二、

文字数 4,571文字

 
  重みのある足音の後、ふすまが開けられた。
 なげしに頭をぶつけそうなほど大きな男は、かめ屋の主人である亀吉だった。

 屈強な身なりにもかかわらず、市井の飯屋とは思えないほど繊細な味付けを生み出している。
 ここをひいきにしているのは人の事情に深くは突っ込まず、ツケが利くのが大半の理由であったが、飯に全く頓着しない平蔵ですら、余裕があればこの飯屋に来るほどだ。

「注文の品だ」
「ありがとよ」

 亀吉は若干力の入った平蔵の感謝に目顔で応じると、足つき膳をおいて去って行った。
 店主が顔を出していた間、要領よく消えていた春暁(しゅんぎょう)が、膳をのぞき込んで目元を笑ませる。

「ほうほう、なかなかうまそうだぞ」

 まったく空気の読まない春暁の言葉に平蔵は全力で乗っかることにした。
 なぜなら腹が空いていたからだ。
 硬直している(しのぎ)を無視し、膳を引き寄せた平蔵は、ついでにさやの前へ置いてやった。

「ほれ、てめぇのだ」
「ん」

 さやに用意された膳は、幼子に配慮された量になっていた。
 亀吉は無骨な外見に似合わず、細やかな配慮が得意である。
 どことなく盛り付けも丁寧だったが、しょうがの混ぜ込まれた大根おろしの盛られた小鉢が異彩を放っていた。
 しかしさやは表情が乏しいながらも嬉々として箸を掴むと、真っ先に大根おろしをつまんだ。
 平蔵もさっそく手を付け始めたが、大根おろしばかりをちまちまつまむさやに苦言を呈した。

「そういうもんは飯と一緒に食うのもうめえんだぞ」
「ん!」
「気づいてなかったのかよ。ほれ急がねえでも、めしは逃げやしねえんだから」
「へーぞーたべないんならさやがもらう」
「これは俺のだ、自分のでがまんしろ」

 すかさず平蔵のぬか漬けにまで手を出そうとするさやの魔の手から、自分の膳を守りつつ飯をかき込む。
 味噌漬けにされた魚の切り身はしっとりとしていてなかなかうまかったのだが。
 眼前にいる鎬が、自分の膳にも手を付けずに呆然としているのに、平蔵は箸をくわえながら眉をひそめた。

「あんだよ、見ても面白いもんじゃねえだろ」
「あの、蘇芳さんはいつも食事をしているんですか」
「しょうがねえだろ、このあたりの奴らはさやを俺の子どもだと思ってんだからな。食わせなきゃ怒られる」

 その証拠に、長屋の女衆は平蔵がねぐらにいれば必ずおかずを持ち込みに来るようになった。
 普段の平蔵の生活態度から見れば、信用がないのもわかるが、さやが来たとたん干渉してくるようになったのはうっとうしい。

「本人が食えるって言うんだから良いんだろ」
「それは、良いんですけど。つまりほとんどの時間を現界しているのですか」
「すねたときは勝手に隠れるぞ」

 特にさやがまんじゅうをもたされた横で、平蔵が塩せんべいをかじっていたときには半日くらい姿を消していた。
 巴たちにせっつかれて、山ほど塩せんべいを貢ぐことで曲げたへそを戻したものだ。
 聞いていないようで聞いていたのか、さやが顔を上げた。 

「まだゆるしてない」
「仕方ねえだろ、てめえが言わないのもわりぃんだぞ……っておい!」

 ぷくっと頬を膨らませたさやが、見事な箸技で平蔵の漬け物を横取りした。
 反応する間もない早業に、平蔵はすかさずさやの小鉢を狙ったが、すでに中身は空っぽだった。
 当のさやは素知らぬ顔で漬物をかじっていた。

「そんな、なついてる……あの蘇芳さんがしゃべってる」
「おい飯は食わなきゃ、作った奴に失礼だ。というかさっきからいちいちその反応はなんなんだ」

 鎬の反応にいい加減めんどうになってきた平蔵がぞんざいに言えば、彼女ははっと箸を取りつつも、困惑気味に言った。
 その表情には、先ほどまでの険はない。

「蘇芳さんは、玖珂(くが)家に引き取られてから三年間。抜き手を選ばれていなかったんです」

 引き取られた、という言葉が引っかかるが、平蔵は酒を傾けながら問いかけた。

「別に珍しくないんじゃないか。将軍家に所蔵されている鞘神(さやがみ)の中には、数百年誰も抜き手を選ばねえもんもいると聞くぜ」
「その通りです。ですが、彼女の刃を誰も抜くことができませんでした」
「刃すら抜かせない?」

 平蔵が眉を上げれば、鎬は神妙な面持ちでこくりと頷いた。

「はい、鞘神は鞘が本体です。そのため刃はあくまで付随物であり、定期的に手入れをしなければいけません。ですが、蘇芳さんは少々特殊みたいで刀を抜くことすら嫌がりました。あまり姿を現さない鞘神様でもありましたので、抜き手候補として引き合わされた者も頑なな蘇芳さんに根を上げて返却を申し出るばかりだったんです」
「お前、頑固にもほどがあるだろう。刃がさび付いちまったら抜けなくなるんだぞ。そしたらお前も困るだろ」

 平蔵が思わず言えば、さやは箸を持ったまま黒髪を揺らしてうつむいた。

「……だってわからなかったんだもん」
「あん?」

 平蔵が眉をしかめて追求しようとしたが、気のない風だった春暁の声に遮られた。

「抜き手よ、あまり責めてくれるな。蘇芳にも事情があろう」

 春暁を平蔵はにらんだが、鞘神は曖昧な笑みのようなものを浮かべて麦茶を傾けるばかりだ。
 代わりとでも言うように、鎬が硬い顔で口を開いた。

「ですが、どの家でも、鞘神は不足しています。なるべく抜き手を見いだして欲しいと、玖珂家では、鞘神の了解を得て試験期間を設け、相性のよい抜き手を探っていく方法をとっていたのですが」
「それでさやは意に沿わねえ相手を押しつけられたってことか。そりゃあ家出したくもなるわな」
「その通り、なんです」

 平蔵が当てこすれば、鎬が眉尻を下げてうつむいた。
 どうにも素直過ぎてやりずらい。自分のことでも無かろうにいちいち真に受けるのは、彼女が大事に育てられたことをうかがわせた。

「だから、わたしはあなたにこのまま蘇芳さんと一緒にいてもらいたいと思っています」
「……あんだって」

 意外な返答に平蔵が飯を食う手を止めれば、鎬は無心に箸を動かすさやを見つつ言葉を続けた。

「蘇芳さんは、玖珂の誰にも心を開きませんでした。ですがあなたのことをこんなに慕っています。あなたと過ごす時間で、蘇芳さんの心がほぐれるならばそれ以上に良いことはありません」
「……俺は抜き手になる気はないぞ。虚神狩(うろがみが)りなんてめんどくせえものもごめんだ」
「えっならないんですか?」

 鞘神と共にいることは、虚神を狩る抜き手になると同義だ。
 主を持たぬ浪人にとってはこれ以上ないほど出世の道であるが、平蔵にとってはやっかいごと以外の何物でもない。

「誰でもやっとうで身を立てたいと思っているんなら大間違いだ。そもそもまともに働きたくねえんだっての」

 平蔵の自堕落そのものの言葉に、虚を突かれた顔をした鎬だったが、気を取り直して続けた。

「で、では今は、それでかまいません。わたしは鞘神様の意志をなるべく尊重して差し上げたいのです」
「良いのかよ、得体の知れねえ野郎に大事な鞘神様を任せてよ。てめえらにとってくそったれみてえなことを覚えるかもしれねえし、勝手にまた売り飛ばすかもしれないぜ」
「蘇芳さん自身が嫌なことは覚えないと思いますし、また帰ってくるだけだと思いますけど」

 平蔵がせいぜい野卑に笑ってみせれば、鎬は不思議そうで困惑したような表情をしていた。
 もっと嫌悪の表情になるかと思っていた平蔵が肩透かしを喰らわされた気分になっていると、くつくつと楽しげな笑い声が聞こえた。
 笑い声の主は春暁で、楽しげに扇子をもてあそびながら鎬に声をかけた。

「鎬、かような男は斜に構えたくなるものだ。合理的に飴と鞭を使い分けるのじゃな。有効なのは、金子と、酒あたりじゃの」
「てめ、何言って」
「飴と鞭……あ、そうだ!」

 いぶかしむ平蔵の前で考えていた鎬、が明るい表情になった。

「では平蔵さん、鞘神様を売り払った時のお金、返してください。わたしが立て替えてるんです。もし質屋さんに見つかってたら、お金を質屋さんに全部返してもらうことになってましたよ」
「別に俺はさやが戻って来いって言ったわけじゃねえし、鞘神だって知らなかったんだぞ」
「え、でももしわたし以外の玖珂家の人間に見つかったら、平蔵さんは問答無用で蘇芳さんを盗んだ犯人にされますよ。鞘神の所持は必ずご公儀に届け出なければなりませんから。良くて遠島、悪くて打ち首です」

 平然と物騒なことを口にする鎬に平蔵は目を剝くが、彼女はそのままあっけらかんと続けた。

「平蔵さんが蘇芳さんの面倒をみてくださるのでしたら、お礼として、いくらかお包みいたします」
「……金でも出すのか」
「ええと、こういうときの相場がわからないんですけど、とりあえずこれくらいで」

 馬鹿正直にそんなことを言いつつ、鎬が懐から取り出した財布から出したのは小判だった。
 長屋暮らしであれば、優に半年は暮らせる大金である。

「蘇芳さんが滞在中は定期的に支給できるように、とりはからいますが……」

 猛烈に頭が痛い気分になった平蔵は、愉快そうに見守っている春暁をぎろりとにらんだ。

「てめえんとこの教育はどうなっていやがんだ」
「はてなあ。我はただちいと助言をしているだけだからのう」
「そうじゃねえっての!」
「わたし、なにか間違えてしまいましたか。受けてはいただけませんか」

 不安げにする鎬に、平蔵は常識的な話の通じなさに途方に暮れた。
 しかしながら、これ以上日常をかき回されるのはごめんこうむるついでに、報酬は大変に魅力的でもある。
 うすうす深みにはまっている気がしないでもなかったが。

「わかったよ、それでやってやる」
「ほんとですか! ありがとうございます」

 ここは折れてやったほうが得だと悟った平蔵がうなずけば、ぱあと鎬の表情が輝いた。
 これでやっとまじめに飯が食えると、箸を動かした平蔵だったが。

「では、しばらく付き添わせていただきますので、よろしくお願いいたしますね」
「……は?」

 平蔵の箸から、つまんだ味噌焼きがぽろりと落ちるが、鎬は嬉々として続けた。

「さすがに家へお邪魔をするわけには参りませんが、蘇芳さんがどのようなものを好み、どのような能力を有しているか、把握するまたとない機会ですから。鞘神様が快適に過ごせるように気を配るのも、玖珂家のつとめですので」
「四六時中張り付くつもりかよ!?」
「だって必要ですし」

 驚愕の表情でとがめる平蔵に、きょとんとする鎬は全くわかっていない顔だった。
 このような娘が平蔵の後についてきたら、またいらない噂が流れるに決まっている。

「大丈夫です! 蘇芳さんが快適に過ごせるように支援は惜しみませんから。あ、魚おいしい」
「勘弁してくれ……」

 うれしそうに食事に手を付ける鎬に、この後のことを想像した平蔵は頭を抱える。
 平蔵の隣では、白飯で頬を膨らませるさやがいたのだった。
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