9. 路地裏の現実 ― 1

文字数 2,499文字

 そして、ある時。

 エミリオが不意に、視線だけでそちらを示しながら、ライカにこう(ささや)きかけた。
「殿下、あの暗い影に親子がいるのが分かりますか。ほら、あの階段の影になっている所。」

「親子・・・?」

 目を()らしてみたライカは、すぐに見つけることができた。やせ細った女性と、その頼りない体にすがりつくようにして、(かたわ)らにいる幼い少女の姿を。

 するとたちまち、これまで覚えたことのない感情が押し寄せてきて、ライカは戸惑った。胸をぎゅっとつかまれたように苦しい。なぜかは、その親子を〝(あわ)れ〟に思う気持ちのせいだと分かった。ただ、それがいいことなのか、悪いことなのかは分からなかった。だがとにかく、彼女たちには助けが必要だ・・・・と感じたライカは、ほとんど無意識のうちに、そこへ足を向けていた。

「ママ・・・ねえ、ママ・・・。」

 その少女は心配そうに、母親らしいその女性に話しかけているが、彼女はぐったりとして、まるで返事をしようとしない。精神的にも異常をきたしかけているように、ギルやエミリオには見受けられた。

「ママ、私、何かもらってきてあげる。だから元気だして。」

 少女がそう言って離れかけると、女性の顔に急に生気が戻った。何も見ておらず、聞いていないかのような表情だったが、彼女は我が子が何を言ったのかにハッと気付いて手を伸ばし、立ち上がろうとしたのである。

「あ、ダメよ、行かないでっ。道が分からなくーー ⁉」

 しかし母親らしいその女性は、勢いよく立ち上がったものの、とたんに足の力が抜けてしまい、ライカが見ている前で派手に倒れた。すぐに手をついて起き上がろうとするも、肩を地面に付けたまま身悶(みもだ)えているだけである。自力で体を起こすのが上手くいかないようだ。

 ただそれだけのことに必死な様子に、ライカは驚いて立ちすくんでしまった。

「ママッ!」

 少女が足を止めて振り返ったのと同時に、誰よりも早くリューイも駆け寄った。そして彼女を抱き起こしてやり、その骨ばった肩を支えた。実際、リューイ自身、ライカと同じ衝撃を受けていた。

「あ、す、すみません、もう大丈夫です。」
「大丈夫じゃないだろ。いつから・・・食べてないんだ。」
「・・・三日前に・・・いただいた林檎(りんご)を。」と、小声で答えて、彼女はパッと顔を上げた。「お願いです、どうか子供に、娘に何か食べさせてあげて・・・ください。」 

 その母親は、もはや羞恥(しゅうち)をも通り越した涙声でリューイに哀願(あいがん)している。

「どういうことか分かるか、ライカ。」
 ギルは(たたず)んだままのライカの隣に立って、静かに声をかけた。

 ライカは初めて覚える衝撃と切なさのせいで、何も言えずにいる。

 それで、ギルは返事を待たずに続けた。
「この親子は、三日前に誰かが恵んでくれた林檎にありつけたきり、何も食べていないらしい。しかも母親の方は、あの様子だとその林檎にもほとんど口を付けなかったんだろう。自分だって死ぬほど腹をすかせているだろうに。救いの手がある所にはあるんだろうが、それを誰もがすぐに思いついて、上手く行動できるわけじゃない。」

「まず単純にできることとしての働き口がなかなか見つからず、路頭に迷っているんだろう。幼い子供付きの働き手を(やと)ってくれる所なんて、そう無いからな。」
 やや背後から、レッドもそう補足した。

 すると、(おもむ)ろに動きだしたライカが、一人で親子のそばへと歩み寄って行く。
 そして、どうする気かと注目しているほかの者の見ている前で、黙って紙袋を探ると、中からパンを一つ取り出したのである。

 親子と、その母親を支えているリューイが、驚いたようにライカを見上げた。

 ただ、母親の方が驚いた理由は、ライカがとったその行動だけではなかった。

「これを・・・。」と、たどたどしく、ライカはその幼い少女にパンをひとつ差し出した。

 少女は初め少し戸惑っていたようだが、ゴクリと(のど)を鳴らしたとたん、吸い寄せられるように両手を伸ばした。それから「ありがとう。」と思い出して言い、母親の分をきちんと分けたあとは、無我夢中になってその調理パンを口にほおばっていた。

 そんな少女を見つめるライカの目は、後先も常識も周りのことも考えず、勝手 気儘(きまま)に行動するような少年にはとうてい見えないほどの慈悲(じひ)にあふれている。

 さらにライカは、そのあと、今まで買いあさってきた果物やら菓子をも袋から取り出して、次々と少女にあげだした。

「これも、これも・・・全部。」

 そしてまだ残っている分は、袋ごとそのまま母親に手渡したのである。

「こ、こんなにたくさん。ありがとうございます、ありがとうございます。」

 レッドは、ふと気づいた。恐らく、さっきまではそこに無かったものに。路上の、少女があわてて(きびす)を返した辺りだ。
 石ころのように目立ちはしないが、それは薄いオレンジ色の縞模様(しまもよう)がついた、巻貝(まきがい)(から)だった。
 着衣のポケットに穴でも開いていて、さっき落としたのだろう。宝物・・・思い出の品だろうか。そう推測しながら拾い上げて、レッドも親子に近づいた。そしてそれを、そのまま少女に返すのではなく、母親の方に見せたのである。

(あきら)めちゃダメだ。」
 そばに腰を落として、レッドは言った。
「子供を守りたいなら、空腹では難しいだろうが、考えることを止めちゃダメだ。ここは悪い国じゃない。何かあるはずだ。二人で生きるために、できることが必ず。」

 厳しくて優しい、そんな彼の眼差(まなざ)しを見つめ返すばかりで何の返事もできない彼女だったが、その瞳はこみあげる涙で濡れていた。

「王宮へ・・・。」と、ライカが不意に言った。「まずは食事を。そして王宮へ。そこでミハイル・グレンという名を伝えるといい。きっと・・・希望が見つかると思う。」

 彼女の肩から手を放して、リューイは立ち上がった。
 レッドも、ライカの背中にそっと手を回すだけで(うなが)した。
 それにうなずいて応えたライカは、親子に背中を向けた。

「ありがとうございます・・・。」

 食べ物の詰まった袋と貝殻(かいがら)を抱きしめて、去っていく彼らの後ろ姿に何度も頭を下げながら、そのまま彼女は涙を流した。

「ありがとうございます・・・王子様。」



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