最終話 マリアからのメッセージ

文字数 4,820文字

エピローグ
 
「玲奈ちゃん、晩御飯出来たよ。おいでー!」
 妻の綾子の声だ。
 この妻とは例のフェンシング部の彼女のこと。その後の全体連の運営で意識するようになった。彼女も好いてくれた。よくよく化粧もすれば案外な美女だった。背も高いしスタイルもよい。
 彼女にしてみれば夫が一番好きだった彼女が天国に旅立った。浮気の心配もない訳だ。それでも今でも毎年、二人で6.30にマリアの命日として〇大を訪れる。サッカー部の三平とチョロ松も付き合ってくれている。 
 果たして孫娘に「Let it be 」の本当の意味について上手く伝えられただろうか?
 いやいや、無理だな。今の平穏な時代の子供に戦争の話しをしても理解不能だろう。
「お祖父ちゃんも、一緒に来て、怒られるよ!」
「うん、ちょっと片づけをしてから行くよ」
 正孝は庭いじりの道具を片付け始めた。
 当時、赤井沙也加の正体に関する議論で学内は沸いた。そうそう天に召される女子などの居ない。ただ誰も科学的な説明が成し得なかった。ここは最高学府の大学だ。天使が舞い降りて来て天に召されたとは聖書の中のファンタジー。
 唯一の科学的証拠と期待されたTV映像も報道カメラマンの画像も、突然の雷による磁気嵐とフラッシュによってまるで眼くらましにあった。数分の出来事が現実から抜け落ちる現象が起きた。
 結局、ハッキリとしたことは判らない。カミナリと閃光弾と火炎放射器によって起こった予期せぬ事態としか考えられない。「奇跡」が起きたとは誰も認めなかった。だって資質を問われかねない。誰もが心の中で落ち着ける結末で納得するしかなかった。
 マリアはベトナムに平和を求める活動のために現れ、〇学内をベトナムの民に寄り添う反戦活動一色に染め上げた。しかし結局は共産革命の「危険分子」と公安に追われ、何処かに逃亡した。これが全うなマリア論に落ち着いた。
 それでも、侵略戦争を阻止する革命は成功した。メディアが6.30『Let it be 』革命の様子を一斉に報じた。ベトナム人民に平穏な日常を呼び掛けた♪『Let it be 』の歌声は高らかに響いた。米国の侵略戦争の在り方に一石も二石も投じたのだ。
 けれど、そのあとの乱闘の模様はなぜか伏せられていた。たぶん遅れて来た機動隊について、警察の不祥事と捉えられることを嫌ったのだ。警察による報道規制にあったわけ。
 翌日から長い夏休みに入ったこともあり、学内から♪『Let it be 』の歌声は消えた。その後まともに赤井沙也加の姿を追ったのは小林栄作だけだった。捜査権を持つ小林栄作は彼女のことを調べ続けた。
 その結果として学籍簿はあるが一度も授業に参加していないこと。また女子寮にも寄宿していないこと。また一緒のベトナム人女性も機を同じくして姿を消したこと。そして最大の謎。捜査機関が捉えた彼女の写真、録音した声、さらに学籍簿の写真までもがすべて消滅していたことが分かった。マリアはこの世から消え去った。
 栄作は非番の日を利用して、郷里とされていた長崎県壱岐島の教会まで訪ねたそうだ。
 教会は人里離れた岬近くにあり、やはり普段は誰も住んで居ないと住民は説明した。永年、海風、雨にさらされて朽ち枯れた扉は施錠されてなかった。

 ギシッ、ギー
 としばらく開けられた形跡のない扉は甲高い悲鳴をあげた。
 中に入ると、中央に十字架その前には五列くらいのベンチがあったそうだ。

 突然、栄作と正孝にしか分からない光の雫が十字架に当った。近寄って見ると、二通の封書がロザリオに通されてぶら下がっている。宛名は小林栄作様と羽田正孝様とあった。彼はベンチに座り、自分の封書を開けた。

 ごめんなさい。あなたの仕事の邪魔をしてしまった。クビにならないか心配です。
 あなたは公安職員でありながら、私の主張に手探りながらも賛同してくれた。
 正門を締めて機動隊の突入を防いだのはあなたの発案でしょう。集会のために何人もの命が失くなるところだった。感謝します。
 私のことをこれ以上探っても何も出てきません。私はベトナム人民の声なき声の塊が作り上げた偶像です。役目を終えれば消えてなくなる。
 あなたには、自分の信念を貫いて欲しい。
 何を成すべきか、今一度考えて下さい。
                                沙也加より

 夏休みが終わって新学期が始まったある時、正孝は小林栄作から呼び出しを受けた。新宿ゴールデン街で一杯やろうとの申し出だった。その頃の正孝は襲撃の傷も癒え、部活に励む毎日だった。
「おう元気か?」
 小林はきさくに正孝を迎えた。
「はい、小林さんは仕事大丈夫ですか?」
 正孝も公安職員の立場での彼の現実を気遣った。
「おお、気にすんな。それよりこれ彼女からのお前宛の手紙だ」
 小林は手紙を入手する過程を説明し正孝に手渡した。
「あの『光の雫』を浴びたのはお前とオレのふたりだけだったんだな」
 小林は感慨深気に語った。その眼はどこか遠くを見ていた。だぶん壱岐島の岬から見た何処までも続く紺碧の海原を思い浮かべていたに違いない。
「お前は有名なハーフバックだそうだな。きっといい就職先が見つかるよ。あ、心配すんな。お前が集会の首謀者のひとりだなんて公安は思っちゃいないぞ。頑張って釜本以来の天皇杯を勝ち取ってくれ!」
 小林は上機嫌に顔を赤らめていた。
 けれど正孝が小林を見たのはこれが最後だった。

 沙也加の手紙

 あなたは三千五百七十八番目の人だった。わたしカウントしてたの。わたしを無視して通り過ぎる人たちの数。あなたが声を掛けてくれた最初のひとり。
 嬉しかった。顔には出さなかったけど。でも体育系の学生と気付いて心配になった。わたしの活動とは真逆の側にいたから。
 いつも女子寮まて送ってくれた。でもここに住んでないって疑ってたでしょう。知ってるよ。
 結局、大怪我をすることになっちゃった。あなたはわたしと逢って一体何を得たのかしら?
 でも、大丈夫。素敵な将来の伴侶を得るよ。
 その女性はわたしの正体を唯一見破ったひと。
 将来あなたの奥様になる。わたしも安心。大事にしてね。
 そしてふたりで素敵な人生を送ってください。
 こっそり女子の胸元を見るのはダメだよ。ふふ。
                             沙也加より

 小林栄作のその後を知る人物は少ない。彼は二年後に台東区の隅田川で溺死体として発見された。死因は不明。所轄は酔っ払いの転落事故と片付けた。住所不定無職。新聞の社会面、ほんの片隅に掲載されていた。
 正孝は訝しんだ。彼は社会人チームからの勧誘を退けてあえて新聞社に入社した。『Let it be 』革命で大きく考え方が変わった。平穏な日常を土足で踏みにじる輩を許せなかった。
 彼は社会部に配属されて記者見習いの時、この記事を眼にし、驚愕した。まさか、小林栄作さんが? でもその時の彼には、社会の仕組みが少しずつ分かるようになっていた。
 正孝は直ちに警察担当の記者室に事情を訊きに行った。その時のデスクは気さくな人だった。正孝が『Let it be 』革命の首謀者のひとりと分かると、重い口を開いた。
「噂だぞ。人に言うなよ。お前さんの言う通り彼は公安だ。でも評判は芳しくなかった。仕事柄得た複数の官僚や企業の不正をネタに強請る。出てくるのはそんな悪い話しばかり」
「そんな筈はないです。彼は…」
 むきになる正孝を制してデスクは続ける。
「公安で評判が悪いのは反乱分子の証明なんだよ。そんなこと警察担当の記者なら誰でも知ってる。お前さん『裏理事』って知ってるかい?」
 正孝が頷くと、
「ほぉ、よく勉強してるな。小林捜査官は公安の最大の弱点、『裏理事』の正体を掴んだ。それをある雑誌社に漏らそうとした。雑誌社にもきちんと裏をとってあるよ。接触数日前に彼は殺された」
 正孝は愕然とした。こんな平和な、民主主義の世の中でそんなことがあるのか?
「お前さん、いまそんなことあるのかって顔したな?
 それが当たり前にあるんだよ。殺し屋は公安かCIAか、そのどちらかの所属だ。彼は
『Let it be 』革命に関与していたから米国の可能性が高い。世の中平和ボケして来た。反共を巡る戦争はますます人目の付かない処で加速しているんだよ。それに彼は(国家正義)を語る金ぴかのバッジに黒いペンキを塗ろうとした。生かしてはおけない輩だったのさ」
 正孝はこうべを垂れるしかなかった。オレはまだまだ未熟だ。
「あのう、小林さんの遺体はどうなってるんでしょうか? 線香ぐらいあげたいんですが」
「ごめんな。大抵の身元不明の遺体は自治体によって火葬され、指定の寺の共同墓に入る。でも小林のような訳ありは、遺体さえも闇で処分されちまうんだよ。理由は分かるな?」
「でもご家族は?」
「ああ、公安職員は職に就いた時点で誓約書に署名捺印を求められる。不慮の事故にも文句は言わないとね。ただ、遺族には国家公務員の手当てがきちんとゆくはずだ。いくらなんでもそのくらいの仁義が無くては、公安職員の成り手が居なくなっちまうわな。
 お前さん、悪い事言わないから、これ以上探るのはよしな! 触らぬ神に祟りなし、だぞ!」
 正孝は引き下がらざるを得ない。事情はよく分かった。
 正孝は新聞社の屋上から大都市を俯瞰する。あいかわらずのスモッグにあちこち建築現場からの喧騒。折しも『Let it be 』革命が起こって三年目の6.30が迫っていた。ふと、沙也加と毎日逢っていた頃の、華の香り漂う蒼し風が心を大きく揺るがせた。
 小林栄作は正孝同様に沙也加に関わって心情が替わったのだ。あの時正門を閉じることを提案したのも彼だった。おそらくあの時点で、公安への反旗の狼煙をあげていた。そう考えるのが自然。
 彼は自分の信じる途を貫こうとして凶弾に倒れた。
 …そうか、いま気付いた。公安の捜査の眼から自分を匿ってくれていたのも彼だったんだ。彼が居なかったらオレも隅田川に浮いていたのかもしれない。
 オレは、本当に頭の中はご飯粒だらけだ。ゴールデン街の安酒屋で「心配すんな」と豪快に笑った顔が想い出されて泪が止め処なかった。

「お祖父ちゃん、早く来いってお祖母ちゃんが怒ってるよ!」
 玲奈が再度呼びに来た。
「はいはい分かったよ」
 正孝は最後にスコップを道具小屋に仕舞いリビングに急いだ。
「これはね。悪魔の心臓を貫いた神の剣(つるぎ)だよ」
「それって、『鬼滅の刃』に出て来る鬼のこと?」
 孫の中で一番年少のまだ小学三年生は、お祖母ちゃんのお話しを真剣に聴いている。玲奈も含めて他の家族はもはや耳ダコになっている。
 それは『Let it be 』革命の折に綾子が手に持っていたサーベルのこと。のちに訊いたところ、最後にマリアに手を伸ばした赤目の悪魔を刺したと語った。確かに剣先には黒光りするドロッとした液体が付着していた。
 サーブルは綾子がフェンシング・フルーレ個人で全国大会三位に輝いたトロフィーと共に箪笥の上に飾られている。不思議なことに五十年経た今でも銀色の輝きを失わない。悪魔の心臓を抉った「伝説の神剣」と呼ばれても不思議ではない神々しさに満ちている。
「うん、そんなようなもんだね。全身真っ黒で眼だけ赤光りしてた」
「本当?」
「あれ、お祖母ちゃん、この前は黄色く光っていたとおっしゃっていました(笑)」
 長男の嫁が茶々を入れる。
「あれれ、そうだっけ…」
 家族みなが笑いあう。楽しい団らん。

 いつまでも続きますように。
 平和な日常が他者に踏みにじられることのないように。祈りを込めて、

 Let it be
 

                                 おしまい
    (この物語はフィクションです。登場する個人・団体にモデルはいません)
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