梅雨葵 第2話

文字数 3,214文字

 冬の洗面所は嫌いだ。他の部屋よりも寒さがとげとげしていて、やる気が出ないから。ばしゃばしゃ顔を洗ってぱちゃぱちゃ化粧水をつけた。ぐしゃぐしゃになった髪の毛にがしがしと櫛を入れて、寝癖直しをしゅっしゅと吹きかける。そろそろ髪の毛切ろうかなあ、でもなあ、だいぶ伸ばしたし、もったいないかなあ。やんわりウェーブした細い髪が指に絡みつく。いつものことだった。猫っ毛だと言われるけれど、私の髪の毛はきっと遠目から見たら大きな犬みたいだろう、と思っている。明るめの茶色だし。
 昨日のずいぶん遅い時間に蓮人くんから召集がかかった。ぬくぬくと毛布にくるまって、うとうと、うつらうつらしていた。真っ暗な部屋にぴかんと光るスマホ。こんな時間にごめんね、起きてる? 即座にアプリを起動する。起きてるよ、どうしたの。
「明日、空いてる?」
 そろそろだと思っていたから、予定なんてひとつだって入れていなかった。
「あいてるよ、できたの?」「ご名答」
 彼の脚本を読むのはいつだって私の一番の楽しみだった。けれど彼は自分が満足するまでほんのちょびっとたりとも脚本を見せてくれない。恥ずかしいから、らしい。じゃあ明日の九時にいつものとこでいい? おっけい、楽しみにしてる。
 寒さに打ち勝つためにNoRNiRの歌を聴きながら、下の方で髪をふたつに束ねる。束ねてみて、やめる。今日の服にはハーフアップの方が似合うかも。今日はテンションを上げたいから、この曲にしよう。
 NoRNiRのボーカルである蜜ちゃんの、とろとろ発音の甘い歌い方に最初はいらいらして、なんなのこのバンド! と思っていたのだけれど、気がついたら何度も何度も聴いていた。中学生のときに蓮人くんが、褒められても怒られてもあまり変えない表情を少しだけ上気させて、伸びっぱなしになった前髪から少しだけのぞく目をきらきらさせながら、このバンド聴いてみてよ、とCDを押し付けてきたバンド。たった三曲しか入っていないインディーズの頃のCDは、今でも私の棚の一番上にこてんと鎮座している。一回聴いて、二回聴いて、うーん、となって一度寝て、次の日の学校の帰り道、なぜだか頭の中で鳴り止まなかった。蜜ちゃんの外した歌い方が、大きな川の流れのような独特のメロディが、絡みつくような歌詞が、じゃんじゃんと頭に流れ続けていた。次の日の朝いちばんで蓮人くんに報告した。このバンドすごいね、頭から離れない、え、なにこれ、わかんないけどなんども聴きたくなる、なんでだろう、わかんないんだけど! 蓮人くんは歯を見せずにちょっと笑って、いいよね、とだけ言った。それから私が毎日NoRNiRの話をするものだから、夏の私の誕生日にこのCDをくれた。これ多分もう売ってないから、あげるよ。いいの? いいよ。お誕生日でしょ。
 ファンデーションをぱふぱふはたいてきらきらラメを目の上に乗せて、ちりちりした髪の毛もちらちら散っているそばかすもまあまあいい感じになった。お化粧をすると、私もちゃんと高校生なんだなあ、と思う。いつもとは違う女の子っぽいコートに柔らかいマフラーをぐるぐる巻きにして、行ってきますも言わずに外に飛び出した。

 重ためのドアをぐいっと力いっぱい押すと、からんからん、と昔ながらのドアベルの音。裏道をちょっと入ったところにある昭和レトロなこの喫茶店がいつもの待ち合わせ場所だ。あんまり人がいなくって、駅前のチェーン店よりずっと静か。美しくて大人な女性の、ちょっと毒々しい口紅のような艶やかな椿が窓の外で咲いていた。奥の方のソファー席で彼が優雅に、けれど少し目の下にクマを作ってコーヒーとトーストをかじっているのを見つけた。
「クマできてる」
「おはよ、頑張ったんだよ」
「楽しみにしてた」
 トーストを置いて、がさごそとカバンから紙の束を出す。
「はい、どうぞ」
「うん」
 ありがとうすらそぞろになってしまっている私に、蓮人くんはくすくす笑う。そんなに急がなくたって、脚本も僕も逃げないじゃん。そうは言うけれど、早く彼の生み出した世界に飛び込みたかったのだから仕方がない。
 彼の脚本を読むと、自分が今身を置いている世界がぶわりと、一瞬にして一変する。店内に静かに流れるジャズはどこか遠くにいってしまって、聞こえるのは雨の音。冬の寒さがなくなっていく。じわりじわりと五感が私のものではなくなって、私は桜子ではなくなる。いつだって最初の時と同じだ。彼がまだ帰宅部だった中学一年生の頃とまったく同じ。彼はいつも小さいノートにこまごまと何かを書いていて、なに書いてるの、と聞くと、別に……。と言いながら隠した。ねえ、私脚本書いてるんだけど、読まない? と三十分の脚本を彼に渡したら、いつも一方通行だった会話が次の日いきなり、繋がった。ねえこれ、この脚本、直していい? くるくるで重たい前髪からのぞく目は真剣だった。私はその脚本にすごくすごく自信があったから直すところなんてひとつだって思い浮かばなかったのだけれど、彼があまりに真面目な顔をしていたから、ちょっとむすっとしながら、いいよ、と言った。すると彼は何かをずっとこまごまと書き連ねていたノートを初めて私の前でばっと開いて、私の脚本にびっ、びっ、と容赦なく赤ペンを入れていった。私は、自分の作ったものに線が引かれていく姿にものすごくショックを受けて、同時にいらいらした。ねえ、私部活行かないといけないから、明日渡してよ。そう言うと彼は顔すら上げずに、うなずいたのかうなずいていないのかわからないくらいでうなずいて、びっ、とまたひとつ赤線を引いた。次の日渡してきたのは、透明のファイルに詰め込まれた、私の作った脚本だったもの、だった。
 十数ページのそれは数十ページになっていたし、赤線だらけだった。うつむきがちに渡されたそれに私は正直引いてしまったのだけれど、蓮人くんが私に興味を持ってくれて、それをわかりやすく伝えてくれたのはそれが初めてだったから、私はありがたくそれを受け取った。家に帰ってそれを開いて驚いた。脚本を開いただけで、舞台が想像できたのだ。セリフを言う人間がいる舞台、ではなくて、そこにいる人が自然に振る舞う世界が、舞台のなかにきちんと納められていた。登場人物がそこに、その世界の中にきちんと体温を持って存在していた。生きていた。私と同じように、命を持って動いていた。
 考えてたものって、こんな感じだと思ったんだけど、どう? 彼が聞く。そう、本当にこんな感じ、こんな世界を私は描きたかったの。こんな世界の少女を演じたかったの。雨にじとじとと濡らされた冷たいコンクリート打ちの建物。灰色に染まった世界で、ぽつんとタチアオイが咲いている。雨のせいで視界が濁されていて、どこまでいっても同じ光景が続いているかのような錯覚を覚える。そこで梅雨明けを待つ二人。物静かだけれど情熱を秘めた少年と、はつらつだけれど繊細な少女。
 桜子が渡してきた原案、情景がすごく綺麗だったからどうにかしてそれを活かしたいと思ったんだよね。うまく再現できてたなら良かった。これが僕らにとっては最後の劇になるからねえ。ブラックコーヒーをひとくち啜って、ことんとコップを置く。私はゆっくりと現実に引き戻されていく。体は冷え切っていた。あとは音響と照明をどうにか綺麗に表現することかなあ。舞台ってやっぱり制限あるしね。キャストに関しては桜子が望で、樹くんが朔で決まりかな。
「ねえ、これさ」
 ん? と彼が言葉を止める。私、これ読んでて思ったんだけどね。うん、どうしたの?
「蓮人くん、主演やってよ」
 え、どういうこと? ぱちぱち、と二回まばたきをしたのが見えた。そのまんまだって。私は笑う。
「蓮人くん、これ、私と一緒に演じようよ」
「私は、蓮人くんに朔を演じて欲しい」
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