第2話
文字数 2,992文字
「作品に文句があるから、それを消すっていうのはまだわかるけど、才能を消すなんて、それは行き過ぎじゃないか。裁判長、求刑が重すぎます」
そびえ立つ台の上を仰ぎ見ても、裁判長はまったく表情を変えずにこちらを見下ろしているだけだった。
「あなたは小説を書くという行為を軽く見ている。作品を消しても、あなたという人がいる限り、また同じような作品を書き、同じような理由で誰かを殺すかもしれませんから、金輪際書けなくするのは妥当ですわ。それに、不服なら無実を証明なさればよろしいのです。そのための裁判ですのよ」
まるで大輪の牡丹のような顔だが、今の春川には憎たらしくて仕方がない。
「下らない。僕は帰らせてもらいます。こんな裁判無効だ。だいたい夢の中のことだし。僕が起きればすべて終わるはずだ」
身を翻してもと来た方角へ戻ろうとすると、大男二人が立ちはだかり、その体を拘束して、いま一度柵の中へ押し込んだ。
「答弁を放棄した場合、罪を認めたことになり、刑は執行される」
「夢の中だろ。どうとでもなる」
「どうでしょう。夢を甘く見てはいけないのでは。起きてその時に書けないとなっても、もう取り返しがつかないのですよ。それに夢だとおっしゃるけど、これは本当に夢なのでしょうか? 少なくともわたくしのような虚構に生きる人間にとっては、現実でしてよ」
はったりだ。そう思ったが、万一貂蝉 の言うように、起きてパソコンに向かっても一文字も打ち込めなかったらと思うと、それは恐ろしかった。
幼いころから本を読むのは苦ではなかったし、勉強もそこそこできた。社会人になって、余暇の楽しみとして、試しに書いて投稿サイトに乗せた小説がそれなりに評価を得て、書き続けて賞をもらえるようになり、気が付けば副業として申し分ない収入を得られるようになっていた。
普通はちょっと書いた小説でここまで成功しない。才能があったのだ、自分には。多くの読者の心をつかみ、楽しませ、夢中にさせる物語を作る才能が。それをもって少しの労力で多くの賞賛を受け、その成果が報酬として懐に舞い込んできた。これからもっと大きなものを手に入れたいという野心も、当然持っている。
ならば逃げるべきではない。第一、夢の中だとしたら、自分のいいように物事が進むはずだ。それに裁判と言ったって、相手は古代中国の小娘一人ではないか。二十一世紀の自分が言い負かせないはずはないのだ。
「良いでしょう。では進めてください」
被告が大人しくなったので、裁判長は進行する。
「被告の小説の中で、原告は義父王允 の要請を受けて、呂布 に嫁ぐところを董卓 に横取りされたと装い、二者を仲たがいさせ、呂布に董卓を殺害させるという策略に身を投じる。董卓殺害がなったのち、董卓の居城に迎えにきた呂布の前で、短剣で胸を一突きして自殺する。原告はこの描写は不当に原告を殺害したものだと主張している」
「はい。三国志の物語が一つにまとまったものは小説『三国志演義 』です。これは版本によって若干の違いはあるのですが、概ね同じ内容であり、三国志の物語と言えばこれを指すようになったのです。その物語の中で、わたくしは董卓殺害後に死んではいません。その後、呂布に付き従っているのです。董卓殺害後に自殺するのは本来のわたくしの姿ではありません。ゆえに不当な殺人です」
「いいえ不当ではありません。むしろこれは僕が原告のためにあえて罪を犯したようなものなのです。
原告は自身のことを義父への孝心 と漢 王朝への忠義に身を捧げ、国を救わんとした一人の英雄と称していましたね。いわば、正義の英雄だと。では董卓殺害時――面倒なので前半としましょう。呂布に付き従ったというのは、後半ということで。――前半に自殺することで、その英雄像が損なわれたのでしょうか。
そもそも、原告の前半の活躍については、確かに正義の英雄に相応しいものです。ところが、後半はどうでしょう。原告が付き従っていた呂布は、下邳 の城で曹操 と劉備 と戦うわけですが、その時軍師の陳宮 からは、籠城ではなく討って出ることを強く勧められている。しかし呂布は妻と原告の、出陣して万一命を落としては二度と会えなくなる、危険を犯さないでくれとの言葉を聞き、遂に出陣しなかった。その後は妻と原告と毎日怠惰に過ごし、結局敗れて殺されています。これは事実ですね。原告」
貂蝉は静かに、はい、と答えた。
「当時の価値観として、戦に女性が口を出すのは良くないと考えられていたはずです。しかも、危険だ、離れたくない、などというのはおよそ戦を解さない婦女子の戯言というやつだ。劣勢を覆す唯一の道が討って出ることだったのに、原告はそれを引き止めて、間違った決断をさせた。そして呂布は滅びた。この原告の行為は、果たして正義の英雄のものと言えるでしょうか。
これは仕方がない部分もあります。というのも史実でも呂布はこの戦いで死ぬのです。戦いの全容が全て歴史書に記されているわけではありませんから、原告の一連の行動も物語上の虚構でしょうが。ともあれ、いくら小説であっても、呂布は史実通りに死ななくてはいけません。だから原告はらしからぬ泣き言で呂布を惑わしたのです。正義の英雄として振る舞えるのならば、陳宮の策に従うよう言葉を尽くして勧めたはずです。
つまり『三国志演義』では前半と後半で原告の人物像がちぐはぐになっているのです。まるで別人だ。原因は後半で史実と辻褄を合わせるために正義の英雄として行動しなかったから。だから私は後半を削ったのです。そのおかげで、私の小説の中の原告は、より正義の英雄としての輝きを増したように思われます。少なくとも『三国志演義』の後半の行動でその人物像を損なうことはありません」
貂蝉は石のようにじっと立ち尽くしていた。その赤い唇が開く気配はない。
やはり楽な裁判だ。
「他にも、旧時代的な女性の貞操観念からして、この身は穢れてしまったと死を選ぶのは理解できるとか、別に呂布のことは好きでもなんでもないんだから、付き従う必要はないとか、理由はあります。
なにより現代の日本の読者には、このほうが
「
「そうですよ。読者の反応がいいということです」
「それぐらいは、わたくしもわかります。わたくし自身が、義理の父子であった呂布と董卓が仲たがいしたのは、こんな小娘の仕業だったら
「そうでしょう。架空の人間とはそういうものです。そういうあなたが、より
勝ちを確信した春川は笑顔さえ浮かべて貂蝉に語りかけた。貂蝉はややうつむいていた顔を少し上げて、訊ねた。
「では、わたくしが後半まで生きていた意味はなんでしょうか」
予想外の質問だった。
「私が生まれてきたのは、その方が物語が面白い、つまり孝 と忠義は古代中国において貴ばれた正義的価値観です。あなたのお話では、後半の私の姿は、その価値観にそぐわない。なのになぜ『三国志演義』は後半を削らなかったのでしょう。お考えを伺いたいですわ」
今度は春川が硬直した。
そびえ立つ台の上を仰ぎ見ても、裁判長はまったく表情を変えずにこちらを見下ろしているだけだった。
「あなたは小説を書くという行為を軽く見ている。作品を消しても、あなたという人がいる限り、また同じような作品を書き、同じような理由で誰かを殺すかもしれませんから、金輪際書けなくするのは妥当ですわ。それに、不服なら無実を証明なさればよろしいのです。そのための裁判ですのよ」
まるで大輪の牡丹のような顔だが、今の春川には憎たらしくて仕方がない。
「下らない。僕は帰らせてもらいます。こんな裁判無効だ。だいたい夢の中のことだし。僕が起きればすべて終わるはずだ」
身を翻してもと来た方角へ戻ろうとすると、大男二人が立ちはだかり、その体を拘束して、いま一度柵の中へ押し込んだ。
「答弁を放棄した場合、罪を認めたことになり、刑は執行される」
「夢の中だろ。どうとでもなる」
「どうでしょう。夢を甘く見てはいけないのでは。起きてその時に書けないとなっても、もう取り返しがつかないのですよ。それに夢だとおっしゃるけど、これは本当に夢なのでしょうか? 少なくともわたくしのような虚構に生きる人間にとっては、現実でしてよ」
はったりだ。そう思ったが、万一
幼いころから本を読むのは苦ではなかったし、勉強もそこそこできた。社会人になって、余暇の楽しみとして、試しに書いて投稿サイトに乗せた小説がそれなりに評価を得て、書き続けて賞をもらえるようになり、気が付けば副業として申し分ない収入を得られるようになっていた。
普通はちょっと書いた小説でここまで成功しない。才能があったのだ、自分には。多くの読者の心をつかみ、楽しませ、夢中にさせる物語を作る才能が。それをもって少しの労力で多くの賞賛を受け、その成果が報酬として懐に舞い込んできた。これからもっと大きなものを手に入れたいという野心も、当然持っている。
ならば逃げるべきではない。第一、夢の中だとしたら、自分のいいように物事が進むはずだ。それに裁判と言ったって、相手は古代中国の小娘一人ではないか。二十一世紀の自分が言い負かせないはずはないのだ。
「良いでしょう。では進めてください」
被告が大人しくなったので、裁判長は進行する。
「被告の小説の中で、原告は義父
「はい。三国志の物語が一つにまとまったものは小説『
「いいえ不当ではありません。むしろこれは僕が原告のためにあえて罪を犯したようなものなのです。
原告は自身のことを義父への
そもそも、原告の前半の活躍については、確かに正義の英雄に相応しいものです。ところが、後半はどうでしょう。原告が付き従っていた呂布は、
貂蝉は静かに、はい、と答えた。
「当時の価値観として、戦に女性が口を出すのは良くないと考えられていたはずです。しかも、危険だ、離れたくない、などというのはおよそ戦を解さない婦女子の戯言というやつだ。劣勢を覆す唯一の道が討って出ることだったのに、原告はそれを引き止めて、間違った決断をさせた。そして呂布は滅びた。この原告の行為は、果たして正義の英雄のものと言えるでしょうか。
これは仕方がない部分もあります。というのも史実でも呂布はこの戦いで死ぬのです。戦いの全容が全て歴史書に記されているわけではありませんから、原告の一連の行動も物語上の虚構でしょうが。ともあれ、いくら小説であっても、呂布は史実通りに死ななくてはいけません。だから原告はらしからぬ泣き言で呂布を惑わしたのです。正義の英雄として振る舞えるのならば、陳宮の策に従うよう言葉を尽くして勧めたはずです。
つまり『三国志演義』では前半と後半で原告の人物像がちぐはぐになっているのです。まるで別人だ。原因は後半で史実と辻褄を合わせるために正義の英雄として行動しなかったから。だから私は後半を削ったのです。そのおかげで、私の小説の中の原告は、より正義の英雄としての輝きを増したように思われます。少なくとも『三国志演義』の後半の行動でその人物像を損なうことはありません」
貂蝉は石のようにじっと立ち尽くしていた。その赤い唇が開く気配はない。
やはり楽な裁判だ。
「他にも、旧時代的な女性の貞操観念からして、この身は穢れてしまったと死を選ぶのは理解できるとか、別に呂布のことは好きでもなんでもないんだから、付き従う必要はないとか、理由はあります。
なにより現代の日本の読者には、このほうが
受ける
と思ったんです。滅びの美学というか。感動的なシーンになると思ったんです」「
受ける
?」「そうですよ。読者の反応がいいということです」
「それぐらいは、わたくしもわかります。わたくし自身が、義理の父子であった呂布と董卓が仲たがいしたのは、こんな小娘の仕業だったら
受ける
と思われて、作りされた存在なのですから」「そうでしょう。架空の人間とはそういうものです。そういうあなたが、より
受ける
死に方をしたからと、目くじらを立てるのはおかしいでしょう」勝ちを確信した春川は笑顔さえ浮かべて貂蝉に語りかけた。貂蝉はややうつむいていた顔を少し上げて、訊ねた。
「では、わたくしが後半まで生きていた意味はなんでしょうか」
予想外の質問だった。
「私が生まれてきたのは、その方が物語が面白い、つまり
受ける
から。そう、私が生まれた当時の中国でも、三国志を創作する側は、受ける
ことを考えてきました。今度は春川が硬直した。