第15話

文字数 2,754文字

五月二十六日 晴れのちのち曇り
 今日も平和な一日だった。状況的には。ただ心理的に堕ちていただけで。
 本社から現社長の息子に連絡を取ったが、事故でも殺人でも、とりあえず内密にしてくれと言われたという。
 不快だ。
 息子が父親を隠したがるなんて。親が死んだという知らせを聞けば、飛んでくるくらいの想いがあってしかるべきだ。大きい会社だかなんだか知らないが、切なすぎる。
「情に熱いのが日本人だ」
 そう親父さんに教えられて育った渡辺千早には。
 警察か海上保安庁か知らないが、こんなときには連絡して対応するものではないのか。や、船の方では連絡したのだろうと思う。安置所という施設があるせいか、ずいぶんとゆったりとしたものだ。
 
 うーん、どうしたものか。どうやら、ささくれ立っているようだ。ということで、気分を変えようと『珊瑚』へ。
「予約なしでも大丈夫ですか?」
「いらっしゃいませ。大いに歓迎します」
 今日も大将が声をかけてくれた。狭い店内だ。誰が入って来てもそうなるだろう。
「カウンターでよろしいですか?」
「もちろんです」
 四、五人が掛けられるくらいの真っ直ぐなカウンター。奥に二人、嬉しそうにお鮨を頬張っているフォーリナーがいる。目があったので、軽く会釈した。もちろん知り合いじゃない。
「今日は何になさいますか?」
「いきなり来てるし、お任せします。あ、いくらは勘弁してください」
「いくらが駄目とは、珍しいですね」
「そうですか? どうもあのワラワラ感とプチプチ感が慣れなくて」
 大将は、笑いながら「お通しです」と、前菜を出してくれた。今日は見たことのないものだった。名前は忘れてしまったが、聞くところによると、日本では沖縄で採れる海藻の一種だという。紫のグラデーションが宝石のように艶々してた。シャキシャキする触感が面白い。飲み物は、お茶にした。本来なら日本酒、もしくはビールなのだろうが。
 鰹のたたきに海老の頭のお味噌汁。そして、メインのお鮨は次々と握られて、スルスルと私の胃の中へ。
 一人前を一通り出したのであろう。
「いかがしましょう?」
「海老で鯛を釣ろうかな。一貫ずつ。あ、海胆を二貫先に」
「はい」
 私はふと思い、聞いてみた。
「大将は、グレナデンオリジナルのカクテルをお飲みになったことがありますか?」
「カクテルですか? あまり飲みませんし、グレナデンへは行ったこともありません」
 海胆の軍艦巻き×二。
「もったいないですね。雰囲気も味もなかなかですよ」
 海胆の軍艦巻き×二インすとまっく。
「私どもはクルーですから、専用の場所でしか飲めませんので」
「そうなんですか?」
 海老イン。
「ええ。食堂もバーも、すべてクルー専用の場所があります。ああ、でも……」
 鯛イン。
「船医ならご存知かもしれませんね」
「先生が?」
「ええ、あの方は、こっそり飲みに行かれてましたから。船長も見て見ぬふりをしていたのだと思います」
 聞いてみよう。
 しかし、美味しい和食というのは、気分を穏やかにしてくれる。

「渡辺さん。今日は、和食屋さんですか?」
「はい。日本という国で育って、良かったと思いますね」
 船長が船内の見回りをしていた。
「ははっ。同感ですね。明日はモルジブです。上陸されますか?」
「いえ、船から景色だけ堪能させてもらいます」
「そうですか」
 無言になると、男二人の並びは気まずい。
「船長もここ数日大変でしたね」
「ええ。盗まれたものが戻ったのはいいのですが、当の所有者がいませんからね」
 ため息をつく。
「秘書の方は?」
「それが、姿がないんですよ。色々と探してみたんですけど」
「下船した様子も?」
「はい。ないです」
 船のクルーたちは、大忙しの日々を送っているらしい。私はそれに気がついていなかった。や、私たちが気がつかないように、船の運航及び行事を淡々とこなしていたんだな。
「しかし、狭い船の上です。いろんな話が広がるのが早いですから、情報をもとに、近々見つけてみせますよ。ただ、会長の死だけは伏せておきたい」
「そうですね。御客人が動揺するでしょうし。ただ、御身内の方には、駆けつけて欲しかったですけどね」
 船長は無言だった。
「あら? 夜の船内は男同士で歩くのが流行ってるのかしら?」
「これは、ビレイさん。そんな流行りは聞いたことがありませんね」
 東洋美人はビレイという名前らしい。
「先ほども、男が二人仲良さそうに手をつないで歩いていましたわ」
「ああ、それはきっと、エジプトの方々ですね。彼らの国では、男同士で手をつなぐのも当たり前のことですから」
「あら、そうなの? 気持ち悪いわ」
 平然と毒舌。
「では、私はこれで失礼しますよ」
 船長はそそくさと歩いて行った。
「お邪魔じゃなかった?」
「いいえ。寄り添って歩くのなら美人な方の方が、何倍も嬉しいです。えっと、ビレイさんとおっしゃいましたか」
「ええ、そうよ。キョウビレイ。生姜の姜に、非がある文、王に命令の令で、姜斐玲」
「あ、渡辺千早です」
 多分漢字はあっていると思う。書いてみると、ムズカシイ。
「それより、船長さんってロイヤルスイートによく行くのかしら?」
「そこにいた会長さんと仲がいいようですよ」
「そこにいた会長さん……」
 ショートの髪が、うつむき加減の彼女にかかる。
「なにか?」
「いいえ。この前の謎は解けたかしら?」
「あ、それなんですけど、全く分からなくて。教えていただけますか?」
 斐玲は簡単に「いいわよ」と言った。辺りをきょろきょろと見回すと、突然、頭を外した。
「……え?」
 彼女の髪が、取れた。
「ふふっ。カツラよ、カツラ」
 金色の艶々した髪がパサッと肩に落ちた。
「ああ、そういうことでしたか」
「ね? 目の前にあるのに気付かなかったでしょう?」
 そう言いながら、さっさとカツラを元に戻した。
「なぜ、そのようなものを?」
「やだぁ、お洒落に決まってるでしょう。って、言ったら信じるかしら?」
「違うんですか?」
「半分はそう。でも、半分は違う。だから、謎はあと半分残ってるの」
 完全にからかわれている。
「とりあえず、このことは内緒にしててね」
 内緒なんだ。……なぜ教えてくれたんだろう? 彼女はウインクして、去っていく。変った女性だな。

 気分を変えて今日の風に挨拶を……という、名目。
「今日の空はいかがですか? モルジブには上陸されますか?」
 自分でも彼女に執着しているのが不思議だ。人見知りという先天的なものは、すっかり影をひそめていた。
「綺麗な海でしょうね」
 彼女は少し呆れたように答えた。
「そうね。ごめんなさい。ナンパなら他でお願い」
 彼女と目が合った。おー、進歩だ。
「明日、また来ます」
 そう言おうと思ったが、避けられるのも困る。だから、止めておいた。風はさすがに呆れていたようだ。
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