第1話

文字数 1,910文字

 雨に濡れた国道に、薄桃色の花びらが散っている。時折り通る車が、おれに一時の眩しさと水しぶきを浴びせては去っていく。その後は、ビニール傘に落ちる雨の音だけが残る。
 何か気を紛らわせるようなものがあればよかったのだが、さして街灯もない夜道を一人でずっと歩いていると、どうしても、なんでこんなことに、と考えてしまう。
 いくら思案しても事態は変わらないのに、おれはまた堂々巡りに回想をする。

 今日、おれは初めてのデートだった。
 場所は郊外の水族館。あまり栄えた街ではなく、水族館以外に目ぼしい施設はないのだが、彼女が希望したのだ。
 小学生のいつだったか、遠足で訪れた時は昼だった。図鑑でしか見たことのなかった魚たちが泳ぐ姿に、ずいぶんと高揚したものだ。ところが夜の水族館というのはまた違った魅力がある。室内なので影響はないはずなのに、夜の気配がそうさせるのか、ライトアップされた水槽はどれも妖しく、美しく見えるのだ。夜に集合というのも彼女の提案だったが、これは正解だと思った。むろん、魚の群れより彼女の横顔が素敵だったのは言うまでもない。
 彼女は学内でも人気で、実際内面と外見に可愛らしさを兼ね備えている。おっとりしているが、媚びない愛嬌があるのだ。その素直さにおれは惹かれた。
 はっきり言って今日のおれは舞い上がっていた。距離感の繊細なお友達期間を経て、こちらから告白してOKをもらった時などは、完全に有頂天だった。おれにとっては初めての男女交際だったから、浮足立つのも仕方なかったかもしれない。
 とはいえ、紳士なおれは、早めに彼女を帰すつもりでいた。夜スタートという点に対して内なる野獣が咆哮をあげそうになったが、類まれなる理性がそれを抑えた。ねじ伏せたと言ってもいい。とにかく我慢した。
 帰り道、バイト先に来る双子のおばさん客の話や、店長がレジ横の募金箱からこっそりくすねている話など、我ながら軽妙な語り口で、沈黙に陥ることなく、会話は弾んだ。駅に着いたら「今日は楽しかったね」と、ごく自然に感想を述べる流れで次の約束を匂わせる。そんな予定だった。
 ところが駅を目前にして、彼女が立ち止まった。
「わたしたち別れよう」
 耳に入り、脳に達して意味を理解するまで、やや時間を要した。そんなにあっけらかんと言うことじゃないと思ったからだ。しかし彼女にとってはそうじゃないらしい。
「な、なんで?」
「なんでっていうか」
 人差し指を口元に当て、ちょっと小首を傾げて、
「なんか瑛二くんは違うって思ったの」
 なんかって何!
 そもそも自分と他人が違うのは当たり前のことだ。その違う部分を互いに認め、尊重していく。それが愛情で、つまり付き合うってそういうことじゃないのか?
 と、いくら理屈に訴えかけてみたところで、一旦意志を固めた乙女というのは、ラバウル要塞のごとき堅牢な力を持ってして一切を撥ね退ける。そこをおれの豆鉄砲のような反駁(はんばく)が打ち破るなど、どうあがいても無理筋だった。
 彼女が去ってから、おれは近くのベンチに座って考え続けた。連絡先を交換してから今日までのやり取り、そして今日のデート中の出来事を走馬灯のように感じながら、大いに頭を抱えた。ハートマークの絵文字や、相槌の度に見せた笑顔の裏に隠された秘密を見出そうとした。
 この期に及んでまだ、原因を究明して改善に乗り出せば復縁の芽が出ると思っていたおれは本物の馬鹿だった。おれは相談されたわけじゃなく、決定事項を聞かされただけに過ぎないのだから。しかしこの時は現実を受け止められなかったんだろう。無い頭をひたすらひねっていた。そう、時間を忘れて。
 つむじの辺りに冷たいものを感じて、ようやく顔を上げたおれは雨が降ってきたことに気づいた。いつまで座っていたかはわからない。でもさすがに帰ろうと思い、駅構内に入ったおれは愕然とした。
「本日の運行は終了しました」
 看板に描かれた駅員は、憎たらしいほどの笑顔で絶望を告げていた。携帯電話を取り出して時間を確認すると十二時五十分。とっくのとっくだった。
 うつろな目で、掲示されていた地図を確認し、駅横のコンビニでビニール傘を買うと、おれはとぼとぼ歩きはじめた。今日という日をひたすらに嘆きながら。
 国道は、まだ終わりが見えない。どこまで行っても道があるだけ。足がくたびれて、水たまりを避けて歩くのも億劫になってきた。心を無にすることは、僧でないおれには無理だった。
 どうしてこんな日になったのか。横風が吹き、雨粒が頬を伝う。
 そう、これは雨粒なのだ。決しておれの体内で生成されたものではない。いやに塩辛いのは、きっと気のせいだともそうだとも。
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