最終話

文字数 2,250文字

 一旦おれが聞こえないふりをしたのも無理からぬ話だった。絶対関わったら碌なことにならないだろう。だが逆効果だった。
「おうにいちゃん、あんまり舐めた態度とりくさっとったらなあ、手と足の爪全部剥がしてアトランダムに入れ替えたるからなあ!」
 怖い。発想が怖い。ドスの利いた赤いハイソックスの方はあっち系の人らしい。
「せやであんさん、この人怒らせたら手えつけられへんねんから。昔は大国町の荒獅子って呼ばれてはったさかいに」
 狭い。管轄が狭い。「さかいに」って言われても。緑の方は、たぶん妻なのだろう。口調が腹立つ。ていうかおまえら急に喋りだすなよ。
 ただ確かに、こういう手合いは絡まれると面倒だ。しかも得てして話が長い。とりあえず形だけでも謝っておこう。
「あの、すみませんでした」
 マグロたちは魚の目を合わせて、
「おお、なんやにいちゃんわかる子やんかあ。今度寿司でもいこか。回ってるやつやけどな」
 と、急に友好的になった。情緒が激しいな情緒が。しかも寿司って、冗談がブラックすぎる。いいのかそれで。
 曖昧に頭を下げてごまかすと、納得したのかあっさり解放された。その後も突っかかってくる様子はない。むしろ、
「いややわあんさん、またそんなこと言うて」
「がっはっは、ええがなええがなあ」
 という感じで、夫婦ともに上機嫌だ。そして相変わらず、ハニワは腕組みをしたまま鎮座している。
 今なら眠れる。そう確信したおれは再び瞼を閉じた。身を委ねると、まどろみがすぐに立ちこめる。そのままおれは泥のように眠った。

「……ます。まもなく到着です」
 意識の淵から声が聞こえて、薄目を開ける。見慣れない景色だと思い、それからバスの中にいることを思い出した。身体が重い。
 バスが停まった。時刻盤は九時を表示している。気だるさを引きずって降りると、どうも自宅近くの土手らしかった。右手を下ると市民グラウンドのフェンスがあり、左手を下るとドブ川がある。一目でわかるほど汚れた川だ。
 南に向かい、道なりに行けばアパートに着く。よくわからない一日だったが、もう帰れると思うと眠気が覚めてきた。
 ここでハニワたちが出てきた。まさかついてこないよな? な? だが身構えるおれをよそに、突如としてクラウチングスタートからのロケット加速で、北に走り去っていった。さらばハニワよ。それにしても美しいフォームで走ってるな……。
 次に兎田さん。思えばこの人は唯一まともだった。丁寧にお辞儀をされたので、同じように返す。彼女もまた北へ歩いていった。
 最後に魚たち。座席から強引に抜けたのか、擦れた跡がある。幻の泉在住じゃないとしたらどこに住んでるんだって話だが、もういいか。二度と会うこともないだろう。
 そうしておれが一歩を踏み出した時だった。
「おうにいちゃん、寿司いこか」
 ……………………。
 え、その話生きてたの? ていうか今日なの?
 動揺を隠しきれなかったのか、魚どもがおれをじいっと見てくる。
「あのーにいちゃん、まさかとは思うんやけどな」
「いや、あの、僕は」
「逃がさへんでえ!」
 すぐさま緑の方が南に立ちふさがってきた。反対には赤い方がいて、両者ともじりじりと距離を詰めてくる。おれはバスの後ろまで逃げた。バスを挟んでのせめぎ合いが始まった。
 魚たちに俊敏性はなく、機動力ならこちらが上だ。しかし二対一は厳しい。片方は南を守りながらではあるが、すきあらば襲ってくる。もう片方はひたすら追ってくる。体力は無駄にあるようで、魚たちの動きは衰えない。そんなマグロらしさ今いらねえよ。
 一方でおれの足はもつれはじめ、じり貧になってきた。多少寝たからといって疲れはあまり取れてない。だいたい、おれが何をしたって言うんだ。マグロに追われるってなんだよ。段々腹が立ってきた。
 くそっ、くそっ、さっきは黙っててやったけどもう言う。言うからな。
「そもそもおまえら着ぐるみじゃねえかああぁぁぁ!」
 おれの叫びが天を()くと、空が砕けて轟音が鳴った。いや、そうではない。夜空が光に弾けている。後方で盛大に打ち上がっていたのは、いわゆる夏の風物詩だった。
 ふと、おれは兎田さんの言葉を思い出した。強い音と光……。気づけば魚たちは互いに目潰しをし合っている。しかも避けない。なんだその発作。
 やがてもみ合いになった奴らは、おれが「あっ」という暇もなく、二人してごろごろと土手を転がってどぶ川にダイブした。
 しばし呆然として、やがておれは吹き出した。
 このことだけじゃない。ハニワたちのラブラブタイム。死にかけのおっさん。セクシーボイスの象仮面。よく見ると覗き穴があるマグロ。今日のすべてが今さらながらツボにはまって、おれは笑った。腹を抱えて地面を叩いて、涙が出るほど笑った。これだけ笑ったのはいつ以来だ。いやむしろ、いつからまともに笑っていなかったのだろう。
 しばらくして、ようやく抱腹の最中から抜けようとしていると、バスから運転手が降りてきた。
「思っていたより綺麗に上がったな」

 さすが並行処理のプロ。音と形と色を同時に楽しめる花火は、実に帯本らしい。
 帯本が渡してくれた、おれが飲むはずだった炭酸飲料を片手に、おれたちは明滅する夜空を見つめた。
 なんでこんなことをしたのか、というのは愚問だった。帯本は無駄なことをしない。それに、おれの胸のあたりは、やけにすっとしている。
 ただ一言だけ、言ってやりたかった。
「なあ」
「なんだ」
「おまえ、比類なき阿呆だな」
「真似するな、阿呆」
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