第7話

文字数 2,835文字

五月十八日 雨
 朝に香港へ着いた。陸に上がるまで少々時間を要した。上陸手続きのせいだ。
「そこはあとでいい。先に裏をしよう」
 なにやら、くすんだオレンジ色のつなぎを着たクルーたちが、忙しそうに船壁を移動していた。
「裏方はどこの世界も、大変そうだなぁ」
 そんな風景を横目で見ながら上陸した。私の足が着いたと同時に雨が降り出した。小糠雨。風は止んで丸い空気。香港に似合っている気がする。
 久しぶりの陸は、足元が少しおぼつかなかった。が、すぐに慣れて、今日の予定地へと濡れるのも構わず歩いて行った。港からそんなに遠くない場所にある店で、『ブランチを飲茶で』と決めていたのだ。
 雑誌で調べた評判高い店は、まだ混雑していなかった。席に着いた私はゆったりと時間と空間を楽しむことができた。雑誌で評判といっても、味が悪い店もある。そう言い聞かせて来たからか、この店は驚くほど美味だった。
 腹六分目と決めていたのにもかかわらず、様々なものを詰め込めるだけ詰め込んでしまった。小龍包なんか三皿食べた。好物なんだ。
 昼からは当てもなくふらつくだけだった。女性なんかは買い物天国だろうけど。夜遅くの出航までどうやって時間を使おうかと悩むくらい、飲茶以外、何にも決めてなかった。
 船では上陸しない人たちのために、なにかやっているだろうと帰ることにした。
 船内には思っていたより客が残っていた。彼らはいつもと変わらず楽しんでいる。

 そして今日は、香港上陸というニュースより驚いたことがあった。あの、例のご老人に部屋へ招待されるという!
 開催されていたアクティビティは数少なく、興味もなかったので、ゆったりと時が進む船の中をふらついていただけだった。
 そこで彼にバッタリ会い、ただ一言「こんにちは」と言っただけ。
「これだけの有名人になると、遠巻きに見る人は大勢いても、話しかけてくる人はなかなかいないのだよ。一瞬、君が私のことを知らないのかと思ってしまったよ。君の表情を見るまではね」
 と、フランクに言われた。
「あなたを知らないのは幼稚園児くらいでしょう。日本という国を世界に広めたような方なのですから」
「かいかぶりだよ、君。だが、君とは楽しく話が出来そうだ。予定はあるのかね? なければどうだい? 私の部屋で一杯やらんか?」
 そう言われて、のこのこついて行ったわけだ。
 スイートルームの広いこと! カウンターバーがついてるし、ソファーは大きいし、ドアのすぐ横に階段があるし。メゾネットタイプになっているらしい。上が寝室か。
 ここに一人だと寂しくなりそうだ。
「とりあえず自己紹介をさせてくれたまえ。白鳥草一郎だ」
 私は彼の出した手を握り、答えた。
「渡辺千早です」
「酒を飲むか? なにがいい?」
 ソファーを勧められ、おとなしく席に着く。
「あ、いえ。紅茶を頂けますか?」
「なんだ、アルコールはやらないのかね」
「いえ、そういうわけでは……」
「ふぅむ。まあ、よかろうよ」
 老人は電話を取り、紅茶を二人分持ってくるように言った。
「会長はお酒を召し上がられないのですか?」
「私も、そういうわけではないよ。もう年だし、最近は量を減らしている。前後不覚になるような飲み方なんて、もう何年もしてないよ。若い頃の勢いはさすがに無いからね」
 彼はそう言ってウインクした。
 紅茶はすぐに来た。銀の三段トレイに乗った可愛らしいおやつとともに。
「この船の船長とは仲が良くてね。船旅をするときは必ずこれに乗るのだよ。気楽だからね。だが、いつも退屈しだすのさ。話をする相手がいなくて。どこぞの社長やら御曹司やらは話しかけてくる時もあるが、そんな見え見えの奴らとは話もしたくない。だから君は生贄に選ばれたのだ」
「生贄ですか」
「おっと、別に君が御曹司に見えないという意味ではない」
「実際に見えないと思います。よく言われますし」
「はっはっは。君は生贄さ。この老人に与えられた、ね」
「私は自らの意思でここに来たつもりですが」
「君は面白いね。だが、自ら進んで犠牲になる人間だっているだろう?」
 なるほど。しかし残念ながら、そういう正義感は持ち合わせていない。
「君は何をしているのかね?」
「歯科医です」
「ほう、それはいい。ここの船医の腕前は最高の部類だと思うが、歯だけはいかん。以前、かぶせ物が取れたから行ったら、強力接着剤を持ち出しよった」
 どうやら船の上で歯科医はモテるようだ。
「しかし、応急処置には悪くないですよ。歯科医師としては、クラウンを外すのに手こずるので勘弁して欲しいですけど」
「今はずれたら、君に頼むよ」
「私が治療するわけにはいかないでしょう」
「何故かね? 腕がとてつもなく悪いとか言うのじゃないだろうね?」
「腕がどうのこうのと言うより、私が持っているのは日本国内の医師免許です。一歩外に出れば役には立ちません」
「いやいや、そうとも限らんぞ。海の上はまた違うものさ。大体、腕のいい医者というのは、どこにいても腕がいいものさ」
 ……そうだろうか? 彼は何故か、私を腕のいい医者だと思い込んでいるようだ。や、もちろん自分の腕が悪いとは思っていないが。
「君は面白いが、真面目すぎるようだね。もっと、フラフラしているタイプかと思っていたが」
「いえ、おそらく当たってますよ。人見知りなんです。知り合ったばかりの方の前では、猫をかぶってるんですよ。一ダースほど」
 ご老人は大爆笑。
「猫は大好きだ。それが一ダースいるとなると大歓迎だ。気に入った。私に飯を奢らせてくれ。明日、七時に船内の和食店『珊瑚』で落ち合おう」
 私は「はぁ……」と、それについては覇気のない返事をした。それから、彼の仕事について馬鹿のように質問をし、満足して部屋に帰ったのだ。

 百万ドルの夜景を横目に船が出港し、相変わらずのメンバーとディナーを楽しんだ。
 今日はデビッド・スミスがいなかった。香港で食べて来たのかもしれない。
 それから、今日はナイトシアターで『LOVE BALLAD ~愛の詩~』を見た。評判高い映画だったはずだが、私の好みではなかった。
 シアターには充分な席があったが、観客は少なかった。ベストポジションで見ている私の前には、十人ちょっとしかいなかった。
 エンドロールになり席を立つ。前方右側に黒服の女性を見つけた。
 彼女だ。
 私は後ろのドアから出ようとするのをやめて、わざわざ前にあるドアへと足を運んだ。
 そっと彼女を見ると、一心にスクリーンを見つめていた。無表情で。それは、星空を見上げている時と変わらぬ表情だった。
 この船でそんな表情をしているのは彼女だけだろう。だから気になるのかもしれない。
 その足で後方デッキに行ってみたが、いつものような静寂はなかった。星空教室というアクティビティが行われていたから。
 そう、だから彼女は映画を見ていたのかもしれない。
 想いにふけっていたが、半ば強制的に集団に加えられ、航海士の説明を受けながら星を見上げた。
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