梅雨葵 第5話

文字数 2,035文字

 舞台の真ん中でぺたりと横たわって、右頬をひんやりとした床につけた。そっと目を閉じる。自分の精神が自分からそっと抜け出していって、自分のものではなくなっていく。俺は今、三上樹ではなくて、朔だ。からからとかすかな音を立てて幕が開く。細く尖った針のような雨が窓をそっと撫でる音。仄暗い部屋。小さな棚に並んだたくさんのぬいぐるみ。転がった空き瓶。コンクリート打ちの床。土に染み込んだ雨の匂い。体温が奪われていく。今だ。すうっと息を吸い込む。
「ああ、朝か」
 語頭がほんの少し掠れた。仰向けに体を転がして、天井に手を伸ばす。少し震えている。震えを隠すために、何かを掴むように強く握った。依然として震えていたそれを胸の上に当てると、心臓が早鐘のようにどくどく、どくどくと打っていた。 
 体を起き上がらせて望の面影を探す。グレーに染まった世界に、そんなあたたかな面影などないと知りながら。
「やっぱりきみはいないんだ」
「きみがいないと僕はずっと、真っ暗の中だっていうのに」
 声をかき消すくらい雨の音が大きくなっていく。それと同時に舞台が暗くなる。場面転換。
 
 そこからはもうがむしゃらに演じた。先輩たちが作った世界の中で、俺は朔を憑依させていた。アドリブではなくて、すらすらとセリフが出てきて止まらなかった。望がいない、その世界で朔ならきっとこうして生きている。その感覚が手に取るようにわかった。じっとりと降り続ける雨の音。いつまでも鬱々と降ってやまないそれに嫌気がさして、望が好きだったうさぎのぬいぐるみを床に投げつけた。なんでなんだよ! 叫ぶ。観客が息を飲むのがわかる。時がひとたび止まる。うまく息を吸えず、声が涙で上ずる。僕だけが残ったって意味なんてなんもないだろ! なんでだよ、なんで僕なんだよ! お腹の底から絞り出すような、悲鳴混じりの叫び声。床にだらりと四肢を投げ出したうさぎが哀れで哀れで仕方なくなって、そのぬいぐるみをぎゅうと抱きしめていた桜子先輩がぱっとフラッシュバックして、泣きながらそれを拾った。なんでこんなことしちゃうんだよ、なんでだよ……! 膝をついて、桃色のうさぎに顔を埋めて慟哭した。うさぎは少しだけ埃っぽい匂いがして、そしてひどくやわらかかった。

 いつの間にか舞台は暗転している。気がつかないうちに、暗転のきっかけまで演じていた。

 もはや聞き慣れてしまった蝉の鳴き声の効果音が鳴り出し、舞台上は明転する。
 哀しみを帯びるほどに澄み切ったピアノの音が鳴る。じわじわとついていく照明に、俺は朔として照らし出される。ホリゾント幕は水色。それはやはり入道雲のもくもくと広がる夏の空を連想させた。隣には、望がいる。そう思えてならなかった。
 何にもない舞台の上で、俺はただゆっくりと自然に真ん中に駆け寄っていく。真ん中より少し手前、風に揺られながら、俺よりもひと回り大きいタチアオイが咲いていた。ひとたびさわれば壊れてしまいそうな五枚の桃色の花びらは、柔らかい和紙でできた紙細工を連想させる。その前で止まり、一番上で楽しげに咲いている花を眺める。雲ひとつない空に、鮮やかな桃色が映える。大きく息を吸う。入ってきたのは、熱気まじりの湿った空気ではなかった。太陽の匂いだった。自然と笑みがこぼれる。目の淵に涙が溜まる。
「てっぺんまで咲いてるよ、望」
 手を伸ばしてみる。思ったよりも高くて触れられない。伸ばした手をどこにやっていいのかわからなくて、額に乗せる。涙を拭う。
「ちゃんと覚えてる」
 夏の風を感じる。太陽に照らされ、青々として混じりけのない、からりとした夏の香りがする。額に汗がにじむ。
「本当に、望の言った通りだ」
「梅雨が明けたことを、いちばん早く、いちばん上で教えてくれた」
 下の方に咲いていたタチアオイに触れようとして、そっと手を引いた。もう少しでこの花は枯れる。
「きみはここにいるんだよね」
「けれど、僕はここを出なければいけないのだと思う」
「僕は、きみとやりたいことがたくさんあったよ」
「きみはいつだって僕よりも、ずっとずっと遠くの別のものを見ていたけれど」
「けれど、それでも僕はきみが好きだった。きみのことが大好きだったんだ」
 低いところに咲いたタチアオイに触れる。静かで優しいピアノ曲を弾くときのように、壊してしまわないように、しとやかに。息を吸う。
「今までありがとう、さようなら」
 そのまま舞台を去った。一歩一歩を踏みしめるように歩いた。涙は出なかった。後ろにはタチアオイだけが残って、太陽に向かって悠然と咲いていた。幕が閉じた。
 響く拍手が、赤茶けた幕が、埃っぽく湿った会館の空気が、どこか遠くに感じられた。夏の太陽を浴びすぎてしまったかのように、頭がくらくらした。ひどく喉が渇いていた。いつまでもいつまでも頭の奥のほうがじんじんと熱く熱く熱されてしまって、もはやどうしようもなかった。
 
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