第4話
文字数 2,975文字
「待った! まだ終わっていない」
木槌が振り下ろされる直前に、春川は声を上げた。このままでは本当に書けなくなってしまうかもしれない。それに実在しない女に言い負かされたままというのも悔しい。
「偉大な主題とか、『三国志世界』と向き合うとか、原告の言っていることはさっぱりわかりません。当然でしょう。だって理解する必要が無いんですから。
小手先で
だいたい三国志の物語だって、結局は
時間を割いてごちゃごちゃ理屈をこねまわして書いた文章が読者に受け入れられなかったら、労力の無駄じゃないか。それだったら小手先でも何でも
裁判長は左右の裁判官と何やら相談し始めた。裁判官と裁判長の座る台は高さが違うので、裁判官は立ち上がって背伸びし、裁判長は腰を折って左右に上半身を伸ばしながら話す。
「どうも開き直っているようですが、賞賛と報酬欲しさに原告を殺したとは、申し開きにはなっていないよう思えます」
「そういう浅はかな考えの持ち主だから、これ以上小説を書いてほしくないというのが、原告の主張なのだからな」
「しかし、原告の住む『三国志世界』は、読者、または聴衆、視聴者など、つまりその物語を享受する者の支持が無ければ成り立たなかったというのも一理あります。で、あるなら、今回物語の中で原告を前半で殺害したのも、
「ふむ。原告の主張する三国志物語の主題は、長らく人々に支持されてきたが、それがずっと続くとは限らない。人々の支持を得られるように改変するというのは、むしろ悪いことではないのかもしれん。実際に原告が語った通り、三国志物語の王道とは異なる展開を見せる物語も過去にはあったのだが、王道の展開が固定されてゆく中で捨てられたとか。それが許容されていたならば、被告が支持を得るために改変を行ったのも、許されるべきかもしれぬ」
「そうです。裁判長はよくわかっておいでだ」
追い風が吹いてきたと、春川はさらに主張を続けた。
「孝 とか忠義とか、はっきり言って現代では時代遅れです。でも三国志の物語は古典小説であって、そういう昔の価値観が許容されている。貂蝉 の後半の活躍で、確かに呂布 という人間の悪い部分を浮き彫りにしていますが、今の世の中ではそれは
もし原告がそれでも過去の価値観を体現したままの姿で居たいというなら、刑を執行すればよろしい。でもずっと変化しないままでは、いつか廃れてしまいますよ。そうなったら、もう存在意義がどうだとか、言っていられなくなります」
裁判長たちはどう判決を下せばいいか迷っているようだった。彼らに貂蝉は声をかけた。
「裁判長。わかりました。わたくし訴えを取り下げますわ」
訴えを取り下げる。つまり判決が出る前に、貂蝉は春川の主張に納得し、自分が間違っていたと認めたのだ。
勝利だ。これで作品を消されることもなく、作家としての才能も失わない。春川は喜んだ。そして勝ち誇って目の前の貂蝉を見た。
しかし、彼女に敗北者の惨めさはなかった。それどころか、すがすがしく清廉な雰囲気を纏い、豪華な装いが一層映えて、輝いて見えた。
なぜなのか。勝者は自分なのに。春川は戸惑いと腹立たしさを覚えた。
「訴えを取り下げると。その理由を述べなさい」
裁判長に促されて、貂蝉は静かに語り始めた。
「読者に
わたくしにはもう一つ捨てられた物語があります。その中のわたくしは容貌も醜く、度胸もないただの少女でした。でも名医華陀 様のおかげで、絶世の美女西施 の顔と豪胆な荊軻 の心臓を得て、見事董卓 と呂布の二人を手玉に取って、連環 の計を成したのです。
これはきっと多くの人々が、平凡な人間でも何かを成し遂げられるという希望を、わたくしに託して生まれた物語なのです。これは『三国志演義』には入れてもらえず、捨て去れたのですが、でもまだこの広い『三国志世界』のどこかに、しっかりと残っているのです。
この男が描いた物語も、一定の人々から
彼女は決して春川に負けたわけではなかった。春川との裁判を通して、『三国志世界』と己の存在意義について、悟ったのだった。
「原告の主張は十分理解できました。では、被告の小説とその才能の末梢は行わない」
小説も失わず、書き続けられる。しかし春川の顔に安堵の笑みはなかった。
「あなたはご自由に小説を書けばいいのです。三国志を享受する者たちの夢や希望を、どうぞ物語の中で昇華してください。
でも、あなたの作品がどれほどのものであるかは、読者である彼らが決めるのです。
その魅力というのは偉大な主題でもあり、人々の希望でもあります。そして『三国志世界』を構成する無数の物語の多くは、三国志物語の普遍的な魅力とは何かを考え、腐心して作り出された物ばかりです。それが『三国志世界』と真摯に向き合うということなのです。
今のあなたの作品は、一時は人々の支持を得られるでしょうが、すぐに忘れさられて、『三国志世界』の片隅にひっそりと存在するだけになってしまうでしょう。しかし今裁判を通してわかりえたこともあるでしょうから、あなたの作品がそうならないことを、わたくしは祈っておりますわ」
それは貂蝉からの別れの挨拶だった。裁判長が木槌を打って閉廷を告げると。俄かに靄 が濃くなり、裁判長も背後の大男も、そして貂蝉をも包み込んでいく。
彼女の微笑をたたえたきらびやかな姿がすっかり見えなくなると、足許の硬い感覚が消え、白い靄の中を春川はあてもなく落下していった。そうしてやっと、この奇妙な夢から醒めることができたのだ。
木槌が振り下ろされる直前に、春川は声を上げた。このままでは本当に書けなくなってしまうかもしれない。それに実在しない女に言い負かされたままというのも悔しい。
「偉大な主題とか、『三国志世界』と向き合うとか、原告の言っていることはさっぱりわかりません。当然でしょう。だって理解する必要が無いんですから。
小手先で
受ける
場面や展開を作っているって、そりゃそうですよ。だってそれが小説でしょう。そうでなくちゃ誰も読みやしない。読者を獲得できなければ意味が無いんだから、読者に受ける
ように書けばそれでいいんだ。真摯じゃないと言われても、読者に選ばれているんだ僕の小説は。だいたい三国志の物語だって、結局は
受け
なければただの歴史上の人物の伝説っていうだけで終わって、こんな立派な物語の形にならなかっただろうし、当然あんたも生まれなかったんだ。長い年月のどこかで支持されなくなったら、もう終わってたんだよ。時間を割いてごちゃごちゃ理屈をこねまわして書いた文章が読者に受け入れられなかったら、労力の無駄じゃないか。それだったら小手先でも何でも
受け
のいい作品を書いて評価と報酬を得た方がいいに決まってる。それの何が悪いんだ」裁判長は左右の裁判官と何やら相談し始めた。裁判官と裁判長の座る台は高さが違うので、裁判官は立ち上がって背伸びし、裁判長は腰を折って左右に上半身を伸ばしながら話す。
「どうも開き直っているようですが、賞賛と報酬欲しさに原告を殺したとは、申し開きにはなっていないよう思えます」
「そういう浅はかな考えの持ち主だから、これ以上小説を書いてほしくないというのが、原告の主張なのだからな」
「しかし、原告の住む『三国志世界』は、読者、または聴衆、視聴者など、つまりその物語を享受する者の支持が無ければ成り立たなかったというのも一理あります。で、あるなら、今回物語の中で原告を前半で殺害したのも、
受ける
ためであれば、正当な行為になるのでは」「ふむ。原告の主張する三国志物語の主題は、長らく人々に支持されてきたが、それがずっと続くとは限らない。人々の支持を得られるように改変するというのは、むしろ悪いことではないのかもしれん。実際に原告が語った通り、三国志物語の王道とは異なる展開を見せる物語も過去にはあったのだが、王道の展開が固定されてゆく中で捨てられたとか。それが許容されていたならば、被告が支持を得るために改変を行ったのも、許されるべきかもしれぬ」
「そうです。裁判長はよくわかっておいでだ」
追い風が吹いてきたと、春川はさらに主張を続けた。
「
受け
ないんですよ。呂布自身を抜群の武を誇りながら上手く立ち回れなかった悲劇のヒーローととる風潮もありますし、過度に格好悪いところを描くのは、却って読者が離れてしまう。もし原告がそれでも過去の価値観を体現したままの姿で居たいというなら、刑を執行すればよろしい。でもずっと変化しないままでは、いつか廃れてしまいますよ。そうなったら、もう存在意義がどうだとか、言っていられなくなります」
裁判長たちはどう判決を下せばいいか迷っているようだった。彼らに貂蝉は声をかけた。
「裁判長。わかりました。わたくし訴えを取り下げますわ」
訴えを取り下げる。つまり判決が出る前に、貂蝉は春川の主張に納得し、自分が間違っていたと認めたのだ。
勝利だ。これで作品を消されることもなく、作家としての才能も失わない。春川は喜んだ。そして勝ち誇って目の前の貂蝉を見た。
しかし、彼女に敗北者の惨めさはなかった。それどころか、すがすがしく清廉な雰囲気を纏い、豪華な装いが一層映えて、輝いて見えた。
なぜなのか。勝者は自分なのに。春川は戸惑いと腹立たしさを覚えた。
「訴えを取り下げると。その理由を述べなさい」
裁判長に促されて、貂蝉は静かに語り始めた。
「読者に
受ける
から、この者はそう言いました。そうです。わたくしたちが偉大な主題を表現するのも、それは全て物語を享受する者のためなのです。彼らは物語世界にあらゆるものを求めています。沢山ありすぎて一口には語れませんけれど、強いて平易な言葉を使うなら、それは夢や希望なのです。わたくしにはもう一つ捨てられた物語があります。その中のわたくしは容貌も醜く、度胸もないただの少女でした。でも名医
これはきっと多くの人々が、平凡な人間でも何かを成し遂げられるという希望を、わたくしに託して生まれた物語なのです。これは『三国志演義』には入れてもらえず、捨て去れたのですが、でもまだこの広い『三国志世界』のどこかに、しっかりと残っているのです。
この男が描いた物語も、一定の人々から
受け
ているとなれば、それは多少なりとも、彼らの求める夢や希望が物語の中にあるということです。わたくしがそれを間違っていると断じて消し去ろうとするのは、傲慢で道理にかないません。彼の作品もまた、『三国志世界』を構成する一つとなるのが正しいのです」彼女は決して春川に負けたわけではなかった。春川との裁判を通して、『三国志世界』と己の存在意義について、悟ったのだった。
「原告の主張は十分理解できました。では、被告の小説とその才能の末梢は行わない」
小説も失わず、書き続けられる。しかし春川の顔に安堵の笑みはなかった。
「あなたはご自由に小説を書けばいいのです。三国志を享受する者たちの夢や希望を、どうぞ物語の中で昇華してください。
でも、あなたの作品がどれほどのものであるかは、読者である彼らが決めるのです。
受ける
というのは、決して一時的な熱狂ではありません。『三国志世界』が大樹のようになれたのは、その物語が人々に受けた
からにほかなりませんが、一時的な潮流ではなく、長く人々に支持され続ける魅力があったからなのです。その魅力というのは偉大な主題でもあり、人々の希望でもあります。そして『三国志世界』を構成する無数の物語の多くは、三国志物語の普遍的な魅力とは何かを考え、腐心して作り出された物ばかりです。それが『三国志世界』と真摯に向き合うということなのです。
今のあなたの作品は、一時は人々の支持を得られるでしょうが、すぐに忘れさられて、『三国志世界』の片隅にひっそりと存在するだけになってしまうでしょう。しかし今裁判を通してわかりえたこともあるでしょうから、あなたの作品がそうならないことを、わたくしは祈っておりますわ」
それは貂蝉からの別れの挨拶だった。裁判長が木槌を打って閉廷を告げると。俄かに
彼女の微笑をたたえたきらびやかな姿がすっかり見えなくなると、足許の硬い感覚が消え、白い靄の中を春川はあてもなく落下していった。そうしてやっと、この奇妙な夢から醒めることができたのだ。