第33話

文字数 2,780文字

六月十三日 曇り
 今日は、空模様と同じでブルーな気分。
 この前、アリアに渡された白い手袋。今更ながらに気になって、船医のもとを訪ねた。
「これに見覚えはないですかね?」
「ん? どれ。ほっ、これな、ここじゃ」
 私が気にしたフレイアのマークを指差した。
「マークが黒じゃ。誰とまではわからんが、持主は絞れるさ」
 私は部署の名を聞いて、船医に言った。
「先生、安置室にご一緒してくれませんか?」
 もう一度、スワン会長の足首を調べるつもりで安置室に来た、のに……。
 ひんやりとする部屋に足を踏み入れると、いきなり冷たいものが私の足首をつかんだ。
「わっ!」
 私がびっくりしているのを見て、船医が驚きの声を発した。視線を下へ移動させる。
「……森君!」
 そこには、薄いシーツを何枚にも重ね、ガタガタと震えている男の姿があった。顔の色は死人のように青白く、身体を起こすことも出来ず、口も開けない状態で、一生懸命何かを伝えようとしている。
「医務室へ急いで……や、私の部屋へ。先生は治療のための道具を取りにお願いします」
「すぐに行く。温かいお湯につけておいてくれ。服は脱がすな」
 私たちは、部屋を出た。森君のホッとしたような息を、かすかに感じた。彼の身体はシーツに巻かれていても、冷たかった。
 ライラが前方から来るのが見えたので、手助けしてもらった。
 普段使わないバスタブに、彼を服のまま放りこんだ。熱めのお湯を出し、彼の身体にかけ流しながら、バスタブを一杯にする。
「話せるか?」
 まだ、口がうまく回らないようだ。
「温かいお茶を入れてまいります」
 ライラが出て行くのと同時に、船医が入って来た。
「様子はどうかね?」
「話すのにはもう少しかかりそうです」
 船医は頷いて、森君の心拍数を診る。
「大丈夫じゃ。大丈夫じゃよ。ただ、もう少し解凍が必要かのぅ」
 船医の言葉に森君が笑った……様な気がした。私たちはバスルームを出て、彼のための用意を始めた。船医は診断の、私は着替えなどの。
 風呂から出し、服を脱がせて新たな服を着せる。多少、動けるようになったものの、足元はおぼつかない。そもそも、一人で立っていられない。ライラに手伝ってもらう訳にはいかないので、私が頑張った。慣れないことは難しい。
「……す、み、ませ、ん」
 紅茶を二~三口飲んで声を出す。
「気にすることはない。とりあえず、それ飲んで、ゆっくりしゃべれ」
「は、い……」
「では、私はお洋服を片づけてまいります」
 ライラはバスルームへ。彼の服を持って、クリーニングへ出しに行くのだろう。
「あの、こちらのボタンはいかがされますか? お洋服のは取れてないようですが」
「あ……あっ」
 森君がベッドから立ち上がろうとする。押しとどめて、私が貰いに行く。
「これかい? 大事なものだね」
 ライラから受け取って、彼に渡した。なぜか、子供がクリスマスプレゼントを貰う光景を思い出した。
「ライラ、洋服を頼んだよ。あと、このことは内密に」
「承知いたしました」
 礼をして出て行く。
「なにか、軽く消化の良いものを持ってきます」
 という言葉を残して。気付かなかった。
「うんうん。よく出来た娘じゃ」
 しきりに感心している船医は、薬を出していた。
「じゃあ、あの娘が持って来たものを食べた後に飲みなさい。今日は外出禁止じゃ。ひたすら寝て、体力の回復をしなされ。明日また来る」
「は、い。ありが、とう、ご、ざいます」
 船医は私に「あとでな」とつぶやいて、部屋を出た。
 私は思いついたことを、そのまま言っておいた。
「しかし、そうか。君の部屋は、ずいぶん散らかってるんだね。片付けるのが苦手な私よりひどいよ」
「え、いえ。得意と、いう訳、ではありませ、んが、人、が見て、不快に思、うような、ことは、無い、と思いま、す」
「……君が部屋に帰った時、ぜひ、頑張ってくれたまえ」
「?」
 ライラが食べ物を持ってきてくれると、森君はゆっくり口に運んだ。船医の指示によるものだ。
「明日は二人分のモーニングティーをお持ちします。おやすみなさいませ」
 本当に、出来る娘だ。
 食べ終わると、森君が話し出した。
「これ、拾ったんです。フレイアの、肩に、引っかかってて……」
 身体も温もって、胃に少し物を入れて、落ち着いたのだろう。少しずつ話してくれる。
「フレイアって船首の?」
「はい。昨日……一昨日ですか。船首に光りがあるのを見て、近寄ってみたんです。……その、光って、こう、人魂みたいな……。その光はすぐに消えたのですが、その時に」
 ボタンをギュッと握りしめた。
「写真のあいつのボタンだと思いました。確かではないけど、似てるんです。だから、落とさないようにと、ファスナーの付いたポケットに入れたら、後ろから衝撃が来て……気がつくとあの場所にいました。すっごい寒くて、でも、ドアは頑丈で叩いても誰も気づいてくれない。このままでは凍ってしまうと思って、何かないかとあたりを見回しました。やっと見つけたのが、温かくなさそうな薄いシーツで。それでも、ないより断然いいと思い、あるだけ身体に巻きつけました」
 寒さを思い出したのか、ベッドの上で震える。後頭部は腫れも引いてると船医が言っていた。気を失って動かなかったことと、冷えたことが良かったのか。それでも、落ち着いたら念のために、レントゲンを撮ると言ってた。落ち着いてからで大丈夫なのかな?
 あの場所にいた経緯を話すと、安心したのか目がとろーんとなっている。
 私は、子守唄代わりにでもなればいいかと、レベッカやキャシーの話していた内容を伝えていた。
「和泉さん……亡くなられて、ました……」
 彼が堕ちる寸前に、つぶやいた。
「……そう。同じ女性だったんだね」
 彼が眠るのを確認して、部屋を出る。本当は船首に行って調べたいけど、何があるかわからない。一応警戒しておくべきだろう。立ち入り禁止区域に一人で入れないだろうし。
 そう思い、船首に向きかけた足を、医務室へと変えた。
 途中、船長に会った。
「おや、渡辺さん。今日はお一人でどちらに?」
「船長」
 夜中に誰かといることが前提のようだ。
「たまにはゆっくりと部屋で過ごすのもいいでしょう」
「やはり私がこの前、お邪魔をしてしまったのではありませんか?」
 私は肩をすくめた。
「いいえ。あれは私が大人げなかっただけです。もう解決しましたし」
「そうですか。それならいいのですが。明日のイタリアは朝早く着きます。観光なされるのでしたら、早めに休んだ方がいいですね」
「ええ。そうします。星も見えませんしね」
 船医と安置室に再び行き、スワン会長の足首を調べた。痕は残っていない。だが、解凍して、ちゃんと鑑識などが調べれば、繊維があるだろう。極極細い線が見えたから。
 船医に報告を終えた後は、眠っている森君を起こさないように部屋で過ごした。
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