梅雨葵 第6話

文字数 1,941文字

「蓮人くん」
 茶色の遮光カーテンを開けた部室には、春らしいほんのりとした光が甘く柔らかくさしていた。風に運ばれてくる沈丁花の香りとは裏腹に、簡易舞台はいつものように埃っぽくてがっかりする。咳をひとつこぼして、ドアを開けて換気をした。二人きり。窓際の椅子に掛けた蓮人くんの影が古ぼけた床に伸びていて、どうしてもノスタルジックだった。きっとこんな何気ない風景が鮮明な思い出になるんだろうなあと思えるような、そんな景色。
「なに?」
 目線をひとつも動かさずに蓮人くんは答える。脚本をぱらぱらとめくっては赤線を入れている彼は、やっぱり中学生の頃から変わらない。長くてくるくるとした髪の毛を柔らかく首を振って逃がす動作も、私にはなんだかよくわからないこだわりのボールペンを使っているのも、シャツはぴんとしているのにちょっと猫背なのも、襟足がふわふわ跳ねているのも、たまにぐいっと伸びをするのも、ずっとずっと変わらない。身長だけは私をぐんぐん追い抜かしたのに。
「蓮人くん、大学行っても演劇やる?」
 やっと、ゆらりと目線を上げて私のこと見る。今日初めて目があった。ぱちりとひとつまばたき。かっちりと上まで止めたシャツのボタンがなんだか暑苦しくて、少し笑った。うーん、とほんの少し目を細める。ぱっきり黒色の瞳が、より一層黒くなる。
「やらないかもしれない」
 舞台の方を見やる。床よりほんの少しだけ高くなっただけの、舞台とは呼べないような舞台。
「この舞台でさ、ちんまりみんなでできてたのが本当に楽しかったから」
「多分、演劇がっていうより、桜子と樹くんと三人でやれてたのがよかったんだろうね」
 そっかあ。細かい埃が春の光と相まってきらきらとしている。開け放した窓からは沈丁花のみずみずしくてつんとした香りが、するすると忍び込んできていた。白と赤の、小さな花たちを想像する。ぎゅっと身を寄せ合って咲いている小さな花たち。
「ねえ」
「これは、ただの私の願望だから、嫌だったら断ってもらってもいいんだけど」
 うん、なに? やさしい顔をして彼は笑う。私の不安なんて全部知っているんじゃないかってくらい、やさしい顔。
 中学生のときからずっと夢見ていたこと。あなたの脚本を見たときから、ずっと考えていたこと。それを私はやっと、本人に伝える。
 いつものようになんでもないように言いたくて、けれど、ぎゅんぎゅんと上がる心拍数。あのね。うん。
「大学行ったらさ、演劇をするところ立ち上げない? 二人で」
「私もね、サークルとかじゃなくって、蓮人くんと演劇がしたい。ねえでもね、演劇はもうしないって言うんなら演劇じゃなくっていいの。文章でも絵でも、なんだか全然違うことでもいい、蓮人くんがしたいことを、私も一緒にしたい、ずっと」
「ずっとね、蓮人くんの作るものを見ていたい」
「二人なら、きっとうまくいく気がするの、私。あなたと、私なら」
 あなたと私の二人なら。どくどくと心臓が、打っては私の頰に熱を送っていた。どうしてこんなに緊張するのかわからなかったけれど、少しでも歯を食い縛るのをやめたらぼろぼろと子どもみたいに泣きじゃくってしまいそうだった。手のひらににじむ汗。薄いワンピースをぎゅっと掴んだ。
「そっか」
 蓮人くんが目線をいちど脚本に落とす。タチアオイ、の五文字だけが浮かんだようにはっきりと目に映る。手の中でワンピースがくしゃくしゃになる。
「僕も、桜子がそうしていいって言ってくれるなら」
 目線を上げる。揺れる前髪。
「でも、ずっとって、長いよ。それでも僕と一緒でいいの」
 ひとつぶ涙がこぼれた。息がつまる。
「いいよ、いい。全然いい」
 全然いいよ、だって私、出会ってから今までずっとあなたが作るものが好きだもん。全然いい。涙の筋ができてしまったらもうだめだった。あとからあとから涙が溢れて止まらなかった。なんで泣くの、どうしたの。彼が立ち上がる。ごめんわかんない、ごめんね、泣くつもりじゃなかった、でも、嬉しかったの。ほんとに嬉しい。差し出されるティッシュは、すぐに涙をいっぱいいっぱい吸って使い物にならなくなった。

 人の気配を感じて振り返ると、ドアのところでほうけたように立ち尽くした樹くんがいた。真っ赤になった私の目を見てうろたえる。
「あ、俺……」
 私も蓮人くんも笑った。ごめんね、入りづらかったよね。時計を見ると、とうに部活を始める時間を過ぎていた。
「練習始めようか」
 残った涙をぐしゃぐしゃっと拭った。蓮人くんと作る最後の舞台じゃなくなったことが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。手の甲にピンク色のラメがたくさんついていて、きらきら、ただただ綺麗だった。
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