3.戸惑いの人形と軸ぶれホームズ

文字数 28,474文字

「――ト」
 名前を呼ばれて目を開けた。
 答えようと開いた口に水が入り込み、溜っていた空気がごぼりと逃げて行く。
「セト。ずっと待っていたわ。この日を、私はずっと待っていた」
 薄く青い水で満たされた硝子の向こうで、白衣の女性が微笑んでいた。泣きながら、微笑んでいた。何故か、それが自分の母親だと、彼は直ぐに分かった。自分は、あの人の息子なのだと。
 再び目を閉じると、水に漂う感覚が消える。
「セト。これは何だか分かる?」
 目を開けると、先程の女性が赤い花を自分の前に差し出していた。
 受け取り、まじまじと見つめる。花の、良い香りが鼻腔をくすぐる。
「…カーネーション?」
 答えると、女性は嬉しそうに頷いた。
 その、女性の顔にヒビが入る。
「え?」
 ぬるりと、手の平に嫌な感触がした。
 視線を落とし、自分の手を見る。
 そこには、真っ赤に染まった自分の両手があった。
「な、何、これ……」
 混乱する頭で、助けと理由を求めて周囲を見渡した。
「な……?!」
 そこには、たくさんの人が倒れていた。
 腹を裂かれている人、首がない人、心臓を貫かれている人、頭を潰されている人。等々。
全部、全部死んでいる。
自分、以外は。
「…まさか……」
 体がガタガタと震え出す。
「…違う。あなたの、せいじゃないわ」
 あの女性の、母親の声がした。
 縋る思いで向けた視線の先に、女性はいた。白衣を、鮮血で染めて。
「あなたの、せいじゃ、ないわ。セト」
 一歩、一歩近づいてくる女性から、ボタボタと血が流れ落ちる。口から血を吐き、押さえられた脇腹は特に真っ赤に染まっていた。
「あ、あ、あぁぁぁ……」
 それでも、慈愛に満ちた瞳で彼に向かって微笑みかける。
 その姿を、不思議と恐ろしいと思わなかった。けれど、今の自分に彼女に触れて欲しくなかった。こんなにも他人の血で汚れてしまった自分の姿を、見て欲しくなかった。
 近づいてくる女性から、一歩、一歩下がって逃げる。
「あな、たの、せい、じゃ……」
「うわあぁぁぁぁぁっ!!」
 叫んだ瞬間、ぐらりと体が傾いた。
 視界が黒一色に染まり、彼は自分が暗い闇の中へ落ちて行くのを感じた。
『あなたの、せいじゃないわ…セト。私の、最愛の息子……』
 彼女の声だけが、後を追いかけるように彼の耳に残る。
――もう、嫌だ。何も、聞きたくない。聞きたくない!!
 強く思ったのを最後に、彼の意識はぷっつりと途切れた。
 全ての犯した、罪と共に。

  * * * * * 

 褐色の肌に黒い切れ長の瞳。背もすらりと高くファッション雑誌のモデルのようだとナツは思った。女性の自分から見ても非情にかっこよく、魅力的だ。
「改めて、自己紹介させて頂きます。私は、マリお嬢様のボディーガード兼、お傍係として伊利ご夫妻から雇われました、シーナ・クライオスと申します。以後、お見知りおきを」
そう言って懐から名刺を一枚差し出す。
「あ、これはどうもご丁寧に」
 それを受け取りつつ、お辞儀をするナツ。
 あの後ニアのラボへと戻ると、先についたニアは既に研究室へとトウタを連れて籠っていた。ドアにはいつも通り、入室禁止の札がかかっているため、ナツは戻っていることだけをドア越しに告げるだけにとどめた。あの部屋は、幼馴染のナツといえども入れて貰えない部屋なのだ。ニアは、トウタだけが入ることを許していた。許すと言っても、本人が良いと言ったわけではなく、いつの間にかそうなっていたのだ。
 しかたなく、ナツはリビングにマリとシーナを座らせ、とりあえず麦茶を出し一息ついた。その一角に捕まえてきた二人を、シーナと共に縛り上げて転がしてある。
 そこで、冒頭の如くシーナが口火を切ったのだった。
「私は(ふじ)ナツ。ナツって呼んでください。えっと、ここの所有者…あの、白衣の眼鏡少年、江寺(えじ)ニアって言うんですけど、その幼馴染です。で、マリちゃんを庇って撃たれたのが、夜名(やな)トウタくん。私とニアの高校からの親友です」
「なるほど。それで、あなた方はどうしてマリお嬢様と一緒に?大体の予想はあちらの二人に襲われていたことから推測はできますが、一応説明して頂いてもよろしいですか?」
 シーナの真面目な疑問に、ナツは頷く。
「でも、その前に。シーナさんの耳に着けているインカムの電源、切ってもらえませんか?」
 シーナの耳にかかった白いインカムを指さし、ナツは真剣な表情で頼んだ。
 名乗ってから気づいたのは痛かったが、これ以上個人情報を漏らすことだけは避けたかった。特に、あの状態のニアでは出てきた途端、何を語り出すか分かったものではない。それに、マリと出会った時の様子も一から話すとなると、MIKUNA製薬へそのことが筒抜けになるのも良い事とは言えないと思ったのだ。
 ナツの考えを察してか、シーナはインカムを外すと電源部分をナツに見せる。
「大丈夫です。ここへ来る前に電源は切ってあります。マリお嬢様を命がけで守ってくれた人たちです。私は、あなたがたは信頼するに値する人物だと判断しましたので」
 そう言うと、インカムを机の上に置いた。
「有難うございます。正直、疑われてもしかたない立場だということは、重々承知しています」
 そうして一呼吸置くと、ナツは今までの経緯を全て、シーナに語って聞かせた。
「……そうでしたか。マリお嬢様は、ご自分の意思でここに留まっておいでなのですね」
 全てを聞き終えると、シーナは納得したように目を伏せた。
「うん。心配と迷惑ばかりかけてごめんなさい、シーナさん」
 そう言って項垂れるマリに、シーナはにっこりと笑って首を横に振った。
「とんでもございません。寧ろ、ホッとしました。いつも同じ部屋に閉じ込められて、部屋を出るといえば病気の治療の時のみ。しかも、その治療もいつも意識を失った状態で帰って来てさぞ辛い治療を施されているのではないかと、差し出がましいとは思いましたが心配しておりました」
「ありがとう、シーナさん」
 落ち込んでいたマリは、幾分か元気を取り戻した表情で小さく微笑んだ。
「マリちゃんの治療って、そんなに辛いものなの?」
 ナツの心配そうな声に、マリは困った様に眉を顰めた。
「…それが、自分にもよくわからないんです。治療用の椅子に座るところまでは意識があるんですが…。それ以降は、全く意識が無くなってしまうんです。気がつくと自分の部屋でシーナさんがいて……」
「なるほど。なんだか、その治療方法っていうのも、何だか気になるわね」
「ナツ様もそう思いますか?」
 唸るナツに、シーナも同意する。
「このようなこと、雇われの身としてはいけないことだと分かっているのですが…。私も、マリお嬢様へのご両親の治療方法は少々疑っているのです。いくら病気を治す方法を探すためとはいえ、意識を失うほどの治療法などをご自分の愛娘に行うものなのかと」
「シーナさんは、それについて雇い主のマリちゃんの両親に聞いてみたことあるの?」
 ナツの質問に、シーナはこくりと頷く。
「ええ。差し出がましいとは思いましたが、酷く気になって雇われ始めの時に。しかし、私が気にすることではないと言われてしまいました。もちろん、それは正しいことです。契約の範囲外のことは、私が口を出していい事ではありませんから」
「ふむふむ、なるほど。まあ、先祖返り病の治療方法となれば、今一番秘密にしたいことだもんね。その態度も分からなくもないわ」
 納得したように頷くナツだったが、言いたくない理由がどうしてもそれ以外にあるように思えてならなかった。具体的な理由はない。ただ、ナツの感がそう告げるのである。
「マリちゃんは、意識を失う以外は何か体に異常は感じないの?」
「この髪の色と瞳の色です。それ以外は治療の次の日は妙に体がだるいぐらいでしょうか」
 そう言って、白銀の髪と瞳を指し示す。
「え、その髪と瞳って元からじゃなかったの⁈」
 驚いてまじまじと見つめるナツに、マリは少しきまり悪そうに頷いた。
「はい。元々は、黒い髪と瞳でした」
「そっかぁ。あんまり綺麗だったから、元からかと思っていたよ」
 ナツの言葉に、マリは嬉しそうに笑う。
「ありがとう。そう言ってくれたの、ナツさんで二人目だよ。一人目は、シーナさんよ」
「わ、私ですか?」
 驚いて自分を指すシーナに、マリは嬉しそうに頷く。
「うん。初めて会った日に。あたし、すごく嬉しかった。だから、最初はお父さんとお母さんが連れてきたあなたのこと、疑って見ていたんだけど…全部吹き飛んじゃったわ。今は、あなたのことを、心から信頼している」
「マリお嬢様…。ありがとうございます」
 マリの言葉に、シーナは嬉しそうに微笑んだ。
「さて、シーナさんのことはよく分かったわ。問題は……あいつらね」
 そう言うと、ナツはリビングの隅で背中合わせに縄で縛っておいた、黒づくめの彼らへと視線を向けた。手足を縛られ、未だに気を失っているようだった。
 椅子から立ち上がり二人の傍まで寄ろうとしたナツを、シーナが止めた。
「あの二人には、私が話を聞きましょう。こういうことは、仕事がら慣れておりますから。私なら、彼らが攻撃的に出ても直ぐに対応できます」
 そう言って立ち上がったシーナに従い、ナツは椅子へと座りなす。
「分かったわ。お願いします」
 一つ頷くと、シーナは二人へと歩み寄る。半魚人顔の男ではなく、リーダーと思しき黒いコートの男の前に片膝をついた。その襟元に片手を伸ばすと、掴み上げてその頬を激しく叩く。シーナの顔はどこまでも無表情だ。ベシベシと響く力強い音に、ナツとマリは唖然として見守っていた。
 男の顔は痛みに歪み、最後の仕上げとばかりに叩かれた一際大きなビンタが頬に炸裂した瞬間。
「ぎゃあぁぁっ?!」
 男が悲鳴を上げて目を開けた。
「やっと目が覚めましたか」
「いたっ、痛い?!何だ?!一体何なんだ!!」
「目を、覚まさせてあげたのですよ。それが、どうかしましたか?」
 赤く腫れた頬を涙で濡らしながら、男が縛られた体を懸命に動かして抗議する。それに対して、シーナはいたって冷ややかな声で返事をし、立ち上がった。
 そんな彼女を、黒コートの男が下から睨みつける。
「ならば、もっと違う起こし方があっただろう?!」
 今にも噛みつかんばかりの勢いの男。その縛られた足の間に、何の前触れもなくストンと何かが落ちた。怪訝な表情でその落とされたものを見た男の顔が青ざめる。
男の足下に落ちたもの。それは、一本のナイフだった。
「もっと違う起こし方ですか。では、手の爪を目が覚めるまで、一枚一枚剥がして行くのが良かったですか?それとも、目が覚めるまで一本一本、それを手の指に指していく方がよろしかったでしょうか?」
 薄笑いを浮かべ、楽しそうに言うシーナ。
「優しく起こしていただき、有り難うございました」
 ぶんぶんと左右に首を振る男の目には、先程とは違い恐怖の涙が浮かんでいた。
「それは良かった」
 薄ら笑いを消し無表情に戻ると、シーナは落としたナイフを拾い上げる。
「では、あなた方の目的を聞かせて頂きましょうか」
 ナイフを手に持ったまま、シーナは男に尋ねた。
 男は答えず、視線を逸らす。
「…分かりました。しかたありません、少しずつ削ぎ落とすのがお好みですね」
 そう言うが早いか、男の頭を掴み耳の下にピタリとナイフを宛てた。
「っ?!」
「耳は二つありますから、一つぐらい無くなっても問題ないですね」
 そう言ってにっこり笑うと、ナイフをゆっくりと上に動かし始める。
「わっ!分かった!分かった、言う!!言うから、やめろ!!」
 叫ぶ男に、シーナはナイフと頭を掴む手を離した。
「そこのお嬢さんを攫い、依頼主の元へ連れて行くのが我々の仕事だ」
「依頼主、とは?」
「それは……」
「言えない、と?」
 再びナイフの切っ先を男へ向けるシーナ。それに男が怯えるような目をする。
「ち、違う!知らないんだ!依頼は、メールや電話のやり取りしかしていなくて…。電話の声も、機械で変えられていた。だから、分からないんだ!ただ、『白い髪と不思議な目の色をしたアンドロイドを見つけて連れて来い』という依頼の内容しか――」
「ちょっと、待ちなさい」
 男の声を遮って、シーナが声を上げた。
「アンドロイドとは、どういうことですか?マリお嬢様は、れっきとした人間です」
 それにマリもコクコクと頷いた。
「は、そんなウソをついて私をだまそうなどとしても無駄ですよ。その髪と瞳が動かぬ証拠ではありませんか!」
 言ってキッとマリを見る男。しかし、三人の間には白けた空気しか流れていない。
「あのね、ロリコンリーダーさん」
「誰がロリコンだ!失礼な!私にそんな趣味はない!それに私には、ジャックとい名前がきちんとあってだな!」
 口を挟んだナツに、男―ジャックは顔を真っ赤にして叫ぶ。
 それをナツは「分かった、分かった」と軽くあしらう。
「じゃあ、ジャックさん」
「何だ!」
「名前を言っても良かったんですか?」
「……」
 ナツの質問の意味が分からず、一瞬間の抜けた表情を浮かべる。が、直ぐにハッとして青ざめた。
「そ、そそそそれは、コ、コードネームだ!断じて本名などではないからな!本当だからな?!」
「はい、はい。そういうことにしておきますよ」
「くうぅぅぅっ…。本気にしてないな?小娘が」
 全く本気にしていないナツに、ジャックはギリギリと奥歯を噛み締めた。
「まあ、それはさて置き。私からも言うけど、マリちゃんがロボットだなんてありえないわよ。人間に決まっているじゃない。逆に、髪の色と瞳の色以外でどこをどう見てマリちゃんをロボットだと思ったわけ?それを聞きたいんだけど」
「そ、それは……」
 ナツの問いかけに、ジャックは口ごもった。実はそれだけで断定していましたとは、言いづらい状況である。
 視線を彷徨わせ、何とか切り抜ける方法を探す。しかし、良い方法は見つからなかった。
「…それだけで、判断したわけね……」
「うう…」
 呆れてため息をつくナツに、ジャックは二の句が告げなかった。
「わかりました。では、マリお嬢様があなたがたの探すアンドロイドではないことを証明致しましょう」
 そう言うと、シーナは懐から一枚の写真を取り出した。
「本当はあなたのような人に見せるものではないのですが…事が事。これでマリお嬢様の命が安全になるのであれば安いものです」
 差し出された写真を怪訝な顔で覗き込むジャック。その表情はまだ半信半疑だ。
 そこには、黒い髪に黒い瞳の可愛らしい少女が一人、微笑んで映っていた。隣には、赤茶色の耳の立った子犬が一匹クリッとした瞳でこちらを見ている。少女は今のマリよりは少々若いが、確かにマリと同じ顔をしてそこにいた。
 その少女と、マリを交互に何度も見る。
「この写真の少女は、お嬢さん?」
「そうです。私が仕事を受ける時に、警護対称が分かりやすいよう提示された資料の内の一枚です。まだ、病気の治療を受ける前、副作用で髪が白くなる前のマリお嬢様です」
 きっぱりと言うシーナの言葉に、ジャックは力が抜けたのかがっくりと項垂れた。
「人違い、でしたか……」
「ご理解頂き、有り難うございます」
 そう言いながら、写真を再び懐へと戻した。
「これで、もうあなたたちがマリお嬢様を狙う理由はありませんね」
「ええ。申し訳ありませんでした。お嬢様にも、大変申し訳ないことをしました。このお詫びは、いずれさせて頂きます」
 誤解が解けたジャックは、シーナとマリへ向かってそれぞれ頭を下げた。
 根はそれ程悪い人間ではないようだ。
「いえ、そんな、お構いなく!…あれ?」
 先程まで命を狙われていた人物から謝られ、マリは慌て過ぎて妙な返事をしてしまった。それに気づき、余計に慌てている。
「それに、あの少年にも悪いことをしてしまった…。彼は、大丈夫なのでしょうか?」
 そう言って三人を見渡すが、それに答える声はなかった。色々誤解を解いたり説明をすることで置いておいた問題が一気に浮上し、そこにいる四人の心を不安にさせた。
 トウタは、ジャックに拳銃で撃たれたのだ。マリを庇ったため、急所に当たった確率は低い。それでも、重症であることに変わりはなかった。
「……わからないの。ニアが、多分治療をしてくれているんだと思うんだけど……。でも、ニアは、発明家であって医者じゃない。だから、どういう理由であの時救急車を呼ぶ私を止め、夜名君を連れて帰ったのか…私にもわからない」
「そうであれば、今はニア様が現れるのを待つしかございませんね」
 重くなったリビングの空気の中、シーナの言葉にナツは頷くしかなかった。


 遡ること数時間前。
 先にラボへと戻って来たニアは、家の奥の研究室にトウタを運び込んでいた。鍵をかけ、いつも実験をしている時と同じように、立ち入り禁止のプレートを掛けることも忘れない。
「……さて、始めようか?」
 諸々の準備を終えると、部屋の中央の台に横たわるトウタへと歩み寄った。その恰好は白衣にシャワーキャップをかぶり、手には手術様の手袋をはめている。眼鏡は落ちないように紐を耳にかけるタイプへとご丁寧に変え、口元はマスクで覆われていた。
 ワキワキと手を上に向けて動かしながら、発明用の手元を照らす照明に腹部を照らされたトウタへと歩み寄った。トウタの腹部には、新しく清潔な白い布がかけられている。作業台脇に置かれた銀色の四角い皿の上には、手術用のメスやプラスマイナスドライバー、金槌やペンチ等が置かれていた。その中で、一番それらしいメスを片手に取った。
 深呼吸を一つ。気合を入れると、白い布に開いている手を掛けた。
 と、その手をがっしりと掴む手があった。
「…ニア、お前は一体何をしようとしているんだ?」
 手の主は、トウタだった。じと目でニアを見上げている。
「あらら。もう意識が戻っちゃったか」
 残念そうに言うと、ニアはメスを置いた。それと同時に掴まれていた手首が放された。
「……なんつー恰好をしているんだ…。手術をするにしては、衛生さが酷いぐらい足りないんじゃないか?」
 ニアの恰好を眺め、自分の寝かされている状況を確かめてトウタが眉をしかめた。
「何事も恰好からだよ、トウタ君。そうすることで、頭の回転が冴えわたるのが僕なのだ。ちなみに、いつも来ている白衣もそれと同じ理由だ」
「そうだったのか…。いや、それは今はどうでもいい。それより、一体何がどうなっているんだ?俺は撃たれたんだろう?なのにここは、病院とは違うみたいだし…。まさか、ここが実はあの世ですとか言わないよな?」
「ほお。トウタ君のあの世の入口は、僕の発明現場の作業台がお好みなのかい?」
「んなわけあるか。できればもっと爽やかで明るい場所がいいわ」
 悪態をつくトウタだが、いつもの元気はあまりない。
それはニアも同じだった。
「…ニア。そろそろ、本当のことを言ってくれ。俺は、どうしてここにいるんだ?」
 そう言って体を起こそうとするが、ニアにと止められた。
「起きない方が良い。起きると、傷ついた箇所に差し障りがあるからね。撃たれて、君の体に銃弾が命中したことは事実だ。まだ、弾も中に残っている。貫通した様子はなかったからな。僕は今から、それを取り出し君を修理する」
――修理――
その言葉は、人の治療には絶対使わない。
「……俺は、

されるのではなく、

されるんだな?」
 自分で口にして、その突拍子もない予想に胸に気持ち悪いものが過る。しかし、ニアがそれに頷いたのを見た瞬間、目の前が真っ暗になる思いがした。
「君は、アンドロイドだ。しかも、今まで見たこともないぐらい、進んだ技術で精巧に作られた完璧な」
 ニアの声が、遠くに聞こえるようだとトウタぼんやり考えた。
「じゃあ、記憶は?俺は、マスミねぇちゃんや両親と一緒に過ごした昔の記憶がある。これは、一体なんなんだ?」
「……僕が、サブロウおじさんに頼まれて君にインプットしたものだ」
「じゃあ、サブロウじいちゃんも、マスミねぇちゃんも俺が機械だって知っているんだな」
 それにもニアはゆっくりと頷いた。
 先程は止められた手を動かし、トウタにかかっていた白い布を取り払う。
 皮膚が焦げ、直径三、四ミリ程度の黒い穴が開いていた。人ならば痛みで気絶し、内臓を傷つけられその出血で死ぬ可能性もある場所だ。
 ニアは再びメスを持つと、穴の周囲にその刃を走らせた。切れた皮膚にはそれなりの厚みがあり、傷ついた内部がよく見えるよう二回り大きく切ったその部分をゆっくりと取り外した。シャワーキャップの上から、頭にはまるよう作られた簡単な骨組のライトを額に被る。ライトをつけ、その後ろから右目の上へとルーペをスライドさせた。
 その間も、トウタには何の痛みも伝わらない。それが余計に気分を落ち込ませた。
「…切っているんだろ?痛くないんだな。やっぱり」
「いや、通常だったら激痛だろう。君の体は、痛覚や触覚、味覚等全ての感覚器官が人とまったく同じように働くからね。今痛くないのは、撃たれた衝撃で傷ついた部分の感覚が強制的に切り離されているからだろう。君が撃たれた後気を失ったのも、一時的にシステムをシャットダウンすることで全機能への被害を最小限にするためだと僕は考えている」
 喋りながらも、ニアが手を止めることはない。光に照らされた傷ついた複雑な回路を手早く修繕していく。
「傷を直し、再起動すれば全て元に戻るだろう」
 戻ると聞いても、トウタには嬉しい気持ちは少しも起きなかった。感覚は戻り、人のようになれても、もう自分は数時間前の人だと思っていたあの頃には二度と戻れないのだ。それが、悲しいのか腹立たしいのか。トウタにもどうしようもない感情が渦巻き、気持ち悪さに顔を顰めた。
「俺は、誰に作られたんだ?お前の口調からして、お前が作ったんじゃなさそうだな。それに、俺が自我を持っているのは人工知能か何かのせいか?そこまで現代の技術が進歩していたようには思えないんだが?」
「君を作ったのが一体誰かは、僕も分からない。君は台風が通り過ぎた後の海岸の岩場に、引っかかっているのを、マスミさんが見つけたんだ」
「え、マスミねぇちゃんが?」
 思わず浮き上がった上半身を、ニアがグッと止める。
「傷を増やして、横になっている時間を伸ばしたいのかい?君は」
「い、いや。ついな。ごめん、ごめん」
 きらりと照明に眼鏡を光らせメスの刃先をチラつかせるニアに、トウタは再び作業台へと体重を預けた。
「当初の君は、完全に動きを停止していてね。サブロウさんにも手が負えなくて、僕のところへ運び込まれたのだ。そして、僕の華麗な修繕テクニックで動けるようになった君は、今まで自分に起きたことを綺麗さっぱり覚えていなかったのだよ」
「記憶喪失ってやつか?あ、でも、アンドロイドだから違うか……」
 自嘲気味に笑っていうトウタに、ニアの手が一瞬だけ止まり直ぐに作業を再開する。
「記憶データを調べた結果、残ってはいるがそれを思い出すことを君自身が拒んでいるようだった。記憶がなくとも、通常の生活に支障が出る様子はなかったな。だから、当分はそのまま様子を見ようと言う事になったのだが……」
「何か問題でも起きたか?」
 自分の身に起きたことを、他人に尋ねると言うのも妙なものだと、トウタは眉を顰めた。
「日常の些細な事で、不意に思い出したくない記憶が戻りかけて、その度に君が大変な事になったのだよ。オーバーヒートしたり気を失ったり、動作不良を起こして見ている人を驚かせたり」
 先程まで普通に接していた人物が、いきなり機械的動作を行いだせば見てしまった人にとってはさぞホラーな体験だったことだろう。
 想像し、自分の身が起こしたこととは言え確かに大問題だなとトウタは思った。
「解決策として、新しい記憶をインプットすることで、古い記憶が引き出されることを阻止しようと言う事になってね。それで僕が、君に“夜名トウタ”としての記憶をインプットしたのだよ」
「なるほど、それが今の“俺”と言う訳か」
「でも、性格は元の君のものだぞ。そんなものまでインプットできるほど、僕もまだまだ手練れではないからね」
 納得するトウタに、ニアはそう言って持っていたマイナスドライバーをクルクルと振る。
「じゃあ、元々の人工知能が生み出しているものなのか。この俺の性格は」
 ぽつりと呟くトウタに、ニアが唸る声が聞こえてきた。
「うーん、いやー…それがね。事実はそう単純なことでもないのだよ、トウタ君」
「と言うと?」
「結論から言うと、君に人工知能は搭載されている。ある程度の行動機関に関与していると言っていいだろう。だが、君のその人間以上に人間らしい自我は、その人工知能から作られたものではないと、僕は考えている」
「は?ど、どういうことだ?」
 ニアの言葉に、トウタの頭は混乱した。
「人工知能内に、ある人格のデータがインプットされていて、本来はその人格に沿ったものの考え方や行動パターンから学んで行くシステムになっていたのだよ。恐らく、君を作った製作者も、本来はそうなることを望んでいたはずだ。だが、何か……。予期せぬ何かが起こり、君は今の本当に人間と寸分違わぬ自我を手に入れた。それは製作者にとって喜ばしいことでもあり、そうでもなかったのかもしれない。ま、それはもう本人しか分からないことだ」
 今、こうして思い考える自分の心が、機械の脳から生み出されるプログラムだけでできたものではないと言う。では、一体自分を自分たらしめているものは何なのだろうか?
トウタには思い当たることは何もなかった。
自分の事、自分の体だと言うのに。
「これは、僕の推測であり真実かどうかは分からない。だが、おそらく君のその自我は、君の胸部に組み込まれている一つの回路から来ているものではないだろうか」
「胸部の、回路?」
思わずトウタは片手で自分の胸に触れた。
「円状の部品に、琥珀の様に美しい胡桃大の宝石らしきものが嵌め込まれた回路だ。調べて分かったことは、その宝石の様なものが君の体を動かすあらゆる部分の動力源であることだな。普段の食事ももちろんエネルギーに変えられているようだが、それは極わずかなものにしかならないだろう」
「でも、そんな小さな宝石一個が本当に俺のエネルギー源になるのか?直ぐに無くなって動けなくなりそうに思えるんだけど……」
 トウタの質問に、ニアは険しい表情を浮かべた。
「そこなのだよ、トウタ君」
 ビシッと目の前に縫合用の針が近づき、トウタは戦慄した。
「危ないだろ、ニア!そんなもんを眼球に近づけるなって‼」
「おっと、これは失礼」
 そう言うと、手を引っ込め縫い合わせる作業を再開する。
 真実は早く聞きたいトウタだが、ちょくちょく冷汗をかくはめになるのが困りものだ。
「信じられないことだが、小さな石の中に計測不可能なほどのエネルギーが凝縮されているのだよ。その石があれば、地球上のあらゆるエネルギー機関を半永久的に動かすことができるはずだ。いや、ほぼ永久的と言ってもいい」
「…とりあえず、とてつもなく膨大なエネルギーが俺にはあるってことか?」
「そういうことだ。なので、それを無理矢理外しでもしない限り君が止まることはない」
 ニアの言葉に納得したものの、また別の疑問が浮かんだ。しかも、物凄く嫌な考えだ。
「…あのさ。そんなに巨大なエネルギーがあって、俺っていきなり大爆発起こしたりしない?」
「絶対にありえないから、心配する必要はないよ」
 恐る恐る聞いたトウタに、ニアはきっぱりと答えた。
「その石は僕ら人間の考えを、遥かに超越した科学的技術で作られている。ようするに、石と言ったが鉱物ではないのだ。それは、恐ろしいが“機械”なのだよ。それ、一つだけで既にね。そして、僕にすら理解出来ない理論と物質で構成され動いている。膨大なエネルギーを永久的に生み出し続けている。そしてそれは、信じられないことに

なのだよ、トウタ君」
 段々熱い語り口になって来るニアに、トウタは不安を覚えられずにいられない。こうなると、ニアは自分の考えに浸って周囲が見えなくなるのだ。せめて、自分の腹の縫合が終わっていることを祈るしかない。
「それこそありえない、ありえないのだよ、トウタ君!人の作り出すものに、完璧などありえない。必ず何かしらのミスがある。それは、残念なことに僕自身もそうだ。そのミスはいつか綻びを生み、機械に破綻をもたらす。あるいは、外部から与えられた何かによりそのミスから破壊されて行く。それが現実だ。今ある現実。しかしながら、君の胸部の宝石にはそれがない。君の身体にすらあると言うのに!」
「待って!今、さらっと怖い事いったよね?完璧なものがこの世に存在しないって点には、同意するけどさ。じゃあ、俺の身体はいつか壊れるってこと?!」
 思わずがばりとトウタが起き上がったのは、ニアが縫合用の糸を丁度切った後だった。
「トウタ君。形あるものはいつか壊れるものだよ。それが、人が作り出したものであれば尚更ね」
 起き上がったことを咎めることもなく、ニアは針と糸を脇の台の上へと置く。
 先程までの熱弁が嘘のように、落ち着いた様子のニアに気おされトウタも口ごもってしまっ
た。
「それは、人も同じことだ。人もいつか死ぬ。それと同じさ」
「う、いや、まあ、そうだけど……」
 何となく、自分の質問とは違う答えが返って来てトウタは不満顔だ。
「それに、」
 そんなトウタに、ニアはにやりといつもの自信満々な笑みを浮かべた。
「この僕が生きている限り、トウタが壊れることはありえない。なにせ、この和製エジソンこと江寺ニア様がどんな故障も不具合も何もかも、綺麗さっぱり直してしまうからね。こんな頼もしい友を持ったことを、誇りに思うがいい」
「……ニア……」
 ふっふっふと不敵な声を上げるニアだが、今のトウタにはその優しさが痛いぐらいに嬉しかった。
 しかし、その思いもふと浮かんだ疑りの心によって暗い影を落とす。
「でも、そうしたのはニアのプログラムだろ?俺に、お前を友達だと認識するように新しい記憶と一緒にプログラムしたんだろ?一緒にいれば、修理とか色々融通が効くから……」
 悲しそうな顔で聞くトウタの、その額をニアがプラスドライバーのお尻で叩いた。
 ゴッ!という鈍い音が響き、目の前を星が飛ぶような衝撃にトウタは額を押さえて悶えた。
「いっ?!」
「そんなこと、僕がするわけないだろう?僕が君と親友になったのは、君が僕を友達として選んだからだ。自分自身で行った選択すらも忘れてしまったのかい?それに、融通を聞かせるのなら、わざわざ記憶をインプットする時、君がアンドロイドだという記憶を入れずに抜いたりはしない。覚えていてくれた方が、色々融通が効くからね」
「……」
 不機嫌そうに腕を組むニア。彼は遊びでふざけて嘘をつくことはあっても、こんな場面で嘘をつくような性格ではない。そのことを、トウタは友達として過ごしてきた日々の中で良く知っていた。
「僕が君に与えた記憶は、夜名家の家族の一員だということだけだ。君がサブロウおじさんやマスミさんと過ごして来た日々だけだよ。その中で、学んできたであろう常識や教養も高校入学以前までインプットしてある。そこに、僕の記憶もアンドロイドだという記憶も入っていないよ。僕の記憶を入れなかったのは僕の意志。アンドロイドの記憶を入れなかったのは、サブロウおじさんたちの意志だ」
「…じいちゃんたちが?どうして……」
 ニアは目を伏せた。その顔に、もう怒りの色はない。
「自分たちの、家族だからだそうだ。アンドロイドなどという枠組みに囚われて、トウタが自分たちとの間に線を引いてしまわないか。それが怖かったのだそうだ。そんなものは自分たちには関係ないことだと思っていても、君はきっと気にしてしまうだろうからと。そうして、家族なのに線を引かれるのはとても悲しいことだから。だったらいっそ、アンドロイドだという記憶はない方がいいんじゃないかとね。いずれ君は本当の記憶を引き出す勇気を得て、全てを思い出し自分たちの前から消えてしまうかもしれない。それを止める権利は自分たちにはないから、せめて今は家族として共に過ごして行きたいのだと。もしかしたら、それが君をいつか苦しめるかもしれない。謝っても、許してくれないも知れない。それでも、家族になりたいのだと、サブロウおじさんたちは言っていたよ」
「……そんなこと、俺が感謝するべき側じゃないかよ……」
 いきなり自分がアンドロイドだと聞かされて、その上出生不明の落とし物で。更に昔の記憶を思い出したくない、もう一つの自分の感情が無意識の内にある。そんな事実を知って、じゃあ今の自分は一体何だか分からなくなりかけていた。しかし、自分にはこんなにも思ってくれる人がいることを知り、トウタの中の暗い気持ちが霧散して行った。
「……悪かったよ、ニア。さっきの言葉は、忘れてくれ」
「そう思うのなら、暗い顔をしない」
 そう言うと、ニアはトウタの手術用に身につけていたものをポイポイと脱ぎ散らかした。
「さ、手術は終わり。無事成功だ。暫く傷痕が残るけど、不思議なことにその内消える。君の
身体はそういう特殊な人口皮膚で覆われている。これも僕のまだ理解の及ばないところだな。しかし、いつか必ず僕のものにして見せる!!」
 拳を握りしめながら力説するニア。
 いつか実験させてくれとか、薄く切り取らせてくれと言って来そうで末恐ろしい。
 そんなニアの様子に、トウタは嫌な予感がするのを禁じえなかった。
「熱く語るのは結構なんだが……できれば上に着る物を貸てくれると嬉しいんだけど」
「ん?おっと、そうだったね。上半身裸では、レディたちの元へ行けないね」
 そう言ってポンと手を打つと、入口近くの備え付けの棚へと歩み寄る。その開き戸になっている下三段の一番上。そこから橙色のTシャツを引っ張り出し、トウタへと投げた。
「それで良いかな?昔、どこかの企業祭に参加して貰ったものなのだが」
 受け取ったTシャツを広げてみると、確かに胸の部分に会社のロゴらしきものがプリントされていた。“C”と“W”に似た文字がポップにアレンジされているが、実際は何の文字だかさっぱりだった。
 袖を通して見ると、少し大きいが問題はないようだ。
「うん、大丈夫みたいだ。ありがとう」
 作業台から降りると、直ぐ脇にトウタが履いていた運動靴が置いてあった。
 トウタがそれを履いていると、リビングの方からバシバシと言う大きな音と、男の悲鳴が聞こえてきた。
「……何をやっているんだい?ナツたちは……」
「あの悲鳴の声、ロリコンリーダーの声に似てなかったか?」
「そうかい?興味がなかったから覚えてないなあ」
 制服の黒いズボンに付いたゴミを払いながら聞くトウタに、ニアは白衣のポケットから銀色の操作棒を取り出し振るう。
 右隣の部屋がガタガタとなり、部屋続きになっている木戸を開けて一台のロボットが入って来た。それは、先程ロリコンリーダー体当たりをかましたごついメイドロボットだった。
「よしよし。きちんと一人で車庫に戻れたね。上出来。流石僕のプログラム」
 そう言って、きらりと眼鏡を光らせにやつく。それをごついメイドを前にやっているので、見ているトウタには不気味に見えてしかたない。
「どうするんだ?そいつをここに呼んで」
「今夜大急ぎで戦闘機能をつけて、正当防衛機能と連動させるのだよ。今日みたいなことがまたあっては敵わないからね」
「なるほど」
 トウタもそれには同意である。また撃たれるのは、いくらアンドロイドで簡単に死なないことが分かったとはいえごめんである。もちろん、他の誰かが撃たれるのもごめんだ。
「よし、ウメコ三号。君の改造と改良を行う。そのための準備をよろしく頼むよ」
『かしこまりました』
 ニアの言葉に目が二度光ると、機械音声が了解を告げる。
「……俺にも、あるのかな?戦闘機能とか……」
 メイドロボットを見ていてふと思ったことを呟くトウタを、ニアがぐりっと振り返った。
「え、何?トウタも戦闘機能付けたいの?搭載されているかどうかは調べてないからわからないけれど、搭載したいのなら喜んで協力させてもらうよ」
 心なしかその表情は喜びと期待で満ちている。
「い、いや。遠慮しとくわ」
 そう言って若干引くと、一変してニアの表情が残念そうになる。
「そうかい?残念だなぁ。まあ、人よりは頑丈だし、全力で殴ったり蹴ったりすれば、相手が普通の人ならばそうとう痛いはずだよ。半魚人顔の人間には…どうかな?ちょっと分からないね。データが足りない。背負い投げは、ダメージを受けていたようだったがね」
「なるほど、分かったよ」
 頷き、これ以上ニアが何か言いだす前に、リビングへ続く廊下のドアへ足を向けた。
「ああ、そうだ。トウタ」
「…な、何だよ」
 背後から呼び止められ、トウタは恐る恐る振り返った。
 そこには、黒い長方形のビニール製らしいわっかを両手に持ったニアがいた。ずっしりとした揺れ方をしている。
「何だ?それは」
「防弾腹巻。もちろん、僕の改良を加えた特別品。トウタ君はこれを腹に巻いていたと、ナツたちには伝えよう。僕の発明品の実験体になってくれていたとね」
 ニアが何を言いたいのか、直ぐにトウタは理解した。銃で撃たれて、病院に行かずに何事もなかったように、自分が出て行っては怪し過ぎると言う訳だ。アンドロイドだという事を打ち明けるのなら別だが、トウタにその気はなかった。ナツには後で個別にタイミングを計って伝えるにしても、マリとシーナには不味い。彼女たちを信用していない訳ではないが、まだそれを伝える勇気をトウタ自身持っていない。
「分かった。でも、銃弾を受けた跡がないと変に思われないか?特に藤さんはつっこんでくるだろ?」
「その点は心配ないよ。既に一度、強度を計るために銃で撃ったことがあるからね。まあ、良く見ないと分からないぐらい、防弾はバッチリさ」
 受取り注意深く見ると、確かに黒く焦げた場所が一ケ所だけあった。しかしそれは、間近で見なければ分からない程薄く浅い。
「確かに。これなら大丈夫そうだ」
「うむ。では皆の所へ行こうか。伊利君を狙った、あいつらの目的も気になることだし」
「ああ、そうだな」
 先にドアへと辿り着き廊下へと出て行くニアに続き、トウタも研究室を後にした。

「――と、言う訳らしいのよ」
 ナツたちから大体マリを狙った理由を聞いたニアとトウタは、それぞれロリコンリーダーことジャックを見た。正直なところ、その全てを信用できずにいた。何より気になったのが、白い髪と不思議な目の色をしたアンドロイドを探しているという人物だ。
 トウタはそっと体を傾け、隣に座るニアへと寄せた。
『…なあ、俺の髪って最初は白かったりしたか?』
『いや、始めから黒っぽかったよ。ちなみに瞳も普通の黒っぽい色だったね』
『そっか、じゃあ違うか……』
 探しアンドロイドが自分ではないことに、ホッとトウタは胸を撫で下ろした。誤解が解けたのに、今度は自分がその探し人でしたでは洒落にならない。
『しかし、関係なともいえないな。何者かに消息を追われるアンドロイドと、記憶失い流れ着いたトウタ』
『……じゃあ、俺の思い出したくない記憶が、もしかしたらそのことに関係してるかしれないのか……』
『あくまで仮定の話だ。全く関係ないのかもしれないしな』
 せっかく関係ないと思った矢先にそう言われ、トウタは顔を顰めた。
「ちょっと、何ひそひそ話しているのよ、二人とも!」
「「!」」
 上から降って来た声に顔を前へ戻せば、不審者を見るような目を向けたナツがいた。
「あ、いや。ごめん、ごめん」
 そう言って苦笑いを浮かべ、トウタは元の位置に体を戻した。
「……分かっております。私の話を今すぐ信用しろと言う方が難しいこと。お二人が納得されないのもしかたありません」
「うえ?」
 急に的外れなフォローを入れてきたジャックに、思わず変な声が出てしまう。
「そりゃあ、まあ。だけど、シーナさんがちゃんと聞き出したし、証拠の写真だって見せたんだから。大丈夫よ!」
 「ね?」とナツがシーナに聞き、笑顔の「はい」が返って来る。そのやり取りに、心なしかジャックの顔が引きつったのをトウタは見逃さなかった。
(……一体どんな聞き出し方をしたんだろうか……)
 疑問ではあるが、彼の反応からして聞かないことにした。
 ニアとトウタの内緒話はジャックへの不信感からと決めつけられ、話が進んだことにトウタもニアもとりあえず胸を撫で下ろした。今後このての話をする時は、十分注意しようと決めた。
「でも、夜名君も良かったね。私、ニアが病院に連れて行かなくて良いって言い出した時は、どうしようかと思ったわよ」
「実験の成果を早く知りたかったからね。それに、あんな場所で結果を確かめて、万が一他の研究者に研究内容を盗まれでもしたら大変じゃあないか。トウタ君がせっかく身体を張った意味が、なくなってしまうよ」
「まーったく!それで成功していたからいいものを…」
 ナツは呆れた様子でニアを見ているが、本人は全く気にしていない。
 真実を言えないトウタは、乾いた笑いを浮かべてその場をやり過ごすしかなかった。
「さて、色んな事が一件落着ね。夜名君も無事だったし、マリちゃんへの誤解も解けたし」
 ナツが席から立ち上がり、大きく伸びをした。
「あー、何か安心したらお腹が減って来ちゃったわね。アップル・フィールドの新作シェイクも、結局飲めなかったし。って、やだ!もうこんな時間じゃない!!」
 柱時計を眺め、ナツが叫ぶ。時計の針は午後二時を指していた。
「みんなお腹が減ったでしょ?何かすぐ作るね!」
 そう言うと、「確か、スパゲティに乾麺があったわね。あれならこの人数でも……」と呟きながら隣の台所へ入って行く。
「あ、私も手伝います!」
 そう言って立ち上がると、マリも慌ててその後を追った。
「……ところで、ジャックさん」
「はい。何ですか?」
 二人の姿を見送ってから、ニアはぐりっと首をジャックへ向けた。
 出された麦茶をおとなしくすするジャックの顔には、シップや絆創膏が貼られていた。ウメコ三号にアタックされた時の傷だろう。両頬が心なしか赤く腫れていたが、その理由はニアとトウタには分からなかった。
「あなたにメールや電話で依頼をしてきた相手に、何か心当たりは?」
「それが、全く。私も、元から便利屋のようなものをしていますから、こういうやり取りは日常茶飯事でして…。あ、ちなみに『JJ探偵事務所』と言うのが表向きの名前です。何かありましたら、どうぞよろしく」
 そう言うと、ジャックは名刺を一枚二人の前へと差し出した。受け取って見れば、そこには『ジャック・ジェームス』という名前が真ん中に大きく書かれ、左下端に小さく探偵事務所名と住所、電話番号にファックス番号そしてメールアドレスが印字されていた。
「良いんですか?藤さんに聞かれた時はニックネームとか言って、誤魔化したのに」
「あの時は、まだ人違いをしていると気づく前でしたから。咄嗟にそう言ってしまいました。今は、もういいんです。何だか、隠してもしかたないような気もしてきましたし……」
 苦笑を浮かべて麦茶を啜るジャック。
「あ、でも、これはここだけの話にしてください。できれば、昨日のことは御内密にしていただければ……」
「分かりました。僕らも

巻き込まれたのに、面倒事はごめんですから」
 そう言ってにっこりと笑うニアの白々しさに、トウタは内心ため息をついた。
「ただの探偵が、今回のように依頼だからと言って、人攫いの真似事までするんですか?」
 向かい合う席から、シーナさんのトゲのある声が上がる。
 確かに、探偵の仕事にしては法律に触れ過ぎている。誘拐は立派な犯罪だ。
「ただの探偵ではないから。としか、言えません。これ以上はビジネスに差し障りがあります。それに今回の場合、人違いと気づくまであの企業が依頼主のものを、勝手に手に入れて使用していると思っていたんですよ。だから、盗んだものを取り返すのなら、別にいいかなと思いまして」
「ああ、なるほど。だから妙に会話の内容がぶれていたんですか。記憶を書き換えたとか、どっちが悪人だか分からないとか」
 今までの会話や先程聞いた話を思い出し、トウタは納得した。どうも誘拐犯にしては妙なことを言っていると思ったのだ。
「あと、名誉のために言っておきますけど、今回みたいな仕事は極稀にあるかないかですからね?毎回こんなことばかりしていたら、私の身が持ちません。なるべくならば荒事なんて起こしたくありませんからね」
「それにしちゃあ、普通に拳銃を持ち出して撃っていましたよね?なんのためらいもなく」
 トウタの言葉にジャックは頭を掻いた。
「脅しのつもりだったんです。最初に撃てば、後は大体言う事を聞いてくれるので。もちろん始めから、あてる気なんてありません」
「今回、二丁も持ち出して容赦なく俺たちを撃ったのは?それも脅しだと?それにしちゃあ、やりすぎじゃないかと……」
「それは、昨日予期せずあなた方が私たちのターゲットを連れて行ったので…。同業者か何かだと思ったんですよ。一つの依頼を数人に出して、ブッキングするなんてことはよくありますからね。同じ相手に二度もターゲットを持って行かれたとなると、私も商売あがったりですから」
 苦笑を浮かべながら、もう一口麦茶を啜る。
「ジャックさんに質問。僕らと対峙した時、周囲から関係者以外を隔離するようなことをしましたよね?あれは、どうやって?」
 片手を挙げてニアが質問する。
「あれは、依頼を受けた後直ぐに依頼者から送られてきた道具で、ですね。エメラルドグリーンの丸い宝石みたいなもので、それを握りつぶすとあのような不思議空間ができるようです。あ、宝石みたいと言っても見た目だけで、感触はゴムみたいに弾力のある柔らかい感じですね」
「なんですか、その不思議アイテムは……」
 あまりに現実離れした話に、トウタとシーナの表情が一気に雲散臭いものを見るそれになる。
 ただ一人、ニアだけは黙り込み何事かを考えているようだった。
「私に言われても……。私はただ、送られてきた手紙に書いてあった通りに使用してみただけですから」
「手紙には、何と?」
「『ターゲットを発見した時、使用すること。これは、ターゲットを出来るだけ最小限の障害で我々の元へ連れて来ることのできるものです。使用の際は握り潰すこと』と、それだけ書かれていました」
「今も、持っていますか?」
 そう聞くニアの表情は、期待と好奇心に満ちていた。お馴染みの、自分の知らないことを知りたがっている顔だ。そしてそのサンプルやデータを手に入れて分析し、本当にそれがこの世に存在するものかを自分の手で作り出して納得する気だな。と、トウタは確信していた。
 底なしの探求心と研究意欲である。
「いえ、残念ながらありません。お嬢さんを連れ出す時にも一つ使ってしまいましたから」
 首を左右に振られ、ニアは心底残念そうに肩を落とした。
「そうですか……。非常に残念ですが、あなた方がどのようにしてMIKUNA製薬の、万全なセキュリティシステムを突破したのか。それが分かっただけでも良かったです。悩みが一つ消えましたよ」
「そうですか、それは良かった」
 まだ自分の加わったシステムが、あんなにも易々と突破されたことを根に持っていたようだ。良かったと言いつつニアの笑顔は、少々引きつっている。
「不思議なアイテムを持つ、行方不明のアンドロイドを探す謎の依頼主…か。やはり、気になるな。ジャックさんは、その依頼主とコンタクトを取ること本当にできませんか?」
 ニアの言葉に、ジャックは眉を寄せ困ったように唸る。
「うーん…。それが、職業がら来たメールに返信した後は、必ず削除する癖がついていましてね。だから、正確な相手のメールアドレスは一切残っていないです。電話も、相手から一方的にかかって来るだけ。もちろん、番号は非通知。履歴も残らないようにしています。万が一私が掴まるようなヘマをした時、履歴が残っていては御迷惑をおかけしてしまいますから。そもそも、知っていても教えられませんよ。私、一応探偵ですから。お客様の個人情報は一切お話できません」
「依頼内容は、俺たちに話しても良かったんですか?」
 どや顔で熱弁するジャックに、トウタが不思議に思ったことを口にする。
「人違いをしたのは私ですから、関係ない人を巻き込んでしまった以上、誤解を招く言い訳をするよりもいいです。それに、依頼内容をざっくり話しただけですから。大丈夫ですよ。多分」
(多分、ってなんだよ!多分って!)
 にこやかに話すジャックにつっこんでやろうかとも思ったが、トウタはグッと呑み込んだ。
「打つ手なし。か」
 難しい顔をしてニアが呻く。
「ところで、前いた三人目の人はどうしたんですか?姿が見えないみたいですけど」
「ああ、あの人。僕の助手一号なんですけどね。君に体当たりされた後、ちょっと胸のあたりが痛むと言い出しましてね。病院へ連れて行ったところ、あばら骨三本にひびが入っているのが見つかりました。それで、そのまま入院してしまいましたよ」
 軽快に笑いながら話すジャック。
「そ、そうだったんですか…。それは、申し訳ないことを……」
 慌てて謝るトウタに、ジャックは気にするなとばかりにその肩を軽く叩いた。
「いいんですよ。あなたが謝ることではありません。こんな仕事をしていると、怪我なんて大小様々よくあることです。それに、あの時は私もあなた方を驚かせ過ぎてしまいましたから。いやあ、ついつい久し振りの潜入で調子に乗り過ぎて、キャラを作り過ぎてしまいました。反省、反省」
 言われて見れば、最初に出会った頃と今とでは性格に雲泥の差があり過ぎる。どちらが素なのか分からないが、申し訳なさそうにしているジャックの顔はやはり雲散臭さがあるとトウタは思った。
 悪い人ではなさそうなのだが、いまいち信用しきれないのは彼が探偵という職業だからだろうか?
「でも、不意打ちとは言え体当たりされただけで骨にひびなんて、軟弱すぎますよね」
 ジャックの言葉に、トウタは笑って誤魔化すしかなかった。慌てて全体重をかけた以上、機械の身体の自分では普通の人の倍の負荷が相手にかかったことだろう。
「それと、そこで意識を取り戻さない半魚人顔の方は?」
「ああ、彼かい?彼は、今回の仕事のためにお手伝いとして雇ったアルバイト君ですよ。まあ、外見でお察しの通りスローバック症候群の発症者です。本当は外に出たくないそうですが、通院費を稼ぐために仕方なくうちの事務所のドアを叩いたそうですよ。自慢じゃないですが、うちのアルバイトは体を張る分かなり良い時給ですからね。今回のあまりに大雑把で一方的な依頼にたった一人の助手とどうしたものかと悩んでいたところへ、彼が尋ねてきましてね。外見は逆に潜入時、相手に威圧感を与えていいんじゃないかと思いまして、即採用して今に至ります」
 にこにこと笑うジャックは、その場の勢いで行動する人物のようだ。
 しかし、潜入捜査とは普通逆に目立たない方がいいのでは?と湧いた疑問をトウタは口にはしなかった。ジャックにはジャックなりの考えがあってのことなのだろうと納得する。
「私の人違いで怪我をさせてしまいましたから、もしかしたら辞めてしまうかもしれません。私には引き留める権利はありませんから、せめて最後のお給料は多めに入れてあげたいですね」
 ため息をつくジャックの顔は、すっかり経営者のものだった。
「アルバイトに拳銃を持たせるのかい?君のところは」
 呆れた様子のニアに、ジャックは慌てて否定するように手を振った。
「違いますよ。あれは確かに本物ですが、弾丸は全て抜いてあったんです。だから、引き金を誤って引いたとしても、空砲ですから何も出てきません。あくまで、体裁を整えるために渡しました。あらゆる場面で、空砲でも脅しには使えますからね」
「なるほどね」
 納得したようにニアは一つ頷いた。
「とは言え、銃刀法違反は違反なのでは?」
 きらりと眼鏡を光らせ、ニアが意地の悪い笑みを浮かべた。
「ですから、これはここだけのお話と言う事で…。私も、普段はそれほど軽々しく撃ったりしませんから。やむ負えない事態の時だけですよ。あと、今回はちょっと不思議空間に取り込まれて、調子に乗り過ぎました。すみません」
 えへっと笑うジャックの腫れた両頬を、もっと真っ赤にしてやりたい気分になるトウタ。
 調子に乗って、お腹に穴を開けられたのでは堪ったものではない。そのおかげで、自分は知らなくてもいい現実を知ることにもなったのだから。
と、そこまで考えてトウタは頭を振って否定した。
今回のことが起きずとも、いずれは知ったはずだ。決して彼のせいにして良い問題ではない。今の自分は、他へ責任を転嫁して楽になりたいだけだ。それは、自分のために良いことではない。
 そんなことを考えていると、台所の方からトマトソースの良い香りが漂いだす。
 その場にいた全員のお腹がぐぅと良い音をたてた。
 思わずそれぞれ顔を見合わせる。
 それはトウタとて例外ではなく、そんな空腹を訴える自分の身体に戸惑う。なんとも言えない表情でお腹を押さえて眉毛を下げるのだった。
「むむ、そろそろお昼が出来るようだ。話は一旦休止して、ご相伴に預かろうじゃあないか」
 ニアの意見に反対する者は誰もいなかった。

 ラボの玄関を出て数歩のこと。トウタとニアは並んで立っていた。
「ごちそうさま。なんか、今日は朝も昼も世話になっちゃったな」
 そう言ってトウタは苦笑を浮かべ、見送りに出て来てくれたニアを振り返った。
 遅い昼食のナポリタンを平らげ、食器を片づけたりなんだりしている内に時刻は午後五時を回っていた。流石に夏休みとは言え、二日も祖父を一人きりにするのは不味いとトウタは帰ることにした。トウタの祖父、サブロウは古いものが大好きで、その鑑定ともなると集中し過ぎてしまうことがある。そのまま放っておくと、何日も飲まず食わずの完徹を決行したりと危なっかしい性格の持ち主なのだ。
「そんなことはないさ。寧ろ、昨晩のことも今日のことも、僕がMIKUNA製薬の研究所へ侵入を試みたことに端を発している。こちらこそ、色々巻き込んですまない」
 珍しく自分の非を認めたニアへ、トウタは何だかむず痒い気分になった。
「よせよ。お前がそんなことを言い出すと、明日は槍が降って大変だろうが」
「人がせっかく下でに出ていると言うのに、言うに事欠いて天変地異の前触れみたいなことを…。僕だってたまにはすまないと思う気持ちを口にするさ。冷徹な心の持ち主ではないからね。もちろん、いつも胸の中では感謝しているよ、トウタ君」
 そう言って胸を張る様子は、とてもじゃないが感謝している態度ではない。しかし、それがニアらしくてトウタは苦笑を浮かべた。
「――あ、あの!」
 ニアの背後から声がかかる。トウタには、ラボの青い玄関扉から走り寄って来るマリの姿が見えていた。
「あの、トウタさん。少し、良いでしょうか?」
「おっと、それじゃあ僕は戻るとしようかな。ウメコ三号の改造修理をしなくっちゃあね。じゃあ、また明日。トウタ」
「ああ、また明日な」
 マリの様子から何かを察したのか、ニアは片手を上げるとそそくさと中へと戻っていった。
「何かな?伊利さん」
 何やらあわあわしているマリに、トウタは促すように声をかけた。
「あ、すみません。ニアさんとのお話を邪魔してしまって……」
「ああ、いいの、いいの。気にしないで。それで?俺に何か用かな?」
 心底申し訳なさそうなマリに、トウタは笑って手を左右に振った。
「あの、昼間は助けて頂き有り難うございました。トウタさんが気づいて庇ってくれなかったら、きっとあたしは今頃……。本当に、有り難うございます」
 そう言って頭を深々と下げるマリに、今度はトウタが慌てた。
「ちょっと、良いってそんな!たまたま気がついただけだから。それに、ほら、俺もたまたまニアの防弾腹巻のテスト装着をさせられて、大丈夫なのを知っていたわけだしさ。もし、防弾腹巻がなかったら、どうなっていたかわからないし」
 実際は本当に撃たれて、横っ腹に風穴が開いたわけだが。
「いいえ。それでも、トウタさんが命の恩人であることに変わりはありません。本当に有り難うございました。あの、何かあたしに出来ることはありませんか?」
「え?」
 食い下がらないマリの言葉に、トウタの目が点になる。
「あの、何か是非お礼をしたくて。でも、今のあたしには何もないので、何かトウタさんのために出来ることがあればさせて欲しいのですが……」
「え、ええ?!いや、本当にそんなことをして貰うようなことは、していないと……」
「いいえ!死んでいたかもしれない所を助けて頂いたのに、そんなことだなんてことはありません!!」
「ええ……と」
 否定しても全く引き下がらないマリに、トウタは困って頭を掻いた。
 じっと見上げて来る瞳は決心に満ちており、了承しない限り納得してくれそうもない。
 トウタは小さく息を吐くと、一つ頷いた。
「わかった。じゃあ、何かお手伝いして貰えそうなことがあったら、伊利さんに声をかけるよ。とりあえず、今のところは何もないからさ」
 そう言うと、マリの顔がパッと輝いた。
「はい!絶対ですからね?」
 念を押すマリに、苦笑しながら頷く。
 それで用が終わったかと思い、戻るのを待ってみたがマリは一向に動かない。その場でもじもじ、そわそわとしている。その顔がまだ何か言いたそうに見え、トウタは首を傾げた。
「どうかしたの?」
「あ、あの……。もしかして、なんですけど。何処かで、お会いしたことがあるような気がして。その、今回以前、ということなんですけれども」
「!」
 トウタは驚き、目を見開いた。
 マリに聞かれたその疑問は、マリに初めて会った時からトウタも感じていたことだったからだ。
「あ、あの!へ、変な質問をしてしまってごめんなさい!特に、感じたこととか覚えていることがなければ、きっとあたしの勘違いですから」
 唖然として黙り込んだトウタの態度を何と取ったのか、マリは慌てている。
「あ、いや。変とか、そんなことは思ってないから、大丈夫。ただ、ちょっとびっくりして。うーん、そうだなあ…。俺が感じたことといったら、凄く綺麗な子だなあと思ったぐらいで……」
「え?!」
「え?」
 マリの顔が。ぽんと赤く染まった。それが、自分の言った言葉のせいだとトウタが気づくまでしばし間があった。その間、数秒。
「そ、そそそ、そんなことは!あたしなんて、そんなことはないですっ!むしろ、シーナさんの方が凄くお綺麗で……!」
「まあ、確かにシーナさんはモデルみたいに綺麗な人だけど…。伊利さんはまた違う感じで綺麗だと俺は思うけど」
「わっ!あ、あの!それじゃあ、あたし戻りますので!あの、お手伝いの件、きちんと考えておいて下さいね!!」
 それだけ早口で告げると、マリは踵を返してラボの玄関へと走って行ってしまった。
 その顔はどこか嬉しそうで、もはや顔から湯気が出そうなほど真っ赤になっていたが。
「……本当のことを、言っただけなんだけどなあ」
 後に残されたトウタは、頭を掻きつつぽつりとこぼした。
 ただ、本当のことを言っただけなのに、何か困らせるようなことを言っただろうかと頭を捻った。しかし、何も思いつかず諦めて家路へと着いたのだった。
 同じ疑問を持ったことがあると、結局トウタは言えなかった。何故か、口から出て来なかったのだ。まるで、それを言葉にすることを拒むかのように。もしかしたらそれは。自分が隠しておきたい昔の記憶に、関係あるのかもしれない。そう思うと、言わない方が懸命なんじゃないかと思えたのだ。言って、マリの口から自分の過去が暴かれたらどうしよう。という、恐怖半分。それが原因でマリを危険な目に合わせたらどうしよう。という、不安半分。
 どちらにしろ、これでいいのだ。
トウタはまるで、先程の恐怖と不安から逃げるように足を早めた。

 ニアのラボから数十分。
陽が落ち、辺りの薄暗さが増していく。
足下も良く見えない民家よりも木々の緑が目立つ田舎の景色の中、夕飯の支度をする良い匂いと明かりがぽつぽつと灯っていた。
都市部が水に沈んでも、東京都の外れにあったここら辺には相変わらずそんな昔ながらの懐かしい景色が残っていた。都心部がシースキンガイによって残ったことも関係しているが、ここが最も外れにあり新しい中心部を築くには残った都心部と交通の便が上手く行かなかったことも原因だろう。海面が上昇した当初は、それでも人の移住はあったらしい。しかしそれも、年月が経つに連れて便のいい別の土地へと移って行った。ニアのラボも、そう行った人々の残して行った名残である。
「…ん?お客さんでも来ているのかな?」
 家の前まで辿り着いたトウタは、首を傾げた。骨董店&リサイクルショップ『夜名』と看板が掲げられた店舗部分。その前方に付けられた小さな窓の奥がほんのりと明るいのだ。この時間なら、とっくに店の奥にある自宅部分に引っ込んでいて店に明かりはないはずだった。
 黒い瓦屋根にクリーム色の壁。その家の前に、木目を生かした木の壁にトタン屋根が乗った簡素な店舗が増築されていた。掲げられた看板は樹木をそのままスライスした木材に、店名が彫られニスが塗られている。昼間ならばそれらの色もはっきりと見えるが、今は薄暗さのため全てぼやけて見えていた。
「ただいまー」
 今は閉じられている店舗の木戸を開き、トウタは中へと入る。カランカランとドアについている、チャイムのベル音が店舗内に響いた。迎えてくれたのは、棚や壁に所狭しと置かれた骨董品の数々。そこに申し訳程度のリサイクル商品、レトロな扇風機等の家電や日用品等が置かれていた。赤みを帯びた蛍光灯の光に照らされた店内に、祖父のサブロウの姿はおろか、客の姿も全くなかった。
「…あれ?」
 不思議に思いつつ、店内へと入る。
「じいちゃーん、帰ったよー」
 奥にいるのかと声を張り上げて見るが、返事はなかった。
「んん?疲れて居眠りでもしているのかな?」
 そう言いながら店舗奥の自宅へ続く出入口から、ちょっと首だけを突っ込んで中を覗く。中の明かりは点いておらず薄暗い。
「やっぱり、寝ているのかな?」
 ため息をつきつつ、中へ入ろうとしたその時だった。
「――動くな」
「!」
 低い男の濁声と共に、背中に硬い感触が当てられた。
「動くと、胸に風穴が開くぞ」
 思わずトウタが動きを止めた。すると、声の主ではない第三者に寄って両腕を取られ背中へと回される。抗議の声を上げる間も与えられず、腕は背後で紐の様なもので一つに縛り上げられてしまった。
「くそっ!一体何なんだよ?!泥棒か?家には、高価なものなんてなにもない!あるのは、がらくたばかりだぞ?!」
 抵抗しようと体を捻って見る。しかし、二人係で背後から押さえつけられその場に膝をつかされてしまった。
「がらくたも、必要な人から見れば立派な宝だよ。だから、人は骨董を集め、リサイクル品を買うのだろう?そして、だからこそ君たちのような商売が成り立っている。違うかい?」
 少し高い男性の声が、家の奥から聞こえてきた。
「!」
 ゆっくりと、左にある六畳ほどのリビングから人影が現れた。藍色の生地に銀の細い線が入ったスーツを着こなし、手には何故か木製の透かし彫りが入った扇子を持っていた。その後ろから、もう二人出て来る。一人は背が低く白髪の頭に顎髭を生やし、くたびれた白いTシャツに灰色のスラックス。もう一人は背が高く黒いスーツに黒いネクタイ、サングラスをかけた細身の男性だった。そのスーツの男に押されるように、後ろ手に縛られているらしい老人がふらふらと歩いてくる。
「じいちゃん!」
 老人の姿に思わず立ち上がりかけ前に乗り出したトウタは、再び背後からの手により無理矢コンクリートの床に押し付けられる。
「そう、興奮しなくても無事ですよ。今はね」
「どういうことだ?おまえら、一体何が目的なんだ?」
 トウタの噛みつきそうな視線に、男がにっこりと細い目を更に細めて笑う。そして、持っていた扇子でトウタを指した。
「君、ですよ」
「え?」
 男の言葉の意味が分からず、トウタ目を瞬かせた。
「まさか、流れ着いて拾われ、全く別の記憶を持って、全く別の人格として過ごしている何てね。見つからないはずです」
「!」
 びくりとトウタの身体が揺れた。
 この男は、自分がアンドロイドだと言う事を知っている。
 トウタは目の前の男を、信じられないもの見る目で見つめた。
 その反応に、男の笑みが深みを増す。
「その様子ですと、知っているみたいですね。彼は知らないと言っていましたが……」
 ちらりと背後の老人――サブロウを見る。
「……トウタ、お前……」
 男の言葉に驚いたのはサブロウも同じで、トウタへ戸惑いの視線を向けていた。
 『すまない』といっぱいに描かれた表情で自分を見るサブロウに、トウタは困り顔だ。
「……ごめん、じいちゃん。ニアに聞いたんだ。ひょんなことから、知ることになって」
「そうか。すまなかった。ずっと黙っていて」
 項垂れたサブロウに、トウタは首を横に振る。
「謝らないでよ。じいちゃんとマスミねぇちゃんの思い、ちゃんとニアから聞いているから」
 にっこりと笑うトウタに、サブロウがくしゃりと顔を歪めて泣き笑いの表情を浮かべた。
「ふふ、感動的場面ですね。お互いを思い合う心は、機械と人の境界を越える。ですかね」
 扇子を開き、男がにっこりと笑う。
 その笑みが、不意に冷たいモノへと変わった。
「しかし、そんなものは、反吐が出ますね。機械は所詮機械。例え人と同じように振る舞えても、冷たい金属の塊に血は通いませんよ。そう言えば、昔同じような人がいましたかね。まあ、もうこの世にはいませんけど」
 冷たい視線をトウタに向ける男。
 その瞳を見た瞬間、トウタはそれを知っているような気がした。
 自分は、前にもこの視線に出会っている。心底馬鹿にしたような、この視線に。しかし、それが一体何処だったかは全く思い出せない。
「ああ、申し訳ない。話がズレてしまいましたね。私たちの目的は、あなたです。私たちと来て頂きます。嫌だと言って頂いても構いませんが、その場合は後ろのご老人に痛い目に合って頂くことになります」
「なっ?!」
 思わず体が浮くが、また直ぐに押さえつけられた。
「ふむ。やはり、現在の身体の力も今の人格によるのでしょうかね?それとも、また別の何か要因が必要なのでしょうか?」
 そんなトウタの様子に、男が扇子を閉じて顎にあて何やら考え込んでいる。
「おっと、またしても思考がそれてしまいました。失礼。それで、どうしますか?おとなしく、従いますか?それとも、老人を痛めつけるのがお好みですか?」
 淡々と聞く男を、トウタは唇を噛み締めて見上げた。
 相手は銃を持っている。数も多い。ニアは普通の人よりは加減せず本気で馬鹿力を出せば、強いんじゃないかと言っていたが、その加減せず力を出すことが今のトウタには出来なかった。
 選択肢のない、選択。従うしかないことが、トウタには悔しく歯痒かった。
「……わかった。お前たちについて行く。だから、じいちゃんには手を出さないと約束しろ」
 トウタは顔を伏せたまま静かに了承の意を伝えた。
「良い返事です。約束致しましょう。ただ、騒がれては厄介ですので」
 糸目の男がそう言うと、サブロウの背後にいた男が頷く。取り出した白いハンカチのような布で、素早くサブロウの口と鼻を覆った。
「むぐっ?!」
「何を……!?」
 突然口と鼻を塞がれ、サブロウが呻く。
 目の前の事態にトウタが飛びつこうとするのを、再び押さえつけられた。
 サブロウは暫く苦しそうにもがいていたが、ぱたりと動かなくなりズルズルとその場に倒れた。
「心配せずとも、死んではいませんよ。少々気を失って頂いただけです」
 男の言葉に、トウタはとりあえずホッとする。しかし、男は睨みつけたままだ。
「ふふ、いいですね。その目。私は好きですよ」
「俺はお前なんか大嫌いだ」
 吐き捨てるように言うトウタに、男の目が益々細められ弧を描いた。
「結構、結構。さ、行きましょうか」
 男の声を合図に、押さえつけていた二人がトウタを立たせた。
 背中に自分よりも倍もある背と体格の人物に急き立てられながら、トウタは家を後にした。
 陽はすっかり落ち、全てが夜の闇の中に沈んでいた。

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