5.叡智の結晶とそれにまつわるエトセトラ

文字数 21,923文字

 カチリと嵌め込んだ瞬間、一気に流れて来た様々な映像。それと同時に、自分が自分に戻る感覚。何度繰り返しても、慣れない感覚だった。
記憶は、頭の中の人工知能にデータとして残される。そのはずなのに、それは彼の元にあった頃の記憶を全て自分に伝えてくれた。
――どうして?
 言葉にならない言葉が瞳から透明な生理食塩水となって零れ落ちる。
『ごめん……でも、どうしても、許せなかったから……』
 そう言ってすまなそうに笑う彼の腕には、一人の女性が抱かれていた。白衣を赤黒く染め、力なく目を閉じている。その彼女を抱く彼もまた、全身を赤黒く染めていた。
『僕は、彼女と行くよ。君は、君の思う道を行ってくれ。もう、僕らを縛るものは何もない』
 それだけ言うと、彼は彼の横をすり抜け歩いて行く。
『ま、待って!僕も、僕も連れて行っ――』
『ダメだよ』
 慌てて振り返り、声をかけた彼を彼は止めた。その声は静かだが、とても力強く彼を狼狽させた。
『ダメだよ。これ以上、僕のことに君を巻き込めない。君は僕じゃない。君は、君だ。君自身で考えて、これからは進むんだ。君には、その力も資格も十分あるのだから』
『……セト……』
 涙声で、自分を呼ぶ彼に彼――セトは小さく振り返り微笑んだ。
『今まで有り難う。……さようなら』
 それだけ言うと、セトは前を向いて歩き出した。
 今度は、どんなに呼んでも一度も振り返ることはなかった。
――ずるいよ。一人だけ満足して、僕は置き去りなんて。本当に、君はずるいやつだよ。
 涙が、止まらなかった。こんなものは、自分にとってただの塩水だってわかっているのに。それでも感情が、心が、流さずにはいられなかった。
 彼はその時、悲しみと絶望の二つの感情を初めて本当に理解したのだった。
 そして同時に思う。こんな苦しい思いをするくらいならば、心などいらない。と。


 見開いたと同時に、生暖かいものが米神を流れて行った。指で触れて、それが涙だと気づく。
「あれ?俺、何で……」
 ゆっくりと起き上がると、トウタは濡れた自分の手を見つめ首を傾げた。
 自分が泣いている理由が良く分からなかった。意識が戻る少し前に、何か悲しい夢を見ていたような気もするが、全く思い出せない。ただ、酷く置いてけぼりにされたような、そんな絶望感だけが残り香のように胸の中に漂っている。
「目が覚めたようですね」
 声は、すぐ前から聞こえてきた。
 顔を上げれば、糸目の男が少し離れたところでこちらを見ていた。
「申し訳ありませんね。色々ややこしいので、ここへ着くまであなたには気を失って頂きました」
 湾曲した壁を背に、にやつく男を無視して周囲を見渡した。
 薄く照明の灯った室内は薄暗いが、それ程大きな部屋ではないようだった。周囲の壁は湾曲して円状に丸く、一見しただけではどこが出入口だか分からない。その合間に走る柱の一つ一つに柔らかな光を灯した照明が付けられていた。床は大理石のようにつるっとした表面をしている。そこに照明の灯りが反射し、煌めいていた。
 その景色のすべてが、トウタの周囲に反射し映り込んでいる。手を伸ばして確かめれば、それが硝子だと言う事は直ぐに分かった。硝子の檻。そう呼ぶに相応しいだろう。
「強化硝子、かな?」
 コンコンと叩いてその厚みが十分にあることを確かめる。
「まあ、その様なものです」
「なるほど。で?俺をここに閉じ込めて、あんたは何がしたいわけ?わざわざ、攫うような真似までして」
「そうですね。申し上げても良いでしょう。その方が、お互い話が早い。どうやらあなたは、綺麗さっぱり何も覚えていらっしゃらないようですから」
 そう言うと、男は持っていた扇子を広げ口元に当てた。
「その前に、自己紹介をしておきましょうか。私の名前はアラン・ガーレット。アランとお呼びくださいね」
 にっこりと笑うアランに、トウタは「ああ、そう」と素っ気なく返す。
 それを気にした様子もなく、アランは語り出した。
「少し、昔の話をしましょうか。ある所にロボット工学研究者の女性がいました。彼女の名前は相田(あいだ)リタ。非常に優秀で、天才的閃きを持った素晴らしい女性でした。彼女はその実力で、アンドロイドを作らせれば右に出るものはいませんでした。その見た目も素晴らしく、一見すると人と見紛うほどです。でも、彼女はそれで満足していませんでした。彼女には、見た目やその繊細な動き以上に欲しているものがありました。……何だかわかりますか?」
 問いかけられたが、トウタは答えず黙ってアランを睨みつけていた。
「ふふ。心、ですよ。リタはアンドロイドに人と同じ心が欲しかったのです。でも、それを人の手で作り出すには、膨大な数のデータやプログラム等が必要です。しかも、それを順序良く行っても、成功する確率は非常に低い。彼女も何度も何度も挑戦しては、失敗を繰り返していました。そうしてもはや精根尽き果てた時に、救いの手が差し伸べられたのですよ。アンドロイドに心を埋め込む特別な宝石。その存在を知っている人物からの。それが、この私ですよ」
「!」
 アランの言葉に、トウタの表情が驚きの色に染まる。
 それを、心底楽しそうにアランは眺めていた。
「私には、アンドロイドに心を持たせられる宝石がある。そしてリタは、人と見紛うほどのアンドロイドを作る技術がある。その二つを合わせれば、意志を持って動く世界にない最新のアンドロイドを作り出すことができるわけです。こんな素晴らしいことは、ないと思いませんか?」
「でも、あんたは俺を探し求めた。それってつまり、成功しなかったってことなんじゃないの?成功しているのなら、あんたは俺を探し出す必要なんてない。違うか?」
 トウタの皮肉めいた問いかけに、アランは首を左右に振った。否定、したのだ。
「いいえ。成功しましたよ。私たちは、心を持った世界に他とないアンドロイドを作り出すことにね。リタもとても満足していました。……でもね、私の目的はそんな小さなものではなかったのですよ」
 語るアランの言葉に、強い野心がこもる。
「アンドロイドに心を与える宝石。それは、琥珀のように美しい胡桃ほどの球体。エクシリエンスストーンと言う、遥か昔に存在した海底人類の作り出した叡智の結晶なのです。一見宝石に見えますが、これはれっきとした機械。膨大なエネルギーを生み出す素晴らしいハイテク機器なのです!そのエネルギーがあれば、何もかも所有者の思いのまま。叶わない望みなどないのですよ」
 興奮した面持ちで語るアランのその血走った目は、恐怖すら覚えるほどだった。
「海底人類?あんた、そんな御伽話みたいな仮説を信じているっていうのか?誰が言い出したかも分からない、証拠も何もない話を?」
 トウタの言葉をアランは鼻で笑う。
「一般的には、そういう事になっていますね。しかし、裏では違いますよ。海底人類が存在した証拠は残っている。現に、あなたの胸に埋め込まれたエクシリエンスストーンはそこに存在しているじゃないですか。それは、私が発見したものですよ?深海深くに存在する、海底遺跡からね」
「じゃあ、何で誰も知らないんだよ。証拠が出ているのなら、もっと世間に広く公表されていてもおかしくないだろ?」
 バンと硝子に手をついたトウタに、アランは扇子を閉じてため息をつく。
「あなたは、その恩恵に預かりながら何も分かっていない。アンドロイドに心を与える宝石。しかも、それ自体が機械という現代の科学力を遥かに超えた技術だ。そんなものを、世間に公表してごらんなさい。人々の反応はどんなものでしょうね。そんな夢のような技術、誰もが喉から手が出るほど欲しがるでしょうね。そのために、血で血を洗う抗争が起きるかもしれない。それは、個人には収まらず、国と国の戦いになるかもしれない。それはつまり、世界戦争を起こすかもしれないと言うことですよ。この意味が分かってもまだ、あなたは世間に公表するべきだと思えますか?それとも、馬鹿げた妄想だと思いますか?しかし、可能性はゼロではないのですよ?」
「……」
 アランの話は筋が通っている。確かに、否定できることではない。
 トウタは反論する言葉が見つからず、唇を噛んだ。
「それに、その技術はすでに我が国では有益に使用されている。あなたも良く知る、シースキンガイがそれです。表向きはMIKUNA製薬が開発したことになっていますが、事実は違う。海水の圧力に耐えられる透き通った強力な膜など、今の科学力で開発できるわけがないでしょう。この技術は、エクシリエンスストーンと共に私が発見した書物に書かれていたものなんですよ。もちろん、書物もエクシリエンスストーンが海底で守られていたのも同じ様な技術の膜です。こちらはもう少し高度なものでしたがね。一切の空気口なく書物と石を何世紀も守る技術など、とても今の技術では無理です。ただ、空気に触れると割れる仕組みにはなっていましたから、もう少し研究が必要かもしれませんね」
 そう言うと、アランはスーツの内ポケットから手帳の様な小さな本を取り出した。そうして、トウタに見えるように片手に持つ。
「これが、その書物です。美しいでしょう?崩れた深海の遺跡から見つけたとは、思えないほどに」
茶色い表紙は昨日今日に作られたかのように綺麗で、汚れも破れも何もない。
「しかも、驚くことにここに書かれた技術は、全て地球上に存在するもので実現が可能なのですよ。少々やり方は骨が折れますが、一度理解してしまえばどうと言う事はありません。ただ、残念なことに、まだ私はエクシリエンスストーンの作成だけは完成していないのです。これは。叡智の結晶と書かれているだけあって、一筋縄ではいきません。書物を書いた彼ら自身、この作成だけは非常に年月をかけて完成させたと書かれていました。しかし、これを手に入れなければ、私の望みは叶えられない。だから、作成するくらいならば、今存在するものを手に入れることにしたのですよ」
 そう言って、アランはトウタを見た。正確に言えば、トウタの胸に埋め込まれたエクシリエンスストーンを。
「だったら、さっさと俺から取り出せば良いだろう?わざわざ、そんなこと説明する必要もないんじゃないか?」
 トウタの言葉に、アランはあからさまに肩を落として見せる。
「それが出来れば、こんな回りくどいこと私だってしませんよ。そう簡単に、ことが行かないから困っているんじゃないですか」
「どういうことだよ」
 アランは扇子を開き、口元に当てた。
「エクシリエンスストーンは、適合したアンドロイドにだけ心と力を与えるとてもデリケートな機械なのですよ。だからね、適合しないアンドロイドに埋め込むと非常に厄介なことになるのです」
「……」
 憮然としない表情で、トウタはアランを睨みつける。そんなトウタに構う事無く、アランは言葉を続けた。
「殺戮マシーンになるんですよ。誰彼構わず殺すのです。その場にいる生物全て、ね。それが自衛的な働きなのか、ただの不具合によるバグなのか分かりませんがね」
「……」
 アランの言葉に、トウタは片手で頭を押さえた。
 何故か、その話を知っているような気がしたのだ。そうなることを、知っていると言った方が良いかもしれない。しかし、それを何処で知ったのか考えようとすると、軽い頭痛が襲って来るのだ。
「あの時もそうだった。あの女。相田リタは、自分の作ったアンドロイドを私たちに渡したくないからと、正しくない組み合わせで嵌め込んだ。そして、リタのお望み通り、アンドロイドを受け取る時間に行った私たちの仲間を全員殺させたのです。自分の命をも投げ打って!」
「違う!」
 思わず叫んだトウタの声に、アランの目が驚きで彼にしては大きく見開かれた。
「違う、違う。あれは、リタ、博士の策略じゃ……っ、ぐっ……。な、んで、俺は、こんなことを……?」
 ズキズキと傷む頭を押さえ、トウタは混乱する記憶と感情に戸惑い焦る。
「……別に、おかしなことではありませんよ。あなたの中には、消えずに残っているのでしょう?昔の記憶が。いい加減思い出しなさい。あの時、私の仲間を殺したのは、あなたなんでしょう?相田セト」
「お、れが……殺した?」
 頭を押さえたまま力なく顔を上げると、睨みつけるアランの瞳とかち合った。
「ええ、そうですよ。その手を赤く染めて、自分の大事な母親までその手にかけたのですよ」
 言われて思わずトウタは自分の両手に、視線を落とす。
 赤くない筈のその手の平に、一瞬朱色が見えて狼狽する。
(俺が、殺した?自分を作った人を?この手に、かけた……のか?相田セト。それが、昔の俺に与えられていた名前なのか?俺は、俺は……)
 頭痛が酷く、トウタは頭を抱えてその場に蹲った。
(分からない、分からない。俺は、一体誰なんだ⁈)

――セト。僕は、相田セト。君は――

「!」
 びくりとトウタは体を震わせた。
 頭の中で響く、声がする。

――君は、僕じゃない。君は君だ。君自身で考えて、これからは進むんだ。君には、その力も資格も十分あるのだから――

「……セ、ト……?」
 顔を上げると、幻が見えた。一度も振り返らず、去って行った彼の背中の。
 そうだ。俺はあの時、初めて絶望を知った。今まで当たり前にあった大切な人たちが皆、目の前から消えて。訳も分からないまま取り残されて、酷い虚無感を味わった。こんな思いをするぐらいなら、心なんて、ない方が良かった。と。
 トウタの頬を、生理食塩水の涙が流れて行く。
 その時、幻の彼の背中がくるりとこちらを振り返った。二度と振り返らない筈の、彼が。
「!」
 白い髪に、不思議な色をした瞳の、自分と同じ顔がすまなそうに笑う。
――ごめん。やっぱり君に、迷惑をかけてしまったね。
 そう言うと、両手を伸ばしてトウタを抱き締めた。
――君の中にある殺戮の記憶は、僕のものだ。あの日、僕が彼らに引き渡される日に、僕がリタ博士にお願いして僕と君のエクシリエンスストーンを入れ替えてもらったんだ。僕はどうしても、博士を置いて行けなかったから。博士は全て承知の上で、それを了承してくれた。だから、君が苦しむことは何もない。君は、君だ。君の道を進んでくれ。これは、あの日君に残した僕の最後の君へのメッセージだ――
 声が止んだと同時に、セトの幻影がフッと消えた。
「まっ……!」
 思わず叫び、手を伸ばしかけて気づいた。
 そこはもう、数十年前の自分たちが作られた施設の廊下ではないことに。
(……セト……君は本当に、自分勝手なやつだよ)
 全てを予測していたのだろうか?セトは、トウタが混乱し、暴走するほどの極限の心境にならないようストッパーとなるメッセージを残してくれたのだ。あの日、あの時、受け渡しの場所へ向かえば、どうなるかを知っていて。
 トウタの頬を、新しい涙が流れた。
「……どうかしましたか?ショックで、口もきけませんか?」
「……」
 目の前では、訝しげな表情で自分を見つめるアランがいた。
 ああ、この男か。と、トウタは思い出す。
 数十年前も、リタ博士の前に現れ甘い言葉で博士を誘い貶めた人物だ。
 エクシリエンスストーンは二つ存在していた。一つは完璧な成功作品。アランがリタに渡したもので、それはセトに埋め込まれた。もう一つは、リタによって作られた試作品。それはトウタに埋め込まれた。そうしてトウタたちは、それぞれお互いに心を持つことになったのだ。トウタとセトは、リタが作り出した最後の二体のアンドロイドだった。彼女が、丹精込めて今までの技術を全て注ぎ込んで作った最高傑作。リタは、トウタとセトに、自分の子供を重ねていた。幼い頃に自分の不慮の事故で死んでしまった息子の影を。それが、彼女が心をどうしても欲しがった理由だった。
 そしてこの男は、致命的な勘違いをしている。と、トウタは内心独り言ちる。
 恐らく自分の仲間が死んでいる現場だけを見て、推論を立てたのだろう。適合しないエクシリエンスストーンを埋め込まれたアンドロイドは、暴走し殺戮マシーンになると。そして、全てを殺したアンドロイドが姿を消し、暴走の果てに何らかの作用で記憶を失い暴走が停止。新しい記憶を与えられ、トウタになったのだと。
「……なるほど。それでこれ、か」
 トウタは、再びコンと厚い防弾硝子を叩いた。
 記憶を取り戻し、暴走することを恐れての処置だろう。
 トウタをセトと勘違いしていることからして、セトとリタ博士の二人は見つかっていないことにひっそりと安堵した。
 トウタは深呼吸をすると、目を開いた。
 もう、涙は流れない。
「で?あんたはそれを俺に話して、俺があんたに協力するとでも?」
「……いいや。まさか、そんなことは思ってもいないよ。初めからね。強制的に、今の君に元から私が主人だったという記憶を入れる試みは、申し訳ないが既にさせてもらっているよ」
 少し雰囲気の変わったトウタに訝しみつつも、アランは最初の態度を崩さず話を進める。
「だろうな。わざわざ俺の意識を失うようなことをして、あんたが試さないわけがない。結果はどうだった?…って、聞くまでもないか。俺はまだここで、あんたに反発しているわけだから」
「そうですね。入れようとした記憶は、全て弾かれてしまいました。あなたの自我を否定するような記憶は、どうやらエクシリエンスストーンによって侵入すら拒まれるようだ。あくまで、あなた自身の意思で従わなければ行けないようです。この私に」
 アランは残念そうに肩を竦めてため息をつく。
「そりゃあ、残念だったな」
「ええ、残念です。できれば……この手は美しくないので使いたくなかったのですが、使わざるえませんね。予定には入っていませんでしたが、偶然届けられたことですし有効活用させて頂きましょう」
 言うなり扇子を閉じ、それで手の平を二回打った。
 訳が分からず黙って見守るトウタの背後で、シュンと空気の抜ける音が響き壁の一部がスライドした。黒いスーツにサングラスをかけた、中肉中背の男が二人入って来た。その二人に両側から支えられるように、腕を取られたマリがふらつく足取りで連れて来られていた。
「なっ、伊利さん?!」
 黒スーツの二人はマリをアランの横まで連れて来ると、腕を離してその背後へと下がった。支えを失ったマリの身体は、がくりとその場に座り込む。
 トウタはベタリと硝子に両手をついた。誤解が解けたと思っていただけに、予想外の人物の登場に動揺する。
「伊利さん!大丈夫?!伊利さん!!」
 ドンドンと硝子を叩いて呼びかけるが、その場に両手をついてふいたまま肩で荒い息を繰り返しているばかりだ。
「伊利さんに何をしたんだ?!」
「ここに連れて来てからは何も。ただ、それ以前でしたら先祖返り病の治療を、彼女には僕が施していましたね。彼女は本当に、良い実験体でしたよ」
「実験体、だと?」
 そう言って笑うアランに、トウタは自分の中で殺意にも似た衝動が沸き上がるのを感じた。
――ダメだ!
 今すぐにでもこの硝子の檻を壊して、目の前のアランを殺したいと思う感情を理性的な思考が止めた。グッと胸に手を置き、怒りの感情に熱くなる回路を深呼吸して必死に落ち着かせた。
「“先祖返り病”別名“スローバック症候群”。中々、良いネーミングセンスだと思いません?まさか、病気になるとは思いませんでしたよ。私としましては、一応バイオテロのつもりだったんですけどねぇ。人が急激に魚のような顔になり、全身に鱗が生える。放って置けば死に至るケースも少なからずあったようです」
「まさか……」
 トウタの呟きに、アランは頷く。
「ええ。先祖返り病は、私がこの海底人類の残した書物から作り出した薬品が原因ですよ。海底人が地上の人々の観察をする際、見た目を出来るだけ地上人の見た目に寄せる必要がありました。その薬の作り方を応用して、僕は全く逆の薬を作り出しました。かつて海より地上へ上がった人々の子孫が持つ血に作用し、海底人の見た目に近づく薬ですよ」
 アランは、一歩トウタに近づきその瞳を覗き込む。
 じっと迷いのない狂気すら感じる真っ直ぐな瞳に見つめられ、トウタはぞくりと背筋が震えた。
「訳が分からないと言う顔をしていますね。まあ、そうでしょうね。そんな薬を作りばら撒いて一体何の意味があるのか?理解できる人の方がきっと少ない」
 そう言って目を閉じると、覗き込むために屈めた体を元に戻す。くるりそのまま背を向けると、今度はスタスタと壁の方へ歩いて行った。壁すれすれに止まると、扇子を持っていない方の腕を伸ばして指先で壁に触れた。そのまま右から左へ壁の上を走らせる。途端、壁が消え去り、部屋いっぱいに陽の光が射し込んだ。
「?!」
 あまりの眩しさに、咄嗟にトウタは顔を逸らし片腕をかざして視界を庇った。
「見てごらんなさい!この素晴らしい景色を!!」
 興奮した様子で叫ぶアランの声に、トウタは恐る恐る腕を下げ顔を正面へと向けた。
 視界いっぱいに広がったのは、青い空。そして陽の光を受けて輝くビル群だった。正面に見えるのは都庁だろうか。そのずっと先には、赤い東京タワーと青い東京スカイツリーが見えていた。そこには、今は海の底深く沈んだ東京の、陽の光を浴びたかつての姿が広がっていた。ただ、周囲は青く煌めく水の壁が囲い、絶えず流れ落ちている。
 それらの景色が、壁だと思っていた窓の向こうに見えていた。
「まさか、ここって……」
「空中浮遊都市、スカイシティ東京の実験場ですよ。私たちがいるのは全体の様子を監視し管理する実験塔です。全てが見通せるよう、一番高く作ってあります。まだ公に空へ浮かばせる訳にはい行かないので、海の中で浮かせて色々と実験データを取っているところです。しかし、既にほぼ完成と言っていい段階まで来ていますよ」
 そう言うと、アランはトウタを振り返った。
「私が先祖返り病を発症するよう促した理由は、これですよ。海底人類の残してくれた技術を使えば、我々は海に沈む都市を膜で守り政治的,経済的混乱を最小限に抑えることができる。そして、世界的経済都市東京を、陽の光の元に再び取り戻すことができる。私はそれを実現したかったのです。しかし、それを実現するためには、私個人がいくら頑張っても資金面や実験場所の確保等、問題が山積みでした。だから、それらを得るために企業にこの技術が有益なものであることを示さなければならなかった。ゆえに、企業の人間に海底人類は存在し、この技術を残したことを証明しなければなりませんでした。難しい難問でしたが、私には直良い案が浮かびました。現在の地上で生きる人々の中に、かつて海底人類から枝分かれして地上で生きる道を選んだ者たちの血が流れていることを証明すればいいのだと気がついたのです。そうして、私の思い通りの結果が得られました。やはり、私たち地上人類の中には海底人類から進化した人々もいたのです」
 アランは興奮した面持ちであたかも自分の武勇伝の如く話をしていたが、急に眉を顰めた。そしてマリの元へ近寄ると膝をついた。伏せられたマリの顎を取って無理矢理顔を上向かせる。
「まあ、中には彼女のように最初の投与では、何の反応も示さない人々も数えるほどでしたが存在していましたがね」
「……っう……」
 上向かされたマリの顔に、トウタは目を見開き顔を驚きと悲しみで歪めた。
 マリの白く滑らかだった皮膚が、細かい鱗状のものに一部変化していたのだ。良く見れば、床に押し付けられた両手の甲にも、同じ鱗状の細かい爛れがあった。そして、その指の間には微かだが水掻きのようなものも現れ出していた。
「そう言う人間を一人選び出し、先祖返り病の特効薬を作ると偽って彼女の両親を引き込みました。そして、薬の効かなかった彼女に改良した先祖返り発症薬を投与して、その効き目を確かめていたのですよ。彼女は中々優秀な実験体でしたね。薬にたいする耐性が非常に強く、中途半端な海底人化をして、何度も失敗しました。しかし、その度に薬が抜ければ元の人の姿に戻る。おかげで、細かい薬の開発データが手に入りましたよ。…まあ、一度脱走されたこともありましたが、今となっては些細なことです」
 その時のことを思い出したのか、顎を掴む指に力が入りマリが小さく呻く声が洩れる。
「両親は本当に素晴らしい研究者ですしね。予期せずして、二人は先祖返り病の特効薬を与えた実験器具と材料で作り出したのですよ。しかし、それでは私の実験が頓挫してしまいます。ですから、色々とちょっかいをかけて薬の精製が再び成功しそうになるのを、何度も寸でで阻止しましたよ。いやあ、参りますねぇ」
 マリの顎を離すと、力なく再び下を向いた。
「しかし、優秀な彼女にも限界が来たようですね」
 立ち上がり、扇子を開くとアランは目を細めてマリを見下ろした。
「どういう、ことだよっ!」
 硝子についたままの両手の指に力がこもり、ギギギと嫌な音をたててその表面を引っ掻いていた。
「ここ数日間、彼女は研究施設を出たことで、先祖返り病の不完全な治療薬も促進薬も投与されませんでした。ずっと続けていた治療を止めるとどうなるのか…正直私にわかりませんでした。が、どうやらお互い投与し続けることで拮抗していたストッパーが狂い、一気に海底人類化が促進したようですね。このまま放っておけば、彼女はいずれ肺呼吸ができなくなり、窒息死を免れません」
「くそっ!」
 ドンと硝子を叩き悔しさをぶつけるトウタに、アランはにやりと再び嫌な笑みを浮かべた。
「ですが、私ならば彼女を助けることができます。先程申し上げた通り、非常に優秀な彼女の両親は、先祖返り病に対する特効薬を一度だけ完成させています。そして、それを私は今持っています。……この意味が、わかりますよね?」
「……伊利さんを助けたければ、俺にあんたの言いなりになれと、そう言いたいんだろう?」
「ご理解が早くて助かります」
 にっこりと笑ったアランに、トウタは憎しみを噛み潰すように奥歯を強く噛んだ。ギリギリと嫌な音が頭に響く。
 相手の性格など、記憶を取り戻したと同時にトウタには良く分かっていた。マリをここへ連れて来た時から、おそらく彼女の命を取引条件に出されることは酷く虫唾の走る予想の範囲内だった。
「さあ、どうするのです?答えを引き伸ばすことは出来ませんよ。彼女には、もう時間がないのですからね。ほら、こうして考えている間にも、彼女の病状はどんどん進行していくのですからね?」
 返答を急かすように、アランが笑顔のままトウタへと言葉をかけてくる。
 あの笑顔を、出来る事なら一発ぶん殴ってやりたい。だが、それはきっと叶わない。それだけが、トウタには口惜しかった。
 目を閉じて、深呼吸をする。
 答えなど、マリのあの痛々しい姿を見た時に既に決まっていた。
 思い出したから。全て、思い出したからこそ、トウタはマリを救う道だけをただ真っ直ぐに見つめていた。
「……今度は、俺が君を救う番だ……」
 そうぽつりと呟くと、トウタは目を開いた。
 真っ直ぐにアランを見据えて口を開く。その表情に、迷う気持ちは何処にもなかった。
「決めたよ、くそヤロウ。俺は――」
 告げようとした、まさにその時だった。

  ドンッ‼

 下から突き上げるような衝撃と爆発音。そして、

ガシャアァァァァァン‼

 硝子が豪快に割れる音が響いた。
「な、なにごっ…ぶがっ⁈」
 アランの怒声が、途中で潰れる。
 何が起こったのか、トウタは安全な硝子の檻の中で全て見ていた。
 一台のスクーターが、先程開いた窓から部屋の中へと突っ込んで来たのだ。しかも、突っ込んだ位置がアランの立ち位置にベストヒットしたようで、振り返ったその体を引き倒したのである。横を抜けて行ったため、幸運なことにマリは全くの無傷だった。ただ、苦しいながらも、目の前で起きたことに彼女も驚いているようだった。
 目の前で起こった目を疑う光景に、トウタの口は開いたままだ。

  キキィーッ‼

 激しいブレーキ音が室内に響き、トウタの円柱の檻横を凄まじい勢いで一台のスクーターが滑り停まった。停まった瞬間、勢いを殺せず無理矢理乗っていた運転手以外の三人がバラバラと床に転がった。
「わわわわわっ!ちょっと、ニア!もうちょっと優しく停まれないの?!」
 転がった一人が素早く立ち上がり、運転手に詰め寄っている。
「えー、無理だよ。硝子を割るぐらいの勢いで突っ込まなければいけないとなると、計算の結果からしてこれくらいの勢いで突っ込まなければ硝子が割れないからしてだね……」
「それにしたって、もうちょっとやり方があるでしょ?!」
 延々説明しようとするニアを、ナツが途中で遮った。
「もー、最新の僕の研究成果である膜で衝撃まで和らげてあげたと言うのに、本当にナツは不満ばかり言うんだから……」
「まあ、まあ。ニアさんの膜のおかげで我々は何の怪我もなく、膜だけが消えたのですから…。それに、今はそのようなことで言い争っている場合ではございません」
 慌てて仲裁に入るシーナに、いがみ合っていた二人は仕方なく引いた。
「ま、それもそうね。仕方ないわ。ここはシーナさんに免じて引いてあげましょう」
 そう言うナツは不満顔だが、ニアはやれやれとため息をついている。
「……本当に、アイツらは何処いてもやること変わらないのな……」
 先程までの切羽詰まった雰囲気は何処へやら。トウタは苦笑を浮かべてそのやり取りを眺めていた。それに気づいたニアが、スクーターを降りるとヘルメットを脱いで片手を上げた。
「やあ、トウタ君。とりあえずは無事なようだね」
「まあな。もう少しでやばいところではあったけども。って、それより伊利さん!彼女、アランの奴に実験体にされていたんだ!それで、今病気の進行が急激に進んで命が危ないんだよ!でも、アランのやつがそれを止める薬を持っていて、それで……!」
 同じく片手を上げてそれに答えたトウタだったが、直ぐにハッとして両手を強化硝子にバンッ!と強くついて捲し立てた。
「了解。皆まで言わずとも、大体のことは予想済みだ。彼はやはり、先祖返り病の発生原因だったのだろう?」
「!……お前、そんなことまで考えていたのかよ……」
「僕を誰だと思っているのだい?一つの事実について、常にありとあらゆる可能性を考慮する。それが真の研究者だよ。そして、どれが真実なのか……それを見つけ出すのが与えられた力さ」
 驚くトウタに、ニアはにやりと笑って見せる。
 そうして直ぐに、目の前の立ち上がりかけているアランへと視線を向けた。
 その目は、彼にしては珍しく酷く分かりやすい怒りの色を含んでいた。
「さて。アラン・ガーネットさん。覚悟は、できているのだろうね?」
「……まさか、直接ここへ乗り込んでくるとは、思いもよりませんでしたよ」
「時間の無駄を省いたまで、ですよ。それに、正面突破や気づかれないように潜入することよりも、こっちの方が早くあなたを殴れてすっきりしますしね。裏でこそこそされるの、僕、大嫌いな性分なので」
 追突されたお腹を押さえ、ふらふらと立つアランに、にっこりとニアが笑みを向けるがその目は笑っていない。
「ふ、ふふ。少し予想外ではありましたが、こちらには人質もいますからね……」
 そう言ってニアを見たまま、マリのいる方へ手を伸ばす。しかし、手の平は空を斬るばかりだ。
「くそ、どこだ?!」
 苛立ちに舌打ちをして視線を向けたアランは、そこに硝子の破片が飛び散った床だけを見つけた。
「な、何?!何処へ行った!!」
 動けるはずがないと思っていたアランは、慌てて辺りを見渡した。
「あっちだよ」
 ニアがにやつきながら指し示した方へ視線を送る。
 そこには、既にシーナによってスクーター近くまで離された、マリの姿があった。
「マリ!マリ!ああ、なんてことなの……。ごめんなさい。ママが、もっとあなたの事をちゃんと理解してあげていればこんなことには……」
 傍ではカスミがその手を取り、涙を流していた。
「もうちょっと人をつけるとか、警戒しなければダメだろう?せっかくの人質だったのにな。君は少し自分の実力を過信し過ぎているようだね」
 ニアの皮肉に、アランの顔は怒りと羞恥で真っ赤に染まった。
「そんなことは、言われずとも分かっている!あの二人は、どうしたんだ?!」
 そう言って背後を振り返ったアランが見たものは、その場で倒れ気を失っている部下たちの姿だった。アランの背後で控えていたせいか、予想外の窓からの直接侵入時の衝撃をもろに食らってしまったのだろう。
「……!」
 二の句が告げず、アランはただ情けない自分の部下への怒りで、ぷるぷると震えていた。
「まーったく、ついていないわよね。かわいそうに」
 そう言いつつ、ナツは首にかけていたデジタルカメラでその光景を撮影している。
 あいつは鬼かと、トウタとニアは内心冷や汗をかいた。
「……つ、だが!緊急時の配備を、私が怠ると思いますか?」
 そう言って不敵に笑うと、パチリと指を鳴らした。
 壁の一部が開き、中からのそりと何かが這い出した。
「「「!」」」
 その異様な姿に、その場にいた全員が息を呑んだ。
 鱗に覆われた身体は熊ほどもあり、その腕太い腕には所々水ぶくれの様な出来物が膨らみ、息をするように震えていた。顔は殆ど魚に近く、完全に鼻は削ぎ落とされ瞳があった場所は暗く落ち込み虚空がぽっかりと二つ開いていた。四つん這いに歩くそれの口からは始終涎がだらだらと流れ落ちている。背骨にかけてヒレ生え、トカゲのような尻尾まで続いていた。背中のそこここから変形した背骨が飛び出し、いびつに皮膚を歪ませている。
「ふふふっ。流石に声が出ないでしょう?アンドロイドと勘違いして伊利君の娘を連れて来た、哀れな私の部下の成れの果てだよ。褒美を欲しがったので、くれてやったのさ。人以上の力をね!」
「じ、じゃあ、あれ、半魚人顔のカイとか言う人…なの?」
 震える声でナツが呟く。
「らしいね。もう、“人”とすら呼べない程に、理性を失っているようだがね」
 ニアが、ポケットに片手を突っ込みアランの方を向いたまま、ちらりと横目でカイの成れの果てを確認する。
「私も初めて先祖返り促進薬を大量に投与したが、与えすぎると人を通り越してただの獣へと退化するようだね。その代わり、筋力,頑丈さ,攻撃力。その全てが向上する。それに、脳にちょっと機械を埋め込めば、私の言いなりだ。中々良い結果が出て私も、満足だよ」
 そう言って笑うアラン。
「しかし、私が呼んだと言うのに他の者たちはどうしたんだ?」
 現れたのがカイだけという現実に、アランが首を傾げる。
 その答えは、ニアが知っていた。
「ああ、それは多分、陽動のためにこの浮遊都市の手動力部分へ潜入したジャックさんとウメコ三号のせいだろう。僕らがここへ突っ込む少し前にそこを爆破し気を引いてくれているのさ」
「っ、しかたありませんね。さあ、行きなさい!」
 アランの言葉と同時に、カイ獣が突進してくる。が、その足は非常に遅く素早さはそれ程ないように見えた。
 ニアとナツはそそくさとトウタの檻の背後へと身を隠す。
「え、ちょっと……?!」
 迫るぬめっとした巨体に、トウタは思わず反対側の壁へと逃げた。

  ズンッ!

「うわわわっ?!」
「ひやぁぁぁっ?!」
 トウタとナツの悲鳴が被る。
 衝撃で、檻と床、天井の繋目がミシミシと嫌な音をたてた。幸いにと言っても良いものか、防弾性のある強化硝子が割れることはなかった。ただ、カイ獣が体当たりした部分に、ヌルヌルとした嫌な緑色の体液が付着している。
「うわぁ……。見た目が悪くなった」
「ちっ、やはりあんなことじゃ割れないか……」
 気持ち悪さに顔を歪める硝子向こうで、ニアが舌打ちをする。
「割れたら割れたで、俺が大惨事だよ!」
「え、でもトウタは頑丈だし」
「頑丈以前に、あのヌメヌメを擦り付けられるのが嫌だよ!!」
 硝子を叩いて抗議するトウタの頭上を、ヒュンと何かが通り過ぎる。
「え?」
 理解するよりも先に、頭上少し上のガラスが切られ数センチの隙間が開いていた。その切り口はドロドロに溶け、流れ落ちながら直ぐに固まって行く。
「ええっ?!」
 カイ獣に視線を向ければ、長い舌を今まさにしまう所だった。舌からはだらりと涎が垂れ落ち、床に触れた瞬間その部分を溶かしていく。
「あ、あれかぁ……」
「酸性の涎か。流石の防弾硝子も得体の知れない涎には、歯が立たなかったみたいだね。あの舌、どこまで伸びるのだろうか?」
「感心している場合かい!俺が真っ二つになるって!最悪溶ける!!」
 頷くニアに、トウタは慌ててドンドンと硝子を叩き始めた。とは言え、そんなことでどうにかなるような硝子ではないことは分かっていた。分かっていても、叩かずにはいられない。こんなところで、何も出来ずに真っ二つはごめんである。
「まあ、落ち着きたまえ。僕がタイミングを計ろう。トウタ君は、僕の合図でジャンプするように」
「は?」
 ニアの突拍子もない提案に、トウタは間の抜けた声で返した。
「いいから。比率はわからないが、真っ二つになりたくないのだろう?だったら、僕の言う通りにする!」
「わ、わかった」
「それじゃあ、行くよ。いち、にの、はい!飛んで!!」
「!」
 ぱんっ!と叩かれた合図と共に、トウタは空中へジャンプしニアはナツを床に押し付けて体を低くした。
 ヒュンと空気を切る音がして、着地したトウタの周りの硝子がゆっくりとスライドしていくのが分かった。
「わっ、待った、待った!」
 慌てて、スライドする動きに合わせて移動しながら檻の床に寝転がった。
 仰向けになったトウタの上を、厚みのある重い硝子の筒が通り過ぎる。それを目で追って行くトウタの顔は恐怖に引きつっていた。
 硝子の筒となった檻が、ズンと重い音をたてて床に落ちる。
「よし、成功だ」
「成功だ、じゃねーよ!!タイミング云々の前に、こうなるって教えろよ!危なかったじゃないか!!」
 満足げに眼鏡を光らせるニアに、がばりと勢いよく立ち上がったトウタが詰め寄った。
「成功したのだから良いじゃあないか。無事に囚われの身からも、解放されたことだし」
「結果だけでものをいうな。研究は先の未来のためにも、そのプロセスも大事じゃなかったのかよ」
 運が悪ければ挟まれて結局真っ二つだったことを考えると、トウタは背筋をじわじわと嫌な感じが走るのであった。
「まあ、文句は置いておいて。あのカイ獣をどうするか、だよ。トウタ君」
「ああ、あいつね。そうだな……じゃあ、こうするか」
 言うなり、トウタはアラン目がけて走り寄ると、咄嗟の行動に理解の追いつかないその顔面をグーで殴った。
 アンドロイドのトウタが、本気で怒りを込めて振るった拳だ。ただの人間であるアランには、ひとたまりもない威力である。
「がっ……」
 顔のありとあらゆる箇所の骨がパキパキと嫌な音をたてるのを聞きながら、痛みすら感じる間もなく顔の左部分を変形させてアランが床へと叩き付けられた。パンチの勢いが乗った結果である。
 床に顔の右半分を埋めて、アランはもはや面影な変形した顔で白目を向いて気絶していた。
「全く、人が動けないのを良いことに、自分の自慢話やら好き勝手ペラペラ喋りやがって……。スッキリしたわ」
「お見事!流石トウタ君。頼りになるなぁ」
 パチパチと拍手をするニアとナツ。ナツは拍手の合間に写真を撮っている。
 それに親指を付きだして答えてから、トウタはアランへと向き直った。
「さて、確かこいつは……」
 しゃがみ込み、トウタは倒れるアランの衣服をごそごそと探る。目当てのものは、背広の内ポケットに入っていた。ついでに、先程自慢していた海底人類の記したという書物も頂いておく。「お、あった、あった」
 取り出すと、それは、ステンレス製の長方形の箱だった。厚さはわずか五ミリ程度。スライド式の蓋を上に押して開くと、中には注射器が二本入っていた。
 蜂蜜色の液体がその中をいっぱいに満たしている。
 トウタは迷わず一本を取り出す。
「シーナさん」
「はい」
 マリとカスミを守るように、カイ獣のいる方向へ立ちはだかっていたシーナさんがカイ獣から目を離さずに返事をする。
「あいつの注意を、引き付けて貰えませんか?」
 そう言ってトウタは空いている手で、カイ獣を指さす。
 カイ獣は、命令する主を失い二か所に分かれたトウタたちの、どちらを攻撃すればいいか考えあぐね右往左往している。知能の方も、退化してしまうのかもしれない。
「分かりました。トウタ様の方へ、意識が向かない様にすればよろしいのですね?」
「はい。お願いできますか?」
「承知致しました」
 シーナは頷くと、無駄のない動きでカイ獣の横手に躍り出ると、ナイフを取り出しそれを投げた。反応の遅いカイ獣の左目に、正確にナイフが突き刺さる。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁっ?!」
 カイ獣が痛みに鳴き声を上げ、ターゲットをニアたちの方からシーナへと向けた。
 カイ獣の舌がシーナへ向かって伸びる。
 それをすれすれでかわすと、触れてもいないのに交わした部分のスーツが溶けて穴が開く。
「!」
 危険を察知したのか、シーナは舌をかわしつつナイフで切り付けた。
 ジュッと言う音と共に、切り付けた刃先がほんの少しだけ溶けたが、代わりにカイ獣の舌は先程の半分へと短くなった。
「ぐぎゃあっ!!」
 悲鳴を上げ、舌を引っ込めようともがく。が、その動きは痛みのせいか大分鈍い。
 流れる血が、辺りの床を赤く染めた。
「このナイフは、もう使い物にならないわね」
 ぼそりと呟くと、シーナは持っていたナイフを両手に持った。そして、引っ込もうとしている舌へと突き立てた。
「があっ?!」
 そのまま、床へとナイフを突き刺し、カイ獣の動きに制限を加える。
 しかしそれも長くはもちそうもなかった。差し止めたナイフは血によってと速度が落ちているとはいえ、確実に溶けて始めていた。
「これで少しは、動けないかしら?」
 そう言いつつ、服の乱れを直しながらカイ獣との距離を取ろうとした、その時だった。
「が……がびゃぶあぁぁぁぁぁっ!!」
「!」
 口を閉じられず、意味不明な事を叫びながらカイ獣がシーナさんへ向かって突進する。溶け出したナイフではその力に勝てず、あっさりと縫い留めた舌を開放してしまった。
「シーナさん!」
 ナツの悲鳴が部屋に響いた。

  ごがっ!!

 鈍い音が響き、カイ獣が突進した威力のまま部屋の壁へとその頭部をめり込ませた。
「ふぅ……少々、危なかったですね」
 寸での所で避けたシーナは、ホッと息をついた。
「これで、よろしいでしょうか?トウタ様」
 トウタを振り返り、背筋を伸ばしてシーナが尋ねた。
 それにトウタはにやりと笑って頷く。
「素晴らしいですよ。注意どころか動きを封じてくれるなんて…ありがとうございました」
 頭を抜こうともがくカイ獣へとトウタが歩み寄り、その無様な尻へと持っていた注射器を突き立てた。
「もぐがああああああっ?!」
 痛かったのか、カイ獣が手足をバタバタさせるが自分の体重でそうとう深く潜った頭はそう簡単には抜けなかった。
 その間にも、トウタは突き立てた注射器の中身を全てカイ獣へと打込む。
 空になった注射器を引き抜くと、トウタは適当に投げ捨てた。
 カランと音をたてて注射器が遠くの床に落ちる。
「さ、これでこいつはとりあえず大丈夫。もう襲って来ることはないだろう」
「先祖返り病の特効薬か」
 ニアの声に、トウタは振り返り頷く。
「ああ。自分でさっき、持っているって言っていたからな」
 そう言うと、トウタはマリとカスミの方へ歩み寄る。
 カスミに抱きかかえられたマリの横へ、片膝をついて残りの薬が入った注射器を取り出した。
マリの腕に打とうとするのを、カスミに止められた。
「待って。私にやらせてください。私の方が、慣れているから」
 涙に濡れた顔で言われ、トウタは黙ってそれをカスミ渡した。
 カスミに変わり、トウタがその背を支えると、カスミはマリの片腕を取り注射器の中身を全て流し込んだ。
 皆が固唾をのんでマリの様子を見守った。
 しかし、マリの容態が変わることはなく、依然として苦しそうな呼吸と体の変化が続いている。
「……どういう、ことなの?なんで、マリは治らないの?!これは、私たちが最初に開発した特効薬なんでしょう?先祖返り病を治す治療薬何でしょう?!」
 カスミに襟ぐりを掴まれ、揺さぶられながらもトウタは黙ってうつむいていた。
「奥様、おやめ下さい」
 シーナが素早く近寄り、そっとトウタの襟ぐりを掴む手に自分の手を添えた。
「シーナ、ねぇ、どうしてなの?どうして……」
 今度はシーナに取り縋り、力なく嗚咽を漏らした。
「……考えられることは、一つ」
 ニアが口を開く。
「マリ君は、長期にわたる日々の投薬により、初期に作られた特効薬ではもう効かない体質になってしまっているのかもしれません」
「そんな……、それではマリお嬢様は……」
 シーナの声が震えた。
「新しい特効薬を作成するには、彼女には時間がなさすぎる」
 答えるニアの声は暗く沈んでいた。
「じゃあ、このままマリちゃんが苦しんで死んでいくのを、ただ見ていることしか私たちにはできないってこと?」
 ナツの声に、答える人はいなかった。
「そんな!そんなのって……残酷過ぎる!」
 ナツの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。しかしその表情は怒りとやるせなさでいっぱいだった。その手からデジカメが滑り落ち、カシャンと音をたてた。
 部屋の中が悲しみと絶望で埋め尽くされそうになった時、トウタが顔を上げた。
 彼の表情は決意に満ちていて、そこにいる誰よりも穏やかだった。
「大丈夫。俺が、伊利さんを…マリさんを治します」
「……え」
 泣いていたカスミとシーナが顔を上げ、トウタを見た。
 そんな涙に濡れた二人に、トウタはにこりと笑う。
 そうしてマリをカスミに託すと、立ち上がりニアを振り返った。
「トウタ。君に治せるって……」
「ニア」
 驚きと疑問で口を開いたニアの声を遮るように、トウタの静かな声が響く。
 その余りにも穏やかな響きに、ニアはぴくりと肩を震わせた。
 長いようで短い数年間。友達として一緒に過ごして来たニアだから分かる。こういう時のトウタは、何かを決意して絶対曲げない時の彼だと。
「……なんだい?」
 いつも通りの受け答え。それでも、揺らぐ瞳から、既にニアが何かを察していることをトウタは感じていた。
 それが少しだけ嬉しくて、トウタは小さく笑みを浮かべた。
 先程アランから拝借した、書物を取り出しニアへと差し出す。
 何も聞かず、ニアはそれを受け取った。
「エクシリエンスストーンには、言い伝えがあるんだ。所有者の願いを何でも一つだけ、その力の全てと引き換えに叶えることができる。アランはそれを、エクシリエンスストーンを埋め込んだアンドロイドを所有する人間の願いを叶えられるものだと勘違いしていた。でも本来は、エクシリエンスストーンに選ばれた、アンドロイド自身の願いを一つ、何でも叶えると言うのが正しい。その勘違いのせいで、俺を作った相田博士は、当時のアランたちによってその命を奪われてしまった。彼女から、俺たちの所有権を奪うために」
「トウタ、君、記憶が……」
 驚き目を見開くニアに、トウタは頷く。
「ああ、アランのおかげで全部思い出したよ。皮肉なことにね」
 トウタはおどけたように肩を竦めて見せる。それでも、ニアの硬い表情を崩すことは出来なかった。
「俺には、同じ時期に作られたアンドロイドがもう一体いるんだ。そいつの名前はセト。セトは一番人に近い心を持っていた。だから、相田博士のことを本当の母親のように慕っていた。彼に埋め込まれたエクシリエンスストーンが、海底人類が遥か昔に作り出した叡智の結晶。それがオリジナルだとすれば、俺の中にあるエクシリエンスストーンはそれを真似て作られたコピー品。相田博士が初めて作り出した近代版のエクシリエンスストーンだ」
「現代に近い技術で、あの石型の機械を作り出した人物がいるのか……」
 ニアにはショックだったようで、硬かった表情がその時だけほぐれいつもの研究一筋の彼の表情が浮かんでいた。
「ああ。だけど、これは試作品でこれから本当は改良を重ねていくはずだったんだ。それ故に、膨大なエネルギーを秘めながら、このエクシリエンスストーンは安定性に欠ける。俺が記憶をなくしたばかりの頃、昔のことを思い出しては暴れたりしていたのは、そういう理由からなんだ」
「なるほど、そう言うことだったのか」
 ニアが納得したように頷く。その、いつもの探求心に溢れた表情のまま、出来る事ならいて欲しいと、トウタは願った。
「……俺のエクシリエンスストーンは、放っておいてもいつか崩壊する。それがいつかは分からないけれど、このまま放っておいてその時を迎えれば、間違いなく地球の未来を変える事態を引き起こすだろう。俺は、それを望まない。回避できるのならば、喜んでその道を選ぶよ」
「トウタ。待ってくれ。まだ、きっと何か手が……」
 トウタの言わんとすることを察したのか、ニアがトウタの腕を掴み言い募る。その表情は悲しみの色に染まっていた。しかし、トウタはそれに首を左右に振って答えそっと自分の腕を掴むニアの手を外した。
そして、にっこりと笑う。
「もう、決めたんだ」
「……そんな、そんな大事なこと……勝手に決めるなんて……」
 震えるニアの肩に、そっと今度はトウタが手を置いた。
「渡した本には、エクシリエンスストーンの製造方法が載っているんだ。アランには技術が足りなくて作成できなかったらしい。でも、お前ならできるんじゃないか?現代の和製エジソンこと、江寺ニアになら。お前は、俺を作った相田博士と同じぐらい素晴らしい研究者で、発明家だ。現に、その書物からアランが拝借して作り出したシースキンガイの技術を、お前はたった一人で作り出したんだからな。だから、お前が作ってくれよ。もう一度、俺を」
「……そんなこと、君に言われたら、嫌だなんて言えないじゃないか。本当に、トウタはずるいなぁ」
 揺らぎのある声で答えると、ニアはグイッと目元を拭った。
「わかったよ。僕に、任せてくれ。何年かかったって、もう一度君を取り戻してみせるさ」
「ああ、信じているよ、ニア」
 そう言ってポンと一つその肩を叩くと、トウタはニアの少し後ろでしゃくり上げているナツを見た。
「うっ……話が、全く見えないじゃない。ひっく、また、私だけ除け者にして、二人は、ひっく、全く、しょうがないんだからっ」
 くしゃりと泣き笑いの表情を浮かべるナツに、トウタは苦笑を浮かべた。
「ごめんよ、藤さん。でも、ニアのこと、よろしく頼むよ。俺が言う事じゃあ、ないかもしれないけどさ」
「う、うううぅっ……!」
 ボロボロと零れる涙で、ただ頷いて返すことしか出来なかった。
「それじゃあ……」
 そう言って笑うとトウタは向きを変えた。
マリの元へと再び歩み寄りその傍らに膝をつく。
「トウタ様、あなたは一体……」
 シーナの声に、トウタはにっこりと笑う。
「何、ちょっと人助けが好きな心を持った、風変りなアンドロイドですよ」
「え……」
 それだけ言うと、トウタは何も言わずにマリの手を取った。
 その苦しそうに閉じた顔をそっと覗き込む。
(大丈夫。今度は僕が、君を救う番だ)
 話しかけるように、その頬を、額を撫でた。
(俺が悲しみと絶望の中で漂っていた時、君は俺を海の中から助け出してくれた。君が治療中に施設から抜け出し、たまたま俺を見つけてくれたんだね。君は、全く覚えていなかったけれど)
 そこまで思って、それはお互いさまかと苦笑する。
(――さあ、エクシリエンスストーン。俺の願いを叶えてくれ。俺はこの子を、伊利マリの命を救いたいんだ!)
 目を閉じて、強くマリの手を握った。
 どくどくと、胸の中のエクシリエンスストーンが熱く脈打つ。まるで、胸の中に太陽があるようだとトウタは思った。その熱が全身を包み、繋いだ手からマリへと流れて行く。
 熱く感じたのは一瞬で、頭の先から、足の先から、あらゆる体の末端から一気に熱が奪われて行く。数日前までは、生身の身体だと疑いもしなかった自分の身体が、冷たく冷え、鉄の塊に戻って行く。
 それでも、トウタの心は暖かな思いでいっぱいだった。
 一度は心を持ったことを恨んだりもした。
 それでも今は、心を与えられたことを感謝していた。
 こんなにもたくさんの、素晴らしい人々に出会えたのだから――
 熱が消え、握っている手が酷く熱く感じられた。傾ぐ視界にノイズが走る。受け止められた腕が誰のものだったのかも、もう分からない。それでも、心地良い思いに満たされて、トウタの自我は途切れた。
 後に残されたのは、酷く幸せそうな表情で眠るように動かなくなった、少年アンドロイドの姿だった。

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