2.盗人(?)再び

文字数 18,599文字

 ふんわりと鼻をくすぐる香ばしい匂いに、ぐぅとお腹が鳴った。ぼんやりとしていた意識が、その異様に大きく響いた音で覚醒した。
 自分の家とは違う、白い板張りの天井に目を瞬かせる。のそのそと起き上がったそこは、マットレスを引いただけの天井と同じ板張りの床の上だった。
「……あ、ラボか」
 目を擦って欠伸を一つ。トウタはそこがニアの所有する別荘で、自称“研究所(ラボ)”だということに思い至った。
 昨日、お邪魔したMIKUNA製薬の研究所から戻ると、時刻は既に午後五時になっていた。その後ナツに中であったことを話、ほぼ誘拐のように連れて来てしまった少女をどうするか話合った。結果、ニアのラボにとりあえず寝かせることに決めた。色々な研究器具や資料などがあるからと渋っていたニアも、最終的には納得させた。そもそも、ニアが連れてきたのだから、当然の対応であるとナツとトウタに言いくるめられて、ニアも納得するしかなかったのだ。
 ナツは一応女の子だからとニアに家に帰宅を言い渡され、その言いぐさが気に入らなかったのか帰り際にニアの右足を思いきり踏んづけて行った。
 ニアは直ぐに携帯煙幕発生装置とウメコ一号の改良に取りかかり出してしまい、仕方なくトウタも残って少女をベッドへ運んだりなんだりしたのだった。
 癖毛に寝癖がついて更に好き勝手跳ねる頭を掻きつつ、匂いの根源を辿ってキッチンを覗いた。
「あ、おはよう!夜名君!」
 そこには既に、ナツがいた。デニムのスカートに白いパーカーを着て、何故かピンクのフリフリのエプロンを付けている。
 ちらりとリビングにかかっている柱時計を見れば、まだ朝の六時だった。
「おはよう。ニアは?」
「まだ研究室に、籠っているみたいよ」
 あんなエプロンあったかな?と思いつつ尋ねれば、フライ返しで器用に卵焼きを引っくり返しながら、教えてくれた。
「ちょっと呼んで来てくれる?もう、朝ご飯できるから」
「了解」
 片手を上げて答えると、トウタはキッチン横の廊下を家の奥へと向かった。
 研究内容を誰にも見られたくないという理由から、海沿いに建つこの家の一番奥まった場所をニアは研究室として使用していた。
 辿り着いた木製の水色のドアに、『何人たりとも立ち入るべからず』と赤ペンキで書かれたプレートが下がっている。このプレートがある時は、研究中のため入るなと言われていた。
「おーい、ニア。起きているか?朝飯だってよ」
 コンコンと叩いて声をかけてみるが、案の定返事はなかった。
「おーい。寝ているのかー?」
 暫く叩いたり声をかけてみたりしたが、一向に返答がある様子はなかった。
 いつものことだ。没頭すると声が耳に入らないのだ。
「開けるからなー」
 そう断ってから、ノブをひねって中を覗き込んだ。覗き込んですぐ、目の前に転がるニアと視線がかち合った。
「うわっ?!」
 思わず後ろへ飛び退いた。その勢いで話したドアがこちら側へと開く。
 ニアはそのドアのすぐ前、部屋の中のドアの真下に倒れていたのだ。しかも仰向けで。
「…何してるんだよ」
「ああ、すまない。ついつい寝てしまったようだ」
 そう言うと、目頭を揉みながら立ち上がった。
「おや?眼鏡は何処へいったのかな?」
 キョロキョロと辺りを見渡し、検討外れな所を手探る。その背後に転がっていた黒縁眼鏡を拾い上げて、トウタはニアを呼んだ。振り返ったその顔に、眼鏡をかけてやる。
「ああ、ありがとう、トウタ君。さて、朝ご飯だったね」
「藤さんが張り切って作ってくれているぞ。そう言えば、ここにピンクのフリルのエプロンなんかあったか?」
 先程まで返事すらせず倒れて眠っていたとは思えない足取りで、ニアはササッと部屋を出て歩き出す。その後を追いかけながら聞けば、ニアは思案した後「ああ」と呟いた。
「それは多分、ナツのだよ。自分で持って来たんだ。何だか知らないけど、ご飯を作ってくれる時はいつも持って来るんだ。以前置いて行こうとしたから、やめてくれって言ってからずっとなんだ。トウタも見たならわかるだろ?僕のラボに不似合すぎるよ。あれは」
「…まあ、遊びに来て急にあれが置いてあったら、そっと帰るかもしれないね」
 ニアが着ているところを想像して、想像したことを後悔した。
「あ、来たわね。もう、ご飯盛っちゃったからね。ニアは、パン派だからそこ座って」
 海の見える六畳程のリビング。そこにテーブルと四つのイスがあり、その上に四人分の朝食が並べられていた。手前に一つだけニア用に主食がパンになっている。パンに味噌汁。トウタにはいつ見ても理解できない組み合わせだった。
「マリちゃーん。ご飯できたよー」
 リビング横に伸びる海の見える廊下へ、ナツが聞き覚えのない誰かを呼んだ。その先は玄関のため、誰かの部屋があるわけでもない。
 不思議そうに見つめていたトウタの目の前に、白く透けるようなあの少女がゆっくりと姿を現した。昨日の病院服とは違い、今は白の丸襟のブラウスに薄い水色のフリルの付いたワンピースを着ている。それが色素の薄い彼女に良く似合い、まるでこの世のものとは思えない不思議な美しさを持っていた。大きめの瞳は不思議な色合い帯びており、太陽の金にも海の青にも見えた。
 そんな彼女に、やはりトウタは何処かで会ったことがあるような…奇妙な感覚を覚えていた。相変わらず、それが一体何処だったかはさっぱり思い出せないが。
「すみません、ナツさん。お洋服を頂いただけでなく、ご飯まで……」
 鈴の鳴るような声だった。眉根を寄せて、そっと頭を下げる。さらりと肩までの白銀の髪が流れ落ちた。
「いいの、いいの。どうせ私にはもう小さくて着れないものなんだから。それに、このご飯は私が作ったけど、材料は全部ニアのなんだから気にしない、気にしない。放っておけば、どうせ賞味期限切れて捨てられるだけなんだから。こうして食べてあげる方が、食物のためでもあるのよ」
 そう言いながら、彼女に椅子を進め自分もニアの前の席についた。ナツと彼女が並ぶ形になったので、必然的にトウタは彼女の前に腰を落ち着けることになった。
「はい、いっただきまーす」
 ナツの号令に、トウタとマリは小さく手を合わせた。ニアはさっそく置いてあった新聞を開いて読みながら、朝食を食べだした。
 それを横目に見ておやじくさいと思いつつ、トウタは自分の皿のオムレツに箸をつけた。
「あ、そうだ。食べだしちゃってからであれなんだけど、自己紹介しときましょうよ。マリちゃん」
 ナツに言われ、マリは頷き口の中のものを呑み込んだ。
「はい、そうでしたね。あの、改めまして、伊利(いり)マリと言います。昨日は危ないところを助けて頂き、有り難うございました」
 わざわざ立ち上がり、深々と頭を下げた。
「いやいや。そんな頭を下げてもらうようなことは何も……」
「そうそう。トウタ君はキャーキャーやっていただけだからね」
「ぐっ……」
 慌てて立ち上がり止めに入ったトウタに、ニアから痛い言葉が飛んでくる。
 恨めし気に視線を送れば、視線だけこちらへ寄こしてニヤニヤと笑うニアと目が合った。
「本当のことを言われて図星かな?」
「……ああ、そうだよ。俺はただ勝手にパニックになって逃げ出しただけですよ」
 ふんと鼻を鳴らして椅子に座り直した。
「まあ、そのおかげで僕らは無事逃げ出すことができたわけだがね。そういう意味では、うん。君は礼を言われて然るべきだよ、トウタ君」
「お前な……貶したいのか、褒めてくれるのかどっちかにしろよ」
「からかいたいだけだよ。気にしないでくれ」
 そう言ってすまし顔で新聞を畳むニア。トウタは何だか負けたような気がして、タコさんウィンナーを噛み締めた。
「まあ、それはさて置き。やはり、昨日のことは一面を飾るようなニュースにはなっていないようだね」
「まあ、表面上は何も起きたようには見えないだろうしな。事実は人がばったばった倒れて大変なことになっていたけど」
「え、そんな面白いことになっていたの?!」
「面白いって……」
 箸を持ったまま身を乗り出してきたナツの食いつきっぷりに、トウタは呆れた。
「まあ、ナツだから。それに、もっとナツにとっては面白いことがあったしね」
「あいつらか。伊利さんを攫おうとしていた、黒ずくめの三人組」
「そう。やたら目がギラギラしたロリコンに半魚人、そして可哀そうなびびりくん」
「そう言われると、なんかしょぼい三人組に聞こえるな。不思議と」
 鼻息荒く箸の代わりに鉛筆とメモ帳を取り出したナツは、頷きながら話をメモしだした。
「でも、どうしてマリ君はロリコンに抱えられていたのだい?」
「…理由は分かりません。自分の部屋にいたら急に警報が鳴って、あの人たちが入って来ました。あたしはその場で薬品か何かを染み込ませた布で、口と鼻を塞がれて気絶してしまって……」
「次に意識が少し戻ったのが、俺たちが三人に会った時だったわけか」
 トウタの言葉に、マリは小さく頷く。
「僕たちが会った時の様子からして、奴らの目的はマリ君だったと思っていいだろう。それについて、マリ君は何か心当たりはあるかい?」
 パンにマーガリンをたっぷり塗りながら聞くニアに、マリは暫く考え込む。
 返答を待ちながら、そのパンをちぎって味噌汁の中に投げ込むニアの奇行をトウタが嫌そうに見ていた。
「…あたし自身に、というわけではないのですが…。もしかしたら、あたしの病気のことで母や父が行っていた研究が原因かもしれません」
「え、マリちゃん病気なの?大丈夫?!」
 慌ててメモ帳から顔を上げたナツに、マリは少し困ったように頷く。
「はい。その、日常生活に今のところは影響を及ぼさない程度の症状ですので」
 そう言うと、マリは一呼吸置いて真剣な表情で三人を見渡した。
「みなさんは、スローバック症候群をご存知ですか?」
「もちろん。別名、先祖返り病と呼ばれているね。段々、体が外見はおろか内臓の機能すら魚に近づいて行くという。その命名は、数十年前に発見された東京湾深海にある海底遺跡らしき跡に端を発した、日本人水生類人猿説の浮上からだったかな。大陸移動の過程で、古代陸地に作られたものが沈んだにしては遠すぎる。なら、考えられる仮説の一つとして、陸上から再び海に戻った類人猿がそのまま海に定住した頃に作られたものではないかというのがある。まあ、ほぼファンタジーな説だが実際起きている奇病が、まるで海から再び陸に戻った人類が先祖返りしているように見えるという揶揄…というか、皮肉のようなものが元になっているらしいね」
 マーガリン付きパン入り味噌汁をすすりながら話すニアに、隣のトウタは口元を押さえていた。心なしかその顔は青白い。
「へぇ。そうだったんだ。初めて知ったわ。メモ、メモ、と」
「ナツ君。将来ジャーナリストを目指す者があるまじき怠慢だよ。これぐらい、常識の範囲じゃあないか」
 箸を持ったまま人差し指を振るニア。
「ぐっ。勉強不足で悪かったわね!」
「あたしは、そのスローバック症候群なんです」
 静かな告白に、全員が言葉を失った。いや、かける言葉が、見つからなかった。
「……名前の由来とか、詳しいことはよく分からないけど、スローバック症候群のことは知っているわ。ニュースにも取り上げられていたし」
「それ、俺も見たよ。まだ確かな治療方法も、原因も分かっていないんだよな…って、ごめん!伊利さんの前で、こんな話……」
 慌てるトウタに、マリは首を横に振った。
「いいえ、気にしないで下さい。あたし、父と母が必ず治療方法を見つけ出してくれるって、信じていますから。それに、発症したからといって必ず悪い方向へ行くなんて、まだ決まったわけじゃないですから」
 にっこりと笑って言うマリの表情は明るく、トウタは一まずホッと息をついた。
 それでも、昨日見た半魚人のような腕を思い出してしまった。マリにもいつかあのような変化が起こってしまうかと思うと、何とも言えない気持ちが胸を過るのだった。
「とりあえず、三人組の狙いがなんであれ、朝ご飯を食べたらマリ君を送りに行かないといけないね。成り行きで連れてきてしまったとは言え、このままではご両親が心配するだろう」
「そ、そうだな。まあ、ニアが伊利さんを小脇に抱えて逃げてきた時は、ちょっと驚いたけどな」
 ケチャップでハートの書かれたオムレツを、ニアが容赦なく半分に切り分けながら提案する。それを見て、下唇をナツが噛締めたのをトウタはハラハラしながら横目に見ていた。
「置いて逃げるわけにもいかないだろう?あからさまに攫われているのだから、あの場は連れて逃げるのが一番だと思ったのだよ」
「あの!」
 オムレツを頬張りながらムッとして言うニアに、トウタが何事か言ってやろうと口を開いたのとほぼ同時だった。
 マリが、大きな声を上げたのだ。自然、三人の視線はマリへと集中する。それにたじろぎつつ、言葉を続けた。
「あの、あたし、もう少しここにいてはいけないでしょうか?」
 三人の顔が三つとも、驚きで一瞬固まる。
「え?でも、早く帰らないとご両親が心配するんじゃ……」
「はい。でも、あたし、直ぐに帰りたくないんです。ずっと、ずっとあの施設の自分の部屋から出たことがなくて。病気を治すためだっていうのは分かっているんです!それを恨んだこともありません。でも、せっかくこうして外に出られたのに、直ぐにまたあそこに戻りたくなくて……」
 必死なマリの言葉に、三人は暫く黙り込んでしまった。
 このままここにマリが居れば、確実に彼女の両親はおろかMIKUNA製薬にも間違った方向に解釈されるだろう。自分たちが、マリを誘拐した犯人だと。だからと言って、マリの切実な願いをあっさり切り捨てられるほど、三人は非情にはなれなかった。
「……二、三日ぐらいなら大丈夫じゃない?」
「ナツ」
「だって!やっと手に入れた自由な時間なんだよ?少しぐらい、わがまま言ったっていいじゃない。ずっと同じ場所に閉じ込められてさ。それが、自分のためだって分かっていたってさ…辛いじゃないの。私だって、そうなったらきっと堪らないって思うから……」
 咎めるようなニアの声に、ナツは立ち上がって懸命に言葉を紡ぐ。
 ナツの言いたいことも、マリの気持ちも良く分かる。それだけに、中々答えが出せずニアは腕を組んで黙り込んだ。ここはニアの持ち家だ。ニアからの許しが出なければ、どうにもならない。
「うー…あー…」
 二つの少女の瞳が、じっとニアの答えを待っていた。
「トウタ」
「うあ、何?」
 急に自分の名前を呼ばれ、状況を見守っていたトウタはびくりと体を震わせた。
 ニアの方へ首を捻れば、その困ったような視線とかち合った。
――俺に振るか?
 内心トウタも困りつつ、親友の窮地を救うべく考えを巡らせた。
「そうだな…新聞でニュースになっていないのなら、伊利さんが攫われたことはご両親とMIKUNA製薬内部のみ知っていることなんだろうし…。多分、伊利さんを攫ったのは、あの黒ずくめの三人組ってことになっていると思うんだ。それで、これはニアに確認なんだけど…」
「何だい?」
 幾分か眉間の皺が減ったニアが首を傾げる。
「俺たちがお邪魔した時は、既にあの施設のセキュリティシステムは全部死んでいたのか?主に、監視カメラが気になっているんだけど」
「ああ、それなら大丈夫だ。あの研究所の監視カメラに、僕らの姿は一切映っていないよ。おそらく、奴らがセキュリティシステムを破壊したのは、僕らが来る少し前のことだからね」
「じゃあ、裏口がカードキーで開いたのは?」
 俺の問いかけに、ニアはにんまりと笑う。
「あれは、僕のカードキーが特殊なのさ。どんな緊急事態に陥ろうとも、内部のセキュリティシステムをいじれる様にちょっと細工をね。勿論、取引先殿は全く知らないことだよ」
「まーた、勝手にそういうことをする」
「トウタ君。これは大事なことなのだよ?もし、万が一にでもシステムの暴走や悪用がされでもしたら、それを止めるための最後の手段はとっておくべきだと思わないかね?」
 人差し指をトウタの鼻っ面に突き付けて熱弁するニア。
「じゃあ、あの時それを使ってシステムを復旧させてやればよかったじゃないか」
 突き付けられた指を押し返しつつ言えば、ニアがフンと鼻を鳴らして再び腕を組んだ。
「それはできない。何故ならあの時は、僕を差し置いて浮遊都市実験に着手していたからね!セキュリティシステムに関わる時、次の大きなプロジェクトには、僕も参加させてくれる契約だったのにだよ?それなのに、シースキンガイプロジェクトには呼んでくれなかったうえ、今度は都市浮遊化計画にすら声をかけてくれなかったなんて……。これは明らかな、契約違反じゃないか。そんな企業に、どうして寛容になれるというのかね?いいや、なれない!」
 バンと叩いた振動で、テーブルの上の食器が音をたてて小さく跳ねた。
「だったら、いいんじゃないか?伊利さんが少しぐらいここにいても。ちょっと子供じみてはいるけどさ、意趣返しの意味で暫く困らせてやれば?なんてたって、俺たちまだ子供だし。大人の世界の都合なんて、知ったこっちゃないよ」
 トウタの言葉に、ニアは暫く考え込んでから小さく「なるほど」と呟いた。
「一部気に入らない表現ではあるが、それもそうだな。彼らが困ろうが、僕には関係ない。いいだろう、暫くここで羽を休めて行きたまえ、マリ君」
 残りのオムライスを口に入れつつ、ニアは了承の意を口にする。
「あ、ありがとうございます、江寺さん!」
 立ち上がり、改めて深々と頭を下げたマリに、ニアは片手を上げてそれを制した。
「ニアで良い。こちらのトウタも名前で呼んでやってくれ。名字で呼ばれると、どうにも誰を呼んでいるのか分かりづらくてね。あと、礼は要らないよ。そもそも、君をここへ連れて来てしまったのは、僕の責任だからね。招待されたとでも思って、気楽にしていてくれたまえ」
「は、はい。分かりました」
「やったね!マリちゃん!!」
 ナツは自分の事のように喜び、マリの手を取ってぶんぶんと振る。トウタはそんな三人を眺めながら、オムレツの最後の一切れを口の中に放り込んだのだった。


「女性の買い物というものは、どうしてこんなにも時間がかかるものなのだろうね?」
 ビルの一階にあるカフェ『アップル・フィールド』。そのオープンテラスに、大量の紙袋と共に二人の姿があった。ズズッとレインボーシェィクをすすりながら、ニアが不機嫌そうに丸い硝子張りのテーブルへと肘をついた。それに苦笑を浮かべつつ、トウタも運ばれてきたアイスカフェラテをすすった。
 ニアからのお許しが出るが早いか、ナツがマリの着る物や必要な日用品が欲しいと買い物に連れ出されたのだった。向かった先はアクアシティ東京・新宿区にあるデパート。元駅ビルだったそこに、今ではもう地上を走る電車は一本も入らない。シースキンガイでは電車は全て、地下を走る乗り物だ。
 ウメコ一号,二号を出せとナツ様から命令が下り、トウタとニアも荷物持ちで駆り出されたのである。
「しかたないだろう。女の子は何かと入用だって、昔からよく言うし」
「僕は、こんなことより研究しなければならないことが山のようにあると言うのに…。まあ、一杯で七度美味しい、レインボーシェイクを飲めたから、今回は良しとしようじゃあないか」
 ムッとしながらもどこか達成感のある顔をして、ニアは椅子の背もたれに寄りかかった。その視線が向かう先へ、トウタも何とはなしに目を向けた。
 青く広がる海の景色。色とりどりの魚が泳ぎ、海藻と砂に覆われたビルや道路に信号機。元は花壇だった石の囲いは崩れ、古びたベンチに座る人は誰もいない。割れた硝子の穴から、小魚の群れが飛び出しくるくると踊っている。シースキンガイには珍しくもない風景。それでも、普段地上で暮らすトウタたちにはいつも、不思議に映る眺めだった。空を映し、輝く海面の底に、こんな景色が広がっているのかと思うと妙な心地になるのだった。
「…もし、水生類人猿説が本当にあったことだと仮定して、海に生きることを選んだ人類たちが今の僕らを見たら、どうゆう風に彼らの目には映るのだろう」
「ニアだったら、どう思う?」
「まるで、檻の中の動物だな。海中都市にあるかどうかは知らないが、動物園のように見えるだろう。生きたまま海中の檻にディスプレイされる、哀れな地上類人猿の子孫たち」
 視線はそのままに答えた友人に、トウタは苦笑を浮かべた。
「ニアらしいな」
「そう言う、トウタはどうなんだい?」
「俺?俺は……知りたいと思うかもしれないなぁ。あっちの世界は、どんな場所なんだろうって。どんな人がいて、どんな暮らしをしているんだろうって、知りたくなるかもしれない」
「……だから、来たのか……?」
 ぽつりと呟いたニアの言葉に、トウタが怪訝な顔をする。
「は?」
「ああ、ごめん。三人組の話だ。今、トウタと話していて思いついたのだが、あのロリコンと半魚人もどき。もしかしたら、海の中から来たんじゃないかなと。先祖返り病の元を研究されては困る海底人が、その研究の最先端の技術を試されているマリ君を攫い、研究を阻止しようとした」
「……お前、本気でそれ言ってるのか?」
 普段、そんなファンタジーを真に受けた発言をしないニアだけに、トウタは思わずその額に手をあてていた。
「うん。熱はないみたいだな」
「当たり前だ」
 その手を軽く弾き、ニアが不服そうにトウタを睨みつけた。
「冗談だよ。しっかし、参ったなぁ…」
 両手を上げて降参のポーズをとると、そのまま丸テーブルへと倒れ込む。
「何が?」
「補習だよ、補習。昨日から夏休みに入ったんだけどさ。俺、あんまり学習システム受けに行けてなかったから、テストはパスしたんだけど出席日数が足りなくて…。今日から補習の予定だったんだけどなぁ」
 ニアに視線だけを向けて言うと、そのままため息をついた。
「できれば始めの方に、行っておきたかったんだ。八月の終わりは何かと家の手伝いで忙しいし、マスミねぇちゃんがお盆頃には戻って来るから家にいたかったんだけどなぁ」
「ああ、マスミさん、今年も帰って来られるんだな」
 夜名マスミ。トウタの八つ上の姉である。年が離れている上に、明朗快活で面倒見のよい彼女をトウタは母親のように慕っていた。両親は既に飛行機事故で亡くなっているため、余計だった。トウタとマスミの姉弟は、祖父のサブロウに引き取られ育てられたのである。
 サブロウの営む古物商兼リサイクルショップを、トウタはよく手伝っていた。と言っても、店番をすることは稀で、主に商品の宅配や買い取りに行かされている。時には海に潜り、数十年前のレアな骨董品を廃墟から取って来ることもあった。
そのせいか昔から古物の好きだったマスミは考古学の道に進み、今は大学院に進んで遠い異国の地にある遺跡で発掘の仕事をしていた。
「うん。まだ、古代海底人が確かに存在した証拠は自分が発掘して、自分の手でそれを証明するんだって言い張っているよ」
「じゃあ、またトウタは今年のお盆もほぼ海の中だな」
 トウタはニアの言葉に乾いた笑いを浮かべた。
 お盆に帰って来る度に、その遺物探しにトウタは駆り出されているのだった。海に潜るのは楽しいし慣れているとは言え、流石に収穫もなく毎日ともなると参ってしまう。姉が帰って来てくれるのは嬉しいし、一緒にいられるのはいいのだが、それとこれとは別の話だ。
「できれば今年は大人しくしていてくれないかな」
「無理だろうな」
 ぽつりと呟き起き上がったトウタに、ニアは飲み終わった紙コップをテーブルの上に置きながらあっさり否定した。分野は違えど同じ研究者として、ニアはマスミと気が合うらしい。
「…お前が否定するなよ」
 残りのカフェラテを啜るトウタの目に、ビルから出て来るナツとマリの姿が映る。
 あちらもこちらを見つけたのか、手を振っている。が、その両手にはそれぞれ四つの紙袋が下げられていた。
「お、戻って来たみたいだ。…けど、また増えている」
「…勘弁して欲しいな」
 トウタの声に、ニアがため息をついて立ち上がった。
「やー、ごめん、ごめん。なーんかマリちゃんに着て欲しいものが、あり過ぎて迷っちゃってさー」
 頭を掻きつつ走り寄ってくるナツ。その後ろにマリも懸命について来ている。
「お前が迷ってどうするんだよ…。まさか、ナツの趣味をマリ君に、押し付けたりしていないだろうね?」
「何よ。そんな事していないわよ!最終的にはマリちゃんに選んでもらったもの!!それに、これは自分の分よ」
 ニアが向けて来る疑りたっぷりの視線に、ナツは持っていた紙袋を軽く叩いた。
「ちゃっかりしてるなぁ」
「新作は早めに手に入れないと、流行に乗り遅れるからね!」
 ウィンク一つ。トウタに親指を立てて笑うナツはどこか達成感に満ちている。
「買い物は終わったんだろ?なら、帰るぞ。長居は無用だ」
 そう言ってテーブル下に並べて置いた紙袋の半分を、ニアは両手に持ちあげた。
「あ、待ってよ。私たちも何か飲みた――」
「――呑気に買い物とは、あなたたち中々度胸がありますね。それとも、何も考えていらっしゃらないのかな?」
「「「!」」」
 ふいに聞こえた聞き覚えのある男の声に、トウタとニア、そしてマリがびくりと体を震わせた。
 四人の視線の先。オープンテラスの道沿い側に、その男は立っていた。
 昨日会った時とは違い、今は黒のスーツにサングラスをし、白いシルクの手袋をしている。黒いつばのある帽子をかぶり、初夏だと言うのに襟高の黒いコートを羽織っていた。見るからに暑苦しい男性は、周囲からも異様に見えるようで通行人は誰も避けて通って行く。
「何?あの暑苦しい黒づくめ男は」
 ナツが不審者を見る目で男を見て、ニアを見た。
「昨日、マリ君を誘拐しようとしていた、ずっこけ三人組のリーダー殿だよ」
「中々手厳しいですね。しかし、そう言われても仕方ありません。あの時は、不意をつかれたうえに、目的の人まで持って行かれてしまいましたからね。完全に私の不注意でしたよ」
 男はニアの言葉に気分を害した様子もなく、口元に弧を描いている。
「なるほど、悪者ってことね」
 そんな男をナツは睨みつけ、トウタはゆっくりと立ち上がりマリにそっと近づいた。背後に庇う様に、トウタはマリの前に立つ。
「悪者…。さて、それはどちらが、なんでしょうね?」
「…どういうことだ?」
 ニアの訝しげな問いかけに、ククッと男が笑う。
「私たちは、彼女が彼ら…MIKUNA製薬の実験体になっているのを、助け出そうとしただけですよ」
「嘘よ!マリちゃんはそんなこと一言も言ってないわ!」
「記憶を、操作されているのですよ。彼らなら、それぐらいはできるでしょうから」
 ナツの否定の声も、やんわりと男はいなす。
「だからと言って、あなたたちが正しいことをしているとは、僕にはどうも思えませんね」
「では、あくまで彼女を我々に渡す気はない、と?」
 男の声に、冷たい殺気めいたものが雑じる。
マリの震える手が、トウタの腕をグッと掴んだ。また攫われることを恐れているのだろう。
(大丈夫。君をあいつらに渡すような真似は、絶対にしないから)
 マリにだけ聞こえる声で囁くと、震えは消え頷いたのだろう振動が伝わってきた。
 とは言え、状況はそれほど楽観視できる状態ではない。昨日は不意打ちで逃げられたが、今回はそれも効かないだろう。
「現時点では、あなた方に渡すよりも警察へ連れて行き、保護してもらった方が安全だとさえ思いますが?」
「さあ、それもどうでしょうね。警察に保護してもらうことが、果たして彼女のためになるかどうか……」
 男は大げさにため息をついて首を左右に振った。
 警察にも、既に手が回っているということなのだろうか?
 ニアは小さく舌打ちをした。
「さあ、決めてください。私は、できれば穏便にことを済ませたい。大人しく、彼女をこちらへ渡しては頂けませんか?」
 男が、再び口元に笑みを貼り付けて回答を迫る。
 テラスにいた他の客が、何事かと騒ぎ始めていた。通行人の数人も足を止め、トウタたちのやり取りを興味深そうに眺めている。それらを視界に留めながら、ニアは大きく息を吸った。
「よし、トウタ君!君に回答権を譲ろう!!」
 背後をくるりと振り返り、トウタを指さし宣言する。
「はあ?!この期に及んで何を言いだすんだお前は!!そこはかっこよく、断るところだろう?!」
「そうよ、ニア!何、怖じ気づいてるのよ?!こんな見た目からしてあからさまに怪しいやつに、マリちゃんを渡すわけないでしょ?!」
 二人に食ってかかられたニアは瞬き一つ、にっこりと笑みを浮かべた。
 その余りに場にそぐわない笑顔に若干引いた二人を置き去りにして、再び男へと向き直った。
「と、言う訳で。満場一致で答えはノーですね」
 キラリと眼鏡を光らせて、片手を真新しい白衣のポケットに突っ込むニア。
「……しかたありませんね。では、力ずくで頂くといたしましょう」
 そう言ってパチリと男が指を鳴らした瞬間、四人の周りから音が消えた。
「え?」
 辺りを見渡すと、先程まであんなにたくさんいた人々が誰もいなくなっていた。無人の交差点には一台の車さえない。カフェテラスにいたカップルや家族連れも、綺麗さっぱり消えていた。
「な、何……?うそ、何、これ……?!」
 ナツが驚きの余り、辺りを見渡し愕然としている。
「関係のない人々を巻き込むことは、我々の意に反するので少々特別なことをさせて頂きました。もちろん、方法は企業秘密ですがね」
 そう言って男が嫌な笑みを浮かべる。
「なるほど。これで、お互い逃げも隠れもせずに荒事をできると言うわけか」
「納得している場合か!!」
 興味深げに頷くニアの横で、ナツがバッグの中からデジタルカメラを取り出している。
「ちょっと、何よこれ!超スクープじゃないの!?」
 叫ぶが早いか、喜々として写真を撮りまくり出す。
「藤さんもそんな事している場合じゃないから!今、もっと大事件起きる一歩手前!俺たち、命が危ないからね?!」
「そうだぞ、ナツ。そんな事をしている場合じゃないぞ?」
 そう言いつつ、向けられたカメラにピーズサインで応じるニア。
「……あなたがたが、本当に馬鹿なお子様だと言う事が良く分かりました」
 絞り出すような声にトウタが男へと視線を向けた。その肩は小刻みに震え、心なしか笑みをかたどる口元が引きつっているようだった。
――やばい。これはやばい!
 嫌な予感が胸を過ったトウタは、目の前の自分たちが先程まで座っていた椅子を両手で掴んだ。
「そんなに死にたければ…殺して差し上げましょう!」
 男の両手が上がる。いつの間にか、その手には拳銃が一丁ずつ握られていた。
 トウタは迷わず男の顔面目がけて椅子を投げつけると、マリを片手に抱いてテラス脇の花壇裏へと飛び込んだ。時同じくして、顔の横を椅子が通り過ぎたニアも、未だ写真を撮るナツにタックルをかまして板張りの床へと無理矢理倒れ込む。無数の紙袋も宙を飛び跳ねた。
「ぎゃあっ?!」
と、可愛げもない悲鳴をナツが上げるが、構っている暇はない。

  ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!

 軽い乾いた音と同時に、木が砕け散る音が辺りに響き渡る。
 椅子を貫通し、後ろの売店口へも被弾しカウンターが弾け飛んだ。
 数個の紙袋にも穴が開き、中身の洋服だった布きれをまき散らして床へと落ちた。
「ふふっ。やはり、中々良い感をしていらっしゃる。私が躾れば、さぞ良い駒になってくれそうなのに…残念ですよ。死んで頂かなければならないことが」
「はっはっは。何を寝ぼけたことを!この、新世代和製エジソンの再来と呼ばれる僕が、こんなところで死ぬわけがないだろう!!」
「そ、そうよ!私だって、ジャーナリズムの世界にこの人ありと言われる、新世代ジャーナリストになるんだから!こんなところで死ぬわけにいかないのよ!」
 その場に片膝をついて身を起こしたニアの足下で、相変わらず転がったままナツも喚いている。
(どうしてあいつらは、こう、負けず嫌いなんだろうね……)
 わざわざ自分の命を危険に晒すような行動をする二人に、トウタはため息をついて額を押さえた。そんなトウタの心配をよそに、ニアがポケットに突っ込んでいた手を出す。手のひらの中に細長い銀色に光る物体を握っていた。その手を自分の肩の高さまで上げ、男の視界に入るようにした。
「……また、煙幕を発生させる装置か何かですか?それとも、爆薬か何かですか?しかし、そんなもので、私は引いたりしませんよ?」
 そう言って拳銃を二丁ともニアに向かって構える。
 その瞬間、猛スピードでこちらへ突っ込んでくる影に気がついた。
「あ、」
 トウタが声を上げる間のなく、そのままそれは男へと体当たりした。
「ぐふっ?!」
 前輪が顔にめり込み、男の顔が変形している。サングラスが外れ、同じく脱げた帽子と男の体と一緒に仲良く宙を舞った。
どさりと少し遠くでその体が落ちる。衝撃で飛んだ拳銃が一丁、カランと音をたてて着地した。
 騒音に近いブレーキ音をたてて、それがオープンテラス前の道路に止まる。
「いやあ、中々良いできだな。流石僕」
 仁王立ちしながら満足気にニアが頷く。
他の三人はそれが何かを理解するのに少々時間必要だった。猛スピードで突っ込んで来たもの。それは一台のスクーターだった。しかし、形がおかしい。よくよく目を凝らして見れば、それはライトの部分に猫耳の付いた人の顔が付き、車のタイヤの付け根に人の腕と足のパーツらしきものが見えている。
「僕の最新作、変形型メイドロボットスクーターバージョン!その名も“ウメコ三号”だよ!!」
 ニアがそう言った瞬間、スクーター型からカシャカシャと音をたてて人型へと変形する。猫のヘルメットを被った厳つい顔形に、黒いボディがメイド服に見える、がたいの良いおっさんロボットがそこに立っていた。ご丁寧に猫耳カチューシャに尻尾もついており、ユラユラと左右に揺れていた。ニアが猫にこだわるのは、猫好きなのに家で飼えないことへのささやかな抵抗心の現れである。
 威圧感たっぷりのどっしりとした立ち姿に、ニアが拍手をして自画自賛する。
「素晴らしい!完璧な変形動作だ。パーツ移動も滑らかだね。ばっちぐーだ」
 そう言って、分かるわけもないのにロボットへ向かってオッケーサインを送っている。
「もしもの時に、この遠隔操作棒を持って来ていて助かったよ」
 先程男にちらつかせていた銀色の細長い棒状のものを、一振りする。すると、おっさんロボットがそれに合わせて片手を振って腰から上だけ回転した。
「お前は、また変なものを作って……。でも、今回はやったな。見た目はアレだけど、これであの男をやっつけるんだろ?」
 トウタの明るい声に、ニアの眉が顰められ言い難そうに視線を逸らした。
「そうも行かないのだよ、トウタ君」
「何がだ?」
問いかけに、ニアは頭を掻いた。
「実は、戦闘に関してはまだほぼ実装していないのだよ」
「へ?」
「得意なことは家事全般だな。あと、接客もできるが何と言っても得意なのは、目覚まし機能だ。必ず時間内に起こしてくれる。…と言っても、まだ出来たばかりで動かすのも今回で三回目ぐらいだが」
「それ、お手伝いロボットだよな?しかもまだ試運転中の…。そんなもんをここに呼んでどうするんだよ…」
「だが、隙をつく事には成功しただろう?」
「いや、まあ、そうだけど」
「きゃあっ?!」
 呆れるトウタの背後で、マリの悲鳴があがった。
 慌てて振り返ると、三人組の一人、半魚人の腕を持った人物が、相変わらず黒い布で全身を覆い、その腕にマリを捕えて立っていた。
「伊利さん!!」
「近寄るな!」
 何とかしようと手を伸ばしたトウタに、そいつがしゃがれた声で叫び鱗の生えた手が拳銃を向けた。声から察するに、どうやら男性のようだ。
「?!」
 ピタリとトウタが動きを止めると、そのまま銃口をマリの米神へと向ける。
「動くな。動けばこいつを傷つけることになるぞ」
「っ!」
 じりじりとそのまま後退していく相手を、トウタは唇を噛み締めた。
 何か。何か良い手はないかと視線を彷徨わせ、思考を巡らせる。ニアも、倒れた男の方を気にしつつ、こちらへも注意を払い何かを思案しているようだった。
 焦り思考が上手くまとまらない。
 その間も、相手はトウタたちから距離を開けていく。
と、不意にその背後に黒く背の高い影が現れた。
 それが何かを認識する前に影から腕が伸び、男の両手首をがっしりと掴んだ。
「なっ?!」
 突然の事に狼狽し、それでも掴まれた手首を振りほどこうともがく。その腕からマリが逃れ、転がるようにトウタの元へと走った。
「伊利さん!大丈夫?」
 トウタに勢いのまま飛び込み、その腕に捕まって泣きながら何度も頷いた。その体は、恐怖のためか小さく震えていた。
「だい、じょうぶ、です」
 マリが解放されたことに、とりあえずホッと胸を撫で下ろした。
「ちくしょう!は、放せ!!」
 男の叫び声に、トウタたちはそちらへと視線を向けた。
 男の手首を掴むその手の力は余程強いのか、どんなに暴れようとも離れることはない。そのまま捻り上げられ、手から拳銃が落ち床へと転がった。
「くっ……!」
 滑って行く拳銃を視界に捉え、男の顔が焦りに歪む。気が背後の人物から逸れた男の腕が、その頭上高く引き上げられる。次の瞬間には、男の姿は背後の影の向こうへと投げ飛ばされていた。
「がっ……っ!」
 呻き蹲る男を足下に、その影の人物が背負い投げの姿勢から直立の姿勢へと戻った。相手に視線を向けたまま、足下の銃をトウタたちの方へと蹴って自分たちのいる場所から遠ざけるのを忘れない。
 黒いスーツをきっちりと着こなし、足には黒の革靴。耳にはインカムを付けており、長い黒髪は後ろに一つで束ねられていた。その首筋から褐色の肌が覗いている。
 その後ろ姿に、マリはハッとした。声をかけようとして、寸でで止めた。投げられた男が、ふらふらと立ち上がったのだ。
「くそっ!」
 小さく頭を振ると、パサリとその布が落ち、顔が露わになった。
 中から現れたその姿に、トウタたちは息を呑んだ。
 異様に離れた目は片目だけギョロリと魚のようで、鼻は無く唇は薄めで人よりも左右に裂けているように見えた。平べったい顔に、髪のない頭はまるでゴムのようにぬるりと光っていた。その頭に、焼き印でも入れたかのように三本の線が、漢字の三のように入れられている。
「何者だ、きさま」
 痛みが残るのか、お腹を押さえながら問う半魚人、それに、一切動揺する様子も見せず、目の前のスーツの人物は腰を落として構えた。
「引け。これ以上の争いは、お互い良い結果を生まない。引くのであれば、追うことはしない」
 強い口調で告げる声は、男とも女とも取れる中世的な響きを持っていた。
 あくまで名乗る気のない相手に、半魚人顔の男は答えを出しあぐねているようだった。
 しかし、ある一点を見つめた後、思い直したように目の前の相手を睨みつけた。
 それが、トウタにはひっかかった。
「悪いが、引くわけには行かない。あんたのその言葉に、どれだけの信憑性があると?こちらが背中を向けたとたん、攻撃する気でいるんじゃないのか?」
 威嚇するような声で、半魚人顔が言い、何処に隠し持っていたのか纏う布の中からナイフを取り出した。それは、青く透き通った刀身を持つ変わったナイフだった。
「そうか。あくまでマリお嬢様に手を出す気ならば、こちらも容赦するわけには行かない」
「シーナさん!」
 スーツ姿の人物の名を、マリが呼ぶ。その声には、咎めるような懇願するような響きが込められていた。
「分かっています。命は、奪いません」
 シーナは振り返ることなくそう言うと、向かって来た男のナイフを紙一重の差でかわした。その腕を掴み捕ろうとしたシーナの腕を、逆の腕で跳ね除け更に切り込む。そのナイフを身を低くして避けると、男の足下を払った。
「ぐわっ!」
 元々ふらついていた足下をすくわれ、無様にその場に倒れ伏す。そこへ追い打ちに叩きだされた拳を、男は転がることで避け距離を取って立ち上がった。しかし、その足元はやはりおぼつかない。
「くそ……」
「もう一度言う、おとなしく引け。そして、金輪際、マリお嬢様に近づくな」
「…へ…へへ」
 きっぱりと言い放ったシーナに、男は薄気味の悪い笑みを浮かべた。
 シーナの顔が険しくなる。
「そんなに大事なら、もっときちんと守った方が良いんじゃないか?」
「!」
 そう言うと、ナイフを大きく振りかぶった。
 シーナはそれがマリを狙ったものだと判断し、男へと素早く迫った。
 しかし、シーナが振りかぶられた腕を掴み捻り上げた瞬間。

  ぱんっ!

 乾いた破裂音が響いたのは、背後の方からだった。
「トウタさん?!」
 悲鳴に近い叫び声を上げ、マリは崩れるトウタの体を受け止めた。しかし、その力の抜けた体は重く、マリ一人の力では支えきれない。ズルズルと滑り、しまいには床の上に座り込んだ。
「トウタさん!トウタさん!」
 必死に声をかけるが、うつぶせに倒れマリの膝に横たわるトウタから返事はなかった。
 状況を察したニアは、持っていた操作棒を振るった。
 それに呼応するように、メイドロボットが動く。目標は、片手に残った銃を構え、片膝をついて起き上がるロリコンリーダー。すぐ後ろで動いたロボットに気がつき、振り向きざまに二発打込むも硬いボディに阻まれ全て弾かれてしまった。
「くそっ!」
 カチカチと音をたてる銃に苛立ち、投げつけようと腕を引いた。まさにその体勢の男へ、厳ついメイドロボットが飛びつきその体にしがみついた。
「ぐあ、お、重……」
 見た目以上の重量でのしかかられ、男は息が出来ず意識を手放した。
「あ、殺しちゃいけないよ、ウメコ三号。そいつには、僕が後でじっくり躾をするからね」
 そう言って操作棒を振ると、ウメコ三号は力を緩めて拘束体制に入った。
 そうして倒れたトウタへ向き直ると、マリの向こうで同じようにシーナが半魚人顔の首を軽く絞めて気絶させるのが目に入った。
 襲撃者の無力化を確認し、ニアは急ぎトウタの元へと駆け寄る。
 自分にしては、珍しいミスにニアは奥歯を噛みしめる。珍しい。でも、あまりにも致命的過ぎるミス。一瞬でも、半魚人顔の男へ意識を向けてしまったことと、直ぐにあの男を拘束しなかったことをニアは悔やんだ。
「あの、トウタさんが、あたしを庇って…撃たれて…!」
 素早く倒れるトウタの横に膝をつくニア。マリは涙の溜った瞳で震えながら、懸命に言葉を伝えようとする。それに頷きながら、ニアは自分の来ていた白衣を脱いでトウタの撃たれた胸の辺りに巻いた。
「…ニア、夜名君撃たれたの?き、救急車、救急車呼ばなくちゃ!」
 板張りの床を四つん這いで寄って来たナツが、慌てて携帯電話を取り出した。
 しかし、ボタンを押そうとして、ニアに片手でそれを握り込まれ阻まれる。
「……いい。いいんだ。救急車はいらない」
「で、でも!」
 銃で撃たれたのなら、直ぐに病院で治療を受けなければ命にかかわる。なのに、全く逆を行く幼馴染の行動に、ナツは戸惑った。静かに帰って来たニアの視線は、恐ろしいぐらいに冷静で、ナツは言いかけた言葉を呑みこむしかなかった。久し振りに見る、真剣な表情だ。ニアがそういう表情をする時は、怒っている時だとナツは知っていた。ただ、その怒りが何処へむかうものなのかは全く見当がつかない。
 ニアはトウタを抱き上げると、足早に道路へと向かう。
「ナツ」
「は、はい!」
 ニアに呼ばれ、ナツはびくりと体を震わせた。
「マリ君とマリ君の知り合いらしいあの人を頼む。僕はトウタを連れてウメコ二号で一足先にラボへ帰るよ」
「わ、分かった」
 淡々と告げるニアに、ナツは頷くしかなかった。疑問はいっぱいあるけれど、それを聞くことはこの場の空気が許さない。
(……これはもう、ニアが自分から話すまで待たないとだなあ……)
 小さくため息をつくと、未だに座り込んで泣きながら呆然としているマリの肩を叩いた。
 ゆっくりと顔を上げたマリに、精一杯笑いかける。
「大丈夫よ、マリちゃん。夜名君はニア曰く、頑丈な男だから」
「……」
 マリからの返事はなく、そのまままた項垂れてしまった。ぽたり、ぽたりと床に雫が落ちる。
トウタが撃たれたことに責任を感じ、自分を責めるマリにナツはこれ以上かける言葉見つからなかった。
「……行こう。ここにいると、騒ぎが大きくなる」
 それだけ言うと頷き立ち上がったマリを支え、ナツは騒ぎの原因の二人とシーナと共にその場を後にしたのだった。
 全員が去ってから数分後。カフェテラスとその周辺には、先程のできごとが嘘のように人々の喧噪が戻ってきていた。

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