第4話

文字数 1,851文字

五月十五日 晴れ
「おはようございます。五月十五日。今日もいい天気です。良い一日をお過ごしください」
 船長の朝の放送で目が覚めた。朝七時。船の上だと思いだすのに少々時間を要した。彼の言葉が英語だったので、現在位置がわからなくなってしまった。
「失礼します。お目覚めですか、千早さま」
 ノックと同時にライラが入って来た。モーニングティーのことも忘れていた。
 ライラはドアの下に差し込んであった船内新聞を拾い上げ、紅茶と一緒に運んできてくれた。
「おはようございます。よく眠られましたか?」
「おはよう。おかげさまで。本格的な揺れがどうかなって思ってたんだけど、結構気持ちのいい揺れ具合だったよ」
 ライラはにっこり笑って
「皆様そうおっしゃいます。ですが、寝ている間だけかもしれませんよ?」
 などと、不吉なことを言った。三日目くらいから医務室前には、船酔いの患者で行列が作られるらしい。
 ふと疑問に思うのだが、目が回る時、北半球と南半球では回る方向が違ったりするのだろうか。排水溝に流れる水が逆回りになるように?
「朝食は十時までなら、いつでも結構ですよ。本日からバイキング形式になっています。『カーマイン』でもサンデッキでも、このお部屋のテラスでも、ご用意いたします。お好きなようにお召し上がりください」
「ありがとう」
「よい一日を」
 ライラは私のアホな考えを遮断し、最高のスマイルを残して部屋を出て行った。
 私は疑問を忘れ、紅茶を飲みながら船内新聞に目を通した。
 夜届く船内新聞は次の日の予定が記されているが、朝ドアに差し込まれている新聞は、それらの変更事項やディナー時のドレスコードなどが書かれている。これに目を通しておかないと恥をかく。
 朝食は今日もサンデッキにした。風の心地よさがたまらない。
 ゆったりしすぎた感はあるが、ぼーっとしている時間は好きだ。

 昼からビリヤード教室に参加しようと思い、プールバーに変身中の中ラウンジ『アリザリン』へ行った。
 普段、このラウンジは小さな丸いテーブルがいくつも配置されており、ゆったりとした時間が流れているのだが、今日は活気があった。照明は、淡い赤に近いオレンジ色のもの。
 今日は一応教室ということなので、アルコールは無しだが、雰囲気はいい。それに、教室とは名ばかりのようでキューを握っている人たちは経験者のようだ。初心者にはちゃんと教えてくれる人がつくらしいが。
 この教室でマークに会った。
「こんにちは」
 声をかけると、マークも挨拶を返してきた。
「おー、千早(そう呼んでくれと言ってあった)。君もビリヤードを? 一緒にやろう」
 マークは機嫌がいいようで、私の肩をたたき、台へ誘った。
「たまにビリヤード室へ行ってるけど、いつも夜しか開いてないし、狭いしね。君は初めてかい?」
「この船では初めてですけど、昔かじってました」
 そう、若い時は夜な夜な店に通ったものだ。……だが、ブランクが長かったようだ。
「千早は筋がいいよ」
 マークが慰めてくれるが、白いボールはなかなか思うように転がってくれない。彼にアドバイスをもらいながら、やっと相手が出来るくらいの体たらく。継続は力なり。しみじみそう思った。
「やっぱり元が違うんですかね」
「はっはっは。俺は学生時代、代表を務めたこともあるんだ。もっとも、表彰台に上ったことは一度もないが」
「代表ですか。すごいですね」
「船にこんな立派なテーブルがあると知ってたら、マイキューを持ってきたのになぁ」
 マークは食事中とは全く違う表情を見せた。瞳は輝いてたし、口ひげは跳ね上がるように見えたし、細いだけのように見えた腕も力強かった。
「もうひと勝負しよう。大丈夫、身体が勝手に動いてくる」
 私たちは結局三試合した。全敗だったけど、楽しかった。
 さらに機嫌を良くしたのか、マークが言ってきた。
「今日の夕食のワインは私が奢るよ」
 そしてその言葉通り、夕食時にはメインの魚に合わせて、白ワインを出してくれた。それはそれは絶妙なチョイスで、香りも味も満足だった。
 明日か明後日か、私にも順番が回ってきそうだ。奢るのは嫌いじゃないけど、料理に合わせるという知識がない。その時には、ワインスチュワートにこっそり相談しよう。

 就寝前に本を読んだ。『RAKUGO』。英語訳されている落語の本なのだが、これが面白かった。日本でもそんなに経験したことがあるわけではないが、英語訳にした時の言い回しというか、表現というか。今年の末にでも日本語版をゆっくり堪能しようと思う
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