずらっぽく、それでもどことなく優しく笑う。その顔を見て望は、心底嬉しい、というようにうふふと笑って、答える。そうだよ、タチアオイってお花なの。花のほうを向いて、そうっと触れる。桜子先輩の演じる望は、蓮人先輩と一緒にいるときとそっくり同じように、ただいつものように、相好を崩す。
「ねえ、梅雨が明けたのね。私たち、もう、自由なのね」
「どこへだって行けちゃうの、そうよね?」
 彼女が長い髪をふわりと横に流すように、首を傾げる。右手は彼の左手首をつかんだまま、眉を下げて、ほんの少しだけ泣きそうな顔をする。
 朔も、彼女のようにほんの少しだけ眉を下げて微笑んだ。泣き笑いのような顔だった。
「そうだね、望」
「僕たちはもう自由なんだ」
 朔が、右手でもう片方の望の手をとる。望は、朔の手首を掴んでいた手を離し、彼の手のひらを握りなおす。
「うん」
 ぽとりと目線を下に落とし、望はもう一度言う。「うん」目線を上げる。彼女はまっすぐ朔を見る。彼と彼女が視線を絡ませ、そのまま、沈黙する。さみしげなピアノの音色だけが響く。しばらくして望が、無理やり笑顔をつくる。
「よし、じゃあね最初は海に行こう、そうしてね、そのあとは二人でご飯を食べよう、あのね、わたしね」
 ぶわあと流れるような彼女の台詞に、いつか見た景色が重なる。
 二人なら、きっとうまくいく気がするの、私。あなたと、私なら。
 重なって、すぐ消える。望の声で、セピア色から水色に呼び戻される。
「わたし、あなたとやりたいことがたくさんあるの」
「だから、お願い。一緒に来て」
 彼女は力いっぱい笑って、その拍子に思わず、というようにその瞳からひとつぶ、涙をこぼした。それを隠すように彼に背を向け、彼の手をぐいと引っ張って、言う。「ほら、はやく」
 彼は呆れたように仕方ないなあと言って、けれど、重たい前髪からのぞかせる切れ長の瞳をきらきらさせながら、彼女についていく。下を向いていた彼女が、何かに気が付いたというふうに目線をつうと上向きに横切らせる。赤くなった瞳がぐんと大きくなる。わあ、という顔をして指をさす。そこに蝶が横切ったことが分かる。羽の大きな、アゲハ蝶。彼らが顔を見合わせて笑う。彼女が走り出す。彼の手首をつかんだまま。青いワンピースがなびく。朔の白いシャツが光を受けて眩しく光っている。彼女の色素の薄い髪がふわり風を受けて、揺れる。なんだかその瞬間、彼女がぴかっと輝いたような気がした。
 そのまま二人は舞台袖に消えた。そうしてそこにはただ、優しいピアノの音と、がらんとした舞台のみが残った。からからと赤茶色の幕が閉まっていく。真ん中でぴたりと閉じ切るところで俺はタイマーを止めた。ぎりぎりだ。
 幕の前にとたとたと桜子先輩が走って出てくる。今まで可憐な少女を演じていたとは思えないような大声で叫ぶ。
「樹くん! 何分だった?」
 俺はマイクを通して話す。「五十八分二十三秒でした!」
 わあ、ぎりぎりじゃん、と後から出てきた蓮人先輩が服の襟をぱたぱたとさせながら笑った。大会本番まであと一週間、あとどれだけ詰められるかが勝負だ。
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