第3話

文字数 2,985文字

 三国志の物語は、最初は講談から生まれたとされる。それから『三国志演義(さんごくしえんぎ)』ができるまでに、様々な娯楽の姿で語り継がれてきた。その間、廃れたエピソードや、途中で新しく生まれたエピソードもある。それらを取捨選択して『三国志演義』ができたと言っても過言ではない。取捨選択の基準は、貂蝉(ちょうせん)がいったように、(こう)や忠義という当時の正義である。

 その価値観に外れた後半の貂蝉が、なぜ『三国志演義』に登場しているのか。自分が彼女を殺す理由は考えても、原典でなぜ死ななかったのかを考えていなかった。というより、そんなものはわかるわけがないし、どうでもいいと思っていた。春川は答えに窮した。

「わたくしは生まれ出てから、『三国志演義』どおりではない活躍もしてきましたわ。

 例えばこんな話があります。下邳(かひ)で敗れた後、わたくしは劉備(りゅうび)三兄弟のもとへ送られてしまうんです。そこで三人とも、わたくしは傾国(けいこく)の美女で危険だからと、切ろうとするのですけど、わたくしに見とれてなかなか手を出せなくて。あの関羽(かんう)様ですら、首をおとすのを躊躇したのです。でも手が滑って武器をわたくしの影に落としたら、わたくしの首も落ちた。

 また、下邳の戦いの後、曹操(そうそう)の手で関羽様の元へ送られたこともありました。関羽様はわたくしを危険とお考えになり、いろいろと質問をして、揚げ足を取って不貞や不義を責めて殺そうとしたのです。わたくしは全て関羽様のおめがねにかなう答えをしますが、最後に今世の英雄は誰かと問われ、呂布(りょふ)と答えたかったところを、関羽様の怒りを買いたくなくて、関羽様の義理の弟の張飛(ちょうひ)とこたえてしまったんです。その媚びと元の主人の名を出さなかったことを責められ、結局切られてしまうのです。

 途中までそれと同じ話で、最後まで関羽様の機嫌をそこねず、かつ本当は主人の仇である曹操に復讐したいのだと告白し、その心映えを賞賛される話もありますわ。その話ではわたくしは元は天女で、天上での罪を地上で償いきったため、めでたく天に帰るという結末で、それはもう気分が良かったですけど。

 でも、これらの物語は『三国志演義』では捨てられました。理由はおわかりで?」

 春川の答えは無い。

「影を斬ったら首が落ちたとか、実は天女だったとか、そんな荒唐無稽な話は、歴史小説に相応しくないということ。そして何より、他の人物が良く見えないということです。

 三つとも関羽様が関わっていますけど、関羽様と言えばもう、『三国志世界』で一番の明星です。義に篤く、威厳がある。そんな印象の関羽様が、女の美貌に惑わされている姿も、小娘相手に揚げ足を取ろうとする姿も、誰が見たいと思いまして? 関羽様こそが三国志の物語を体現している存在です。それほど重要な関羽様の尊厳を損なってまで、これらの物語を選ぶのは愚なのです」

「……それが、あなたが後半まで生き残った意味なのですか」

 貂蝉は呆れの混じった笑みを春川に注いだ。

「そう。前半はわたくし自身が孝や忠義を体現していました。ですが後半は違います。後半のわたくしは、呂布を貶めるためにいたのです。

 乱世において一つの勢力を築きながら、大事な戦で女子供の言葉に耳を傾けるのは大丈夫(だいじょうふ)のすることではありません。呂布はその武は天下に並ぶものがありませんでしたが、天下に挑む資質はなかったのです。逆にいえば、彼の何が不足だったのかを、後半のわたくしと下邳の戦いの結末が、浮かび上がらせているのです。

 戦に敗れた呂布は、曹操に命乞いをして、その時味方だった張遼(ちょうりょう)に見苦しいと一喝されます。劉備には、昔義父を裏切って董卓(とうたく)の養子となり、その董卓をも殺したのだから、信用できないと謗られます。軍師の陳宮(ちんきゅう)は呂布とは対照的に、潔く死を受け入れます。彼らの言動は全て、呂布がいかに天下に覇を唱えるに足りないかを表しているのです。だから負けたのだと、武だけでは乱世を収束させ新しい世を築くことはできないのだと。

 あなたはわたくしをよりよく見せることだけを考えて後半は必要ないと切り捨てましたが、それは間違いです。後半のわたくしの行動は、呂布の不明を浮かび上がらせ、それによって物語全体を通して表現したい主題を表すためのものなのです。それが即ち忠義や孝といった、当時の儒教の良しとする価値観なのです」

 貂蝉は一歩春川に近づいた。春川は片足を一歩引いた。

「正義の英雄として、わたくしが守るべきは自身の孝と忠義だけではありません。全ての三国志物語に共通する主題なのです。それを表現することが、わたくしの、ひいては『三国志世界』に生きる者の務めであり、存在意義なのです。

 その主題は、ともすれば儒教の忠、孝、()であるかもしれませんが、それよりもっと深い、一口で言い表せない偉大なものなのです。なぜなら『三国志世界』は、後漢末から三国の動乱の中で活躍した英雄たちが伝説になって以来、広い中華で様々な物語が生まれては消えてゆきを繰り返して形作られたものですもの。先にも言ったようにそれはまるで一つの巨大な樹木のようで、その枝葉は伸び続け、今では中華を飛び出し、世界中へと広がっています。

 ある小説家が一人で考えだした架空の物語世界など、『三国志世界』に比べたら、野草程度のものです。そしてその葉はある程度の所まで伸びたら成長をやめてしまう。その物語世界を広げうるのは作者だけであって、余人はただ享受することしかできない。そういう世の中になってしまったからです。

 だからあなたはこの偉大な主題に配慮できなかった。しかしそれは同情すべきことではありません。多くの三国志の物語を紡ぐ者は、『三国志世界』と真摯に向き合い、偉大な主題の存在を理解したうえで、作品の中でわたくしたちを動かします。しかしあなたはそれをせず、『三国志演義』の物語の表面をなぞってわかった気になり、小手先で

であろう場面や展開を書き出しているにすぎないのです。そのような浅い思慮で、わたくしの存在意義を消した。それが殺人でなくて何でしょう。それで、わたくしのためと言ってのけるのだから、その罪は重い。

 このまま書き続けたら、私だけでなく、他の『三国志世界』の人々が犠牲になるやもしれませぬ。『三国志世界』以外の住人も危険です。ですから、この男が二度と筆を取れなくなることを望みます」

 裁判官は片手で髭をしごきながら、貂蝉の長い訴えを聞いていた。どこか深く感心したような顔だった。左右の台の上にいる他の二人も同じような表情をしていた。

 これはまずい。このままでは負けてしまう。しかし春川は反論することができなかった。貂蝉の言う偉大な主題とか、『三国志世界』と真摯に向き合うとか、春川には理解できないからだ。

 これまでそんなことはなかった。本の内容も、新聞記事も、会話する相手の話す意味も、すぐに頭に入ってきて、それに対して適切な感想、意見、返答をすることができていた。それもまた一つの才能であり、だからこそ小説で成功できたのだ。

「馬鹿馬鹿しい。小娘が屁理屈をこねくり回しているだけだ、それに意味なんてない」

 そう吐いて捨てると、急にあたりをぞっとするような冷たさが支配した。

「被告は反論が無い。これにより裁判は原告の勝訴とし、求刑通り、被告の作品と小説家としての才能を抹消する」

 裁判長が木槌を振り上げた。
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