第1話

文字数 2,939文字

 果てのない白い(もや)の中を、ただ前へ前へと歩む。いや、正確には歩まされている。彼の左右には、鎧をつけて鬼瓦のような顔をした屈強な男が、その腕をがしりと掴んで、力づくで引っ張っていた。

 振り払おうにも彼の両手首は、板状の手枷に拘束されているし、そもそも左右の大男に敵うべくもない。

 しばらく行くと、前方に何か見えた。半月型の木製の柵がくるりとこちら側に湾曲している。大男二人は、彼をその湾曲の中心に立たせると、後ろに腕を組んで仁王立ちした。

「何なんだ。夢なのか?」

「被告人春川よ、静粛にせよ」

 半ば自身に問いかけるように放った言葉に、上から重々しい声が降りかかってくる。

 見上げると靄が晴れてゆき、前方に三つの山のような台が現れた。一番高い中央の台の上に、四角い帽子をかぶった老人が鎮座していた。白く長い髭のせいでよく見えないが、紫色の袖がゆったりとした着物のような衣服を着ている。左右の台にも、似たような服装のいくぶんか若そうな男が二人座っていた。

「静粛にって、裁判じゃあるまいし」

「いや、これは紛れもない裁判である」

 春川がぎょっとしていると、老人は朗々と声を張った。

「被告春川は、殺人の罪を犯した。その罪を詳らかにし、しかるべき罰を与えんがため、厳粛に裁判を行う」

「冗談じゃない。僕は誰一人殺しちゃいない。冤罪だ」

 裁判だというわりに、後ろの屈強な男二人も、裁判官と思しき老人も、現代日本の司法の場に相応しい装いではないし、春川が立たされている柵と裁判官の座る台のあたり以外は、依然として白い靄に覆われて、何も見通せない。

 これは夢だ。そう春川は断じた。しかし夢とはいっても、殺人犯だなどと言われては気分が悪い。反論しようと身を乗り出すと、後ろの大男二人に引っ張られた。

「被告人は静粛に」

「横暴だ。僕は生まれてこのかた、夢の中でだって、一人も人を殺していないのに。じゃあ教えてくださいよ、僕がいつ、どこで、誰を殺したんです?」

「見苦しい。殺したではありませんか」

 右の方から高い女の声がした、振り向くと、靄の向こうから、誰かが近づいてくる。

 現れたのは美麗な若い女。黒髪を高く結い上げて、桃色に白い花模様の華麗な衣服を身に着け、その随所に金銀宝玉が散りばめられている。しかし下品に見えることはなく、あくまで優美さを保っており、また装飾品に負けないほどに、その肌は白く透き通り、瞳は輝いていた。

「あなたはこのわたくしを殺した」

 美しい女は赤く鮮やかな唇を開いて、細く、しかし美しい声で春川にそう告げた。

「馬鹿な。あなたとは会ったこともない。そんな中国の時代劇みたいな恰好をして、やっぱりここは夢の中なんだな。と、なれば、あなたはこの世に存在しない人間でしょう。そんな人をどうやって殺すんです。しかも、殺された張本人がここにいるなんて、ちゃんちゃらおかしい」

「そもそも罪を犯した自覚もないと。でも、わたくしの名前を聞いたら、きっと己の過ちを認めざるを得ないでしょう」

「いいだろう。では仰ってください。あなたのお名前を」

「わたくしは、貂蝉(ちょうせん)と申します。姓を(じん)といい、幼名を紅昌(こうしょう)と名乗っていたこともありましたが、今はそんな姓とか幼名とかより、貂蝉、という名こそが私を表しているのです」

 聞くなり春川は大笑いした。

「貂蝉だって。あの三国志の中の、美女連環(びじょれんかん)の計の貂蝉だっていうんですか? いや、確かに傾国(けいこく)の美女に相応しいお美しさですが。いや、そんなことはいい。それよりあなたは物語の中の架空の人物じゃありませんか。他の三国志の人物と違って、歴史上の人物じゃない。実在すらしない虚構の存在。そんなものが裁判を起こして、現在日本に生きる僕を裁くなんて、夢の中っていうのは、ずいぶんむちゃくちゃな事が起こるものですね」

 柵にもたれて笑う春川を、大男のうち一人が掴んで直立させる。笑うな、という強い制止だ。春川も流石に真顔に戻る。

「被告は原告を侮辱しないように」

「本当の事を言ったまでです」

「良いのです、裁判長。この者はまだわからぬようですので、わたくしが話します」

 貂蝉はそっと片手を伸ばして裁判長を制し、滑るように春川の正面に進んだ。

「わたくしが架空の存在だとおっしゃいましたね。ええそうです。わたくしはかの董卓(とうたく)とか、呂布(りょふ)とか、王允(おういん)様のように歴史上に実在した人間ではなく、後世の人々が彼らの物語を語った時に生み出された存在です。強いて言えば、董卓の側に仕えながら呂布と密通した女が、歴史上に実在したわたくしなんでしょうけど、でもその女とわたくしはあまりにかけ離れすぎていて、もうまったく別の存在という感じです。それはあなた方後世の人の方が良くお分かりでしょう。

 でもわたくしは確かに生きています。最初に誰かが後漢(ごかん)末の英雄のことを語り始めた頃から、芝居を作ったり、小説が書かれたり、映画ができたり、そうやって大樹が枝葉を伸ばすように、あの時代から現在まで続き、そしてさらに広がり続ける『三国志世界』に、わたくしは確かに生きているのです。義父への孝心(こうしん)(かん)の王朝への忠義に身を捧げ、国を救わんとした一人の英雄として、生き続けてきたのです」

 そこで一つ息を入れた貂蝉は、柳眉をきつく顰めて春川を睨んだ。

「そんなわたくしを、あなたは殺してしまった。あなたの書いた小説の中で」

 そう、春川は今まさに三国志を題材にした小説を執筆中だ。中国の二、三世紀に起きた後漢滅亡から三国分裂、晋による三国統一の歴史を物語化した『三国志演義(さんごくしえんぎ)』という古典小説に拠り、独自の解釈や脚色を加えた作品だ。

「つまりあなたは、僕の作品の中で、董卓が殺されたあと、呂布の目の前で貂蝉が自殺するから、それを殺人だと、僕に殺されたと言っているのですか」

「ええ。おわかりになりましたか」

 春川はまた笑った。しかし背後から大男たちの怖い視線を感じたので、今回はなるべく堪えて、話を続けた。

「そんなことで殺人だなんて。だってそれは僕の作った物語、つまり虚構、フィクションですよ。それで殺人罪になっていたら、世の中の作家のほとんどが裁きを受けなきゃいけない。特にミステリー作家はね。たいていは架空の人物を殺すところから物語が始まるんだから」

 しかし貂蝉は依然、厳しい顔つきでいた。

「そういう問題ではありません。現代の作家がその頭の中だけで作った虚構をどうこうするのと、わたくしのような『三国志世界』の住人をどうこうするのとでは全く違います。屁理屈だとでも言いたそうなお顔。良いでしょう。私の主張が正しいと納得していただくために裁判をお願いしたのですから。

 冤罪だというなら、あなた自身でそれを証明してください。それが認められたら、あなたが小説の中でわたくしをどうしようと文句は言いません。

 ですが、わたくしの主張が通れば、あなたが書いているその小説も、そしてあなたが持つ文章で物語を紡ぐ才能も、綺麗さっぱり消すことで、罪を償ってもらいます」

 それを聞いて春川は初めて焦った。作品だけでなく才能も消されたら、もう二度と書けなくなるということだ。せっかくうまく行き始めた作家活動なのに、こんな荒唐無稽な裁判ですべて奪われるなんて、あっていいはずがない。
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