三、
文字数 3,647文字
平蔵は、唐突に目が覚めた。
顔に当たるのは、朝の日差しである。
背に感じるのは、万年床の固い感触だった。
いつの間に自分の長屋に帰ってきたのか覚えていない。
かめ屋で飲んだくれていたところまでは記憶にあるのだが、そこから先が、すっぱりとぬけていた。
ただ、ずいぶんすっきりしているような気がすると思った瞬間、強烈な頭痛と吐き気に悶絶した。
これは、まずい。
しかし追い打ちをかけるようにぐあん、と揺さぶられた。
「平蔵さん、平蔵さん! 起きてください、平蔵さんっ」
高い声で呼ばわるのは、あの夜以降会っていなかった鎬だった。
必死の形相で、鎬は平蔵の胸ぐらを掴んで揺さぶっていたのだ。
「大変なんです、蘇芳さんがっ……」
「やめろ、いま、ゆらしたら、おえ」
「みゃあああ!?」
鎬に無遠慮に揺らされた平蔵は、その場で盛大にぶちまけた。
悲鳴を上げておろおろする鎬を尻目に、慣れた手順で片付けたあと、水を飲み、着替えた平蔵は、ようやく人心地つく。
なぜか浴衣に着替えていたのが幸いし、いつもの着物に袖を通せた。
そして、汚れた衣を洗いに外へ出ようとした平蔵だったが、鎬に服の裾を掴まれた。
着替え始めた平蔵に慌てて外へと出て行ったのだが、懲りずに待っていたらしい。
「わたしが合わせる顔がないのはわかっています。でも知らせなきゃと思って」
「なんだ今更、俺はこいつを始末しなきゃなんねえんだが」
「蘇芳さんが盗まれました」
平蔵が握っていた衣に皺が寄る。
無言で黙り込む平蔵をどう取ったのか、鎬は後ろめたさにおびえながらも言葉を続けた。
「居なくなったのは、昨日の夜です。抜き手の居ない鞘神様は、刀倉へ収められます。ですが、その刀倉が開かれて、蘇芳さんだけが居なくなっていたんです」
「俺が盗みに行ったとでも思ったか」
張り付くようなのどを無理矢理動かして平蔵が言えば、鎬は首を横に振った。
「そう言う者もいましたが、同時期に前の抜き手である正目 様の行方がわからなくなっています。宗家では正目様が持ち出したと推測し、捜索が始められてます」
「てめえもそれに加われば良いだろう」
「正目様の居室から、例の輪天薬が見つかったんです」
鈍いながらも鎬の手を振り払おうとした平蔵は、思わず止まった。
くちおしげな鎬は低く這うような声で続けた。
「虚神狩りとしての修行をしてきた正目様だからこそ、今の今まで隠せたのでしょう。瘴気を押さえ込もうとした痕跡らしき札の残骸がありました」
「もう、俺は関係ねえだろ」
追いすがる鎬を無視して、平蔵は井戸へ向かう。
虚を空ける薬を服用していた者が刀を持ち出したとなれば、どんな方向であれ悪いようにしかならないのは目に見えている。
しかし平蔵はすでに突き放した身だ。さやも追ってはこなかった。
縁は断ち切られたも同然だ。
言い聞かせ、言い聞かせ、しかしぐつぐつと騒ぐ心が収まらない。
ゆえに、鎬の眼差しがするどく光ったのを見逃した。
次の瞬間、足が刈られ、地面に叩き付けられた。
完全に不意打ちで受け身もとれなかった平蔵は、痛みに息を詰まらせる。
抗議しようと顔を上げれば、馬乗りになった鎬が、くしゃくしゃに顔をゆがめて見下ろしていた。
「関係ありますっ! だって、やっと蘇芳さんが心を開けたあなただからっ!」
血を吐くかのような慟哭に、平蔵は押しのける手を止める。
「蘇芳さんは、名工天邦 の作として、多くの期待を集めていました。天邦は免状を持たぬ鞘師ですが、その手で生み出された鞘神様は、皆類い希な能力を持ち、英雄を選ぶ鞘神として、有名だったからです」
市井でも有名な話だ。
名工天邦 。樹木の声を聴いて作りたいからと、幕府から発行される鞘師 免状を持たず、各地の神木と己で交渉して創り上げる破天荒な鞘師である。
曰く、神木ですらない樹木からですら、鞘神を生み出す。
曰く、その腕は神業の域に達し、本来ならば鞘以外作らぬ鞘師でありながら、三所物、下げ緒、刀の鍔、柄巻き、果ては刀まで己で創る。
だが、免状なしに鞘神を生み出すことは厳しく取り締まられている。
故に、幕府から懸賞金まで賭けられて追われていてもなお、その鞘神はあまたの剣豪、虚神狩りに切望されているのだった。
あの童女がその天邦に創られたと話す鎬は、だが口惜しげに続けた。
「しかし蘇芳さんは、誰しもに扱える鞘神様ではありませんでした。唯一、天邦が言い残した『刃を創り出す』という言葉から、切れる刀を備えていると言われてました。ですが初期に蘇芳さんと組んだ抜き手がそろって彼女をなまくらと断じたことで周囲の人間は勝手に失望しました。切れぬ鞘神は、刀に劣ると」
「だが、俺の時は」
見事に切れる美しい刃だった。
思わずつぶやきかけた平蔵は、固く口を閉ざす。
しかしながら言葉の先がわかったのだろう、鎬は痛みを覚えているかのように顔をゆがめた。
「わたしも平蔵さんが抜いたことで、初めて蘇芳さんの力がわかりました。ですが、それを引き出せなかった未熟な抜き手たちに、蘇芳さんは心のない言葉をぶつけられ続けてきたのです。はじめの頃はわたしとよく話してくれたのに、刀倉へ返却されるたびに口を閉ざすようになりました。拒絶されることにおびえていたんです」
さやは肝心なところでは、ほとんど主張しない童女だった。
ことあるごとに役に立っているかと問いかけ、安堵して。
平蔵は、認めざるを得なかった。あの夜、平蔵の衣を握ったのがさやにとっての精一杯の主張だったのだと。
「わたしの考え足らずで、あなたの大事な想いを踏みにじってしまったことは、いくら謝っても足りないと思います。わたしはあなたに何があったか、資料でしか知りません。あなたがどんな思いで、蘇芳さんの名前を呼ばなかったのかもわかりません。でも!」
鎬は衝動のままに平蔵の衿首を掴み上げて、悲痛に叫んだ。
「あれほど美しい刃を抜いたあなたまで、かつての抜き手と同じことをするのですか!」
がん、と殴られたような気がした。
ぎしぎしと軋むような衝撃に平蔵が言葉をなくしていれば、鎬の目じりから、こらえきれなくなった涙がほとりほとりと落ちてゆく。
「お願いですから、あなたまで、蘇芳さんを見捨てないで……」
ぐずぐずと崩れ落ちる鎬の傍らに、鮮やかな夕緋色の狩衣を着た春暁 が現れ、その体を支えた。
その瞳は平蔵へは向かず、鎬に注がれている。
以前に出会ったときにはちぐはぐな主従だと考えていたが、そうして寄り添う姿はしっくりときていた。
それが、この二人の絆なのだろう。
平蔵が、かたくなにさやと呼び続けていた鞘神はどうであったか。
始まりはたまたまだった。うっとうしくさえ思っていた。
しかし、彼女が側に居たことで安らぎを覚える自分がいた。
さやはただ、平蔵に寄り添い続けるだけだった。
にもかかわらず、つまらない矜持を押しつけて、彼女を突き放した。
彼女がどれほど勇気を出したかも見ぬ振りをして。
挙句己はこのざまだ。
何でも切り捨ててきた平蔵にもかかわらず、どうしてもぐつりぐつりと煮えるように主張する凝りはなくせなかった。
確かに、虚神狩りに従うことはあり得なかった。
けれど、それで本当に己が貫きたかったものは守れたのか?
『へーぞーはさむらいにならないの』
唯一、平蔵の心にくさびを落とした言葉の理由を、聴いていなかった。
無性に、その真意が知りたくなった。
受け入れると決めたわけでもない。氷のように冷えた拒否感は未だに胸にある。
だが平蔵の中に残る、ちっぽけな何かがうずいたのだ。
まさか、一回りは年下の娘に諭されるとは、と平蔵はおのれの無様さを自嘲する。
しかし、昨日まであれほど凝り固まっていたにも関わらず、今は不思議と開き直った気分になっていた。
やけ、とも言うべきかも知れない。
のろり、と立ち上がった平蔵に、鎬が落胆の表情を浮かべたが、かまわず、隣の長屋の戸を叩いた。
息を潜めて聞き入っていたらしい女房が、硬直しているのに言う。
「わりぃがたらいを一日貸してくれ。さやを探しにすぐ出なきゃならなくなった」
「平蔵さんっ」
ぱあと、表情を輝かせているのがわかる鎬を努めて見ないようにする。
平蔵が返事を待っていれば、汚れた衣がひったくられた。
「そんなもん洗っといてやるから、とっととおさやちゃん迎えに行ってやんな!」
「……おう」
女の啖呵に甘えた平蔵は決まりが悪かったが、幾分すがすがしい心地で鎬を振り返ったのだった。
顔に当たるのは、朝の日差しである。
背に感じるのは、万年床の固い感触だった。
いつの間に自分の長屋に帰ってきたのか覚えていない。
かめ屋で飲んだくれていたところまでは記憶にあるのだが、そこから先が、すっぱりとぬけていた。
ただ、ずいぶんすっきりしているような気がすると思った瞬間、強烈な頭痛と吐き気に悶絶した。
これは、まずい。
しかし追い打ちをかけるようにぐあん、と揺さぶられた。
「平蔵さん、平蔵さん! 起きてください、平蔵さんっ」
高い声で呼ばわるのは、あの夜以降会っていなかった鎬だった。
必死の形相で、鎬は平蔵の胸ぐらを掴んで揺さぶっていたのだ。
「大変なんです、蘇芳さんがっ……」
「やめろ、いま、ゆらしたら、おえ」
「みゃあああ!?」
鎬に無遠慮に揺らされた平蔵は、その場で盛大にぶちまけた。
悲鳴を上げておろおろする鎬を尻目に、慣れた手順で片付けたあと、水を飲み、着替えた平蔵は、ようやく人心地つく。
なぜか浴衣に着替えていたのが幸いし、いつもの着物に袖を通せた。
そして、汚れた衣を洗いに外へ出ようとした平蔵だったが、鎬に服の裾を掴まれた。
着替え始めた平蔵に慌てて外へと出て行ったのだが、懲りずに待っていたらしい。
「わたしが合わせる顔がないのはわかっています。でも知らせなきゃと思って」
「なんだ今更、俺はこいつを始末しなきゃなんねえんだが」
「蘇芳さんが盗まれました」
平蔵が握っていた衣に皺が寄る。
無言で黙り込む平蔵をどう取ったのか、鎬は後ろめたさにおびえながらも言葉を続けた。
「居なくなったのは、昨日の夜です。抜き手の居ない鞘神様は、刀倉へ収められます。ですが、その刀倉が開かれて、蘇芳さんだけが居なくなっていたんです」
「俺が盗みに行ったとでも思ったか」
張り付くようなのどを無理矢理動かして平蔵が言えば、鎬は首を横に振った。
「そう言う者もいましたが、同時期に前の抜き手である
「てめえもそれに加われば良いだろう」
「正目様の居室から、例の輪天薬が見つかったんです」
鈍いながらも鎬の手を振り払おうとした平蔵は、思わず止まった。
くちおしげな鎬は低く這うような声で続けた。
「虚神狩りとしての修行をしてきた正目様だからこそ、今の今まで隠せたのでしょう。瘴気を押さえ込もうとした痕跡らしき札の残骸がありました」
「もう、俺は関係ねえだろ」
追いすがる鎬を無視して、平蔵は井戸へ向かう。
虚を空ける薬を服用していた者が刀を持ち出したとなれば、どんな方向であれ悪いようにしかならないのは目に見えている。
しかし平蔵はすでに突き放した身だ。さやも追ってはこなかった。
縁は断ち切られたも同然だ。
言い聞かせ、言い聞かせ、しかしぐつぐつと騒ぐ心が収まらない。
ゆえに、鎬の眼差しがするどく光ったのを見逃した。
次の瞬間、足が刈られ、地面に叩き付けられた。
完全に不意打ちで受け身もとれなかった平蔵は、痛みに息を詰まらせる。
抗議しようと顔を上げれば、馬乗りになった鎬が、くしゃくしゃに顔をゆがめて見下ろしていた。
「関係ありますっ! だって、やっと蘇芳さんが心を開けたあなただからっ!」
血を吐くかのような慟哭に、平蔵は押しのける手を止める。
「蘇芳さんは、名工
市井でも有名な話だ。
名工
曰く、神木ですらない樹木からですら、鞘神を生み出す。
曰く、その腕は神業の域に達し、本来ならば鞘以外作らぬ鞘師でありながら、三所物、下げ緒、刀の鍔、柄巻き、果ては刀まで己で創る。
だが、免状なしに鞘神を生み出すことは厳しく取り締まられている。
故に、幕府から懸賞金まで賭けられて追われていてもなお、その鞘神はあまたの剣豪、虚神狩りに切望されているのだった。
あの童女がその天邦に創られたと話す鎬は、だが口惜しげに続けた。
「しかし蘇芳さんは、誰しもに扱える鞘神様ではありませんでした。唯一、天邦が言い残した『刃を創り出す』という言葉から、切れる刀を備えていると言われてました。ですが初期に蘇芳さんと組んだ抜き手がそろって彼女をなまくらと断じたことで周囲の人間は勝手に失望しました。切れぬ鞘神は、刀に劣ると」
「だが、俺の時は」
見事に切れる美しい刃だった。
思わずつぶやきかけた平蔵は、固く口を閉ざす。
しかしながら言葉の先がわかったのだろう、鎬は痛みを覚えているかのように顔をゆがめた。
「わたしも平蔵さんが抜いたことで、初めて蘇芳さんの力がわかりました。ですが、それを引き出せなかった未熟な抜き手たちに、蘇芳さんは心のない言葉をぶつけられ続けてきたのです。はじめの頃はわたしとよく話してくれたのに、刀倉へ返却されるたびに口を閉ざすようになりました。拒絶されることにおびえていたんです」
さやは肝心なところでは、ほとんど主張しない童女だった。
ことあるごとに役に立っているかと問いかけ、安堵して。
平蔵は、認めざるを得なかった。あの夜、平蔵の衣を握ったのがさやにとっての精一杯の主張だったのだと。
「わたしの考え足らずで、あなたの大事な想いを踏みにじってしまったことは、いくら謝っても足りないと思います。わたしはあなたに何があったか、資料でしか知りません。あなたがどんな思いで、蘇芳さんの名前を呼ばなかったのかもわかりません。でも!」
鎬は衝動のままに平蔵の衿首を掴み上げて、悲痛に叫んだ。
「あれほど美しい刃を抜いたあなたまで、かつての抜き手と同じことをするのですか!」
がん、と殴られたような気がした。
ぎしぎしと軋むような衝撃に平蔵が言葉をなくしていれば、鎬の目じりから、こらえきれなくなった涙がほとりほとりと落ちてゆく。
「お願いですから、あなたまで、蘇芳さんを見捨てないで……」
ぐずぐずと崩れ落ちる鎬の傍らに、鮮やかな夕緋色の狩衣を着た
その瞳は平蔵へは向かず、鎬に注がれている。
以前に出会ったときにはちぐはぐな主従だと考えていたが、そうして寄り添う姿はしっくりときていた。
それが、この二人の絆なのだろう。
平蔵が、かたくなにさやと呼び続けていた鞘神はどうであったか。
始まりはたまたまだった。うっとうしくさえ思っていた。
しかし、彼女が側に居たことで安らぎを覚える自分がいた。
さやはただ、平蔵に寄り添い続けるだけだった。
にもかかわらず、つまらない矜持を押しつけて、彼女を突き放した。
彼女がどれほど勇気を出したかも見ぬ振りをして。
挙句己はこのざまだ。
何でも切り捨ててきた平蔵にもかかわらず、どうしてもぐつりぐつりと煮えるように主張する凝りはなくせなかった。
確かに、虚神狩りに従うことはあり得なかった。
けれど、それで本当に己が貫きたかったものは守れたのか?
『へーぞーはさむらいにならないの』
唯一、平蔵の心にくさびを落とした言葉の理由を、聴いていなかった。
無性に、その真意が知りたくなった。
受け入れると決めたわけでもない。氷のように冷えた拒否感は未だに胸にある。
だが平蔵の中に残る、ちっぽけな何かがうずいたのだ。
まさか、一回りは年下の娘に諭されるとは、と平蔵はおのれの無様さを自嘲する。
しかし、昨日まであれほど凝り固まっていたにも関わらず、今は不思議と開き直った気分になっていた。
やけ、とも言うべきかも知れない。
のろり、と立ち上がった平蔵に、鎬が落胆の表情を浮かべたが、かまわず、隣の長屋の戸を叩いた。
息を潜めて聞き入っていたらしい女房が、硬直しているのに言う。
「わりぃがたらいを一日貸してくれ。さやを探しにすぐ出なきゃならなくなった」
「平蔵さんっ」
ぱあと、表情を輝かせているのがわかる鎬を努めて見ないようにする。
平蔵が返事を待っていれば、汚れた衣がひったくられた。
「そんなもん洗っといてやるから、とっととおさやちゃん迎えに行ってやんな!」
「……おう」
女の啖呵に甘えた平蔵は決まりが悪かったが、幾分すがすがしい心地で鎬を振り返ったのだった。